料亭「花鳥風月」の門をくぐった瞬間、私は息を呑んだ。
手入れの行き届いた日本庭園。
池には錦鯉が優雅に泳ぎ、松の枝振りは見事という他ない。
石畳の向こうに見える数寄屋造りの建物は、まるで絵画のような美しさだった。
「緊張しているな」
隣を歩く皓様が、小さく呟いた。
「は、はい……すみません」
「謝ることではない。当然の反応だ」
皓様は相変わらず黒い紋付袴姿で、その立ち姿は凛としている。
私は月読家で用意してもらった藤色の振袖に身を包んでいた。
……朝、鏡で見た自分の姿が、まだ信じられない。
髪も侍女さんたちが丁寧に結い上げてくれて、高級そうな簪が光っている。
でも、中身は相変わらずの如月詩織。
名家の子女が集う茶会なんて、場違いもいいところだ。
「背筋を伸ばせ」
「はっ……はい」
皓様の言葉に、慌てて姿勢を正す。いつも俯いてばかりだから、なかなか前を見れない。
「君は月読家の客人だ。誰に遠慮する必要もない」
「でも……」
「いいから、私について来い」
有無を言わせぬ調子で、皓様は歩を進める。
私は深呼吸をして、その後に続いた。
案内された大広間には、既に大勢の人が集まっていた。
どの人も、一目で分かる上流階級の方々。
着物の質も、身のこなしも、私とは別世界の人間だ。
そんな中に、如月家の面々を見つけた。
(あ……)
義母様は深い緑色の訪問着。
撫子は朱色の振袖で、いつも通り華やかだ。
父も紋付袴で、少し居心地悪そうにしている。
私たちの姿を認めた瞬間、三人の表情が凍りついた。
特に撫子は、信じられないものを見るような顔で私を見つめている。
無理もない。昨日まで使用人同然だったみすぼらしい私が、こんな姿で現れたのだから。
「月読様がいらっしゃいました」
誰かの声で、広間の視線が一斉に私たちに向けられた。
ざわめきが起こる。
「まあ、あの方が月読家の……」
「お美しい……」
「隣にいらっしゃるのは、どなた?」
「さあ……でも、なんて綺麗な方でしょう」
聞こえてくる囁き声に、顔が熱くなる。
俯きたい衝動を必死で堪えて、皓様の少し後ろを歩く。
主催者として、皓様が上座に向かう。
私はどこに座ればいいのか分からず、立ち尽くしていると――
「詩織、私の隣に」
皓様が私を手招きした。
その瞬間、広間の空気が変わった。
月読家当主の隣といえば、特別な位置だ。
恐る恐る皓様の隣に座ると、視線の重さがさらに増した。
好奇の視線。
羨望の視線。
そして、明らかな敵意の視線も。
美津子様と撫子は、下座の方に席を取っていた。
その目には、怒りと困惑が入り混じっている。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
皓様が口を開くと、広間が静まり返った。
「月読家主催の茶会にようこそ。本日は、皆様に紹介したい方がいます」
そう言って、皓様は私を見た。
心臓が早鐘を打つ。
まさか……。
「如月詩織殿です。月読家の大切な客人として、本日はお招きしました」
再びざわめきが起こる。
「如月……如月家のご令嬢ですか?」
「でも、如月家の令嬢といえば、撫子様では……」
「いえ、確かもう一人、姉君がいらしたはず」
憶測が飛び交う中、美津子様が立ち上がった。
「月読様」
その声は、表面上は落ち着いているが、よく聞けば震えている。
「詩織は、確かに如月の娘ですが……その、まだ若く、このような場には不慣れでして」
「心配は無用です、如月夫人」
皓様の声は、穏やかだが有無を言わせぬ響きがあった。
「詩織殿は、月読家が責任を持ってお預かりしています」
お預かり、という言葉に、また広間がざわついた。
それは普通の関係では使わない言葉だ。
まるで、婚約でもしているかのような……。
「お、お姉様……」
撫子の呟きが、かすかに聞こえた。
その顔は青ざめ、美しく化粧した顔が台無しになっている。
握りしめた扇子が、小刻みに震えていた。
そんな緊迫した空気の中、茶会が始まった。
お茶が振る舞われ、季節の和菓子が運ばれてくる。
私は作法を思い出しながら、なんとか恥をかかないように振る舞った。
でも、緊張で手が震える。
茶碗を持つ手に、じっとりと汗が滲んでいた。
「力を抜け」
皓様が小声で言った。
「君は良くやっている。堂々としていればいい」
「は、はい……」
その言葉に、少しだけ緊張が和らぐ。
深呼吸をして、もう一度姿勢を正した。
大丈夫。皓様が隣にいてくれる。
その時、美津子様が席を立った。
「申し訳ございません。少し気分が……」
顔色を悪くしながら、美津子様は広間を出ていく。
心配そうな顔をした撫子が後を追おうとしたが、美津子様は手で制した。
……嫌な予感がした。
(義母様……?)
