それから私が案内されたのは、小さめの和室だった。

 といっても、如月家の居間より広い。
 庭に面していて、月明かりが美しく差し込んでいる。

「使用人は下がらせる。落ち着いて食事ができるだろう」
(え……ふ、二人だけで食事を……!?)

 それはむしろ、落ち着かないような気が……! そう言う前に、お膳を運んできた使用人の方たちは一礼して退室した。
 
 部屋には、私と皓様だけ。
 向かい合って座る。

(ど、どうしよう……何を話せばいいのかな……?)

 視線をさまよわせた末に、お膳の上を見る。私は息を呑んだ。
 白いご飯に、お味噌汁。
 焼き魚に、煮物、おひたし。
 そして――

「これは……」

 小さな器に入った、卯の花。
 おからを甘辛く炊いたもので、私の大好物だった。

「君の好みを調べさせた」
「えっ!? し、調べたって……」
「元々如月家には縁談の申し込みをしていただろう? その調べごとの過程で、君の情報も入ってきた」

 つまり、如月家は監視されていたということ……?
 少し怖い気もするが、今はそれより目の前の料理に心を奪われていた。
 温かい湯気。香ばしい匂い。

 どれも、家では絶対に私の口に入らないものばかり。
 私の食事はいつも少なかったし……。

「遠慮なく食べるといい」
「でも……」
「君は客人で、私の花嫁だ。もてなすのは当然だろう」

 皓様も箸を取る。
 それを見て、私も恐る恐る箸を手にした。

 まず、ご飯を一口。

「……!」

 炊きたての白いご飯が、口の中でほろりとほどける。
 甘い。お米ってこんなに甘かったんだ。

「おいしい……!」

 思わず呟いてしまった。

 焼き魚も、身がふっくらしている。
 小骨を丁寧に取りながら食べる。
 塩加減が絶妙で、大根おろしとの相性も完璧だ。

「そんなに急がなくても、料理は逃げない」

 皓様の声に、はっとする。
 いつの間にか、私は夢中で箸を動かしていた。
 まるで、取り上げられるのを恐れるように。

「す、すみません。みっともなくて……」
「構わない。美味しそうに食べる姿は、作った者も喜ぶ」

 皓様は優雅に箸を動かしながら、私を観察するように微笑んで見ている。

 卯の花を口に運ぶ。懐かしい味がした。
 まだ母が生きていた頃、よく作ってくれた味に似ている。

「どうした?」

 いつの間にか、箸が止まっていた。
 目に涙が滲んでいることに気づく。

「あ、いえ……美味しくて」

 慌てて涙を拭う。
 
 泣くなんて。
 ただの食事で泣くなんて、子供みたいだ。

「君は、普段まともな食事をしていないのか」
「い、いえ、そんなことは……! 一応三食食べてはいますよ!」

 家での食事当番は基本的にいつも私なので、その際に味見したりして食べてはいる。
 こんなふうにしっかりと食べることはそう多くないけど……。

「月読家にいる間は、好きなだけ食べるといい」
「す、好きなだけ……!? そんな、そんなことは……!」

 皓様は私の反応を見て、再び悪戯っぽく笑った。
 ……だらしない女だと思われただろうか。そう思いながらもお味噌汁を飲む。
 具は豆腐とわかめ。シンプルだけど、出汁がきいていて美味しい。
 体の芯から温まっていく。

「君は……今まで随分と苦労してきたようだな」
「え?」
「手を見ればわかる。家事に追われてきた手だ」

 思わず自分の手を見る。
 確かに、年齢の割には荒れている。
 爪も短く切りそろえられているだけで、撫子のようにきれいに手入れされていない。
 何より、剣道の訓練で握りを鍛えているためか、少しゴツゴツしているようだ。

「それに、食事の様子を見ても察しがつく。まるで、いつ取り上げられるかわからないものを食べているようだ」
「う……」

 図星を突かれて、俯く。たしかに、こういった食事はできるだけ早めに食べるようにしている。
 義母様や撫子の気まぐれで、食べ物を捨てられたり、無駄にされてしまいかねないから……。

