皓の瞳に宿った月光が、一瞬で東屋を満たした。

「――月華浄天」

 静かな、しかし圧倒的な力を持つ言葉。
 皓が軽く手を振ると、銀色の光の刃が空を切った。
 残っていた蝶たちもまた、その光に触れた瞬間跡形もなく消滅する。

「な、なんで……」

 撫子は震える声で呟いた。
 手にした札からは、もう何の力も感じられない。ただの紙切れと化している。

「下らない」
「っ!」

 皓の声は、真冬の風のように冷たかった。

「その程度の術で、月読の当主が惑わされると思ったか」
「そ、そんな……お母様は、どんな男でも必ずって……」

 撫子は後ずさった。
 皓の纏う気配が、先ほどまでとは全く違う。
 優雅な貴公子の仮面の下に、恐ろしいほど研ぎ澄まされた刃がある。
 それが喉元に突きつけられているのを感じていた。

「『牡丹に蝶』の幻惑術か。確かに、並の人間なら効果はあるだろう」

 皓は一歩、撫子に近づく。

「だが、月読家の者は幼い頃から、あらゆる呪術への対抗訓練を受ける。この程度の誘惑など、児戯に等しい」
「そ、そんな……」

 撫子の顔が青ざめた。

 最後の切り札だったのに。
 これで月読家を手に入れられると、信じていたのに。

「それより――」

 皓の表情が、さらに険しくなった。

「今、何と言った?」
「え?」
「母親が、と言ったな。その術を教えたのは、如月美津子か」
「あっ――」

 撫子は慌てて口を塞いだが、もう遅い。

「ち、違うわ! 私が自分で……!」
「嘘をつくな」

 皓の一喝に、撫子の体が震え上がった。

「貴様のような素人があの札を扱えるはずがない。誰かが呪詛花札を与え、術を教えた。それが母親なのだな?」

 有無を言わせぬ迫力に、撫子は泣きそうな顔になった。

「そ、そうよ! お母様が、こうすれば皓様を手に入れられるって!」
「やはりな――如月美津子が黒幕か。いや、あの女は如月家の人間ではないな」
「え?」

 撫子が困惑する中、皓は素早く思考を巡らせた。

 呪詛花札の知識。
 札鬼を操る術。
 そして、詩織を執拗に狙う理由。

「まさか……ヤツは影沼家の……」

 その時、皓の顔色が変わった。
 ますます圧が増し、撫子は自らの皮膚が凍るような錯覚すら覚える。

「詩織はどこだ?」
「し、知らないわ」
「これ以上……私の手を煩わせるなよ」

 皓が鋭く撫子を睨む。その手が刀の柄に添えられた。
 その気迫と殺気に押され、撫子は震え声で答える。

「ほ、本当に知らないの! お母様は、私には皓様の相手をしろって言っただけで……!」
「相手を……つまり、時間稼ぎか」

 皓の瞳に焦りの色が浮かんだ。
 つまり、撫子を使って自分を足止めしている間に、美津子は詩織に何かを仕掛けたということだ。
 それもおそらく、本命の札鬼を使って。

「……バカなことを」

 普段の皓からは考えられない、荒い言葉が漏れた。

 詩織の霊力はまだ不安定だ。
 本格的な札鬼と対峙すれば、命の危険がある。
 へたり込む撫子を無視して、皓は東屋を飛び出した。

 詩織の霊気を探る。

 微かに、桜の香りが感じられる。
 それは別棟の方向から……いや、あれは残り香か。

 もっと集中する。
 詩織の恐怖。詩織の戦い。詩織の……

「! あそこか」

 皓は地を蹴った。
 花札使いとしての身体能力を全開にして、別棟へと疾走する。


 一方で、東屋には撫子だけが取り残されていた。

 腰を抜かしたように座り込み、呆然と皓が去った方向を見つめている。
 その手には、力を失った『牡丹に蝶』の札。

「こんな……こんなはずじゃ……」

 名家月読家の茶会でこんな大それたことをしでかしたのだ。
 如月家は何らかの咎を受けるだろう。そのくらいは、撫子にも理解できていた。
 完璧だったはずの彼女の世界が崩れ去っていく。
 
