――それは、つい一週間ほど前のことだった。
月読家の訓練場で、私は皓様と向かい合っていた。
いつものように木刀を手にして、基本的な型の稽古をしている最中だった。
「詩織、集中しろ。意識に乱れがある」
皓様の鋭い指摘に、私は慌てて姿勢を正す。
「は、はい!」
確かに、その日の私は少し上の空だった。
……前日に読んだ本の内容が気になって、どうしても集中できずにいた、だけなんだけど。
「もう一度、面打ちからだ」
皓様が木刀を構える。その姿は相変わらず美しく、見とれてしまいそうになる。
私も木刀を構え直し、面打ちの構えを取った。
「行きます!」
気合いを込めて振り下ろす。しかし――
カン!
皓様の木刀が私の手元を狙い撃ちし、木刀が手から弾き飛ばされた。
「あっ……」
木刀がからから回転しながら、訓練場の隅に転がっていく。
「武器を落とすことは、実戦では死を意味する」
皓様の厳しい声に、私は縮こまった。
「す、すみません……」
「謝るな。それより、今のような状況になった時、君はどうする?」
皓様が木刀の切っ先を私の喉元に向ける。
実際には触れていないが、その迫力に思わず後ずさりしそうになる。
「え、えっと……逃げます?」
「逃げられない状況なら?」
「……降参、します?」
私の情けない答えに、皓様はため息をついた。
「詩織、君には『桜に幕』の力がある。それを忘れるな」
「でも、武器がないと……」
「誰が、武器が必要だと言った?」
皓様は木刀を下ろし、私の前に歩いてきた。
「君の力は、既存の武器に宿らせるだけのものではない。霊気そのものを武器として具現化することも可能のはずだ」
「霊気を……武器に? そんなことができるんですか?」
「ああ。飛燕の奴がやっているのを見たことがあるはずだ。やってみせよう」
皓様は私から少し離れ、手のひらを前に差し出した。
すると、銀色の光が手のひらに集まり始める。それがゆっくりと形を成していき……。
「わあ……」
皓様の手の中に、月光を纏った美しい刀が現れた。
それは実体を持っているように見えるのに、どこか幻想的で神秘的だった。
「これが、霊気の具現化だ」
皓様がその刀を軽く振ると、風を切る音がする。確かに実体があるようだった。
「すごい……本物の刀みたいです」
「君にもできる。やってみろ」
皓様に促されて、私はおそるおそる手のひらを前に出した。
「でも、どうやって……?」
「まず、自分の霊気を感じろ。それから、その霊気に形を与えるイメージを持つんだ」
皓様が私の後ろに回り、私の手に自分の手を重ねてくれる。
「っ……」
突然の接触に驚いて声が出そうになってしまう。
皓様の手は冷たいけれど、とても大きくて安心感がある。
「集中しろ。君の霊気の流れを感じてみろ」
皓様の声が耳元で響く。近すぎて、心臓がどきどきしてしまう。
「は、はい……」
目を閉じて、体の中の霊気の流れを探ってみる。
最初はよくわからなかったが、だんだんと温かい何かが体を巡っているのを感じ始めた。
「感じられるか?」
「はい……なんだか、温かくて……」
「それを手のひらに集めろ。ゆっくりでいい」
言われた通り、その温かい力を手のひらに向かって流していく。すると、リボンがほのかに光り始めた。
「そうだ、その調子だ」
皓様の励ましの声に、さらに集中する。手のひらがじんじんと温かくなってきた。
「今度は、その力に形を与えろ。君が一番使いやすい武器の形を思い浮かべるんだ」
武器の形……。
私が一番慣れているのは、やはり剣だろうか。竹刀や木刀を何年も使ってきたから。
剣の形をイメージしながら、霊気をさらに集中させていく。
「あ……」
手のひらに、薄っすらと桜色の光が集まり始めた。それがゆっくりと細長い形になっていく。