でも、この場で私が動くわけにはいかない。
皓様の顔を窺うが、彼は変わらず穏やかな表情で茶を飲み、時折知り合いらしき方と歓談している。
きっと、大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、私は茶会に集中しようとした。
しかし、胸の奥の不安は、どうしても消えてくれなかった。
■
そうして茶会が進んでいた、その時だった。
「きゃああああ!」
突然、庭園の方から悲鳴が上がった。
甲高い女性の叫び声に、広間の空気が凍りつく。
「何事ですか?」
「今の声は……」
皆が不安そうに顔を見合わせる中、庭園に面した障子の向こうに、異様な影が映った。
大きい。
人ではない、歪な形。
のたうつような動きで、庭園を這い回っている。
「な、なんですか……あれは!?」
誰かが障子を開けた瞬間、広間は恐慌状態に陥った。
「うわああっ、化け物ぉ!」
「嘘でしょう!?」
「何なのあれ! いやああっ!」
庭園には、この世のものとは思えない異形の存在がいた。
どろどろとした泥のような体に、無数の目玉。
その目玉が、ぎょろぎょろと不規則に動いている。
令嬢たちが悲鳴を上げ、我先にと出口に殺到する。
着物の裾を踏み、転ぶ人。
泣き叫ぶ人。
腰を抜かして動けない人。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
(あれは、札鬼……! でも、どうしてこんなところに!?)
私は皓様を見た。
彼の表情は険しく、既に立ち上がっている。
「詩織、ここで待っていろ」
「でも、皓様も危険では……!」
「私の心配は無用だ。すぐに片付ける」
皓様は袴の裾を翻し、庭園へと向かっていく。
逃げ惑う人々の流れに逆らって進むその姿は、まるで激流に立ち向かう岩のようだった。
私は座ったまま、どうすればいいか分からずにいた。
広間は既にほとんど無人。
残っているのは、腰を抜かした数人と、私だけ。
その時――
「お母様ぁ! 助けて! 怖いよう!」
別棟の方から、子供の悲鳴が聞こえてきた。
小さな子供の、恐怖に震える声。
泣きじゃくる声が、建物に響き渡る。
(子供が……!?)