「君のような、清らかな心と才能を持つ者が、粗末に扱われているのは看過できない」

 皓様は箸を置き、私を見つめた。
 その言葉に、胸が熱くなる。

 間違っている、と。
 今の私の状況を、間違っていると言ってくれる人がいる。
 ……でも。

「でも、私は……」
「如月家での立場は知っている。だが、それは君の価値を決めるものではない」

 皓様は静かに、でもはっきりと言い切った。

「君には力がある。そして、それ以上に美しい心がある。それを認めない者の方が愚かなのだ」

 褒められることに慣れていない私は、どう反応していいかわからない。

 ただ、顔が赤くなっていくのを感じる。
 俯いて、黙々と食事を続けるしかなかった。

 しばらく静かに食事をしていると、皓様が口を開いた。

「明日の茶会では私も一緒にいてもらうぞ。堂々としていればいい」
「でも、私なんかが……」
「君は月読家の客人だ。何人も、君を軽んじることは許さない。君自身もな」

 その声には、静かな迫力があった。
 月読家の跡取りとしての威厳。
 逆らうことを許さない、絶対的な力。

 でも同時に、私を守ろうとしてくれているのも感じていた。


 ……食事を終え、お茶が運ばれてきた。
 ほうじ茶の良い香りが部屋に広がる。
 満腹になったお腹を撫でながら、私は生きている実感を味わっていた。

「ご馳走様でした」

 心を込めて手を合わせる。

 こんなに美味しい食事をしたのは何年ぶりだろう。
 いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。

「まだ甘味があるぞ」

 ニヤリと笑った皓様の言葉と同時に、使用人が水羊羹を運んできた。

「い、いけません! こんなに食べたら……!」
「なに、遠慮は無用だ」
「し、しかし……!」
「水羊羹はうまいぞ。柔らかく滑らかで、甘く……」
「あああ……」


 ――差し出された水羊羹は、上品な甘さで、するりと喉を通っていく。
 幸せだった。ただ美味しいものを食べて、幸せだと感じる。
 こんな当たり前のことが、私にはとても貴重に思えた。

 ……と同時に、どこか餌付けされているような気もしていた……。



 一方その頃。
 如月家の居間に、重苦しい沈黙が落ちていた。
 先ほど現れた月読家の使者が告げた内容は、家族全員を凍りつかせるのに十分だった。

『詩織様は、月読家にてお預かりしております。明日の茶会まで、そちらでお過ごしいただくことになりました』

 使者は淡々とそう告げ、美津子の抗議も許さず帰っていった。

「どういうことなの、これは……」

 美津子が扇子で口元を隠しながら、震える声で呟いた。
 表面上は平静を装っているが、その手が微かに怒りに震えている。
 長年連れ添った宗一郎には、妻の動揺が手に取るようにわかった。

「どうして……どうしてお姉様が!?」

 撫子が金切り声を上げた。
 いつもの可愛らしい声ではない。
 苛立ちと焦りが入り混じった、醜い声。

「私じゃなくて、なんであんな地味で何の取り柄もない女が!」
「撫子、落ち着きなさい」

 美津子が娘をたしなめるが、その声にも焦りが滲んでいる。

 宗一郎は黙って二人の様子を見ていた。
 詩織が月読家に呼ばれた。それも、明日の茶会を前にして。
 これが何を意味するのか、想像はつく。

「お義母様、どうしましょう。このままじゃ……」
「分かってるわ」

 美津子は立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。
 考えをまとめようとしているのだろう。

「月読家が詩織を選ぶはずがないわ。きっと何かの間違いよ」
「でも、お姉様を泊めるなんて……」

 撫子の顔が青ざめている。
 先ほどの一件を思い出しているのだろう。
 怪物に襲われそうになった恐怖と、それを退けた詩織の姿。

(……死んだか大怪我はしたと思ったのに、生きていたわけ!? 私を助けて、生き延びた? ……はぁ!?)

 あの女が、ただ怪物に襲われて痛い目を見るだけならそれでよかった。
 自分を助けるなんて、つまらない正義感のせいで自滅したならそれでもよかった。

(けど、私を助けた上に生き残った? ……なんなの、それ? どこまで私を惨めにすれば気が済むのよ!!)