「できてる……本当にできてます!」
「まだ完成していない。最後まで集中しろ」
皓様の手が、私の手をしっかりと支えてくれる。
その安心感に包まれながら、私は必死に霊気をコントロールした。
そして――
「できました……!」
私の手の中に、桜色に光る短剣が現れた。
まだ不安定で、光がゆらゆらと揺れているけれど、確かに武器の形をしている。
「素晴らしい。初回でここまでできるとは思わなかった」
皓様の褒め言葉に、視界がぱあっと明るくなるような心地がした。
「本当ですか?」
「ああ。だが、まだ安定していない。もっと練習が必要だ」
確かに、手の中の短剣はぼんやりとして、今にも消えそうだった。
「これから毎日、この練習も取り入れよう。いざという時に、必ず役に立つ」
「はい!」
皓様に教えてもらった新しい技術に、私は心躍らせていた。
■
「……撫子」
私の手には確かに、桜色の刀が握られていた。
あの時よりもずっと安定している。形もはっきりとして、長さも実際の刀と遜色ない。
「な、なによそれ……! そんなの、そんなのがあるなんて聞いてない……!」
撫子が怯えたような声を上げる。
「聞いていないのも当然よ。これは私が、皓様と一緒に身につけた力だもの」
私は刀を構え直し、札鬼と撫子を見据えた。
もう怯えてはいない。
皓様が教えてくれた技術が、私を支えてくれている。
「ギュオオオォォ……!」
札鬼が雄叫びを上げて襲いかかってきた。
松の幹のような太い腕が、私の頭上に振り下ろされる。
「っ!」
咄嗟に横に跳んで避ける。札鬼の拳が畳を砕き、木片が飛び散った。
そのまま回転するように身を翻し、桜色の刀で札鬼の脇腹を斬りつける。
「ギャアアアッ!」
札鬼が苦悶の声を上げ、黒い液体を滴らせた。確かな手応えがあった。
(皓様の教えの通り……相手の懐に飛び込んで、一撃離脱!)
すぐに距離を取る。札鬼の反撃の触手が、私がいた場所を薙ぎ払った。
「そ、そんな……お姉様が、あんなに強いなんて……」
撫子が座卓の陰に隠れながら震え声で呟く。
札鬼に指示を出すこともできずに、ただ呆然と戦いを見つめている。
札鬼が今度は複数の触手を同時に繰り出してきた。
赤い短冊のような触手が、鞭のようにしなって襲いかかる。
私は刀を縦に構え、触手を次々と切り払っていく。
一本、二本、三本――焦らず、確実に。
だが四本目の触手が、私の頬を掠めた。
「あっ……!」
頬に温かいものが流れる。血だった。
でも、致命傷ではない。むしろ、それで頭が冷静になった。
(完璧に避ける必要はない。致命傷さえ避ければいい)
皓様との実戦練習で学んだことだ。
全ての攻撃を完璧に避けようとすると、かえって動きが硬くなる。
札鬼が怒りに任せて突進してきた。巨大な体躯で押し潰そうという魂胆だろう。
私は刀を横に構え、札鬼の突進を受け流すように斬り上げた。
「はあぁっ!」
桜の霊気を込めた一撃が、札鬼の胸を大きく裂く。
「ギギギィィィ……!」
札鬼がよろめき、後ずさった。だが、まだ倒れない。
傷口から黒い煙が立ち上り、ゆっくりと再生を始めている。
(再生能力があるのね……なら、一気に決めないと)
私は刀に更なる霊気を込めた。桜色の光がより強く輝く。
その時、札鬼が苦し紛れに暴れ始めた。
太い腕を振り回し、触手を無茶苦茶に振り回す。
もはや私を狙ったものではなく、ただの暴走だった。
ガシャンガシャンと大きな音が鳴り響く。
座卓が粉々に砕け散る。
障子が破れ、柱に亀裂が入る。
「や、やめて! お家が壊れちゃうでしょ!」
撫子が悲鳴を上げるが、札鬼は聞く耳を持たない。
ゴギッ……ミシミシッ……
如月家の居間全体が軋み始めた。
まるで家屋そのものが崩壊しかけているかのように。
そして――
バキィィィン!