考えるより先に、体が動いていた。
皓様には待っていろと言われた。
でも、子供が危険に晒されているのを、黙って見ていることなんてできない。
「すみません、皓様……!」
私は振袖の裾をたくし上げ、声のする方向へ走り出した。
廊下は逃げる人々でごった返している。
「どいて!」
「早く外へ!」
「化け物が来るぞ!」
恐慌状態の人々をかき分けて進む。
肩がぶつかり、髪が乱れる。
でも、そんなこと構っていられない。
「助けて! 誰か!」
子供の声がまた聞こえた。別棟への渡り廊下を駆け抜ける。
別棟は茶室として使われている離れだった。
人影はない。
皆、本館から逃げ出したのだろう。
「どこ!? どこにいるの!?」
私は叫びながら、部屋を探し回る。
一の間、二の間、水屋……どこにも子供の姿はない。
(おかしい……確かにこの辺りから声がしたはずなのに)
不意に、背筋に冷たいものが走った。
――静かすぎる。
さっきまで聞こえていた泣き声も、人々の喧騒も、ぴたりと止んでいる。
そして、私は気づいてしまった。
子供の声は聞こえたけれど、その距離は常に一定であったことに。
それに、この茶会に呼ばれるにしてはあの声は、あまりに幼すぎることに。
(まさか……)
罠だ。
振り返ろうとした瞬間、入り口を塞ぐように巨大な影が立ちはだかった。
「札、鬼……!」
松の木のような節くれだった腕を持ち、その腕から無数の赤い短冊のような触手が生えている。
庭園にいたものとは違う、より大きく、より禍々しい存在。
「まさか……私を狙って……?」
震える声で呟く。
逃げ道はない。札鬼は出入り口を完全に塞いでいる。
そこにカツ、カツ、と草履の音が聞こえてきた。
優雅で、ゆったりとした足音。
まるで、獲物を追い詰めた狩人のような……。
「ようやく二人きりになれたわね、詩織」
札鬼の背後から現れたのは、義母様だった。
いつものように上品な笑みを浮かべている。
でも、その目には狂気じみた光が宿っていた。
「お義母様……」
「あなたにそう呼ばれるたびに虫唾が走るわ」
義母様の笑みが、醜く歪んだ。
「忌まわしい前妻の子。使用人もどきが、どうやって月読家当主をたらしこんだのかしら」
「違います、私は……!」
「あら、口答え? いやねぇ。折檻したほうがいいかしら」
「……っ」
射すくめるような義母様の瞳。
……怖い。
子供の頃の恐怖心が今も体に刻まれ、動けなくなる。
「その……札鬼はいったい、何なんですか」
「私の術よ。それより、札鬼を知っているのね。月読のお坊っちゃんに聞いたのかしら? なら話が早いわ」
義母様の手が動く。同時に、巨大な札鬼が一歩こちらに近づいてくる。
「あなたの血が目障りだったのよ。いじめて起きないようにしようとしていたのに、まさか覚醒するなんてね」
「……美津子様。あなたは、一体……」
迫りくる札鬼。このままでは、きっと殺されてしまうだろう。
私は辺りを見回し、武器になりそうなものを探す。
……あった。
隅に立てかけてある、掃除用の箒。ここにはそれしかない。
走り、それを掴む。竹刀や木刀と比べても、なお頼りない握り心地だ。
「あら、箒で札鬼と戦うつもり? 面白い子ね。そんな細い棒切れで、この松の札鬼と戦えるとでも思うの?」
「……っ」
私は箒を手に取り、柄の部分を構えた。
剣道の中段の構え。
義母様の言うとおり、こんなものであの巨大な怪物に勝てるはずもない。
でも、黙ってやられるわけにはいかない……!
「ふふふ……いいわ。あがいてみなさい。あなたがいたぶられて苦しむ姿、楽しみだわ」
美津子様が指を鳴らすと、札鬼が唸り声を上げて動き出した。
赤い触手が、鞭のようにしなって襲いかかってくる……!
■
月読皓は、庭園の札鬼を一瞬で斬り捨てた。
月光を纏った一太刀は、泥のような異形を塵へと変える。
騒ぎを聞きつけて集まってきた使用人たちが、その圧倒的な力に息を呑んだ。
「当主様、ご無事で……」
