青い炎が奥殿を駆け抜けた。
 しかし、その炎が最初に向かったのは、私たちではなかった。

「きゃあああっ!」

 床に倒れ込んでいた撫子に向かって、青い業火が襲いかかる。
 撫子は恐怖で身動きが取れず、ただ目を見開いてその場に固まっていた。

「撫子!」

 私は反射的に駆け出し、撫子の前に立ちはだかる。
 両手を前に突き出し、藍色の光の幕を展開した。

 ゴォォォォ――!

 青い炎が光の幕にぶつかり、激しい音を立てて散らされる。
 しかし、その熱量は凄まじく、私の頬に火傷のような痛みが走った。

「う……あつっ……」

 光の幕を維持するのがやっとだった。
 青行燈の炎は、今まで戦った札鬼とは比較にならないほど強力だ。

「……っ、なんで……」

 私は撫子に背を向けたまま答える。
 青行燈がまた炎を吐こうとしているのが見えたからだ。

「あなたがどんなに私を憎んでも、私はあなたを見捨てたりしない」

 二度目の炎が襲来する。
 今度は左右に分かれて、回り込むような軌道を描いていた。

 私は光の幕を左右に展開し、なんとか撫子を守り抜く。
 しかし、その瞬間――

「あ……」

 撫子の声が途切れた。
 振り返ると、彼女は気を失って倒れていた。
 恐怖と衝撃で、意識を手放してしまったらしい。

「詩織、よくやった。だが下がれ」

 皓様が私の前に立つ。
 その背中から発せられる威圧感が、青行燈の邪気を押し返していく。

「これからが本番だ」

 皓様が刀を抜く。
 月光を纏った刃が、青い炎に対抗するように輝いた。

「グオオオオ……」

 青行燈が低い唸り声を上げる。
 美津子様の面影は完全に失われ、ただの怪物と化していた。

「フフフ……やっぱりやるねぇ、桜花のお姫様」

 鏡の中から当主の声が響く。

「でも、まだ序の口だよ。青行燈、本気を出しなさい」

 青行燈の髪が逆立ち、全身の炎がより激しく燃え上がる。
 その手にした柳の鞭が、まるで生き物のようにうねった。

「ギィィィィ!」

 鞭が空気を切り裂いて皓様に向かう。
 皓様は刀でそれを受け流し、同時に反撃の斬撃を放った。

 銀色の光が青行燈を襲うが、青行燈は宙に舞い上がってそれを回避する。
 そのまま空中から、無数の青い火球を降らせてきた。

「くっ……」

 皓様が左右に跳んで火球を避ける。
 しかし、数が多すぎて全てを避けきれない。

「やぁっ!」

 その時、私は桜の刃を振るった。
 薄桃色の斬撃が空中に舞い、火球の一部を相殺する。

「いい判断だ、詩織」

 皓様が振り返って軽く頷く。
 その隙を突いて、青行燈が急降下してきた。

「ガァァァ!」
「させません!」

 私は光の幕を皓様の背後に展開する。
 青行燈の爪が光の幕に阻まれ、皓様への攻撃が逸れた。

 皓様はその瞬間を逃さず、青行燈の脇腹に斬りつける。
 しかし、刀は青い炎に阻まれ、深く切り込むことができない。

「フフ……その程度では、傷一つ負いませんよ」

 当主の声が愉快そうに響く。

 青行燈が皓様を蹴り飛ばそうとする。
 皓様は受け身を取って着地するが、その表情は険しい。

「予想以上に厄介だな」

 皓様が刀を構え直す。
 青行燈も再び宙に舞い上がり、今度は柳の鞭を複数に分裂させた。

「さあ、どこまで避けられるでしょうねえ」

 当主の指示と共に、三本の鞭がそれぞれ異なる軌道で皓様を狙う。
 皓様は華麗な身のこなしでそれらを避けていくが、段々と追い詰められていく。

 そこで私は、青行燈の死角に回り込んだ。
 桜の刃で斬撃を放ち、青行燈の注意を引く。

「シャアアア!」
「く……!」

 青行燈が私に向かって炎を吐く。
 私は光の幕で防御するが、その威力に後ずさりした。

 しかし、それで十分だった。
 皓様が青行燈の隙を突き、渾身の一撃を放つ。

 今度は刀が青行燈の肩を深く切り裂いた。
 黒い血が飛び散り、青行燈が苦痛の叫びを上げる。

「ぎゃあああッ……!」
「なるほど。十分に踏み込めば、傷は与えられるようだな」

 しかし、青行燈はすぐに体勢を立て直す。
 傷口から青い炎が噴き出し、傷が見る見るうちに塞がっていく。

「いいえ、無駄ですよ。真打ちは不死身なのです」

 当主の声と共に、青行燈が両手を広げると、奥殿全体が青い炎に包まれた。
 息苦しいほどの熱気が充満し、空気がゆらめく。

「この炎の空間にいる限り、青行燈の力は無限に湧いてきます。
 青行燈とは百物語の主。物語を司る灯火が、彼女に力を与えるのです」

 青行燈の炎がより激しくなる。
 その炎は単なる攻撃手段ではなく、青行燈自身を強化する力でもあるらしい。

「詩織、あの炎を何とかできないか?」

 皓様が汗を拭いながら尋ねる。
 高温の中での戦闘は、さすがの皓様でも体力を消耗するようだ。

「や……やってみます!」

 私は桜の刃に霊気を集中させる。
 清浄な桜の力で、青い炎を浄化できないだろうか。

「消えて……っ!」

 桜の刃から放たれた薄桃色の光が、床に延焼した青い炎の一部を包み込む。
 すると、光が命中した床の炎が少しずつ薄くなっていく。

「効いてます!」
「よし、続けろ」

 皓様が再び青行燈に斬りかかる。
 私も桜の力で辺りの炎を浄化し続けた。

 青行燈の動きが、わずかに鈍くなる。
 周囲の炎が弱まったことで、その力も削がれているようだ。

「へえ……力押しだけじゃない。対応力もずいぶん高いようですねぇ」

 当主の声は未だ楽しげな気配を色濃く残す。
 彼にとってはこの命懸けの戦いも、愉快な見世物でしかないのだろう……。

「けれど青行燈、そろそろ決着をつけなさい」

 青行燈が「グルルル」と唸りながら、最後の力を振り絞るかのように、全身の炎を一点に集中させた。

 青行燈の胸の部分に、巨大な青い火球が形成される。
 その大きさは人間の頭ほどもあり、触れただけで消し炭になりそうな熱量を放っていた。

「皓様、危険です!」

 私が叫ぶのと同時に、青行燈が火球を放った。
 しかし、その狙いは皓様ではなく――

「な……」

 私に向かってきていた。

「詩織!」

 皓様が私を庇おうと駆け寄るが、間に合わない。
 巨大な火球が、私の胸に向かって迫ってくる。

 その時――体が勝手に動いた。

「……っ、光よ!」

 両手を前に突き出し、ありったけの霊気を注ぎ込む。
 紅と藍色の光が、二重の幕となって私の前に展開された。

 ドゴォォォン――!