障子戸が完全に吹き飛んだ瞬間、その向こうに別の景色が見えた。
「え……?」
畳敷きの広い座敷。格子状の美しい天井。そして、なにか大きな祭壇のようなもの。
おそらくそれは、花仙神宮の本殿だった。
「ここは……やっぱり……」
私は理解した。如月家の居間は幻だったのだ。
実際には、私たちは花仙神宮の中にいる。
撫子が作り出した偽の空間が、札鬼の暴走で壊れ始めているのだろう。
「嘘……嘘よ……なんで壊れるの……」
撫子が泣きそうな顔で呟いている。
彼女にとって、この如月家の空間は理想の風景のようなものだったのかもしれない。
それが崩れ去っている。彼女の歪んだ望みとともに――。
札鬼の暴走はさらに激しくなった。もはや撫子の制御も完全に外れている。
ズドン!
天井に大きな穴が開き、瓦が落ちてくる。
このままでは、空間は完全に崩壊するだろう。だけど、ああいう瓦礫に当たったら私も無事では済まないかもしれない。
私は決意を固めた。
(今、決着をつける)
刀を上段に構える。『桜に幕』の力を最大限に引き出し、刃に込める。
桜色の光が刀身を包み、花びらのような光の粒子が舞い始めた。
『機を見て決めろ。迷いは命取りだ』
また、皓様の言葉が頭に響く。
私は札鬼の懐に飛び込んだ。
「とどめよ!」
「や、やめ――!」
渾身の力を込めて、札鬼の核心を狙って振り下ろす。
桜の光が一閃し、如月家の偽りの空間を照らし出した。
■
札鬼が光に包まれて消滅すると、如月家の偽りの空間も完全に崩れ去った。
畳や障子、座卓といったものがまるで幻のように霞んで消えていく。
そして現れたのは、花仙神宮の広い部屋だった。
しかし、それは会議で使われていた部屋とは違う。もっと奥の、神聖な空間のようだった。
高い天井には複雑な彫刻が施され、床には畳。だがその畳も、何かの文様に沿って置かれている。
そして、正面には――
「あれは……」
巨大な祭壇があった。
白い大理石で作られた台座の上に、大きな鏡のような物が安置されている。
その鏡は静かに光を湛え、見る者を吸い込むような神秘的な輝きを放っていた。
鏡の周りにはまた別の文様が刻まれ、時折その文様が淡く光っているのが見える。
「綺麗……」
思わず呟いてしまう。それは確かに美しく、神々しいものだった。
でも、同時にとても重要なもののような気がする……。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが聞こえて、振り返ると撫子がその場にへたり込んでいた。
朱色の振袖は乱れ、丁寧に結った髪も崩れている。
もう、以前のような美しく整った姿ではなかった。
「撫子……」
「なんで……なんでよ……」
撫子が震え声で呟く。
「私の大切な場所が……お家が……全部壊れちゃった……」
その声には、深い絶望が込められていた。
「あそこは、私が一番安心できる場所だったのに……お姉様がいて、私が愛されていた場所だったのに……」
撫子が顔を覆って泣き始める。
私は複雑な気持ちでそれを見ていた。
撫子にとって、あの如月家は確かに大切な場所だったのだろう。
でも、それは私を犠牲にした上での平和だった。
私はあの場所で何度も。……何度も、心を殺されてきたのだ。
「もう……もう何もない……」
撫子の嗚咽が、静かな神殿に響く。
「お母様に言われた計画も失敗して……お姉様は強くなっちゃって……私には、もう何も残ってない……」
その姿を見ていると、怒りよりも哀れみの気持ちが湧いてくる。
撫子は確かに私を苦しめた。
でも、彼女自身も歪んだ愛情の中で育ち、間違った価値観を植え付けられてしまった被害者なのかもしれない。
「撫子、まだ遅くないわ」
私は彼女に近づいて、静かに声をかけた。
「あなたには、まだ時間がある。やり直すことだって……」
「やり直すですって?」