「けが人はいるか?」
皓の問いに、使用人の一人が答える。
「数名が転んで傷を負いましたが、大事には至っておりません」
「そうか。手当ては不要だな。札鬼を見た者は記憶操作だ。夕霧家に送っておけ」
「はっ」
皓は指示を出しながら素早く辺りを見回した。
詩織の姿がない。
(待っていろと言ったはずだが……)
眉を顰める皓の元に、一人の少女が駆け寄ってきた。
「皓様……月読様!」
如月撫子だった。
朱色の振袖は乱れ、丁寧に結い上げた髪も少し崩れている。
その顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいた。
「如月撫子か……」
「は、はい……皓様、大変なんです!」
撫子は皓の袖を掴んだ。
震える手。上目遣いの瞳。
計算され尽くした「か弱い乙女」の演技だ。
「詩織お姉様が……お姉様が危ないんです!」
「何?」
皓の表情が鋭くなる。
「彼女をどこで見た?」
「あちらの東屋の方で……化け物に追われて、逃げていらしたんです」
撫子は建物の奥を指さした。
人気のない、離れた場所にある東屋の方向。
「私、怖くて……でも、お姉様を助けなきゃって……」
震え声で訴える撫子。
その瞳の奥に、暗い炎が宿っている――。
「分かった。案内しろ」
「はい!」
撫子は内心でほくそ笑んだ。
(思った通り、簡単に釣れたわ)
母から教わった通りだ。
男なんて、か弱い女の涙に弱い。
ましてや大切な人が危険だと聞けば、冷静さを失うものだ。
(お姉様が大事っていうのがムカつくけどね……)
密かに苦虫を噛み潰しながら、撫子は皓とともに東屋へと向かった。
人気のない渡り廊下を進む間、撫子は懐に忍ばせた札の感触を確かめる。
『牡丹に蝶』の呪詛札。
母が「最後の切り札」と言って渡してくれたもの。
「この辺りで見たのか?」
東屋に着いた皓が辺りを見回す。人の気配はない。詩織の姿も、札鬼の痕跡もない。
何かが妙だ――彼の瞳が鋭くなっていく。
「はい……確かにこの辺りで……」
撫子は皓の背後に回った。
今だ。
相手が油断している今しかない。
震える手で札を取り出す。
牡丹の花に、艶やかな蝶が舞う絵柄。
美しくも妖しい札から、甘い香りが漂い始めた。
「月読様」
撫子は声を作った。
甘く、艶っぽい声。
「私を……見てくださいませんか?」
皓が振り返ろうとした瞬間、撫子は呪文を唱えた。
「――花に酔い、蝶と舞え。現し世の理を忘れ、ただ美しきものに魅入られよ」
札が妖しく光る。
そこから、無数の蝶が舞い出した。
「何――」
紫色の燐粉を撒き散らしながら、幻想的に舞う蝶たち。
その羽ばたきと共に、甘い香りが東屋を満たしていく。
「これは……」
皓の動きが止まった。
蝶が彼の周りを舞い、燐粉が降り注ぐ。
その瞳が、一瞬、焦点を失ったように見えた。
「ふふ……効いてきたみたいね」
撫子は札を胸に抱き、ゆっくりと皓に近づいた。
母から聞いた話では、この札は相手の理性を奪い、術者に魅了される呪術だという。
どんなに強い男でも、この蝶の舞には抗えない。
「月読様……いえ、皓様」
撫子は皓の目の前に立った。
朱色の振袖が、蝶の舞と共に揺れる。
上目遣いで皓を見上げ、最高の笑顔を作った。
「詩織お姉様のことなんか、忘れてください」
白い手を、皓の頬に伸ばす。
「私だけを見て。月読家に相応しい、如月家の令嬢は私だけですわ」
蝶の数が増えていく。
東屋全体が、紫色の燐粉で霞んでいく。
甘い香りは、もはや毒のように濃密だった。
皓の瞳が、ゆらりと揺れた。
その視線が、熱を伴って撫子に注がれる。
「撫子……」
皓が撫子の名を呼んだ。
その声は、どこか夢見るような響きがある。
(やった! 効いてる!)
撫子は歓喜した。
これでこの男は自分のもの。
詩織なんかより、あの地味な姉なんかよりも自分を選ぶ。
月読家当主の妻になれる。今よりもっと、欲しいものは何でも手に入れられる――!
