祭壇の間に響いたのは、美津子様の冷たい笑い声だった。

「あなたはホントに役に立たないわねぇ、撫子?」

 その声は、氷よりも冷たく、刃物よりも鋭い。
 今まで聞いたことのない、完全に感情を排した声だった。

「お、お母様……?」

 撫子が震え声で呟く。
 さっきまで私への憎悪に燃えていた瞳が、今は困惑と恐怖に揺れている。

「期待していたのに、結局始末できないなんて。まったく、どうしてこんなに出来の悪い子を産んでしまったのかしら」

 美津子様は扇子をパチンと閉じながら、まるで壊れた道具を見るような目で撫子を見下ろした。
 その視線には、愛情のかけらもない。まるで、いらなくなった人形を見るような冷淡さがあった。

「そんな……お母様、私は……私は一生懸命……!」
「一生懸命? あら、それで結果がこれなの?」

 美津子様が嘲笑う。

「情けないったらありゃしない」
「お母様……お母様……!」

 撫子の顔が歪む。涙がぽろぽろと頬を伝って落ちた。
 その姿があまりにも哀れで、私は思わず前に出ていた。

「やめてください!」

 震える声だったけれど、精一杯の大きさで叫んだ。
 美津子様の視線が、今度は私に向けられる。その瞳に宿った怒気に、体が竦んだ。

「あら、詩織。まだそんな子を庇うような余裕があるの?」
「撫子は……撫子は、あなたに利用されていただけじゃないですか!」

 怖い。とても怖い。
 でも、誰かが理不尽に傷つけられるのを黙って見ているなんてできない。
 撫子がどんなに私を憎んでいても、今の彼女はただの傷ついた女の子にしか見えなかった。

「利用? そうねぇ、確かに利用したわ。でも、それで結果を出せなかった撫子が悪いのよ」

 美津子様が冷たく笑う。

「私は最初から、撫子なんてどうでもよかったもの。あの子はあなたを苦しめるための道具。それ以上でも、それ以下でもない」
「……ひどい」

 言葉が出ない。
 こんなにも、人を道具として扱える人がいるなんて。
 血のつながった我が子を、ここまで冷酷に切り捨てられるなんて。

「ひどい? あら、あなたに言われたくないわね」

 美津子様が一歩、私に近づく。その度に、悪寒が背筋を駆け上がった。

「あなたこそ、撫子を利用したじゃない。『可哀想な姉』として同情を買うために」
「……!? そんなことしてません!」
「あら、そう? でも結果的に、月読の坊っちゃんの同情を買えたじゃない」

 美津子様の言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
 確かに皓様は、私が虐げられていることを知って怒ってくださった。でも、それは……!

「皓様は、そんな理由で私を選んでくださったんじゃない……!」
「さあ、どうかしらね? 男なんて、か弱い女に弱いものよ」

 美津子様の笑みが、より一層邪悪になる。

「でも、もうそんなことはどうでもいいの。今日で全てが終わるんだから」
「……どういう、意味ですか」

 嫌な予感が、背中を冷たく撫でていく。
 美津子様は祭壇の方を振り返り、光る鏡を見上げた。

「この鏡がなんだか知ってる? 詩織」
「……いえ」
「これは『天神鏡』。帝都に住む人々の心の闇……怨念、憎悪、嫉妬、そういった負の感情を全て吸い取って浄化する神器よ」

 美津子様が鏡に向かって手を伸ばす。鏡の光が、より一層強くなった。

「何百年もの間、この鏡が帝都の札鬼発生を抑えてきたの。
 人々の心が荒むたび、この鏡が悪意を吸い取ってくれるから、帝都は平和を保てていた」

 そこまで聞いて、私の顔から血の気が引いた。
 まさか……。

「そして私は、この鏡を破壊するの」

 美津子様が振り返った時、その顔には狂気の笑みが張り付いていた。

「何百年分もの怨念と憎悪が、一気に帝都に解き放たれる。想像してみなさい、詩織。帝都中に、数え切れないほどの札鬼が現れるのよ」
「そんな……そんなことをしたら!」
「ええ、帝都は地獄になるでしょうね」

