重い瞼を開けると、見慣れない天井があった。
 格子状に組まれた美しい木目。
 朝の光が障子越しに差し込んで、部屋全体を柔らかく照らしている。

(ここは……)

 体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめる。
 まるで体中を棒で叩かれたような鈍い痛み。

「詩織様、お目覚めになられましたか」

 襖が静かに開き、和服姿の年配の女性が入ってきた。
 月読家の使用人頭の方だ。前に一度お会いしたことがある。

「あ、はい……私は……」
「ご無理をなさらないでください。三日間もお眠りでしたから」
「三日……!?」

 驚いて声を上げると、また体が痛んだ。

「はい。皓様も大変ご心配なさっていました。一日に何度もお見舞いにいらして」
「皓様が……」

 胸の奥が温かくなる。
 あの皓様が、私を心配してくれていたなんて。

「お体の具合はいかがですか? 医師を呼びましょうか」
「いえ、大丈夫です。ただ少し、体が重いだけで……」

 使用人頭の方は優しく微笑んだ。

「無理もございません。あれほどの戦いをなさったのですから。朝餉をお持ちしますので、ゆっくりとお休みください」
「あの……美津子様と、撫子は……?」

 恐る恐る尋ねると、使用人頭の表情が曇った。

「その件は、皓様から直接お聞きになるのがよろしいかと」
「……そうですか」

 何か、良くないことが起きたのだろうか。
 不安が胸を締め付ける。
 使用人の方が退室してしばらくすると、襖が再び開いた。

「失礼する」

 皓様だった。
 いつも通りの黒い着物姿だが、その表情はどこか疲れているように見える。

「皓様……」
「目が覚めたか。安心した」

 私の枕元に座り、じっと顔を見つめてくる。
 その瞳には、確かな安堵の色があった。

「ご心配をおかけして、すみません」
「謝ることではない。それより、体調はどうだ?」
「少し痛みますが、大丈夫です」

 皓様は頷くと、表情を引き締めた。

「伝えなければならないことがある」
「……はい」

 嫌な予感がして、布団の端を握りしめる。

「如月美津子が脱走した」
「えっ……」

 悪い知らせであることは覚悟していた。しかし予想外の言葉に、思考が止まる。

「月読家への護送中、何者かの手引きで逃げられた。おそらく、影沼家の協力者だろう」
「協力者……」
「まだ他にも、影沼の残党が潜んでいる可能性が高い」

 皓様の声は冷静だったが、その奥に怒りが滲んでいた。

「私は、まだ狙われているんでしょうか……?」
「その可能性は否定できない。だから当面、君には月読家で暮らしてもらう」
「でも、学校は……」
「行くのは構わない。だが、念の為護衛をつけておく。いいな?」
「はい……」

 有無を言わせぬ口調だった。
 でも、それが私を心配してのことだとわかる。

「撫子は……どうなったんですか」
「如月家に戻った。今も月読家で監視しているが……」

 皓様が言葉を濁す。

「どうかしたんですか?」
「見下げ果てた女だな、あの娘は。全く反省していないどころか、君を逆恨みしている」
「……そうですか」

 予想はしていた。
 撫子の性格を考えれば、自分が悪いとは思わないだろう。
 一連の騒動を全て私のせいにして、悲嘆に暮れているのかもしれない……。

「君が望むなら、会わせることもできるが」
「いえ……まだ、心の準備が」

 正直、撫子の顔を見るのは辛い。
 また罵詈雑言を浴びせられるのかと思うと、体が震える。

「無理をする必要はない」

 皓様が、そっと私の手に触れた。
 冷たいはずの手が、今は温かく感じる。

「君は十分に頑張った。もう、誰かに虐げられる必要はない」
「皓様……」

 涙が溢れそうになって、慌てて俯く。
 優しい言葉に、慣れていないから。

「それから、君の父親も面会を求めている」
「父が……」

 複雑な気持ちが胸を満たす。
 父は、私を守ってくれなかった。
 美津子様と撫子が私を虐げるのを、見て見ぬふりをしていた。

「会いたくないなら、断る」
「いえ……会います。けじめをつけたいので」

 皓様は少し意外そうな顔をした。

「そうか。だが、私も同席する」
「えっ?」
「あの男は信用できん。影沼の息がかかっている可能性もあるからな。君を守るためだ」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 守ってくれる人がいる。
 それだけで、こんなにも心強い。