 撫子は淑女らしからぬ形相でぎりぎりと歯を噛み締めていた。
 
「ね……ねえ、お母様。あの札はもうないの? こうなったら何度でも……」
「黙りなさい」

 美津子の鋭い声に、撫子がびくりと肩を震わせた。

「……いいこと、撫子。明日の茶会で、必ずあなたが選ばれるわ。そのために準備してきたんだから」

 美津子は娘の肩に手を置いた。
 その目には異様な執念が宿っている。
 宗一郎は、妻のその表情に薄ら寒いものを感じた。

「宗一郎さん」
「あ……あぁ」

 美津子が夫を振り返る。

「あなたからも月読家に連絡をしてくださる? 詩織を返してもらうように」
「……それは、難しいだろう。月読家の意向に、我が家が口を挟める立場ではない」
「何を弱気なことを! 詩織はあなたの娘でしょう!」
「……そう、だな」

 宗一郎は複雑な表情を浮かべた。

 詩織。
 前妻・椿との間に生まれた娘。
 椿の死と引き換えに生まれてきた子。

 正直、どう接していいかわからない存在だった。
 だから、美津子や撫子が詩織をいびっているのも知っていながら無視していた。ただ、接し方がわからなかったから、妻と娘には好きにやらせていた……。

「お父様!」

 撫子が父にすがりつく。

「私、どうしても月読様に選ばれたいの! お姉様なんかじゃなくて、私が選ばれなきゃ!」
「撫子……」
「お願い、何とかして!」

 娘の必死の訴えに、宗一郎は困ったような顔をした。

 可愛い撫子。
 美津子との間に生まれた、素直で明るい娘。
 詩織とは違って、愛情を注ぐのに何の躊躇もない子。

 しかし――

「月読家の決定は、覆せないよ」

 宗一郎の言葉に、撫子の顔が歪んだ。
 その時、美津子がそっと立ち上がる。

「ちょっと、席を外しますわ」

 そう言って部屋を出ていく美津子。
 しかし彼女が向かったのは、自室だった。

 鍵をかけ、箪笥の奥から古い巻物を取り出す。
 震える手でそれを広げると、そこには複雑な術式が描かれていた。
 その中には、いくつか花札らしい絵の意匠もある。

「まだ……まだ終わってないわ」

 美津子は懐から小さな札を取り出した。
 昨日撫子に渡したものとは違う、より禍々しい気配を放つ札。

 『松に赤短』。
 黒い松の木の前に、赤い札が描かれた花札だ。

「詩織……桜花の娘。あなたさえいなければ、全て上手くいくのよ」

 美津子は素早く呪文を唱え始めた。
 同時に、袖から小さな通信機を取り出す。近年海外から輸入され始めた、声を伝える特別な品だ。

「もしもし……ええ、私よ。計画を早める必要があるわ」

 電話の向こうの相手に、何やら状況を説明する美津子。
 尋常な相手ではないことは明らかだった。

「明日の茶会で、必ず仕留める。準備はできてる?」
『準備は可能です。しかし、月読家の前で決行するおつもりですか?』
「他に機はないわ。月読の屋敷に囲われれば手出しはさらに難しくなる。あの子は必ず会場に現れる。そこが狙い目よ」

 美津子の目が、狂気じみた光を宿した。

「桜花の血筋は、ここで断つ。如月家――いえ、影沼家の未来のために」

 通話を終えた美津子は、急いで札と巻物を仕舞い込んだ。

 そして、何事もなかったような顔で居間に戻っていく。
 宗一郎も撫子も、彼女が裏で何をしていたか知る由もなかった。

「お母様、おかえりなさい。あの、私……」
「撫子、心配しないで。明日は必ず、あなたが選ばれるわ」

 美津子は娘を抱きしめた。

 その腕の中で、撫子は安心したように微笑む。
 母の言葉を、まだ純粋に信じている。

 窓の外では、月が雲に隠れていた。
 まるで、明日の凶事を暗示するかのように――。