「詩織、少し下がっていろ」

 皓様は私の肩にそっと手を置いた。
 その温もりが、疲れ切った体にじんわりと染み込んでくる。

「でも、皓様……っ」
「君は十分に戦った。後は私に任せろ」

 皓様は自分の黒い外套を脱ぎ、私の肩に掛けてくれた。
 まだ皓様の体温が残る外套に包まれて、ようやく安心感が湧いてくる。

「ゆっくり休んでいろ。すぐに片付ける」

 優しい声音で言うと、皓様は鳳凰の札鬼と向き合った。
 その瞬間、空気が変わる。
 先ほどまでの優しさは影を潜め、戦士としての鋭さが全身から立ち上る。

「グオオオオ!」

 鳳凰の札鬼が威嚇の咆哮を上げ、巨大な翼で風を起こした。
 腐敗した羽根が舞い散り、毒々しい風が吹き荒れる。

 しかし皓様は微動だにしない。
 まるで嵐の中に立つ巨岩のように、堂々と構えている。

「月華一閃――」

 皓様の刀が月光を纏う。
 一瞬で間合いを詰め、鳳凰の首筋に斬りかかった。

 しかし鳳凰も光札の札鬼。簡単には倒れない。
 首を素早く引いて皓様の攻撃をかわし、鋭い爪で反撃してきた。

「ほう……」

 皓様が小さく感嘆の声を漏らしながら、流れるような動きで爪を躱す。
 そのまま回転しながら袈裟斬りを繰り出すが、鳳凰は翼で刀を受け止めた。

 ガキン――!

