皓様の胸で泣き続けて、どれくらい時間が経ったのだろう。
ようやく涙が枯れて、私は顔を上げた。
「すみ、ませんっ……みっともなくて」
皓様の着物を涙で濡らしてしまっている。
そのことが恥ずかしくて、また俯きそうになった。
「みっともなくなどないさ」
皓様が私の頬に残る涙を、親指でそっと拭ってくれる。
「君は本当によく戦った。一人で結界を破り、私が来るまで耐え抜いた。誇らしく思う」
「皓様……」
その優しい言葉に、胸が温かくなる。
今度は感謝の涙が込み上げてきそうになった。
「もう一人じゃない。君には私がいる。……十二家の連中も、いる」
皓様がそっと私の手を握る。
その温もりが、疲れ切った心に染み込んでいく。
「はい……」
私は小さく頷いた。
まだ美津子様の……。身近な人の死というショックは残っているけれど。
それでも、皓様がいてくれるなら大丈夫だと思える。
その時、奥殿の入り口から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「皓! 詩織ちゃん! 無事か!」
一番最初に飛び込んできたのは、飛燕様だった。
その後に続いて、紅葉様、そして他の当主の方々が次々と現れる。
「遅くなってすまない! 結界が破れた瞬間、急いで駆けつけたんだが……つーか皓、速すぎだろ」
「当然だ。私の花嫁の危機なのだからな」
軽口を交わしながら、飛燕様が奥殿の惨状を見回す。
崩れた壁、血痕、そして……床に横たわる美津子様の亡骸。
「これは……相当な激戦だったようだな」
深見様が冷静に状況を分析している。
その視線が、私と皓様の方に向けられた。
「詩織さん、お怪我はありませんか?」
梅宮様が心配そうに私に近づいてくる。
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「は、はい。ありがとうございます。大きな怪我はありません」
着物はボロボロに破れ、あちこちに擦り傷はあるけれど、命に別状はない。
何より、皓様が助けに来てくれたおかげで最悪の事態は免れた。
「しかし、まさか一人で結界を破るとは……」
紅葉様が感嘆の息を漏らす。
「十二家の皆があなたの居場所を感知できなくなる結界……相当強固だったはずですわ。
それを内側から崩すなんて、並大抵の力ではできないはずです」
「詩織が戦いながら、少しずつ結界の要となる部分を狙っていたそうだ」
皓様が説明してくれる。
「最後は意図的に結界の核心を破壊し、我々に居場所を知らせてくれた」
「すげえじゃねえか、詩織ちゃん!」
「ひゃっ……!」
飛燕様が私の肩を叩く。
その顔には、純粋な称賛の表情があった。ちょっと痛いけど……。
「ニヶ月前まではただの女学生だったというのに、ここまで成長するとはな」
秋良様も嬉しそうに微笑んでいる。
「これぞ正真正銘、桜花家の血を引く者の力……というわけでしょうか」
「それに加えて、月読家による支援も無視できますまい」
「さすがね、詩織さん」
紅葉様が私を見つめる。
以前の敵意は完全に消え、今は仲間を見る目をしていた。
(み、皆さんが……すごく褒めてくださってる……)
私が認められることなんて、今までほとんどなかった。
こんなにも多くの人に褒められて、胸がいっぱいになる。
「あ、あの……ありがとうございます」
顔が赤くなってしまう。
嬉しくて、でも照れくさくて、どうしていいかわからない。
「……ところで」
浦原海斗様が口を開いた。
その表情は他の人たちと違って、少し深刻だった。
「気になることがあるのですが……柳田家当主は、どこに行きました?」
「柳田だと?」
皓様が眉をひそめる。それからあたりを見回される……たしかに、彼の姿だけがない。
「……この緊急時にどこに行った?」
「結界が破れた時、他の皆様は慌てて駆けつけたのに、柳田様だけは動こうとしませんでした。何かおかしいとは思ったのですが」
海斗様の声に困惑が混じり、九條様が渋い顔をする。
「確かに、あの男の行動は時折理解しがたいものがある……しかし、確証があるわけではないのだろう?」
「柳田は昔から変わり者だ。それだけでは……」
「いずれにせよ、注意は必要でしょうな」
深見様が冷静に意見を述べる。
「今回の件で、我々の中に内通者がいる可能性が高まった。警戒を怠ってはならない」
重い空気が流れる。
十二家の中に裏切り者がいるかもしれない、という事実は深刻だった。
(……なにか、変だわ)
十二家の中に裏切り者がいる。
そして柳田様は、不自然に落ち着き、この場にも現れていない。
(柳田様はすごく、怪しい。……なのに、どうして皆あまり気にしていないのかしら……?)