 美津子様が手を叩いて喜ぶ。
 まるで、楽しいお祭りの話をしているかのように。

「十二家の連中がどんなに頑張っても、全ての札鬼を相手にするのは不可能。きっと多くの人が死ぬわ。そして、その責任を感じて苦しむあなたたちの顔が見られる」
「……なんで、そこまで……」
「百年前の恨みよ。桜花家に滅ぼされた影沼家の、積年の怨念。そして我々を悪と断じて裁こうとする十二家への怨念よ」

 美津子様の瞳が、憎悪の炎で燃え上がる。

「でも、それ以上に……あなたが苦しむ顔が見たいの。絶望して、泣いて、全てを失って悲嘆に暮れるあなたを見ていたい!」

 ぞくり、と全身に悪寒が走った。
 この人の憎悪は、もう理屈を超えている。純粋な悪意の塊だ。
 私は震える手を握りしめながら、必死に強がった。

「そんなこと……させません。それに、この神宮には今、十二家の皆さんが揃っているんですよ。皓様がすぐに来てくれます!」

 でも、美津子様は私の言葉を聞いて、愉快そうに笑い出した。

「あら、それは無理よ?」
「え……?」

 私の漏らした声に、美津子様はより一層楽しそうに微笑んだ。
 まるで、秘密を知っている子供のような、邪悪な笑顔。

「確かに十二家の当主たちは、あなたがいなくなったことには気づいているでしょうね。でも、あなたがどこにいるかまでは、絶対にわからないのよ」
「そ、そんな……どうして……?」

 震える声で尋ねる私を見て、美津子様が手を叩いた。

「私には、とても頼もしい協力者がいるの。十二家の中に、ね」
「十二家の中に……!?」

 背筋が凍りつく。
 十二家の誰かが、美津子様に協力しているというの? そんな、まさか……。

「その方の特別な『力』のおかげで、私たちの存在は完璧に隠されている。どんなに探しても、どんなに霊力を使っても、ここを見つけることはできないわ」

 美津子様は満足そうに頷いた。

「つまり、月読の坊っちゃんも、他の当主たちも、あなたを探し回っているけれど……永遠に辿り着けないというわけ」
「嘘……嘘です! 皓様は、きっと……!」
「あら、信じられないの? でも現実よ。あなたは完全に孤立無援」

 美津子様の言葉が、胸に突き刺さる。
 確かに……私が撫子に拐われてから、もうしばらく経っているはずだ。
 だというのに、未だに誰もここに来ない。という、ことは。

(本当に……助けが、来ないということ……?)

 膝が震え始めた。立っているのも辛くなってくる。
 一人で、美津子様と戦わなければならないなんて。
 それも、帝都全体の命運がかかっているなんて。

「ほら、その顔よ」

 美津子様が嬉しそうに手を叩く。

「絶望に染まった、その美しい表情。やっぱりあなたは、苦しんでいる時が一番魅力的ね」
「……っ」

 悔しい。怖い。
 でも、ここで諦めるわけにはいかない。
 皓様が来てくれないなら、私一人でも戦わなきゃ。帝都の人々を、皓様を、守らなきゃ……!