「そうよ、皓様。私を見て」
撫子は背伸びをして、皓の顔に自分の顔を近づけた。
あと少し。
あと少しで、この美しい男を我が物にできる。
しかし――
その瞬間、皓の瞳の奥で何かが光った。
月のような冷たい光。
それは一瞬で、紫色の妖気を切り裂いていく。
「え……」
撫子が驚愕の声を上げる間もなく、異変は起きた。
舞っていた蝶たちが、次々と燃え始めたのだ。
「きゃあっ!? な、何!? なんなのよ!?」
銀色の炎に包まれ、蝶たちが灰となって消えていく。
甘い香りは、焦げ臭い匂いに変わった。
でもそれ以上に恐ろしかったのは、皓の顔が徐々に無表情になっていくことだった。
夢から覚めるように、その瞳に意識が戻ってくる。
そして、そこに宿ったのは……
「なんとも――愚劣な女だな」
氷のような、冷たい怒りだった。
手入れの行き届いた日本庭園。
池には錦鯉が優雅に泳ぎ、松の枝振りは見事という他ない。
石畳の向こうに見える数寄屋造りの建物は、まるで絵画のような美しさだった。
「緊張しているな」
隣を歩く皓様が、小さく呟いた。
「は、はい……すみません」
「謝ることではない。当然の反応だ」
皓様は相変わらず黒い紋付袴姿で、その立ち姿は凛としている。
私は月読家で用意してもらった藤色の振袖に身を包んでいた。
……朝、鏡で見た自分の姿が、まだ信じられない。
髪も侍女さんたちが丁寧に結い上げてくれて、高級そうな簪が光っている。
でも、中身は相変わらずの如月詩織。
名家の子女が集う茶会なんて、場違いもいいところだ。
「背筋を伸ばせ」
「はっ……はい」
皓様の言葉に、慌てて姿勢を正す。いつも俯いてばかりだから、なかなか前を見れない。
「君は月読家の客人だ。誰に遠慮する必要もない」
「でも……」
「いいから、私について来い」
有無を言わせぬ調子で、皓様は歩を進める。
私は深呼吸をして、その後に続いた。
案内された大広間には、既に大勢の人が集まっていた。
どの人も、一目で分かる上流階級の方々。
着物の質も、身のこなしも、私とは別世界の人間だ。
そんな中に、如月家の面々を見つけた。
(あ……)
義母様は深い緑色の訪問着。
撫子は朱色の振袖で、いつも通り華やかだ。
父も紋付袴で、少し居心地悪そうにしている。
私たちの姿を認めた瞬間、三人の表情が凍りついた。
特に撫子は、信じられないものを見るような顔で私を見つめている。
無理もない。昨日まで使用人同然だったみすぼらしい私が、こんな姿で現れたのだから。
「月読様がいらっしゃいました」
誰かの声で、広間の視線が一斉に私たちに向けられた。
ざわめきが起こる。
「まあ、あの方が月読家の……」
「お美しい……」
「隣にいらっしゃるのは、どなた?」
「さあ……でも、なんて綺麗な方でしょう」
聞こえてくる囁き声に、顔が熱くなる。
俯きたい衝動を必死で堪えて、皓様の少し後ろを歩く。
主催者として、皓様が上座に向かう。
私はどこに座ればいいのか分からず、立ち尽くしていると――
「詩織、私の隣に」
皓様が私を手招きした。
その瞬間、広間の空気が変わった。
月読家当主の隣といえば、特別な位置だ。
恐る恐る皓様の隣に座ると、視線の重さがさらに増した。
好奇の視線。
羨望の視線。
そして、明らかな敵意の視線も。
美津子様と撫子は、下座の方に席を取っていた。
その目には、怒りと困惑が入り混じっている。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
皓様が口を開くと、広間が静まり返った。
「月読家主催の茶会にようこそ。本日は、皆様に紹介したい方がいます」
そう言って、皓様は私を見た。
心臓が早鐘を打つ。
まさか……。
「如月詩織殿です。月読家の大切な客人として、本日はお招きしました」
再びざわめきが起こる。
「如月……如月家のご令嬢ですか?」
「でも、如月家の令嬢といえば、撫子様では……」
「いえ、確かもう一人、姉君がいらしたはず」
憶測が飛び交う中、美津子様が立ち上がった。
「月読様」
その声は、表面上は落ち着いているが、よく聞けば震えている。
「詩織は、確かに如月の娘ですが……その、まだ若く、このような場には不慣れでして」
「心配は無用です、如月夫人」
皓様の声は、穏やかだが有無を言わせぬ響きがあった。
「詩織殿は、月読家が責任を持ってお預かりしています」
お預かり、という言葉に、また広間がざわついた。
それは普通の関係では使わない言葉だ。
まるで、婚約でもしているかのような……。
「お、お姉様……」
撫子の呟きが、かすかに聞こえた。
その顔は青ざめ、美しく化粧した顔が台無しになっている。
握りしめた扇子が、小刻みに震えていた。
そんな緊迫した空気の中、茶会が始まった。
お茶が振る舞われ、季節の和菓子が運ばれてくる。
私は作法を思い出しながら、なんとか恥をかかないように振る舞った。
でも、緊張で手が震える。
茶碗を持つ手に、じっとりと汗が滲んでいた。
「力を抜け」
皓様が小声で言った。
「君は良くやっている。堂々としていればいい」
「は、はい……」
その言葉に、少しだけ緊張が和らぐ。
深呼吸をして、もう一度姿勢を正した。
大丈夫。皓様が隣にいてくれる。
その時、美津子様が席を立った。
「申し訳ございません。少し気分が……」
顔色を悪くしながら、美津子様は広間を出ていく。
心配そうな顔をした撫子が後を追おうとしたが、美津子様は手で制した。
……嫌な予感がした。
(義母様……?)