そう。不自然なのはそこなのだ。
なぜか皆、柳田様がどこか怪しいことはわかっているのに、それ以上の追求を避けているような……?
(……十二家にも、色々あるのかな。それとも、私が気にしすぎているだけ……?)
私は頭を切り替える。今は、皆様が真剣に私の安全を心配してくれていることが嬉しかった。
ニヶ月前には想像もできなかった光景。
こんなにも多くの人が、私のことを仲間として受け入れてくれている。
「まあ、その件は後で詳しく調べるとして」
飛燕様が手を叩いて、雰囲気を変えた。
「今は詩織ちゃんの無事を祝おう。本当によく頑張った!」
皆様から向けられる温かい視線。
……その時、床に倒れていた撫子が小さく呻き声を上げた。
「う……ん……」
薄っすらと目を開け、周囲をぼんやりと見回す。
最初は状況が理解できないようだったが、美津子様の亡骸を見つけた瞬間、撫子の顔が青ざめた。
「お母様……お母様ッ!」
撫子が這うようにして美津子様に駆け寄る。
その手で美津子様の頬に触れ、冷たくなった肌の感触に絶望の表情を浮かべた。
「嘘……嘘よ……お母様、目を開けて……お願い……」
撫子の声が震える。
しかし、美津子様が応えることは二度とない。
「あああああ……お母様ああ……」
撫子が泣き崩れる。
その姿は、母を失った一人の少女でしかなかった。
「如月撫子」
九條帝様が重々しい声で撫子の名前を呼んだ。
撫子がびくりと肩を震わせて振り返る。
「お前は呪詛花札を用いて人を害そうとした。さらに、影沼家に協力してこの十二家の聖地を襲撃した」
「なっ……なんの話? 知らないわ、そんなこと……!」
口元を歪ませ、しらを切ろうとする撫子。
しかし帝様の声は厳格で、容赦がない。
「言い逃れはできぬ。その罪は決して軽くない。相応の処罰が必要だろう」
「なに言ってるのよ! 私は……私は……」
撫子が震え声で弁解しようとするが、言葉が続かない。
実際に呪詛花札を使ったのは事実だからだ。
「しかし、彼女はまだ若い」
千代様が口を開いた。
「襲撃者の母親に唆されていた可能性もある。死刑にするほどの罪ではないでしょう」
「それでも、何らかの処分は必要です」
深見様が冷静に意見を述べる。
「呪詛花札の使用は帝都を混乱させ、十二家の掟に背く重罪です」
「ふむ……隔離して監視下に置くべきか」
「二度と花札に触れられないよう、封印術を施すのも一つの手だ」
十二家の当主たちが、撫子の処遇について議論を始める。
撫子は恐怖に震えながら、その様子を見つめていた。
(撫子……)
私は……複雑な気持ちだった。
撫子は確かに私を害そうとした。許しがたい行為だ。
でも同時に、美津子様に利用され続けた被害者でもある。
「あの……」
私は勇気を振り絞って口を開いた。
「撫子への処罰ですが、できれば寛大な処置をお願いできないでしょうか」
一瞬、その場が静まり返る。
当主の皆様が、驚いたような顔で私を見つめた。
「詩織ちゃん……君が撫子を庇うのか?」
飛燕様が困惑したような声で尋ねる。
「彼女は君を殺そうとしたんだぞ」
「はい、それは……分かっています」
私は頷いた。
「でも、撫子は美津子様に洗脳されていたようなものです。一人で全ての罪を背負わせるのは……」
「甘い」
帝様が厳しい声で私を遮った。
「情けは時として仇となる。この娘を野放しにすれば、再び貴女を狙うかもしれんぞ」
「それでも……」
私は撫子を見つめた。