 火球が光の幕に激突し、爆発のような音が響く。
 しかし、幕は持ちこたえた。巨大な火球が霧散し、青い炎の欠片が宙に舞い散る。

「よくやった、詩織!」

 皓様の声が聞こえる。
 私は荒い息をつきながら、なんとか立っていた。全身の力を使い果たしそうになったが……まだ、戦える。

「グルルル……」

 青行燈が唸り声を上げる。
 最大の攻撃を防がれ、動揺しているようだった。

「ほう、面白い」

 鏡の中から当主の声が響く。驚きというより、むしろ興味深そうな響きだった。

「青行燈、立て直しなさい」

 しかし、青行燈の動きは明らかに鈍くなっていた。
 巨大な火球を作り出すのに、相当な力を消耗したらしい。

「今だ!」

 皓様が一気に間合いを詰める。
 青行燈が柳の鞭で迎撃しようとするが、動きが遅い。

 皓様の刀が青行燈の胸部を貫いた。
 今度は青い炎に阻まれることなく、深々と刺さる。

「ギャアアアア……!」

 青行燈が絶叫を上げ、後方に跳んで距離を取る。
 胸に空いた穴から、黒い血が流れ出していた。

「まだです!」

 私も桜の刃を構え、青行燈に向かって斬撃を放つ。
 薄桃色の光が青行燈の左腕を切り裂き、腕がだらりと垂れ下がった。

「シャアアア……!」

 青行燈が苦悶の声を上げながら、残った右手で鞭を振るう。
 しかし、もう先ほどまでの勢いはない。

 皓様と私は息を合わせて攻撃を続けた。
 私が青行燈の注意を引き、その隙に皓様が致命傷を与える。完璧な連携だった。

 青行燈の体に、次々と傷が増えていく。
 黒い血が床に飛び散り、青い炎も次第に弱くなっていく。

「なるほど、これが桜花と月読の力か……」

 当主の声に感嘆が混じる。まるで実験を観察しているかのような口調だった。

「青行燈、最後まで役目を果たしなさい」

 青行燈が「グォォォ」と咆哮を上げ、残った霊気を全て燃やし始める。
 その体が一瞬、激しく燃え上がった。

 しかし、それは最後の輝きだった。
 燃え尽きるように、青行燈の体から力が抜けていく。

「皓様、お願いします!」
「ああ。月華――」

 私が叫ぶと同時に、皓様が最後の一撃を放った。
 月光を纏った刀が、青行燈の首筋を一閃する。

「――一閃!」

「ギィィィ……ッ」

 青行燈の首が胴体から離れ、床に転がった。
 その瞬間、青い炎が一気に消失し、奥殿に静寂が戻る。

 青行燈の体が崩れ落ち、そこには美津子様の姿が現れた。
 しかし、その体は青白く、明らかに瀕死の状態だった。

「美津子様……」

 私は慌てて駆け寄る。
 胸に埋め込まれた花札は砕け散り、そこから大量の血が流れ出していた。

「まだ息があります。急いで手当てを……」

 私が美津子様に触れようとした時、皓様が私の手を止めた。

「詩織、やめろ」
「でも、このままでは……」
「もう遅い」

 皓様の声は冷静だったが、その奥に警戒が込められていた。

「橘の時とは違う。呪詛花札が体に完全に融合してしまっている」
「そんな……でも、私の浄化の力なら……」
「無理だ」

 皓様は首を振った。

「青行燈は術者の命を捧げて現れた札鬼だ。アレが現れた時点ですでに、この女の命は尽きたようなものだ」

 私は美津子様の顔を見つめた。
 その表情に苦痛は見えないが、瞳には憎悪の炎がまだ燃えている。

「……お義母様……」

 私が名前を呼ぶと、美津子様の瞼がかすかに動いた。
 薄っすらと目を開き、私を睨みつける。

「詩織……」

 かすれた声で、私の名前を呼んだ。

「呪ってやる……あんたを……あんたたちを……永遠に……」

 その言葉は憎悪に満ちていた。最後まで、私たちを恨んでいる。

