料亭「花鳥風月」の門をくぐった瞬間、私は息を呑んだ。

 手入れの行き届いた日本庭園。
 池には錦鯉が優雅に泳ぎ、松の枝振りは見事という他ない。
 石畳の向こうに見える数寄屋造りの建物は、まるで絵画のような美しさだった。

「緊張しているな」

 隣を歩く皓様が、小さく呟いた。

「は、はい……すみません」
「謝ることではない。当然の反応だ」

 皓様は相変わらず黒い紋付袴姿で、その立ち姿は凛としている。
 私は月読家で用意してもらった藤色の振袖に身を包んでいた。


 ……朝、鏡で見た自分の姿が、まだ信じられない。
 髪も侍女さんたちが丁寧に結い上げてくれて、高級そうな簪が光っている。

 でも、中身は相変わらずの如月詩織。
 名家の子女が集う茶会なんて、場違いもいいところだ。

「背筋を伸ばせ」
「はっ……はい」

 皓様の言葉に、慌てて姿勢を正す。いつも俯いてばかりだから、なかなか前を見れない。

「君は月読家の客人だ。誰に遠慮する必要もない」
「でも……」
「いいから、私について来い」

 有無を言わせぬ調子で、皓様は歩を進める。
 私は深呼吸をして、その後に続いた。

 案内された大広間には、既に大勢の人が集まっていた。

 どの人も、一目で分かる上流階級の方々。
 着物の質も、身のこなしも、私とは別世界の人間だ。

 そんな中に、如月家の面々を見つけた。

(あ……)

