皓様の胸で泣き続けて、どれくらい時間が経ったのだろう。
 ようやく涙が枯れて、私は顔を上げた。

「すみ、ませんっ……みっともなくて」

 皓様の着物を涙で濡らしてしまっている。
 そのことが恥ずかしくて、また俯きそうになった。

「みっともなくなどないさ」

 皓様が私の頬に残る涙を、親指でそっと拭ってくれる。

「君は本当によく戦った。一人で結界を破り、私が来るまで耐え抜いた。誇らしく思う」
「皓様……」

 その優しい言葉に、胸が温かくなる。
 今度は感謝の涙が込み上げてきそうになった。

「もう一人じゃない。君には私がいる。……十二家の連中も、いる」

 皓様がそっと私の手を握る。
 その温もりが、疲れ切った心に染み込んでいく。

「はい……」

 私は小さく頷いた。
 まだ美津子様の……。身近な人の死というショックは残っているけれど。
 それでも、皓様がいてくれるなら大丈夫だと思える。

 その時、奥殿の入り口から慌ただしい足音が聞こえてきた。

「皓! 詩織ちゃん! 無事か!」

 一番最初に飛び込んできたのは、飛燕様だった。
 その後に続いて、紅葉様、そして他の当主の方々が次々と現れる。

「遅くなってすまない! 結界が破れた瞬間、急いで駆けつけたんだが……つーか皓、速すぎだろ」
「当然だ。私の花嫁の危機なのだからな」

 軽口を交わしながら、飛燕様が奥殿の惨状を見回す。
 崩れた壁、血痕、そして……床に横たわる美津子様の亡骸。

「これは……相当な激戦だったようだな」

 深見様が冷静に状況を分析している。
 その視線が、私と皓様の方に向けられた。

「詩織さん、お怪我はありませんか?」

 梅宮様が心配そうに私に近づいてくる。
 私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「は、はい。ありがとうございます。大きな怪我はありません」

 着物はボロボロに破れ、あちこちに擦り傷はあるけれど、命に別状はない。
 何より、皓様が助けに来てくれたおかげで最悪の事態は免れた。

「しかし、まさか一人で結界を破るとは……」

 紅葉様が感嘆の息を漏らす。

「十二家の皆があなたの居場所を感知できなくなる結界……相当強固だったはずですわ。
 それを内側から崩すなんて、並大抵の力ではできないはずです」
「詩織が戦いながら、少しずつ結界の要となる部分を狙っていたそうだ」

 皓様が説明してくれる。

「最後は意図的に結界の核心を破壊し、我々に居場所を知らせてくれた」
「すげえじゃねえか、詩織ちゃん!」
「ひゃっ……!」

 飛燕様が私の肩を叩く。
 その顔には、純粋な称賛の表情があった。ちょっと痛いけど……。

「ニヶ月前まではただの女学生だったというのに、ここまで成長するとはな」

 秋良様も嬉しそうに微笑んでいる。

「これぞ正真正銘、桜花家の血を引く者の力……というわけでしょうか」
「それに加えて、月読家による支援も無視できますまい」
「さすがね、詩織さん」

 紅葉様が私を見つめる。
 以前の敵意は完全に消え、今は仲間を見る目をしていた。

(み、皆さんが……すごく褒めてくださってる……)

 私が認められることなんて、今までほとんどなかった。
 こんなにも多くの人に褒められて、胸がいっぱいになる。

「あ、あの……ありがとうございます」

 顔が赤くなってしまう。
 嬉しくて、でも照れくさくて、どうしていいかわからない。

「……ところで」

 浦原海斗様が口を開いた。
 その表情は他の人たちと違って、少し深刻だった。

「気になることがあるのですが……柳田家当主は、どこに行きました?」
「柳田だと?」

 皓様が眉をひそめる。それからあたりを見回される……たしかに、彼の姿だけがない。

「……この緊急時にどこに行った?」
「結界が破れた時、他の皆様は慌てて駆けつけたのに、柳田様だけは動こうとしませんでした。何かおかしいとは思ったのですが」

 海斗様の声に困惑が混じり、九條様が渋い顔をする。

「確かに、あの男の行動は時折理解しがたいものがある……しかし、確証があるわけではないのだろう?」
「柳田は昔から変わり者だ。それだけでは……」
「いずれにせよ、注意は必要でしょうな」