でも、この場で私が動くわけにはいかない。
皓様の顔を窺うが、彼は変わらず穏やかな表情で茶を飲み、時折知り合いらしき方と歓談している。
きっと、大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、私は茶会に集中しようとした。
しかし、胸の奥の不安は、どうしても消えてくれなかった。
■
そうして茶会が進んでいた、その時だった。
「きゃああああ!」
突然、庭園の方から悲鳴が上がった。
甲高い女性の叫び声に、広間の空気が凍りつく。
「何事ですか?」
「今の声は……」
皆が不安そうに顔を見合わせる中、庭園に面した障子の向こうに、異様な影が映った。
大きい。
人ではない、歪な形。
のたうつような動きで、庭園を這い回っている。
「な、なんですか……あれは!?」
誰かが障子を開けた瞬間、広間は恐慌状態に陥った。
「うわああっ、化け物ぉ!」
「嘘でしょう!?」
「何なのあれ! いやああっ!」
庭園には、この世のものとは思えない異形の存在がいた。
どろどろとした泥のような体に、無数の目玉。
その目玉が、ぎょろぎょろと不規則に動いている。
令嬢たちが悲鳴を上げ、我先にと出口に殺到する。
着物の裾を踏み、転ぶ人。
泣き叫ぶ人。
腰を抜かして動けない人。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
(あれは、札鬼……! でも、どうしてこんなところに!?)
私は皓様を見た。
彼の表情は険しく、既に立ち上がっている。
「詩織、ここで待っていろ」
「でも、皓様も危険では……!」
「私の心配は無用だ。すぐに片付ける」
皓様は袴の裾を翻し、庭園へと向かっていく。
逃げ惑う人々の流れに逆らって進むその姿は、まるで激流に立ち向かう岩のようだった。
私は座ったまま、どうすればいいか分からずにいた。
広間は既にほとんど無人。
残っているのは、腰を抜かした数人と、私だけ。
その時――
「お母様ぁ! 助けて! 怖いよう!」
別棟の方から、子供の悲鳴が聞こえてきた。
小さな子供の、恐怖に震える声。
泣きじゃくる声が、建物に響き渡る。
(子供が……!?)