 義母様は深い緑色の訪問着。
 撫子は朱色の振袖で、いつも通り華やかだ。
 父も紋付袴で、少し居心地悪そうにしている。

 私たちの姿を認めた瞬間、三人の表情が凍りついた。

 特に撫子は、信じられないものを見るような顔で私を見つめている。
 無理もない。昨日まで使用人同然だったみすぼらしい私が、こんな姿で現れたのだから。

「月読様がいらっしゃいました」

 誰かの声で、広間の視線が一斉に私たちに向けられた。

 ざわめきが起こる。

「まあ、あの方が月読家の……」
「お美しい……」
「隣にいらっしゃるのは、どなた?」
「さあ……でも、なんて綺麗な方でしょう」

 聞こえてくる囁き声に、顔が熱くなる。
 俯きたい衝動を必死で堪えて、皓様の少し後ろを歩く。

 主催者として、皓様が上座に向かう。
 私はどこに座ればいいのか分からず、立ち尽くしていると――

「詩織、私の隣に」

 皓様が私を手招きした。

 その瞬間、広間の空気が変わった。
 月読家当主の隣といえば、特別な位置だ。

 恐る恐る皓様の隣に座ると、視線の重さがさらに増した。

 好奇の視線。
 羨望の視線。
 そして、明らかな敵意の視線も。

 美津子様と撫子は、下座の方に席を取っていた。
 その目には、怒りと困惑が入り混じっている。

「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

 皓様が口を開くと、広間が静まり返った。

「月読家主催の茶会にようこそ。本日は、皆様に紹介したい方がいます」

 そう言って、皓様は私を見た。

 心臓が早鐘を打つ。
 まさか……。

「如月詩織殿です。月読家の大切な客人として、本日はお招きしました」

 再びざわめきが起こる。

「如月……如月家のご令嬢ですか?」
「でも、如月家の令嬢といえば、撫子様では……」
「いえ、確かもう一人、姉君がいらしたはず」

 憶測が飛び交う中、美津子様が立ち上がった。

「月読様」

 その声は、表面上は落ち着いているが、よく聞けば震えている。

「詩織は、確かに如月の娘ですが……その、まだ若く、このような場には不慣れでして」
「心配は無用です、如月夫人」

 皓様の声は、穏やかだが有無を言わせぬ響きがあった。

「詩織殿は、月読家が責任を持ってお預かりしています」

 お預かり、という言葉に、また広間がざわついた。

 それは普通の関係では使わない言葉だ。
 まるで、婚約でもしているかのような……。

「お、お姉様……」

 撫子の呟きが、かすかに聞こえた。

 その顔は青ざめ、美しく化粧した顔が台無しになっている。
 握りしめた扇子が、小刻みに震えていた。


 そんな緊迫した空気の中、茶会が始まった。

 お茶が振る舞われ、季節の和菓子が運ばれてくる。
 私は作法を思い出しながら、なんとか恥をかかないように振る舞った。

 でも、緊張で手が震える。
 茶碗を持つ手に、じっとりと汗が滲んでいた。

「力を抜け」

 皓様が小声で言った。

「君は良くやっている。堂々としていればいい」
「は、はい……」

 その言葉に、少しだけ緊張が和らぐ。
 深呼吸をして、もう一度姿勢を正した。
 大丈夫。皓様が隣にいてくれる。

 その時、美津子様が席を立った。

「申し訳ございません。少し気分が……」

 顔色を悪くしながら、美津子様は広間を出ていく。
 心配そうな顔をした撫子が後を追おうとしたが、美津子様は手で制した。

 ……嫌な予感がした。

(義母様……?)

 でも、この場で私が動くわけにはいかない。
 皓様の顔を窺うが、彼は変わらず穏やかな表情で茶を飲み、時折知り合いらしき方と歓談している。

 きっと、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、私は茶会に集中しようとした。

 しかし、胸の奥の不安は、どうしても消えてくれなかった。



 そうして茶会が進んでいた、その時だった。

「きゃああああ!」

 突然、庭園の方から悲鳴が上がった。
 甲高い女性の叫び声に、広間の空気が凍りつく。

「何事ですか?」
「今の声は……」

 皆が不安そうに顔を見合わせる中、庭園に面した障子の向こうに、異様な影が映った。

 大きい。
 人ではない、歪な形。
 のたうつような動きで、庭園を這い回っている。

「な、なんですか……あれは!?」

 誰かが障子を開けた瞬間、広間は恐慌状態に陥った。

「うわああっ、化け物ぉ!」
「嘘でしょう!?」
「何なのあれ! いやああっ!」

 庭園には、この世のものとは思えない異形の存在がいた。

 どろどろとした泥のような体に、無数の目玉。
 その目玉が、ぎょろぎょろと不規則に動いている。

 令嬢たちが悲鳴を上げ、我先にと出口に殺到する。

 着物の裾を踏み、転ぶ人。
 泣き叫ぶ人。
 腰を抜かして動けない人。

 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

(あれは、札鬼……! でも、どうしてこんなところに!?)

 私は皓様を見た。
 彼の表情は険しく、既に立ち上がっている。

「詩織、ここで待っていろ」
「でも、皓様も危険では……!」
「私の心配は無用だ。すぐに片付ける」

 皓様は袴の裾を翻し、庭園へと向かっていく。
 逃げ惑う人々の流れに逆らって進むその姿は、まるで激流に立ち向かう岩のようだった。

 私は座ったまま、どうすればいいか分からずにいた。

 広間は既にほとんど無人。
 残っているのは、腰を抜かした数人と、私だけ。
 その時――

「お母様ぁ! 助けて! 怖いよう!」

 別棟の方から、子供の悲鳴が聞こえてきた。
 小さな子供の、恐怖に震える声。
 泣きじゃくる声が、建物に響き渡る。

(子供が……!?)

 考えるより先に、体が動いていた。

 皓様には待っていろと言われた。
 でも、子供が危険に晒されているのを、黙って見ていることなんてできない。

「すみません、皓様……!」

 私は振袖の裾をたくし上げ、声のする方向へ走り出した。
 廊下は逃げる人々でごった返している。
 
「どいて!」
「早く外へ!」
「化け物が来るぞ!」

 恐慌状態の人々をかき分けて進む。

 肩がぶつかり、髪が乱れる。
 でも、そんなこと構っていられない。

「助けて! 誰か!」

 子供の声がまた聞こえた。別棟への渡り廊下を駆け抜ける。

 別棟は茶室として使われている離れだった。
 人影はない。
 皆、本館から逃げ出したのだろう。

「どこ!? どこにいるの!?」

 私は叫びながら、部屋を探し回る。
 一の間、二の間、水屋……どこにも子供の姿はない。

(おかしい……確かにこの辺りから声がしたはずなのに)

 不意に、背筋に冷たいものが走った。

 ――静かすぎる。
 さっきまで聞こえていた泣き声も、人々の喧騒も、ぴたりと止んでいる。

 そして、私は気づいてしまった。
 
 子供の声は聞こえたけれど、その距離は常に一定であったことに。
 それに、この茶会に呼ばれるにしてはあの声は、あまりに幼すぎることに。

(まさか……)