 深見様が冷静に意見を述べる。

「今回の件で、我々の中に内通者がいる可能性が高まった。警戒を怠ってはならない」

 重い空気が流れる。
 十二家の中に裏切り者がいるかもしれない、という事実は深刻だった。

(……なにか、変だわ)

 十二家の中に裏切り者がいる。
 そして柳田様は、不自然に落ち着き、この場にも現れていない。

(柳田様はすごく、怪しい。……なのに、どうして皆あまり気にしていないのかしら……?)

 そう。不自然なのはそこなのだ。
 なぜか皆、柳田様がどこか怪しいことはわかっているのに、それ以上の追求を避けているような……?

(……十二家にも、色々あるのかな。それとも、私が気にしすぎているだけ……?)

 私は頭を切り替える。今は、皆様が真剣に私の安全を心配してくれていることが嬉しかった。
 ニヶ月前には想像もできなかった光景。
 こんなにも多くの人が、私のことを仲間として受け入れてくれている。

「まあ、その件は後で詳しく調べるとして」

 飛燕様が手を叩いて、雰囲気を変えた。

「今は詩織ちゃんの無事を祝おう。本当によく頑張った!」

 皆様から向けられる温かい視線。

 ……その時、床に倒れていた撫子が小さく呻き声を上げた。

「う……ん……」

 薄っすらと目を開け、周囲をぼんやりと見回す。
 最初は状況が理解できないようだったが、美津子様の亡骸を見つけた瞬間、撫子の顔が青ざめた。

「お母様……お母様ッ!」

 撫子が這うようにして美津子様に駆け寄る。
 その手で美津子様の頬に触れ、冷たくなった肌の感触に絶望の表情を浮かべた。

「嘘……嘘よ……お母様、目を開けて……お願い……」

 撫子の声が震える。
 しかし、美津子様が応えることは二度とない。

「あああああ……お母様ああ……」

 撫子が泣き崩れる。
 その姿は、母を失った一人の少女でしかなかった。

「如月撫子」

 九條帝様が重々しい声で撫子の名前を呼んだ。
 撫子がびくりと肩を震わせて振り返る。

「お前は呪詛花札を用いて人を害そうとした。さらに、影沼家に協力してこの十二家の聖地を襲撃した」
「なっ……なんの話? 知らないわ、そんなこと……!」

 口元を歪ませ、しらを切ろうとする撫子。
 しかし帝様の声は厳格で、容赦がない。

「言い逃れはできぬ。その罪は決して軽くない。相応の処罰が必要だろう」
「なに言ってるのよ! 私は……私は……」

 撫子が震え声で弁解しようとするが、言葉が続かない。
 実際に呪詛花札を使ったのは事実だからだ。

「しかし、彼女はまだ若い」

 千代様が口を開いた。

「襲撃者の母親に唆されていた可能性もある。死刑にするほどの罪ではないでしょう」
「それでも、何らかの処分は必要です」

 深見様が冷静に意見を述べる。

「呪詛花札の使用は帝都を混乱させ、十二家の掟に背く重罪です」
「ふむ……隔離して監視下に置くべきか」
「二度と花札に触れられないよう、封印術を施すのも一つの手だ」

 十二家の当主たちが、撫子の処遇について議論を始める。
 撫子は恐怖に震えながら、その様子を見つめていた。

(撫子……)