考えるより先に、体が動いていた。
皓様には待っていろと言われた。
でも、子供が危険に晒されているのを、黙って見ていることなんてできない。
「すみません、皓様……!」
私は振袖の裾をたくし上げ、声のする方向へ走り出した。
廊下は逃げる人々でごった返している。
「どいて!」
「早く外へ!」
「化け物が来るぞ!」
恐慌状態の人々をかき分けて進む。
肩がぶつかり、髪が乱れる。
でも、そんなこと構っていられない。
「助けて! 誰か!」
子供の声がまた聞こえた。別棟への渡り廊下を駆け抜ける。
別棟は茶室として使われている離れだった。
人影はない。
皆、本館から逃げ出したのだろう。
「どこ!? どこにいるの!?」
私は叫びながら、部屋を探し回る。
一の間、二の間、水屋……どこにも子供の姿はない。
(おかしい……確かにこの辺りから声がしたはずなのに)
不意に、背筋に冷たいものが走った。
――静かすぎる。
さっきまで聞こえていた泣き声も、人々の喧騒も、ぴたりと止んでいる。
そして、私は気づいてしまった。
子供の声は聞こえたけれど、その距離は常に一定であったことに。
それに、この茶会に呼ばれるにしてはあの声は、あまりに幼すぎることに。
(まさか……)
罠だ。
振り返ろうとした瞬間、入り口を塞ぐように巨大な影が立ちはだかった。
「札、鬼……!」
松の木のような節くれだった腕を持ち、その腕から無数の赤い短冊のような触手が生えている。
庭園にいたものとは違う、より大きく、より禍々しい存在。
「まさか……私を狙って……?」
震える声で呟く。
逃げ道はない。札鬼は出入り口を完全に塞いでいる。
そこにカツ、カツ、と草履の音が聞こえてきた。
優雅で、ゆったりとした足音。
まるで、獲物を追い詰めた狩人のような……。
「ようやく二人きりになれたわね、詩織」
札鬼の背後から現れたのは、義母様だった。
いつものように上品な笑みを浮かべている。
でも、その目には狂気じみた光が宿っていた。
「お義母様……」
「あなたにそう呼ばれるたびに虫唾が走るわ」
義母様の笑みが、醜く歪んだ。
「忌まわしい前妻の子。使用人もどきが、どうやって月読家当主をたらしこんだのかしら」
「違います、私は……!」
「あら、口答え? いやねぇ。折檻したほうがいいかしら」
「……っ」
射すくめるような義母様の瞳。
……怖い。
子供の頃の恐怖心が今も体に刻まれ、動けなくなる。
「その……札鬼はいったい、何なんですか」
「私の術よ。それより、札鬼を知っているのね。月読のお坊っちゃんに聞いたのかしら? なら話が早いわ」
義母様の手が動く。同時に、巨大な札鬼が一歩こちらに近づいてくる。
「あなたの血が目障りだったのよ。いじめて起きないようにしようとしていたのに、まさか覚醒するなんてね」
「……美津子様。あなたは、一体……」
迫りくる札鬼。このままでは、きっと殺されてしまうだろう。
私は辺りを見回し、武器になりそうなものを探す。
……あった。
隅に立てかけてある、掃除用の箒。ここにはそれしかない。
走り、それを掴む。竹刀や木刀と比べても、なお頼りない握り心地だ。
「あら、箒で札鬼と戦うつもり? 面白い子ね。そんな細い棒切れで、この松の札鬼と戦えるとでも思うの?」
「……っ」
私は箒を手に取り、柄の部分を構えた。
剣道の中段の構え。
義母様の言うとおり、こんなものであの巨大な怪物に勝てるはずもない。
でも、黙ってやられるわけにはいかない……!
「ふふふ……いいわ。あがいてみなさい。あなたがいたぶられて苦しむ姿、楽しみだわ」
美津子様が指を鳴らすと、札鬼が唸り声を上げて動き出した。
赤い触手が、鞭のようにしなって襲いかかってくる……!
■
月読皓は、庭園の札鬼を一瞬で斬り捨てた。
月光を纏った一太刀は、泥のような異形を塵へと変える。
騒ぎを聞きつけて集まってきた使用人たちが、その圧倒的な力に息を呑んだ。
「当主様、ご無事で……」
「けが人はいるか?」
皓の問いに、使用人の一人が答える。
「数名が転んで傷を負いましたが、大事には至っておりません」
「そうか。手当ては不要だな。札鬼を見た者は記憶操作だ。夕霧家に送っておけ」
「はっ」
皓は指示を出しながら素早く辺りを見回した。
詩織の姿がない。
(待っていろと言ったはずだが……)
眉を顰める皓の元に、一人の少女が駆け寄ってきた。