撫子も私を見ているが、その瞳には感謝の色はない。
むしろ、なぜ庇うのかという困惑と、微かな反感すら見えた。
「撫子は、まだ十六歳です。これから変わることもできるはず」
「お姉様……」
撫子が私の名前を呼んだ。
でも、その声に込められていたのは……。
「どうして……」
撫子の瞳に、涙が浮かんでいる。
しかし、それは感謝の涙ではなかった。
「――どうして、そんなに偽善者ぶるの?」
撫子の声が、だんだん鋭くなっていく。
「え……っ」
「あなたのせいで……あなたのせいで、お母様が死んだのに……!」
「撫子……」
「優しいフリなんてしないで! 私を憐れんで見下してるだけでしょう! お姉様のくせに!!」
撫子が立ち上がり、私を睨みつけた。
「そうやって自分に酔ってるのね! 可哀想な妹を許す、優しいお姉様って? 気持ち悪い!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
でも、私は撫子を責める気になれなかった。
母を失った悲しみと怒りを、誰かにぶつけたいのだろう。
「詩織、もういい」
皓様が私の肩に手を置いた。
「君の気持ちは理解できるが、相手がその気持ちを受け入れる状態ではない」
確かに、その通りかもしれない。
撫子はまだ、誰かを恨まずにはいられない状態だった。
■
――それから二日後。
私は月読家の自室で、窓辺に置かれた鏡台の前に座っていた。
手には皓様からいただいた黒柿の櫛を持ち、ゆっくりと髪を梳いている。
美しい木目が光に映えて、手に馴染む感触が心地よい。
この櫛を使うたび、あの浅草でのデートを思い出す。
「詩織、傷の具合はどうだ?」
部屋に入ってきた皓様が私を見つめる。
手には薬箱を持っていて、どうやら傷の手当てをしてくれるつもりらしい。
「もう大丈夫です。痛みもほとんどありません」
「そうは言うが、きちんと見せてみろ」
皓様は私の隣に膝をつき、そっと袖をまくり上げて傷を確認する。
その手つきがあまりにも慈愛に満ちていて、胸が温かくなった。
「まだ少し赤いな。もう少し薬を続けよう」
「ありがとうございます……」
丁寧に軟膏を塗ってくれる皓様の横顔を見つめていると、ふと気づく。
髪が少し乱れているのが気になった。
「皓様、髪が……」
私は櫛を持ったまま、そっと皓様の銀髪に触れる。
絹のように滑らかで美しい髪だった。
「ああ、朝の稽古で乱れたままだったか」
「よろしければ、私が梳いてもいいですか?」
恥ずかしながらも提案してみる。
皓様は少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく微笑んだ。
「それは嬉しい申し出だ」
皓様が私の正面に座り直す。
私は緊張しながら、黒柿の櫛で皓様の髪を梳き始めた。
「き、緊張します……」
「なぜ?」
「だって、皓様の髪って、とても綺麗で……私なんかが触って大丈夫なのかと」
皓様の髪は本当に美しい。
月光を纏ったような銀色が、櫛を通すたびに輝いて見える。
「逆だ。私の髪を触って良いのは、君だけだ」
皓様の言葉に、心臓が跳ねる。
「そんな……」
「結婚すれば、いずれは毎朝触れることになるかもしれん。慣れておいてくれ」
さらりと言われて、顔が真っ赤になる。
結婚……毎朝……そんな日常を想像すると、胸がどきどきして仕方ない。
「そ、その……結婚の話は、まだ……」
「まだ早いか?」
皓様が振り返って私を見つめる。