 月読家との縁談も。
 母の言葉への信頼も。

「お姉様……あんたさえ……」

 そして、ちょうどいい奴隷(詩織)もまた、姿を消そうとしているのがわかった。

「あんたはただ、踏みつけられていればよかったのに……!」



 赤い触手が、鞭のようにしなって襲いかかってきた。

「はっ!」

 私は箒の柄を振るい、なんとか触手を払いのける。

 剣道の基本、面打ちの要領で振り下ろした一撃は、かろうじて触手を逸らすことに成功した。
 でも、手に伝わる衝撃は重い。

(硬い……!)

 まるで鉄の棒を叩いたような感触。
 箒の柄がびりびりと震え、手首に痛みが走る。

「ふふ、剣道部で鍛えた腕前? でも所詮は人間の技よねぇ」

 美津子様が優雅に扇子を広げた。
 まるで、観劇でも楽しむような余裕の表情。

 札鬼が再び動く。
 今度は複数の触手が、同時に襲いかかってきた。

 右から、左から、上から。

 私は必死に箒を動かす。
 小手、胴、突き――剣道の基本技を組み合わせて、なんとか触手を捌いていく。

 でも、防戦一方だ。
 札鬼は私の動きを見切り始めている。
 フェイントを混ぜ、死角から攻撃してくる。

「くっ……!」

 ついに一本の触手が、私の脇腹をかすめた。

「あうっ!」
 
 振袖が裂け、鋭い痛みが走る。
 見る間に、藤色の布に赤い染みが広がっていく。それを見て、頭がふらついた。

「あら、もうお終い? つまらないわね」

 美津子様の声に、苛立ちが混じり始めた。

「もっと苦しんでもらわないと。桜花の血を引く者には、それ相応の最期を用意しないといけないのよ」
「なぜ……そこまで、母の血を……っ?」

 痛みを堪えながら、私は叫んだ。
 札鬼が一瞬動きを止める。
 まるで、主人の感情に呼応するように。

「いいわ、教えてあげる。死ぬ前の手向けとして」

 美津子様は扇子を閉じ、冷たい笑みを浮かべた。

「私の旧姓は影沼……影沼美津子。百年前、桜花家との戦いに敗れ、滅びかけた影沼家の末裔よ」
「影沼……?」

 聞いたことのない名前だった。

「そう、あなたは知らないでしょうね。歴史から抹消された、敗者の名前だもの」

 美津子様の目に、狂気の炎が宿る。

「我が一族は、禍祓いの大乱で桜花家に滅ぼされた。生き残った者は、日陰で細々と生きるしかなかった」
「それは……百年も前の……」
「百年? たかが百年よ!」

 美津子様が声を荒げた。

「一族の恨みは、何世代経とうと消えない! 私は、その恨みを晴らすために生きてきた」

 札鬼が再び動き出す。
 さっきより動きが激しい。
 私は横に飛んで、松の腕の一撃を避ける。

 床が砕け、木片が飛び散った。
 もしあれを受けていたら、骨の一本や二本では済まなかっただろう。

「如月家に入り込んだのは、名家としてこの呪いの世界により深く食い込むためだった。だけどまさか、前妻が桜花で、あなたが桜花の血を引いているとは!」

 美津子様が高笑いを上げた。ビクッ、と体が跳ねる。

「運命とは皮肉なものね。復讐の相手がまさか義理の娘として現れるんだから」
「私の母を、知っていたんですか……? 最初から!?」
「当然よぉ。だからあなたを虐げ続けたの。憎い桜花の娘が悲しんだり苦しんだり……。見ているだけで心が晴れたわ。そして、いつか始末しようと思ってたの」
「……なんて……」

 なんて……残酷な。ひどい。許せない。

 私が受けてきた仕打ちは、全て計画的なものだったの?
 愛されなかったのではなく、最初から憎まれていたの?