「ありがとうございます」
「礼には及ばない。君は、私の花嫁だからな」

 さらりと言われて、顔が真っ赤になる。

「そ、それは……あの……」
「ふっ……まだ慣れないか? だが、いずれはもっと自覚を持ってもらわねばならない。月読家の花嫁たる自覚を」

 皓様が小さく笑った。
 その笑顔を見るのは、まだ数えるほどしかない。

「そ、その……私を保護してくださるのは、もちろん嬉しいのですが。なぜ、私を花嫁になんて……? 月読家には、もっと相応しい方がいるのでは……」
「不満か?」
「ふ、不満などでは! 私には荷が重いというだけで……っ」
「ならばそれで十分だ。そうだろう?」

 ……なんだか誤魔化されているような気がする。
 結局の所、なぜ皓様が私を花嫁や婚約者として扱うのか……それはよくわかっていない。

「ゆっくり休め。後で食事を運ばせる」

 立ち上がろうとする皓様の袖を、思わず掴んでいた。

「どうした?」
「あの……本当に、ありがとうございました。助けに来てくれて」

 皓様は振り返り、私の頭にそっと手を置いた。

「当然のことをしたまでだ。君は、もう一人じゃない」

 その優しい手の温もりに、涙が滲む。

 一人じゃない。
 その言葉が、どれほど嬉しいか。

 皓様が部屋を出て行った後も、頭に残った温もりを感じながら、私はにやけてしまっていた。

 窓の外では、春の陽射しが優しく世界を照らしている。
 新しい一日が、始まろうとしていた。



 その日の午後、私は月読家の応接間に通された。

 豪華というより、威厳のある部屋。
 床の間には立派な掛け軸があり、調度品の一つ一つが歴史を感じさせる。

 既に皓様が上座に座っていた。
 その隣に促されて、私も座る。向かい側の席はまだ空いていた。

「緊張しているな」
「……はい。父とまともに話すのは……久しぶりですから」

 いつも、私との会話を避けていた父様。
 もっと幼い頃は、撫子や義母様のいじめについて父様に話したりもした。
 だけど、何も変わらなかった。それどころか、父様は私と話すのも面倒そうだった……。

「…………」

 呼吸が重くなる。
 そんな中襖が開き、案内された父様が入ってきた。

「……詩織」

 父の顔は、ひどく憔悴していた。
 目の下には隈ができ、いつもきちんと整えている髪も乱れている。
 背広も少しよれていて、この数日でずいぶん老け込んだように見える。

「お父様」

 私は軽く頭を下げた。
 父も慌てたように頭を下げ、向かいの座布団に正座する。

 重い沈黙が落ちた。

 父は何度か口を開きかけては閉じ、言葉を探しているようだった。
 皓様は無表情で、じっと父を見つめている。その視線は、まるで氷のように冷たい。

「詩織……その、体は大丈夫か」
「はい。月読家の皆様のおかげで」

 私の言葉に、父の肩が小さく震えた。

「そうか……それは、よかった」

 また沈黙。
 父は膝の上で手を握りしめ、俯いている。

「私は……月読様から色々と聞いた。美津子が、影沼という家の者だったこと。なにか……呪術に長けている、ということ」

 父の声が震えている。

「そして、お前をずっと虐げていたことも。私は……」
「……父様」
「いや……いや、違うな」

 父は顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。

「美津子と撫子がお前につらく当たっているのは分かっていた。でも、私は……」
「見て見ぬふりをしていたのだろう」

 皓様の冷たい声が、父の言葉を遮った。

「影沼美津子の正体を知らなかったことと、目の前で起きている詩織への虐待を無視したことは別だ。あなたは詩織を守る立場にありながら、その責任を放棄した」
「……その通りです」