 刀と翼がぶつかり合い、火花が散る。
 鳳凰の翼は思った以上に硬く、皓様の刀でも一撃では切れないらしい。

「グルルル……」

 鳳凰が口を大きく開き、業火を吐こうとする。
 皓様は素早く後方に飛び退き、間合いを取った。

「なるほど、相応に手強いな」

 皓様の口元に、戦いを楽しむような微笑が浮かぶ。
 そして刀を構え直すと、今度は異なる技を繰り出した。

「月光疾駆――」

 月の光を纏った斬撃が、刀身から分離して飛んでいく。
 鳳凰は翼で防御しようとしたが、光の斬撃は翼を貫通して胸部に命中した。

「ギャアアア!」

 鳳凰が苦痛の叫びを上げ、黒い血を吐く。
 しかし、まだ倒れない。傷を負いながらも、再び皓様に向かってきた。

 鳳凰の攻撃が激しくなる。
 爪、嘴、翼――あらゆる部位を武器にして連続攻撃を仕掛けてくる。
 皓様はそれらを全て見切り、華麗な身のこなしで回避していく。

 まるで舞踊のような、美しい戦いだった。
 死闘のはずなのに、皓様の動きには一切の無駄がない。

「そろそろ終わらせるとしよう」

 皓様が呟くと、刀に今までとは比べ物にならない月光が宿った。
 その輝きは眩いほどで、私も思わず目を細める。

「月華――」

 皓様が大きく刀を振りかぶる。
 鳳凰が最後の攻撃とばかりに、全力で突進してきた。

「絶唱!」

 交差する一瞬。
 皓様と鳳凰がすれ違った瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れる。

 そして――

 ずん、と重い音と共に、鳳凰の巨体が床に崩れ落ちた。
 首から胴体まで、一直線に切断されている。

「ギ……ギィ……」

 最後の呻き声を残して、鳳凰の札鬼は黒い霧となって消滅していく。

 皓様は刀を一振りして血を払い、静かに鞘に収めた。
 その姿は、まさに月読家当主の威厳そのものだった。

「さて」

 皓様が美津子様に向き直る。
 その瞳に宿る光は、先ほどまでの戦いの興奮とは違う、冷徹なものだった。

 美津子様は青ざめた顔で後ずさりしている。
 もう札鬼も全て倒され、頼れるものは何もない。

「観念しろ。これ以上の抵抗は無意味だ」

 皓様の声に、有無を言わせぬ迫力があった。

「ぐっ……あぁぁっ……!」

 そのとき突然、美津子様が胸を押さえて苦しみ始めた。
 顔を歪ませ、まるで内側から何かに食い破られているような表情を浮かべる。

「……なんだ?」

 皓様が眉をひそめる。
 降伏を迫った直後の、予想外の事態だった。

「ああっ……あああっ……!」

 美津子様の胸元が、不気味に光り始める。
 着物が裂け、そこから現れたのは――皮膚に直接埋め込まれた、花札だった。

「あれは……『柳に燕』……?」

 皓様の声に、困惑が混じる。
 札は美津子様の胸に深く食い込み、まるで心臓の一部のように脈動していた。

「お――お母様! お母様、しっかりして!」

 撫子が這うようにして美津子様に駆け寄る。その叫び声が奥殿に響く。
 しかし美津子様はもう答えることができない。全身が痙攣し、口からは泡を吹いていた。

「あががっ……ががっ、アアア……!」
「これは……身体改造術か」

 皓様が呟く。その声色には、普段は聞かない戦慄の響きがある。

「人間の身体に呪詛花札を直接埋め込むなど、正気の沙汰ではない」

 その時、美津子様の身体に異変が起きた。
 皮膚が青白く変色し、髪が長く伸びて宙に舞い上がる。
 瞳は青い炎のように光り、指先が鋭い爪へと変化していく。

「ああァァぁぁ……!!」

 美津子様の声が、もはや人間のものではなくなっていた。
 低く、恨みに満ちた、この世のものとは思えない響き。

 そして――

「お母様ああああ!」

 撫子の絶叫と共に、美津子様の変貌が完了した。

「オオオオォォ……」

 現れたのは、青白い炎を纏った女性の札鬼だった。
 長い黒髪が蛇のように蠢き、青い炎が瞳に宿る。
 手には柳の枝を模した鞭を握り、その周りを燕の影が舞っている。

「柳に燕……だが、これは……」

 皓様の顔に、明らかな動揺が浮かんだ。

「見たことがない。なんだ、この札鬼は……」

 その時、奥殿の空気が再び変わった。
 まるで何者かの視線を感じるような、重い圧迫感。

 そして、祭壇の鏡に人影が映った。

 黒いハットを深く被り、顔の半分を影に隠した男。
 その口元だけが、不気味に笑っているのが見える。

「やあやあ、月読の当主殿。そして桜花の姫君」

 鏡の中から、男の声が響いた。
 低く、それでいて人を見下すような響きがある。

「何者だ、貴様……」

 皓様が刀に手をかけるが、男は気にした様子もない。

「まあまあ、そう急かないでください。せっかくのお披露目なのですから」

 男が札鬼と化した美津子様を指差す。

「いかがです? わが影沼家秘蔵の『呪詛花札真打ち』は。『柳に燕・青行燈』と名付けました」
「真打ち……?」
「ああ、初めて見るでしょうね。これは我々が百年かけて完成させた、究極の呪詛花札です」

 男の声に、狂気じみた自信が宿る。

「普通の札鬼とは格が違う。人間に直接埋め込むことで、宿主の怨念と憎悪を糧に、その命を食い破って現れる」
「命を捧げる呪詛……」
「美津子さんには気の毒でしたが、万一の時のために仕込んでおいたんですよ」

 男が愉快そうに笑う。
 その笑い声が、奥殿に不気味に響いた。

「不甲斐ない娘さんに、不甲斐ない本人のせいで使うことになってしまいました。私だって心苦しいんですよ、フフ……」
「……っ!」

 撫子が息を呑む音が聞こえる。……ひどい。わざわざ、傷つけるようなことを。
 それに、間違いない。この人はきっと、どうなっていたとしてもこの札を起動させていたはずだ。

「さあ、月読皓。如月詩織ちゃん。我々影沼家の真の力を、その身で味わうといい」

 鏡の中の男が手を振ると、青行燈がゆらり と立ち上がった。
 その青い炎が、より一層激しく燃え上がる。

「詩織、奥に――」

 皓様が私を庇うように前に出ようとした瞬間、私は皓様の袖を掴んだ。

「待ってください」
「詩織?」

 皓様が振り返る。
 私は皓様の紫色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。

「私も一緒に戦わせてください」
「しかし、相手は未知の札鬼だ。危険すぎる」

 皓様の声に心配が滲む。
 確かに、青行燈から発せられる邪悪な気配は、今まで戦った札鬼とは次元が違っていた。

「でも――」

 私は皓様の手に、自分の手を重ねる。

「結界を破ったのは私です。ここまで一人で戦い抜いたのも私です」

 青行燈がゆらゆらと宙に浮かび、こちらを見下ろしている。
 その青い炎の瞳に、美津子様の面影は微塵も残っていない。

 私は桜の刃を握り直した。
 まだ霊気は残っている。戦える。

「私は、もう庇われるだけの存在じゃありません……!」

 皓様の表情が、わずかに揺らぐ。
 そこに、迷いと……そして、私への信頼が見えた気がする。

「……体力は大丈夫か?」
「はい。まだ戦えます」

 嘘ではない。疲労はあるけれど、諦めるほどではない。
 それに、皓様が隣にいてくれるなら、どんな相手でも立ち向かえる気がする。

「分かった」

 皓様が小さく頷く。

「だが、無茶はするな。私の指示に従え」
「はい!」

 私たちが並んで立つのを見て、鏡の中の男が愉快そうに声を上げた。

「ほう、二人で挑むつもりですか。面白い」

 青行燈の周りで、燕の影がより激しく舞い始める。
 その数はただの札鬼のときと比べ物にならず、まるで黒い竜巻のように渦を巻いていた。

「では、我が『真打ち』の力、存分に味わっていただきましょう」

 男の宣言と共に、青行燈が口を開いた。
 そこから放たれたのは、青い炎の咆哮。

 決戦の火蓋が、切って落とされた。


あとがき:レイドバトルです