 動揺する私の隙を、札鬼は見逃さなかった。

 触手が足を薙ぎ払う。

「あがっ……!」

 バランスを崩した私は、無様に床に転がった。
 箒も手から離れ、手の届かない場所に転がっていく。

「さあ、終わりよ」

 美津子様が勝ち誇った声を上げる。

 札鬼の巨大な腕が、振り上げられた。
 逃げ場はない。

(こんなところで……こんな人に、負けたくない……!)

 恐怖か、怒りか。激情で涙が溢れ、視界が滲んでいく。
 二秒後か三秒後か、私はあの巨大な手に潰されているだろう。

 でも、諦めたくない。
 まだ諦められない!

 そのとき、リボンが微かに光を放ち始めた。
 温かい光。母の愛のような、優しい光。

「……まだ、終わらない!」

 私は転がって、箒に手を伸ばす。

 指先が柄に触れた瞬間、桜の光がそこに宿った。
 ただの箒の柄が、ほのかに桃色に輝く。

 札鬼の腕が振り下ろされる。
 
 私は本能的に、箒を構えて受け止めた。

 がぁん――!

 凄まじい衝撃。

 でも、折れない。
 桜の光を纏った箒は、札鬼の一撃を受け止めていた。

「なんですって!?」

 美津子様の声に、初めて焦りが混じった。

「桜花の力……でも、そんな付け焼き刃で!」
「でやぁぁっ!!」

 私は箒を振るい、札鬼の腕を弾き返した。

 そして、剣道で何千回と練習した突きの構えを取る。
 狙うは、札鬼の中心。禍々しい気を最も強く放つ、核の部分。

「たあぁぁぁっ!」

 渾身の突きを放つ。
 桜の光を纏った切っ先が、札鬼の体を貫いた。

「ギィィィッ……!」

 札鬼が苦悶の声を上げる。
 でも――

「甘いわね」

 美津子様の冷たい声。彼女が扇を振るうと、悶えていた札鬼が少しずつ平静を取り戻していく……!

「呪詛を注ぎ直したわ。これで札鬼の傷はあっという間に塞がるの。残念だったわね?」
「……っ」
「あなたみたいな小娘が、何を張り切っていたの? ちょっと前まで花札のことも、血のことも知らなかったガキが……私の札鬼を倒せると思ったのかしら」

 息が切れる。足が震える。もう立てそうにない。
 そんな状態の私を痛めつけるように、美津子様の言葉が降り注ぐ……。

「終わりよ、如月詩織。いえ、桜花の娘」

 そして、美津子様が札鬼に命じる。

「とどめを刺しなさい」

 札鬼の巨大な腕が、最後の一撃のために高く掲げられた。

(……こんな……)