 父は皓様の糾弾を、そのまま受け入れた。

「言い訳はしません。私は……詩織を見るたび、椿を思い出して辛かった。だから、美津子に任せきりにして……」
「それで娘を犠牲にしたわけか」

 皓様の声に、怒りが滲む。ますます父が萎縮していくのに、私はつい口を出してしまう。

「皓様……」
「いいんだ、詩織」

 父は首を振った。

「月読様の仰る通りだ。私は父親失格だ。お前に……本当に申し訳ないことをした」

 深々と頭を下げる父。
 その姿を見て、またじくじくと胸が痛んだ。

 憎い、と思う気持ちもある。
 でも同時に、この人もある意味美津子様に騙されていた被害者なのだと思う気持ちもある。

「お父様」

 私は静かに口を開いた。

「私は、お父様を恨んでいました。どうして守ってくれないのか。どうして愛してくれないのかって」
「詩織……」
「でも、それ以上に悲しかった。お父様に嫌われていると思うことが、一番辛かったんです」

 涙が零れそうになるのを、必死で堪える。

「……知らなかったことと、私への仕打ちを黙認していたことは別です。それは、皓様の仰る通りです」
「……ああ」
「でも」

 私は顔を上げて、父を真っ直ぐ見た。

「私は、お父様を憎みきれません。だって、お父様は……私の、たった一人の父親ですから」

 父の顔が歪んだ。
 そして、肩を震わせて泣き始めた。

「詩織……すまない……本当に、すまなかった……」

 見たことのない父の姿だった。
 いつも遠くにいて、私を避けているように見えた父が、今は一人の弱い人間として泣いている。

「詩織」

 皓様が私を見た。
 その瞳が、私の気持ちを尊重してくれているのがわかる。

「お父様。私を月読家に預けてください。正式に」
「え……」

 父が顔を上げた。

「もう、如月家には戻りません。私には、やらなければならないことがあります」
「しかし、詩織……」
「詩織の身は我々月読家が保護する」

 皓様がそう断言した。

「影沼の残党がまだ潜んでいる以上、彼女の安全は我々が守らねばならない。それに……」

 皓様は私を見て、少し表情を和らげた。

「彼女は私の花嫁だ。いずれ正式に、妻として月読家に迎える」
「花嫁……」

 父が驚いたように私と皓様を見比べる。

「ええと……その、そういうお話で……」

 それを聞いて父は複雑な表情を浮かべた。
 寂しさと、安堵と、そして少しの喜びが入り混じったような。

「そうか……お前が、それでいいのなら」

 父は深く息を吐いた。

「私には、もうお前を縛る資格はない。お前の……お前の幸せを、願っているよ」
「お父様……」
「月読様。詩織を……どうか、よろしくお願いします。私にはできなかった分まで、この子を大切にしてやってください」
「……」

 皓様は少しの間、無言で父を見つめていた。
 それから腕を組み、小さく頷く。

「約束しよう。詩織は必ず守る。誰にも傷つけさせない」
「ありがとうございます」

 父は再び深く頭を下げた。
 それから立ち上がり、私を見る。

「詩織。今まで……本当にすまなかった。そして……」

 父は少し微笑んだ。
 いつぶりだろう、父が私に向けて笑顔を見せるのは。

「強く、美しい女性に育ってくれて、ありがとう。椿も……きっと喜んでいるよ」
「お父様……」
 
 完全な和解、ではない。
 許したわけでもない。
 でも、少しだけ、親子としての何かを取り戻せた気がした。

 父が退室した後、皓様がそっと私の肩に手を置く。

「なんともな。君は本当に、優しいというか」
「皓様は……お父様を許せませんか?」
「君が苦しんでいたのに、何もしなかった男だ。今更父親面をされてもな」

 皓様の声は厳しい。たしかに、そうも見えるだろう……。

「だが君が望むなら、これ以上は追及しない」
「ありがとうございます」
「ただし」

 皓様は私の顔を覗き込んだ。

「もう二度と、君に涙を流させたら、その時は容赦しない」
「……はい」

 その言葉に、守られている実感が湧いてくる。
 心を暖かく包まれているような。そんな柔らかな感触が胸に広がった。