 罠だ。

 振り返ろうとした瞬間、入り口を塞ぐように巨大な影が立ちはだかった。

「札、鬼……!」

 松の木のような節くれだった腕を持ち、その腕から無数の赤い短冊のような触手が生えている。
 庭園にいたものとは違う、より大きく、より禍々しい存在。

「まさか……私を狙って……?」

 震える声で呟く。
 逃げ道はない。札鬼は出入り口を完全に塞いでいる。

 そこにカツ、カツ、と草履の音が聞こえてきた。
 優雅で、ゆったりとした足音。
 まるで、獲物を追い詰めた狩人のような……。

「ようやく二人きりになれたわね、詩織」

 札鬼の背後から現れたのは、義母様だった。

 いつものように上品な笑みを浮かべている。
 でも、その目には狂気じみた光が宿っていた。

「お義母様……」
「あなたにそう呼ばれるたびに虫唾が走るわ」

 義母様の笑みが、醜く歪んだ。

「忌まわしい前妻の子。使用人もどきが、どうやって月読家当主をたらしこんだのかしら」
「違います、私は……!」
「あら、口答え? いやねぇ。折檻したほうがいいかしら」
「……っ」

 射すくめるような義母様の瞳。
 ……怖い。
 子供の頃の恐怖心が今も体に刻まれ、動けなくなる。

「その……札鬼はいったい、何なんですか」
「私の術よ。それより、札鬼を知っているのね。月読のお坊っちゃんに聞いたのかしら? なら話が早いわ」

 義母様の手が動く。同時に、巨大な札鬼が一歩こちらに近づいてくる。

「あなたの血が目障りだったのよ。いじめて起きないようにしようとしていたのに、まさか覚醒するなんてね」
「……美津子様。あなたは、一体……」

 迫りくる札鬼。このままでは、きっと殺されてしまうだろう。
 私は辺りを見回し、武器になりそうなものを探す。

 ……あった。
 隅に立てかけてある、掃除用の箒。ここにはそれしかない。
 走り、それを掴む。竹刀や木刀と比べても、なお頼りない握り心地だ。

「あら、箒で札鬼と戦うつもり? 面白い子ね。そんな細い棒切れで、この松の札鬼と戦えるとでも思うの?」
「……っ」

 私は箒を手に取り、柄の部分を構えた。
 剣道の中段の構え。
 義母様の言うとおり、こんなものであの巨大な怪物に勝てるはずもない。
 でも、黙ってやられるわけにはいかない……!

「ふふふ……いいわ。あがいてみなさい。あなたがいたぶられて苦しむ姿、楽しみだわ」

 美津子様が指を鳴らすと、札鬼が唸り声を上げて動き出した。
 赤い触手が、鞭のようにしなって襲いかかってくる……!



 月読皓は、庭園の札鬼を一瞬で斬り捨てた。

 月光を纏った一太刀は、泥のような異形を塵へと変える。
 騒ぎを聞きつけて集まってきた使用人たちが、その圧倒的な力に息を呑んだ。

「当主様、ご無事で……」
「けが人はいるか?」

 皓の問いに、使用人の一人が答える。

「数名が転んで傷を負いましたが、大事には至っておりません」
「そうか。手当ては不要だな。札鬼を見た者は記憶操作だ。夕霧家に送っておけ」
「はっ」

 皓は指示を出しながら素早く辺りを見回した。
 詩織の姿がない。

(待っていろと言ったはずだが……)

 眉を顰める皓の元に、一人の少女が駆け寄ってきた。

「皓様……月読様!」

 如月撫子だった。
 朱色の振袖は乱れ、丁寧に結い上げた髪も少し崩れている。
 その顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいた。

「如月撫子か……」
「は、はい……皓様、大変なんです!」

 撫子は皓の袖を掴んだ。
 震える手。上目遣いの瞳。
 計算され尽くした「か弱い乙女」の演技だ。

「詩織お姉様が……お姉様が危ないんです!」
「何?」

 皓の表情が鋭くなる。

「彼女をどこで見た?」
「あちらの東屋の方で……化け物に追われて、逃げていらしたんです」

 撫子は建物の奥を指さした。
 人気のない、離れた場所にある東屋の方向。

「私、怖くて……でも、お姉様を助けなきゃって……」

 震え声で訴える撫子。
 その瞳の奥に、暗い炎が宿っている――。

「分かった。案内しろ」
「はい!」

 撫子は内心でほくそ笑んだ。

(思った通り、簡単に釣れたわ)