 迫る風圧に目を閉じる。
 その時だった。

「詩織――!」

 凛とした声が、闇を切り裂いた。
 振り下ろされようとしていた札鬼の腕が、銀色の光によって切断される。

 まるで月光が刃となったような、美しくも圧倒的な一閃。
 札鬼の巨体が大きくよろめき、苦悶の唸り声を上げる。

「詩織……」

 皓様が、私の元へ歩いてきた。
 いつも通りの冷静な表情だが、その瞳には鋭い光が宿っている。

「生きているか」
「は、はい……」

 全身を襲う疲労と痛みで、声を出すのも辛い。
 でも、来てくれた。助けに来てくれた……。

 皓様は私の状態を素早く確認すると振り向く。
 その視線が、美津子様に向けられる。

「つ、月読皓……!」

 美津子様の顔から、一瞬で血の気が引いた。
 
 さっきまでの余裕はどこへやら。
 青ざめた顔は恐怖に歪み、体が小刻みに震えている。

「なぜ……なぜここに! 撫子は!? あの子は何をしているの!」

 取り乱した声で叫ぶ美津子様。
 もはや、上品な奥様の仮面は完全に剥がれ落ちていた。

「いかに手ほどきをしようが、素人の扱う呪詛花札の力などそんなものだ」

 皓様の声は感情を感じさせない。しかし、どこかあたりの空気が冷えていくような感覚がある。

「それより、やはり影沼家の残党だったか」
「!」

 美津子様の顔が引きつった。

「影沼を知っていたのね……」
「どこかで生き延びているだろうと推測はしていた。如月家に潜伏していたとは思わなかったが」

 皓様は刀を抜いた。
 月光を纏うその刃は、ただそれだけで圧倒的な存在感を放っている。

「ふん……! バレたところでどうにもなりはしないッ!」

 美津子様が札鬼を前に押し出す。
 松の枝が組み合わさった巨大な怪物が歩み出る。

「この札鬼は特別製よ! そう簡単には……」
「そうか」

 皓様は興味なさそうに呟いた。

「月華一閃――」

 一瞬だった。
 
 皓様の姿がぶれたかと思うと、次の瞬間には札鬼の向こう側に立っていた。
 そして札鬼は――真っ二つに切断され、黒い霧となって消滅していく……!

「そ、そんな……バカな!? 月読家っ、いつの間にここまでの力を!?」

 美津子様が、膝から崩れ落ちる。
 最後の切り札だった札鬼が、まるで紙を切るように倒されてしまったのだから、当然かもしれない。

「ありえない……私の計画は完璧だったはず!」
「完璧? 敵の強さも測らずに描いた絵図がか?」

 美津子様が床を叩く。
 皓様の声には、侮蔑が含まれていた。

「所詮は亡霊の浅知恵。私の力『芒に月』の前では無意味だ」
「黙れ! 月読家が何だというのよ!」

 美津子様が醜く顔を歪める。

「あんたたち十二家がいなければ、影沼家は繁栄していた! 全部、全部あんたたちのせいよ!」
「百年前の恨み言か。時代錯誤も甚だしい」

 皓様は刀を抜いたまま美津子様に近付いていく。まさか……。

「如月宗一郎はお前の正体を知っているのか?」
「あの男? ハンッ、何も知るわけないでしょう。奴は最初から……そう、前妻の事すらろくに知りやしないわよ」

 美津子様が嘲笑う。
 どこか、痛み慣れた胸がまたズキンと痛んだ気がした。

「それでも、前妻を亡くして落ち込んでいた男なんて、懐に入るのは簡単だったわ。優しい言葉と涙で十分」
「……なるほど」

 皓様は鈴を鳴らし、月読家の使用人の方々を呼んだ。すぐに数人が現れる。

「殺す価値もない。この女は月読家預かりとする。連行しろ」
「は、離しなさい! 私は如月家の妻なのよ!」

 美津子様が暴れる。
 しかし、それはもはや虚勢でしかない。
 使用人たちに取り押さえられ、引きずられていく。

「覚えていなさい! 影沼の恨みは消えない! 必ず……必ず復讐してやる! 月読皓! 詩織ぃ……!」

 遠ざかっていく罵声。
 それも、やがて聞こえなくなった。
 静寂が戻った部屋で、皓様が私を見下ろした。

「立てるか」
「あ……はい、多分……」

 立ち上がろうとして、足に力が入らない。
 よろめく私を、皓様が咄嗟に支えた。

「よく耐えた。……さて。一度月読の館に戻るとしよう」
「……あの。美津子様は……撫子は、どうなるんでしょうか?」
「さぁな。少なくとも、悪意を持って呪詛花札を扱った連中だ。相応の裁きを下す必要はあるだろう……」

 皓様はどこか冷たく、鋭い瞳で壁を見つめる。
 ……多分、彼に慈悲を乞うたところで意味はないのだろう。
 彼は、帝都の敵となった彼女たちを許すつもりはない。まさしく夜の月のような、冷たさがそこにはあった。

「……っ」
「……詩織? どうかしたか――」

 皓様の言葉が途切れた。

 いや、途切れたのは私の意識の方だった。
 視界が急速に遠のいていく。
 肉体も……きっと精神も、限界だったようだ。

「おい、しっかりしろ」

 皓様の声が遠くなっていく。
 
 その声に焦りが含まれているような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
 最後に見えたのは、月のように美しい紫色の瞳だった。