「まだまだよ! 『菊に盃』!」

 美津子様が次の札を掲げると、豪華絢爛な菊の花弁が舞い散った。
 しかし、その美しさは一瞬で悪夢に変わる。
 花弁一枚一枚が鋭い刃と化し、無数の切っ先が私を狙って飛来してくる。

「くっ……!」

 私は光の幕を展開するが、あまりにも数が多い。
 何枚かの花弁が幕を突き破り、頬と腕に鋭い痛みが走った。

「いたっ……!」

 血が滲む。でも、これしきで止まるわけにはいかない。
 花弁の雨をかいくぐりながら、札鬼の本体を探す。

 菊の札鬼は、巨大な酒盃を逆さにしたような形をしていた。
 その表面に無数の菊が咲き誇り、そこから刃と化した花弁を放っている。

 私は桜の刀を構え、札鬼に向かって駆ける。
 しかし、花弁の嵐が行く手を阻んだ。

 左、右、上――あらゆる方向から花弁が襲いかかってくる。
 光の幕で防ぎきれない攻撃が、私の体を少しずつ削っていく。

 着物の袖が裂け、太ももに鋭い痛みが走る。
 それでも、私は前進をやめない。

「はあぁぁっ!」

 一気に間合いを詰め、桜の刃を札鬼の中心部に突き立てる。
 札鬼が苦悶の声を上げながら崩れ去っていった。

 息が上がっている。体のあちこちが痛む。
 でも、まだ戦える。

「しぶといわね……なら、これよ! 『萩に猪』!」
「っ!」

 美津子様の三枚目の札から現れたのは、巨大な猪の札鬼だった。
 全身に萩の花が絡みつき、その牙は槍のように鋭く光っている。

(萩に猪……先輩が取り憑かれた札。でも、札鬼の姿は違う……!)
「ブモォォォ!」

 猪が雄叫びを上げて突進してくる。
 その体重は相当なもので、床が振動するほどだ。
 私は横に飛んで回避しようとしたが――

「しまっ……!」

 避けきれずに猪の突進に巻き込まれ、壁に叩きつけられる。
 背中に鈍い痛みが走り、息が詰まった。

「がはっ! ゴホッ、ゴホッ……!」

 咳き込みながら立ち上がろうとするが、猪が再び突進してくる。
 今度は正面から。避ける暇がない。

 私は桜の刃を両手で構え、真正面から受け止めた。

「あっ! ぐぅぅっ……!」

 桜の刃と猪の牙がぶつかり合う。
 凄まじい力に押され、足が床を滑っていく。

(このままでは押し切られる……!)

 その時、私は猪の死角に回り込むことを思いついた。
 桜の刃を一瞬横に逸らし、猪の突進をいなす。

 猪が勢い余って壁に激突した隙を狙い、脇腹に桜の刃を突き立てる。

「はぁっ!」
「フゴォォォ……!」

 しかし、猪の皮は厚い。刃が思うように刺さらない。
 逆に猪が体を振って、私を跳ね飛ばしてきた。

「きゃあっ!」

 また壁に背中を打ちつける。
 今度は背骨を打ってしまったようだ。激痛と痺れで、立ち上がるのに時間がかかる……!

 その間に、猪が再び突進の構えを取る。
 血走った目が、私を捉えていた。

(このままじゃ……っ!)

 体力の限界が近づいているのを感じる。
 でも、ここで諦めるわけにはいかない。

 私は立ち上がりながら、猪の突進コースを読んだ。
 そして――意図的に、斬撃の軌道を少しずらす。

「く、らえっ……!」

 桜の刃から放たれた光の斬撃が、猪を斬ると同時に背後の壁を深く抉った。
 壁に走った亀裂から、かすかに外の気配が漏れてくる。

(少しずつ……少しずつだけど、「切り崩せて」いる)