「幸せになんて……なれるものか……必ず……不幸が……」

 美津子様の手が力なく床に落ちる。
 胸の上下が止まり、静寂が訪れた。

「……」

 私は複雑な気持ちで美津子様を見下ろした。
 恐ろしい人だった。でも同時に、哀れでもある。憎悪に人生を支配され続けた人。

「興味深いデータが取れたよ」

 鏡の中から当主の声が響く。まるで実験が終了したかのような、冷静な口調だった。

「美津子の犠牲は無駄ではなかったね。君たちの力の程度がよーく分かった」

 その声に、美津子様への哀悼の欠片もなかった。
 本当に道具としか見ていないのだ。 

「やはり再確認した……この時代でもやっぱり、驚異となるのは君たちじゃない」
「負け惜しみを……時代とは何のことだ」
「次はもっと効率的に行こう。札鬼の研究も進めなければ」

 鏡の映像が揺らぎ、当主の姿が消えていく。

「楽しみにしていてくれよ、月読皓、如月詩織……」

 最後の言葉と共に、鏡は元の静寂を取り戻した。
 当主の声が消えた後、奥殿には重い沈黙が降りた。

 私は美津子様の亡骸を見つめ続けていた。
 もう動くことのない体。閉じられた瞼。そして、最後まで私を呪った唇。

 義母様が、死んでしまった。

 その事実が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。

(もう……もう二度と、あの人の声を聞くことはないんだ)

 美津子様との記憶が、次々と蘇ってくる。

 八歳の時、押し入れに閉じ込められて泣いていた夜。
 『前妻の子のくせに』と罵られ続けた日々。
 撫子と比較されて、いつも劣っていると言われたこと。
 食事を抜かれ、お腹を空かせて眠った夜。

 家族の団欒から締め出され、一人で雑巾がけをしていた午後。
 撫子の着物は新調されるのに、私には古いお下がりしか与えられなかったこと。
 客人の前で『この子は出来が悪くて』と嘲笑された屈辱。

 温かい記憶なんて、一つもない。
 美津子様は私にとって、ただ辛い思い出しかくれなかった人。

 それなのに――

「あ……」

 気がつくと、頬に涙が伝っていた。

 なぜ泣いているのか、自分でもわからない。
 憎んでいたはずの人なのに。苦しめられ続けた人なのに。

 でも、涙は止まらなかった。

(なんで……なんで、泣いてるんだろう……)

 ぽろぽろと涙が落ちて、着物の胸元を濡らしていく。
 嗚咽が込み上げてきて、肩が震え始めた。

 憎かった。恨んでいた。
 でも同時に、どこか愛されたいと思っていた自分もいたのかもしれない。
 お義母様、と呼んでいたあの人に、いつかは家族として認めてもらえると。

 そんな淡い希望が、完全に断ち切られてしまった。

「うっ……ひっく……」

 涙が止まらない。
 七年間の記憶が一気に溢れ出してきて、胸が張り裂けそうになる。

 辛かった。苦しかった。
 それでも、家族だった。
 歪んでいて、冷たくて、愛のない家族だったけれど――それでも。

「詩織……」

 優しい声が聞こえた。
 顔を上げると、皓様が私のすぐ近くにいる。

「皓様……っ、私……私……」

 言葉にならない。
 なんて言えばいいのかわからない。

 その時、皓様の腕が私を包み込んだ。

「泣きたければ泣いていいんだ」

 その一言で、私の中の何かが決壊した。

「あ、うあ……うわあああん……!!」

 子供のように、声を上げて泣いた。
 皓様の胸に顔を埋めて、十数年分の涙を全て流した。

 ……皓様は何も言わずに、ただ私を抱きしめていてくれた。


あとがき:なんだかんだキツイよね……