 私は……複雑な気持ちだった。
 撫子は確かに私を害そうとした。許しがたい行為だ。
 でも同時に、美津子様に利用され続けた被害者でもある。

「あの……」

 私は勇気を振り絞って口を開いた。

「撫子への処罰ですが、できれば寛大な処置をお願いできないでしょうか」

 一瞬、その場が静まり返る。
 当主の皆様が、驚いたような顔で私を見つめた。

「詩織ちゃん……君が撫子を庇うのか?」

 飛燕様が困惑したような声で尋ねる。

「彼女は君を殺そうとしたんだぞ」
「はい、それは……分かっています」

 私は頷いた。

「でも、撫子は美津子様に洗脳されていたようなものです。一人で全ての罪を背負わせるのは……」
「甘い」

 帝様が厳しい声で私を遮った。

「情けは時として仇となる。この娘を野放しにすれば、再び貴女を狙うかもしれんぞ」
「それでも……」

 私は撫子を見つめた。
 撫子も私を見ているが、その瞳には感謝の色はない。
 むしろ、なぜ庇うのかという困惑と、微かな反感すら見えた。

「撫子は、まだ十六歳です。これから変わることもできるはず」
「お姉様……」

 撫子が私の名前を呼んだ。
 でも、その声に込められていたのは……。

「どうして……」

 撫子の瞳に、涙が浮かんでいる。
 しかし、それは感謝の涙ではなかった。

「――どうして、そんなに偽善者ぶるの?」

 撫子の声が、だんだん鋭くなっていく。

「え……っ」
「あなたのせいで……あなたのせいで、お母様が死んだのに……!」
「撫子……」
「優しいフリなんてしないで! 私を憐れんで見下してるだけでしょう! お姉様のくせに!!」