その瞳に宿る真剣な光に、言葉を失った。
「いえ、早いとかではなくて……ただ、実感が……」
「そうか。では、もっと実感できるようにしてやろう」
皓様がにやりと笑う。
何か企んでいるような、悪戯っぽい表情だった。
「え、どういう……」
「今度、母の着物を見せてやろう。君に似合いそうなものがいくつかある」
「お、お母様の……?」
それは、きっととても大切なものに違いない。
月読家の前当主夫人の着物を見せてくれるなんて。
「それから、祖母の簪や帯留めも。君に継いでもらいたいものがある」
「そんな大切なものを、私なんかが……」
「君以外の誰が継ぐというのだ」
皓様の声は穏やかだが、確信に満ちていた。
「君は私の妻になる人だ。月読家の宝を受け継ぐのは当然のことだろう」
その言葉に、改めて自分の立場の重さを感じる。
月読家の当主夫人……そんな大役を、本当に私が務められるのだろうか。
「不安か?」
皓様が私の表情を読み取ったのか、優しく尋ねる。
「少し……でも、皓様がいてくださるなら、きっと大丈夫です」
「ああ。私が君を支える。何も心配はいらない」
皓様がそっと私の手に触れる。
その温もりが、不安な気持ちを和らげてくれた。
「それより、君の方は大丈夫か? この数日の騒動だ。疲れは残っていないか?」
「いえ。皆様がとても親切にしてくださるので」
「そうか。夜はちゃんと眠れているか?」
皓様の心配そうな声に、胸が温かくなる。この方はいつも、私を気にかけてくださる。
「はい、おかげさまで。それに……」
私は……少し恥ずかしいけれど、微笑む。
「皓様がいてくださるだけで、安心して眠れますから」
皓様の手が、一瞬止まった。
私を見つめる瞳に、今まで見たことのない深い感情が宿る。
「詩織……」
皓様の声が、いつもより低く、掠れていた。
「君は、まったく。……なんて愛らしいことを言うんだ」
皓様が私の頬にそっと手を添える。
その指先が少し震えているのが分かった。
「君がそんな顔で、そんなことを言うから……」
「こ、皓様……?」
皓様が私の顔に近づいてくる。
あまりにも近くて、皓様の息遣いが頬にかかる。
「愛しくて……たまらなくなる」
その言葉に、心臓が激しく鼓動する。
皓様の紫色の瞳が、とても熱い光を宿していた。
「あ、あの……っ、皓、様……」
言いかけた時、皓様の顔がさらに近づく。
もう少しで唇が触れそうな距離。
私はぎゅっと目を閉じて――
「皓様、失礼いたします」
突然、襖が開く音がした。
皓様と私は慌てて離れる。
使用人頭の方が、恭しく頭を下げながら入ってきていた。
「あ……」
私の顔が真っ赤だ。
危ないところだった。もう少しで……。
「ど、どうかなさいましたか?」
動揺を隠しながら尋ねると、使用人の方は何事もなかったように答える。
「十二家評議会からの正式通達が届いております」
その手には、立派な封筒が握られていた。
皓様と私は顔を見合わせた。
十二家からの正式通達……それは、私の処遇に関する最終的な決定だろうか。
「分かった。こちらに」
皓様が封筒を受け取る。
封蝋には十二家の紋章が刻まれ、格式の高さを物語っていた。
私の心臓が早鐘を打ち始める。
さっきまでの甘い雰囲気から一転して、緊張が部屋を支配した。
この中に書かれているのは、私の未来を左右する重要な内容に違いない。
皓様がゆっくりと封を切り、中の文書を取り出した……。
あとがき:何を送ってきたのやら……!?