 母から教わった通りだ。
 男なんて、か弱い女の涙に弱い。
 ましてや大切な人が危険だと聞けば、冷静さを失うものだ。

(お姉様が大事っていうのがムカつくけどね……)

 密かに苦虫を噛み潰しながら、撫子は皓とともに東屋へと向かった。

 人気のない渡り廊下を進む間、撫子は懐に忍ばせた札の感触を確かめる。

 『牡丹に蝶』の呪詛札。
 母が「最後の切り札」と言って渡してくれたもの。

「この辺りで見たのか?」

 東屋に着いた皓が辺りを見回す。人の気配はない。詩織の姿も、札鬼の痕跡もない。
 何かが妙だ――彼の瞳が鋭くなっていく。

「はい……確かにこの辺りで……」

 撫子は皓の背後に回った。

 今だ。
 相手が油断している今しかない。

 震える手で札を取り出す。
 牡丹の花に、艶やかな蝶が舞う絵柄。
 美しくも妖しい札から、甘い香りが漂い始めた。

「月読様」

 撫子は声を作った。
 甘く、艶っぽい声。

「私を……見てくださいませんか?」

 皓が振り返ろうとした瞬間、撫子は呪文を唱えた。

「――花に酔い、蝶と舞え。現し世の理を忘れ、ただ美しきものに魅入られよ」

 札が妖しく光る。
 そこから、無数の蝶が舞い出した。

「何――」

 紫色の燐粉を撒き散らしながら、幻想的に舞う蝶たち。
 その羽ばたきと共に、甘い香りが東屋を満たしていく。

「これは……」

 皓の動きが止まった。
 蝶が彼の周りを舞い、燐粉が降り注ぐ。
 その瞳が、一瞬、焦点を失ったように見えた。

「ふふ……効いてきたみたいね」

 撫子は札を胸に抱き、ゆっくりと皓に近づいた。

 母から聞いた話では、この札は相手の理性を奪い、術者に魅了される呪術だという。
 どんなに強い男でも、この蝶の舞には抗えない。

「月読様……いえ、皓様」

 撫子は皓の目の前に立った。
 朱色の振袖が、蝶の舞と共に揺れる。
 上目遣いで皓を見上げ、最高の笑顔を作った。

「詩織お姉様のことなんか、忘れてください」

 白い手を、皓の頬に伸ばす。

「私だけを見て。月読家に相応しい、如月家の令嬢は私だけですわ」

 蝶の数が増えていく。
 東屋全体が、紫色の燐粉で霞んでいく。
 甘い香りは、もはや毒のように濃密だった。

 皓の瞳が、ゆらりと揺れた。
 その視線が、熱を伴って撫子に注がれる。

「撫子……」

 皓が撫子の名を呼んだ。
 その声は、どこか夢見るような響きがある。

(やった! 効いてる!)

 撫子は歓喜した。

 これでこの男は自分のもの。
 詩織なんかより、あの地味な姉なんかよりも自分を選ぶ。
 月読家当主の妻になれる。今よりもっと、欲しいものは何でも手に入れられる――!

「そうよ、皓様。私を見て」

 撫子は背伸びをして、皓の顔に自分の顔を近づけた。

 あと少し。
 あと少しで、この美しい男を我が物にできる。

 しかし――

 その瞬間、皓の瞳の奥で何かが光った。
 月のような冷たい光。
 それは一瞬で、紫色の妖気を切り裂いていく。

「え……」

 撫子が驚愕の声を上げる間もなく、異変は起きた。

 舞っていた蝶たちが、次々と燃え始めたのだ。

「きゃあっ!? な、何!? なんなのよ!?」

 銀色の炎に包まれ、蝶たちが灰となって消えていく。
 甘い香りは、焦げ臭い匂いに変わった。

 でもそれ以上に恐ろしかったのは、皓の顔が徐々に無表情になっていくことだった。
 夢から覚めるように、その瞳に意識が戻ってくる。
 そして、そこに宿ったのは……

「なんとも――愚劣な女だな」

 氷のような、冷たい怒りだった。