 猪の札鬼が倒れ、黒い霧となって消える。
 私は膝をつきそうになりながらも、なんとか立っていた。

「はぁ、はぁ……」

 息が荒い。着物はボロボロに破れ、体中に擦り傷と打撲がある。
 それでも、戦いは続く。

「まだ諦めないの……? いい加減にしなさい! さっさと死になさいよ!」

 美津子様が苛立ちながら、四枚目の札を取り出す。

「『藤に不如帰』!」

 今度現れたのは、紫色の藤の花房に包まれた不気味な鳥の札鬼だった。
 その鳴き声は甲高く、耳を刺すような不快な音を響かせる。

「キィィィィ!」

 鳥が空中を舞いながら、藤の花房を私に向けて放ってくる。
 花房は空中で分解され、無数の小さな花となって降り注いだ。

 しかし、これは刃ではない。
 花に触れた瞬間、意識が朦朧とし始める。

「これは……毒……っ!?」

 藤の花には麻痺毒でも含まれていたのたまろうか。
 体の動きが鈍くなり、思考も霞んでくる。

「フフフ、その花粉を吸えば、だんだん体が動かなくなるのよ」

 美津子様が勝ち誇ったように笑う。

「さあ、観念しなさい。もう終わりよ」

 確かに、体が重くなってきている。
 手足に力が入りにくく、桜の刃を維持するのも辛い。

 でも――

「まだ……まだです……!」

 私は残った力を振り絞り、鳥の札鬼に向かって斬撃を放った。
 狙いは鳥の翼。
 ――そして、その背後の壁。

 桜の光が鳥の翼を切り裂き、同時に壁により深い傷をつける。
 壁の亀裂が広がり、結界に小さな綻びが生まれた。

「キィィィ!」

 翼を失った鳥が墜落し、床で苦しげにもがく。
 私はふらつきながらも近づき、とどめの一撃を加えた。

 四体目の札鬼が消滅する。
 私の体力も、もう限界に近かった。

「くそっ……札ももう無いというのに……! いつまで足掻くつもりよ!」

 美津子様が歯ぎしりする。
 私は壁にもたれかかりながら、必死に呼吸を整える。
 視界の端で、壁の亀裂がじわじわと広がっているのが見えた。

(もう少し……もう少しで……)

 でも、体がいうことを聞かない。
 立っているのがやっとの状態だった。

「今度こそ、終わりにしてあげる……」

 美津子様が最後の札を高く掲げる。
 その札から放たれる気配は、今までのものとは格が違っていた。

「『桐に鳳凰』――我が最後の切り札よ!」

 美津子様が掲げた札から立ち上る霊気は、今までとは次元が違っていた。
 空気そのものが重くなり、呼吸が困難になる。まるで水の中にいるような圧迫感。

 現れたのは、翼を広げると天井に届きそうな巨大な鳳凰の札鬼だった。
 しかし、神聖であるべき霊鳥は全身を腐敗で覆われ、美しい羽根は黒く変色している。
 目には地獄の炎が宿り、嘴からは毒々しい煙が立ち昇っていた。

「グオオオオオ……」

 鳳凰が羽ばたくたび、周囲の空気が渦を巻く。

「うっ……!?」

 その風圧だけで、私の体は壁に押し付けられた。

(強い……今までの札鬼とは、込められた呪詛が違う……)

 足が震え、桜の刃を持つ手も小刻みに揺れる。
 この相手に、勝てるのだろうか。もう体力も残り少ないのに……。

 鳳凰の札鬼が翼を大きく広げ、炎を吐く準備を始めた。
 その口の奥で、業火がゴウゴウと燃え盛っている。

「終わりよ、詩織! 灰になりなさい!」

 美津子様の声と共に、鳳凰が口を開いた。
 その瞬間――私はとっさに桜の刃を振るった。

「あっ……!」

 しかし、外れる。
 斬撃は鳳凰を掠めることもなく、その右斜め後方、壁の一点に突き刺さった。

 ピシッ――

 壁に亀裂が走る音。
 しかし、それは今までの亀裂とは違っていた。
 まるで、何かの核心を撃ち抜いたような、決定的な音。

「ふっ、残念。最後の抵抗も無駄に終わったみたいねぇ!」

 美津子様の嘲笑が響く中――私は、薄く微笑んだ。

 戦いながら、私は感じ取っていた。
 この空間を覆う結界の『要』。霊気の流れが集中する、脆弱な点を。
 先程までの戦いの最中も、少しずつ……バレないように、結界を破壊していたのだ。

 恐怖で外したのではない。
 最初から、あそこを狙っていた。

 ガラガラガラ――

 壁の亀裂が一気に広がり、空間全体に蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。
 結界が音を立てて崩壊していく。

「な!? 何が起きて……っ」

 美津子様が困惑の声を上げた瞬間――

 静寂。
 まるで世界が止まったかのような、完全な静寂が訪れた。
 そして――空間が裂けた。

「なぁっ……!?」

 銀色の光が闇を切り裂き、月のように美しい霊気が空間に満ちる。
 その光の中から、一人の青年が悠然と歩み出てくる。
 黒い外套を翻し、紫色の瞳に冷徹な光を宿して。

 皓、様。

「――遅くなった。そして……よくやったな、詩織」

 その声はいつも通り静かで、それでいて私の心を安堵で満たしてくれる。
 皓様の姿を見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。

「皓様……」

 かすれた声で呟く。
 涙が込み上げてくるのを必死に堪える。

 結界さえ破れば来てくれると、信じていた。
 ……本当に、来てくれた。

「よく耐えた。そして……」

 皓様は崩れかけた壁を一瞥し、感嘆の息を漏らす。

「見事だった。何者の仕業かは知らんが、この隠蔽結界……非常に巧妙だ。それを一人で破るとは」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 私の頑張りを、皓様が認めてくれた。

「ば、馬鹿な……そんな! あの男の結界を破ったですって!? あなたのような小娘が!?」

 美津子様が狼狽の声を上げるが、皓様は冷たく微笑むだけだった。

「なるほど、男……か。少なくとも、この結界を貼った裏切り者は男らしいな」

 皓様が鳳凰の札鬼を見上げる。
 その瞳に、月光のような鋭い光が宿った。

「まぁ、それは後でいい。まずは貴様だ、影沼美津子」
「っ……!」
「貴様がいる限り、詩織の身に平穏は訪れん。今度こそ貴様を消してやろう」
「あ……ああ……ッ!」

 皓様の殺気に当てられて、札鬼も美津子様も、そして倒れている撫子もまた動けずにいた。
 形勢逆転の時が来た。

あとがき:詩織ちゃんも頑張っています!