「皓様……月読様!」
如月撫子だった。
朱色の振袖は乱れ、丁寧に結い上げた髪も少し崩れている。
その顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいた。
「如月撫子か……」
「は、はい……皓様、大変なんです!」
撫子は皓の袖を掴んだ。
震える手。上目遣いの瞳。
計算され尽くした「か弱い乙女」の演技だ。
「詩織お姉様が……お姉様が危ないんです!」
「何?」
皓の表情が鋭くなる。
「彼女をどこで見た?」
「あちらの東屋の方で……化け物に追われて、逃げていらしたんです」
撫子は建物の奥を指さした。
人気のない、離れた場所にある東屋の方向。
「私、怖くて……でも、お姉様を助けなきゃって……」
震え声で訴える撫子。
その瞳の奥に、暗い炎が宿っている――。
「分かった。案内しろ」
「はい!」
撫子は内心でほくそ笑んだ。
(思った通り、簡単に釣れたわ)
母から教わった通りだ。
男なんて、か弱い女の涙に弱い。
ましてや大切な人が危険だと聞けば、冷静さを失うものだ。
(お姉様が大事っていうのがムカつくけどね……)
密かに苦虫を噛み潰しながら、撫子は皓とともに東屋へと向かった。
人気のない渡り廊下を進む間、撫子は懐に忍ばせた札の感触を確かめる。
『牡丹に蝶』の呪詛札。
母が「最後の切り札」と言って渡してくれたもの。
「この辺りで見たのか?」
東屋に着いた皓が辺りを見回す。人の気配はない。詩織の姿も、札鬼の痕跡もない。
何かが妙だ――彼の瞳が鋭くなっていく。
「はい……確かにこの辺りで……」
撫子は皓の背後に回った。
今だ。
相手が油断している今しかない。
震える手で札を取り出す。
牡丹の花に、艶やかな蝶が舞う絵柄。
美しくも妖しい札から、甘い香りが漂い始めた。
「月読様」
撫子は声を作った。
甘く、艶っぽい声。
「私を……見てくださいませんか?」
皓が振り返ろうとした瞬間、撫子は呪文を唱えた。
「――花に酔い、蝶と舞え。現し世の理を忘れ、ただ美しきものに魅入られよ」
札が妖しく光る。
そこから、無数の蝶が舞い出した。
「何――」
紫色の燐粉を撒き散らしながら、幻想的に舞う蝶たち。
その羽ばたきと共に、甘い香りが東屋を満たしていく。
「これは……」
皓の動きが止まった。
蝶が彼の周りを舞い、燐粉が降り注ぐ。
その瞳が、一瞬、焦点を失ったように見えた。
「ふふ……効いてきたみたいね」
撫子は札を胸に抱き、ゆっくりと皓に近づいた。
母から聞いた話では、この札は相手の理性を奪い、術者に魅了される呪術だという。
どんなに強い男でも、この蝶の舞には抗えない。
「月読様……いえ、皓様」
撫子は皓の目の前に立った。
朱色の振袖が、蝶の舞と共に揺れる。
上目遣いで皓を見上げ、最高の笑顔を作った。
「詩織お姉様のことなんか、忘れてください」
白い手を、皓の頬に伸ばす。
「私だけを見て。月読家に相応しい、如月家の令嬢は私だけですわ」
蝶の数が増えていく。
東屋全体が、紫色の燐粉で霞んでいく。
甘い香りは、もはや毒のように濃密だった。
皓の瞳が、ゆらりと揺れた。
その視線が、熱を伴って撫子に注がれる。
「撫子……」
皓が撫子の名を呼んだ。
その声は、どこか夢見るような響きがある。
(やった! 効いてる!)
撫子は歓喜した。
これでこの男は自分のもの。
詩織なんかより、あの地味な姉なんかよりも自分を選ぶ。
月読家当主の妻になれる。今よりもっと、欲しいものは何でも手に入れられる――!
「そうよ、皓様。私を見て」
撫子は背伸びをして、皓の顔に自分の顔を近づけた。
あと少し。
あと少しで、この美しい男を我が物にできる。
しかし――
その瞬間、皓の瞳の奥で何かが光った。
月のような冷たい光。
それは一瞬で、紫色の妖気を切り裂いていく。
「え……」
撫子が驚愕の声を上げる間もなく、異変は起きた。
舞っていた蝶たちが、次々と燃え始めたのだ。
「きゃあっ!? な、何!? なんなのよ!?」
銀色の炎に包まれ、蝶たちが灰となって消えていく。
甘い香りは、焦げ臭い匂いに変わった。
でもそれ以上に恐ろしかったのは、皓の顔が徐々に無表情になっていくことだった。
夢から覚めるように、その瞳に意識が戻ってくる。
そして、そこに宿ったのは……
「なんとも――愚劣な女だな」
氷のような、冷たい怒りだった。