ようやく涙が枯れて、私は顔を上げた。
「すみ、ませんっ……みっともなくて」
皓様の着物を涙で濡らしてしまっている。
そのことが恥ずかしくて、また俯きそうになった。
「みっともなくなどないさ」
皓様が私の頬に残る涙を、親指でそっと拭ってくれる。
「君は本当によく戦った。一人で結界を破り、私が来るまで耐え抜いた。誇らしく思う」
「皓様……」
その優しい言葉に、胸が温かくなる。
今度は感謝の涙が込み上げてきそうになった。
「もう一人じゃない。君には私がいる。……十二家の連中も、いる」
皓様がそっと私の手を握る。
その温もりが、疲れ切った心に染み込んでいく。
「はい……」
私は小さく頷いた。
まだ美津子様の……。身近な人の死というショックは残っているけれど。
それでも、皓様がいてくれるなら大丈夫だと思える。
その時、奥殿の入り口から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「皓! 詩織ちゃん! 無事か!」
一番最初に飛び込んできたのは、飛燕様だった。
その後に続いて、紅葉様、そして他の当主の方々が次々と現れる。
「遅くなってすまない! 結界が破れた瞬間、急いで駆けつけたんだが……つーか皓、速すぎだろ」
「当然だ。私の花嫁の危機なのだからな」
軽口を交わしながら、飛燕様が奥殿の惨状を見回す。
崩れた壁、血痕、そして……床に横たわる美津子様の亡骸。
「これは……相当な激戦だったようだな」
深見様が冷静に状況を分析している。
その視線が、私と皓様の方に向けられた。
「詩織さん、お怪我はありませんか?」
梅宮様が心配そうに私に近づいてくる。
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「は、はい。ありがとうございます。大きな怪我はありません」
着物はボロボロに破れ、あちこちに擦り傷はあるけれど、命に別状はない。
何より、皓様が助けに来てくれたおかげで最悪の事態は免れた。
「しかし、まさか一人で結界を破るとは……」
紅葉様が感嘆の息を漏らす。
「十二家の皆があなたの居場所を感知できなくなる結界……相当強固だったはずですわ。
それを内側から崩すなんて、並大抵の力ではできないはずです」
「詩織が戦いながら、少しずつ結界の要となる部分を狙っていたそうだ」
皓様が説明してくれる。
「最後は意図的に結界の核心を破壊し、我々に居場所を知らせてくれた」
「すげえじゃねえか、詩織ちゃん!」
「ひゃっ……!」
飛燕様が私の肩を叩く。
その顔には、純粋な称賛の表情があった。ちょっと痛いけど……。
「ニヶ月前まではただの女学生だったというのに、ここまで成長するとはな」
秋良様も嬉しそうに微笑んでいる。
「これぞ正真正銘、桜花家の血を引く者の力……というわけでしょうか」
「それに加えて、月読家による支援も無視できますまい」
「さすがね、詩織さん」
紅葉様が私を見つめる。
以前の敵意は完全に消え、今は仲間を見る目をしていた。
(み、皆さんが……すごく褒めてくださってる……)
私が認められることなんて、今までほとんどなかった。
こんなにも多くの人に褒められて、胸がいっぱいになる。
「あ、あの……ありがとうございます」
顔が赤くなってしまう。
嬉しくて、でも照れくさくて、どうしていいかわからない。
「……ところで」
浦原海斗様が口を開いた。
その表情は他の人たちと違って、少し深刻だった。
「気になることがあるのですが……柳田家当主は、どこに行きました?」
「柳田だと?」
皓様が眉をひそめる。それからあたりを見回される……たしかに、彼の姿だけがない。
「……この緊急時にどこに行った?」
「結界が破れた時、他の皆様は慌てて駆けつけたのに、柳田様だけは動こうとしませんでした。何かおかしいとは思ったのですが」
海斗様の声に困惑が混じり、九條様が渋い顔をする。
「確かに、あの男の行動は時折理解しがたいものがある……しかし、確証があるわけではないのだろう?」
「柳田は昔から変わり者だ。それだけでは……」
「いずれにせよ、注意は必要でしょうな」
深見様が冷静に意見を述べる。
「今回の件で、我々の中に内通者がいる可能性が高まった。警戒を怠ってはならない」
重い空気が流れる。
十二家の中に裏切り者がいるかもしれない、という事実は深刻だった。
(……なにか、変だわ)
十二家の中に裏切り者がいる。
そして柳田様は、不自然に落ち着き、この場にも現れていない。
(柳田様はすごく、怪しい。……なのに、どうして皆あまり気にしていないのかしら……?)