 撫子が立ち上がり、私を睨みつけた。

「そうやって自分に酔ってるのね! 可哀想な妹を許す、優しいお姉様って? 気持ち悪い!」

 その言葉が、胸に突き刺さる。
 でも、私は撫子を責める気になれなかった。
 母を失った悲しみと怒りを、誰かにぶつけたいのだろう。

「詩織、もういい」

 皓様が私の肩に手を置いた。

「君の気持ちは理解できるが、相手がその気持ちを受け入れる状態ではない」

 確かに、その通りかもしれない。
 撫子はまだ、誰かを恨まずにはいられない状態だった。



――それから二日後。

 私は月読家の自室で、窓辺に置かれた鏡台の前に座っていた。
 手には皓様からいただいた黒柿の櫛を持ち、ゆっくりと髪を梳いている。

 美しい木目が光に映えて、手に馴染む感触が心地よい。
 この櫛を使うたび、あの浅草でのデートを思い出す。

「詩織、傷の具合はどうだ?」

 部屋に入ってきた皓様が私を見つめる。
 手には薬箱を持っていて、どうやら傷の手当てをしてくれるつもりらしい。

「もう大丈夫です。痛みもほとんどありません」
「そうは言うが、きちんと見せてみろ」

 皓様は私の隣に膝をつき、そっと袖をまくり上げて傷を確認する。
 その手つきがあまりにも慈愛に満ちていて、胸が温かくなった。

「まだ少し赤いな。もう少し薬を続けよう」
「ありがとうございます……」

 丁寧に軟膏を塗ってくれる皓様の横顔を見つめていると、ふと気づく。
 髪が少し乱れているのが気になった。

「皓様、髪が……」

 私は櫛を持ったまま、そっと皓様の銀髪に触れる。
 絹のように滑らかで美しい髪だった。

「ああ、朝の稽古で乱れたままだったか」
「よろしければ、私が梳いてもいいですか?」

 恥ずかしながらも提案してみる。
 皓様は少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく微笑んだ。

「それは嬉しい申し出だ」

 皓様が私の正面に座り直す。
 私は緊張しながら、黒柿の櫛で皓様の髪を梳き始めた。

「き、緊張します……」
「なぜ?」
「だって、皓様の髪って、とても綺麗で……私なんかが触って大丈夫なのかと」

 皓様の髪は本当に美しい。
 月光を纏ったような銀色が、櫛を通すたびに輝いて見える。

「逆だ。私の髪を触って良いのは、君だけだ」

 皓様の言葉に、心臓が跳ねる。

「そんな……」
「結婚すれば、いずれは毎朝触れることになるかもしれん。慣れておいてくれ」

 さらりと言われて、顔が真っ赤になる。
 結婚……毎朝……そんな日常を想像すると、胸がどきどきして仕方ない。

「そ、その……結婚の話は、まだ……」
「まだ早いか?」

 皓様が振り返って私を見つめる。
 その瞳に宿る真剣な光に、言葉を失った。

「いえ、早いとかではなくて……ただ、実感が……」
「そうか。では、もっと実感できるようにしてやろう」

 皓様がにやりと笑う。
 何か企んでいるような、悪戯っぽい表情だった。

「え、どういう……」
「今度、母の着物を見せてやろう。君に似合いそうなものがいくつかある」
「お、お母様の……?」

 それは、きっととても大切なものに違いない。
 月読家の前当主夫人の着物を見せてくれるなんて。

「それから、祖母の簪や帯留めも。君に継いでもらいたいものがある」
「そんな大切なものを、私なんかが……」
「君以外の誰が継ぐというのだ」

 皓様の声は穏やかだが、確信に満ちていた。

「君は私の妻になる人だ。月読家の宝を受け継ぐのは当然のことだろう」

 その言葉に、改めて自分の立場の重さを感じる。
 月読家の当主夫人……そんな大役を、本当に私が務められるのだろうか。

「不安か?」

 皓様が私の表情を読み取ったのか、優しく尋ねる。

「少し……でも、皓様がいてくださるなら、きっと大丈夫です」
「ああ。私が君を支える。何も心配はいらない」

 皓様がそっと私の手に触れる。
 その温もりが、不安な気持ちを和らげてくれた。

「それより、君の方は大丈夫か? この数日の騒動だ。疲れは残っていないか?」
「いえ。皆様がとても親切にしてくださるので」
「そうか。夜はちゃんと眠れているか?」

 皓様の心配そうな声に、胸が温かくなる。この方はいつも、私を気にかけてくださる。

「はい、おかげさまで。それに……」

 私は……少し恥ずかしいけれど、微笑む。

「皓様がいてくださるだけで、安心して眠れますから」

 皓様の手が、一瞬止まった。
 私を見つめる瞳に、今まで見たことのない深い感情が宿る。

「詩織……」

 皓様の声が、いつもより低く、掠れていた。

「君は、まったく。……なんて愛らしいことを言うんだ」

 皓様が私の頬にそっと手を添える。
 その指先が少し震えているのが分かった。

「君がそんな顔で、そんなことを言うから……」
「こ、皓様……?」

 皓様が私の顔に近づいてくる。
 あまりにも近くて、皓様の息遣いが頬にかかる。

「愛しくて……たまらなくなる」

 その言葉に、心臓が激しく鼓動する。
 皓様の紫色の瞳が、とても熱い光を宿していた。

「あ、あの……っ、皓、様……」

 言いかけた時、皓様の顔がさらに近づく。
 もう少しで唇が触れそうな距離。

 私はぎゅっと目を閉じて――

「皓様、失礼いたします」

 突然、襖が開く音がした。

 皓様と私は慌てて離れる。
 使用人頭の方が、恭しく頭を下げながら入ってきていた。

「あ……」

 私の顔が真っ赤だ。
 危ないところだった。もう少しで……。

「ど、どうかなさいましたか?」

 動揺を隠しながら尋ねると、使用人の方は何事もなかったように答える。

「十二家評議会からの正式通達が届いております」

 その手には、立派な封筒が握られていた。

 皓様と私は顔を見合わせた。
 十二家からの正式通達……それは、私の処遇に関する最終的な決定だろうか。

「分かった。こちらに」

 皓様が封筒を受け取る。
 封蝋には十二家の紋章が刻まれ、格式の高さを物語っていた。

 私の心臓が早鐘を打ち始める。
 さっきまでの甘い雰囲気から一転して、緊張が部屋を支配した。

 この中に書かれているのは、私の未来を左右する重要な内容に違いない。

 皓様がゆっくりと封を切り、中の文書を取り出した……。


あとがき:何を送ってきたのやら……!?