「それに、協力者の方はとても優秀でね。あなたたちがここに来ることも、すべて計画通りだったのよ」

 美津子様が祭壇の方を振り返る。鏡の光が、ますます不気味になっていく。
 その奥から、何か黒いものがうごめいているのが見えた。

「もうすぐ、何百年分もの怨念が解き放たれる。楽しみだわ」
「させません……!」

 私は拳を握りしめた。
 震える手だけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
 たとえ一人でも、皓様を信じて、みんなを信じて戦わなきゃ。

 そんな私を見て、美津子様がくすくすと笑う。

「あら、まだ戦うつもり? 一人で、私に勝てるとでも思っているの?」
「……私も、前とは違います。やってみなければ、わかりません」

 私の答えに、美津子様の笑みが凶悪になった。

「面白いわね。では、せいぜい足掻いてみなさい。あなたが絶望するまで、存分に楽しませてもらうから」

 美津子様が懐から札を取り出した瞬間、私は既に霊気を集中させていた。

 右手に掴んだ桜色の刃。
 皓様が教えてくださった武器創生術。今もまだ、霊力は残っている。

「紅葉散りて血に染まれ――『紅葉に鹿』!」

 美津子様の呪文と共に、祭壇の前に巨大な鹿の影が現れた。
 しかし、それは神聖な鹿などではない。
 全身が腐った紅葉で覆われ、角からは黒い液体が滴っている醜悪な札鬼だった。

「グルルル……」

 札鬼が低い唸り声を上げながら、鋭い角を私に向ける。
 その瞬間、私は迷わず駆け出していた。

「はぁっ!」

 桜の刃を振り上げ、突進してくる札鬼の角に斬りかかる。
 
 ざん――!

 桜色の光を纏った刃が、札鬼の角を根元から断ち切った。
 札鬼が苦悶の叫びを上げて後退する。

「な……!?」

 美津子様の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。

「馬鹿な、まだ覚醒して一ヶ月程度の小娘がなぜ……!」
「私は……」

 私は桜の刃を構え直しながら、まっすぐ美津子様を見据えた。

「皓様に教わったんです。強くなる方法を。誰かを守るための力を」

 札鬼が再び襲いかかってくる。今度は後ろ足で蹴りを放ってくる。
 私は左手に霊気を集中させ、空中から引きずり出すように紅色の光の膜を展開する。

 どん――!

 札鬼の蹄が光の幕に弾かれ、衝撃は完全に無効化された。
 そのまま反撃とばかりに、桜の刃で札鬼の胴体を袈裟斬りにする。

「ギャアアアッ!」

 真っ二つになった札鬼が、黒い霧となって消滅していく。

「馬鹿な……たった二撃で……」

 美津子様が信じられないといった表情で私を見つめる。
 でも、すぐに新しい札を取り出した。

「なら、これはどう! 『梅に赤短』!」

 今度は梅の花が描かれた、血のように赤い札。
 それから生まれたのは、枯れた梅の枝に赤い短冊をぶら下げた、這うような札鬼だった。

「シャアアア……」

 蛇のように身をくねらせながら、札鬼が私に向かってくる。
 萎れた花が一斉にこちらに向き、何かを飛ばしてくる!

「っ!」

 私は光の幕を展開し、飛来する棘を全て弾き返す。
 同時に間合いを詰め、桜の刃で札鬼の中心部を狙う。

「やああ!」

 一閃。
 梅の札鬼も、あっけなく切り裂かれて消えていく。

「どうして……」

 美津子様の顔は色を失っていた。目の前で起きていることが信じられない、といった様子だ。

「どうして、あなたがそんなに強いのよ!」

 美津子様が歯ぎしりしながら叫んだ。

「あなたはただの弱い子供……! 力なんてなかったはずなのに!」
「確かに、私に力はありませんでした。あの茶会でも、結局私は皓様に助けてもらうだけだった……」

 私は桜の刃を構えたまま答える。

「でも、皓様が教えてくださいました。守りたいものがある時、人はどんなに強くなれるかを」

 胸の奥が熱くなる。
 皓様の顔が頭に浮かんだ。厳しくも優しく、私を導いてくださった日々を思い出す。

「皓様のために。帝都の人々のために。私は負けません」

 美津子様の顔が怒りに歪む。
 その手に、また新しい札が握られていた。


あとがき:詩織ちゃんも強くなりましたね…!