そう。不自然なのはそこなのだ。
なぜか皆、柳田様がどこか怪しいことはわかっているのに、それ以上の追求を避けているような……?
(……十二家にも、色々あるのかな。それとも、私が気にしすぎているだけ……?)
私は頭を切り替える。今は、皆様が真剣に私の安全を心配してくれていることが嬉しかった。
ニヶ月前には想像もできなかった光景。
こんなにも多くの人が、私のことを仲間として受け入れてくれている。
「まあ、その件は後で詳しく調べるとして」
飛燕様が手を叩いて、雰囲気を変えた。
「今は詩織ちゃんの無事を祝おう。本当によく頑張った!」
皆様から向けられる温かい視線。
……その時、床に倒れていた撫子が小さく呻き声を上げた。
「う……ん……」
薄っすらと目を開け、周囲をぼんやりと見回す。
最初は状況が理解できないようだったが、美津子様の亡骸を見つけた瞬間、撫子の顔が青ざめた。
「お母様……お母様ッ!」
撫子が這うようにして美津子様に駆け寄る。
その手で美津子様の頬に触れ、冷たくなった肌の感触に絶望の表情を浮かべた。
「嘘……嘘よ……お母様、目を開けて……お願い……」
撫子の声が震える。
しかし、美津子様が応えることは二度とない。
「あああああ……お母様ああ……」
撫子が泣き崩れる。
その姿は、母を失った一人の少女でしかなかった。
「如月撫子」
九條帝様が重々しい声で撫子の名前を呼んだ。
撫子がびくりと肩を震わせて振り返る。
「お前は呪詛花札を用いて人を害そうとした。さらに、影沼家に協力してこの十二家の聖地を襲撃した」
「なっ……なんの話? 知らないわ、そんなこと……!」
口元を歪ませ、しらを切ろうとする撫子。
しかし帝様の声は厳格で、容赦がない。
「言い逃れはできぬ。その罪は決して軽くない。相応の処罰が必要だろう」
「なに言ってるのよ! 私は……私は……」
撫子が震え声で弁解しようとするが、言葉が続かない。
実際に呪詛花札を使ったのは事実だからだ。
「しかし、彼女はまだ若い」
千代様が口を開いた。
「襲撃者の母親に唆されていた可能性もある。死刑にするほどの罪ではないでしょう」
「それでも、何らかの処分は必要です」
深見様が冷静に意見を述べる。
「呪詛花札の使用は帝都を混乱させ、十二家の掟に背く重罪です」
「ふむ……隔離して監視下に置くべきか」
「二度と花札に触れられないよう、封印術を施すのも一つの手だ」
十二家の当主たちが、撫子の処遇について議論を始める。
撫子は恐怖に震えながら、その様子を見つめていた。
(撫子……)
私は……複雑な気持ちだった。
撫子は確かに私を害そうとした。許しがたい行為だ。
でも同時に、美津子様に利用され続けた被害者でもある。
「あの……」
私は勇気を振り絞って口を開いた。
「撫子への処罰ですが、できれば寛大な処置をお願いできないでしょうか」
一瞬、その場が静まり返る。
当主の皆様が、驚いたような顔で私を見つめた。
「詩織ちゃん……君が撫子を庇うのか?」
飛燕様が困惑したような声で尋ねる。
「彼女は君を殺そうとしたんだぞ」
「はい、それは……分かっています」
私は頷いた。
「でも、撫子は美津子様に洗脳されていたようなものです。一人で全ての罪を背負わせるのは……」
「甘い」
帝様が厳しい声で私を遮った。
「情けは時として仇となる。この娘を野放しにすれば、再び貴女を狙うかもしれんぞ」
「それでも……」
私は撫子を見つめた。
撫子も私を見ているが、その瞳には感謝の色はない。
むしろ、なぜ庇うのかという困惑と、微かな反感すら見えた。
「撫子は、まだ十六歳です。これから変わることもできるはず」
「お姉様……」
撫子が私の名前を呼んだ。
でも、その声に込められていたのは……。
「どうして……」
撫子の瞳に、涙が浮かんでいる。
しかし、それは感謝の涙ではなかった。
「――どうして、そんなに偽善者ぶるの?」
撫子の声が、だんだん鋭くなっていく。
「え……っ」
「あなたのせいで……あなたのせいで、お母様が死んだのに……!」
「撫子……」
「優しいフリなんてしないで! 私を憐れんで見下してるだけでしょう! お姉様のくせに!!」
撫子が立ち上がり、私を睨みつけた。
「そうやって自分に酔ってるのね! 可哀想な妹を許す、優しいお姉様って? 気持ち悪い!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
でも、私は撫子を責める気になれなかった。
母を失った悲しみと怒りを、誰かにぶつけたいのだろう。
「詩織、もういい」
皓様が私の肩に手を置いた。
「君の気持ちは理解できるが、相手がその気持ちを受け入れる状態ではない」
確かに、その通りかもしれない。
撫子はまだ、誰かを恨まずにはいられない状態だった。
■
――それから二日後。
私は月読家の自室で、窓辺に置かれた鏡台の前に座っていた。
手には皓様からいただいた黒柿の櫛を持ち、ゆっくりと髪を梳いている。
美しい木目が光に映えて、手に馴染む感触が心地よい。
この櫛を使うたび、あの浅草でのデートを思い出す。
「詩織、傷の具合はどうだ?」
部屋に入ってきた皓様が私を見つめる。
手には薬箱を持っていて、どうやら傷の手当てをしてくれるつもりらしい。
「もう大丈夫です。痛みもほとんどありません」
「そうは言うが、きちんと見せてみろ」
皓様は私の隣に膝をつき、そっと袖をまくり上げて傷を確認する。
その手つきがあまりにも慈愛に満ちていて、胸が温かくなった。
「まだ少し赤いな。もう少し薬を続けよう」
「ありがとうございます……」
丁寧に軟膏を塗ってくれる皓様の横顔を見つめていると、ふと気づく。
髪が少し乱れているのが気になった。
「皓様、髪が……」
私は櫛を持ったまま、そっと皓様の銀髪に触れる。
絹のように滑らかで美しい髪だった。
「ああ、朝の稽古で乱れたままだったか」
「よろしければ、私が梳いてもいいですか?」
恥ずかしながらも提案してみる。
皓様は少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく微笑んだ。
「それは嬉しい申し出だ」
皓様が私の正面に座り直す。
私は緊張しながら、黒柿の櫛で皓様の髪を梳き始めた。
「き、緊張します……」
「なぜ?」
「だって、皓様の髪って、とても綺麗で……私なんかが触って大丈夫なのかと」
皓様の髪は本当に美しい。
月光を纏ったような銀色が、櫛を通すたびに輝いて見える。
「逆だ。私の髪を触って良いのは、君だけだ」
皓様の言葉に、心臓が跳ねる。
「そんな……」
「結婚すれば、いずれは毎朝触れることになるかもしれん。慣れておいてくれ」
さらりと言われて、顔が真っ赤になる。
結婚……毎朝……そんな日常を想像すると、胸がどきどきして仕方ない。
「そ、その……結婚の話は、まだ……」
「まだ早いか?」
皓様が振り返って私を見つめる。
その瞳に宿る真剣な光に、言葉を失った。
「いえ、早いとかではなくて……ただ、実感が……」
「そうか。では、もっと実感できるようにしてやろう」
皓様がにやりと笑う。
何か企んでいるような、悪戯っぽい表情だった。
「え、どういう……」
「今度、母の着物を見せてやろう。君に似合いそうなものがいくつかある」
「お、お母様の……?」
それは、きっととても大切なものに違いない。
月読家の前当主夫人の着物を見せてくれるなんて。
「それから、祖母の簪や帯留めも。君に継いでもらいたいものがある」
「そんな大切なものを、私なんかが……」
「君以外の誰が継ぐというのだ」
皓様の声は穏やかだが、確信に満ちていた。
「君は私の妻になる人だ。月読家の宝を受け継ぐのは当然のことだろう」
その言葉に、改めて自分の立場の重さを感じる。
月読家の当主夫人……そんな大役を、本当に私が務められるのだろうか。
「不安か?」
皓様が私の表情を読み取ったのか、優しく尋ねる。
「少し……でも、皓様がいてくださるなら、きっと大丈夫です」
「ああ。私が君を支える。何も心配はいらない」
皓様がそっと私の手に触れる。
その温もりが、不安な気持ちを和らげてくれた。
「それより、君の方は大丈夫か? この数日の騒動だ。疲れは残っていないか?」
「いえ。皆様がとても親切にしてくださるので」
「そうか。夜はちゃんと眠れているか?」
皓様の心配そうな声に、胸が温かくなる。この方はいつも、私を気にかけてくださる。
「はい、おかげさまで。それに……」
私は……少し恥ずかしいけれど、微笑む。
「皓様がいてくださるだけで、安心して眠れますから」
皓様の手が、一瞬止まった。
私を見つめる瞳に、今まで見たことのない深い感情が宿る。
「詩織……」
皓様の声が、いつもより低く、掠れていた。
「君は、まったく。……なんて愛らしいことを言うんだ」
皓様が私の頬にそっと手を添える。
その指先が少し震えているのが分かった。
「君がそんな顔で、そんなことを言うから……」
「こ、皓様……?」
皓様が私の顔に近づいてくる。
あまりにも近くて、皓様の息遣いが頬にかかる。
「愛しくて……たまらなくなる」
その言葉に、心臓が激しく鼓動する。
皓様の紫色の瞳が、とても熱い光を宿していた。
「あ、あの……っ、皓、様……」
言いかけた時、皓様の顔がさらに近づく。
もう少しで唇が触れそうな距離。
私はぎゅっと目を閉じて――
「皓様、失礼いたします」
突然、襖が開く音がした。
皓様と私は慌てて離れる。
使用人頭の方が、恭しく頭を下げながら入ってきていた。
「あ……」
私の顔が真っ赤だ。
危ないところだった。もう少しで……。
「ど、どうかなさいましたか?」
動揺を隠しながら尋ねると、使用人の方は何事もなかったように答える。
「十二家評議会からの正式通達が届いております」
その手には、立派な封筒が握られていた。
皓様と私は顔を見合わせた。
十二家からの正式通達……それは、私の処遇に関する最終的な決定だろうか。
「分かった。こちらに」
皓様が封筒を受け取る。
封蝋には十二家の紋章が刻まれ、格式の高さを物語っていた。
私の心臓が早鐘を打ち始める。
さっきまでの甘い雰囲気から一転して、緊張が部屋を支配した。
この中に書かれているのは、私の未来を左右する重要な内容に違いない。
皓様がゆっくりと封を切り、中の文書を取り出した……。
あとがき:何を送ってきたのやら……!?