撫子が顔を上げた。その瞳は涙で濡れているが、まだ諦めていない光があった。
「何をやり直すって言うの? お姉様は私より強くて、みんなに愛されて……私には何も!」
「そんなことない。あなたにはあなたの……」
「嘘よ!」
撫子が立ち上がった。
「お姉様は何もわかってない! 私がどれだけ――!」
その時だった。
祭壇の向こうから、ゆっくりとした足音が響いてきた。
カツ、カツ、カツ……
上品な草履の音。そして、覚えのある気配。
「あら、まだやっていたの?」
祭壇の陰から現れたのは、美津子様だった。
「な……お義母、様……」
深い緑色の着物を着て、いつものように上品な笑みを浮かべている。
でも、その瞳には狂気じみた光が宿っていた。
「お、お母様……! どうして……ここに……」
「当然、計画を進めに来たのよ。……それにしても」
美津子が優雅に、そして邪悪に微笑む。
「――あなたはホントに役に立たないわねぇ、撫子?」
「え――?」
その瞬間、祭壇の鏡が不気味に光り始めた。
まるで、何か恐ろしいことが始まろうとしているかのように……。
あとがき:実際撫子は一度も役には立っていないのだ
まぁ美津子さんだって一度も計画成功してないけどね!
月読家の訓練場で、私は皓様と向かい合っていた。
いつものように木刀を手にして、基本的な型の稽古をしている最中だった。
「詩織、集中しろ。意識に乱れがある」
皓様の鋭い指摘に、私は慌てて姿勢を正す。
「は、はい!」
確かに、その日の私は少し上の空だった。
……前日に読んだ本の内容が気になって、どうしても集中できずにいた、だけなんだけど。
「もう一度、面打ちからだ」
皓様が木刀を構える。その姿は相変わらず美しく、見とれてしまいそうになる。
私も木刀を構え直し、面打ちの構えを取った。
「行きます!」
気合いを込めて振り下ろす。しかし――
カン!
皓様の木刀が私の手元を狙い撃ちし、木刀が手から弾き飛ばされた。
「あっ……」
木刀がからから回転しながら、訓練場の隅に転がっていく。
「武器を落とすことは、実戦では死を意味する」
皓様の厳しい声に、私は縮こまった。
「す、すみません……」
「謝るな。それより、今のような状況になった時、君はどうする?」
皓様が木刀の切っ先を私の喉元に向ける。
実際には触れていないが、その迫力に思わず後ずさりしそうになる。
「え、えっと……逃げます?」
「逃げられない状況なら?」
「……降参、します?」
私の情けない答えに、皓様はため息をついた。
「詩織、君には『桜に幕』の力がある。それを忘れるな」
「でも、武器がないと……」
「誰が、武器が必要だと言った?」
皓様は木刀を下ろし、私の前に歩いてきた。
「君の力は、既存の武器に宿らせるだけのものではない。霊気そのものを武器として具現化することも可能のはずだ」
「霊気を……武器に? そんなことができるんですか?」
「ああ。飛燕の奴がやっているのを見たことがあるはずだ。やってみせよう」
皓様は私から少し離れ、手のひらを前に差し出した。
すると、銀色の光が手のひらに集まり始める。それがゆっくりと形を成していき……。
「わあ……」
皓様の手の中に、月光を纏った美しい刀が現れた。
それは実体を持っているように見えるのに、どこか幻想的で神秘的だった。
「これが、霊気の具現化だ」
皓様がその刀を軽く振ると、風を切る音がする。確かに実体があるようだった。
「すごい……本物の刀みたいです」
「君にもできる。やってみろ」
皓様に促されて、私はおそるおそる手のひらを前に出した。
「でも、どうやって……?」
「まず、自分の霊気を感じろ。それから、その霊気に形を与えるイメージを持つんだ」
皓様が私の後ろに回り、私の手に自分の手を重ねてくれる。
「っ……」
突然の接触に驚いて声が出そうになってしまう。
皓様の手は冷たいけれど、とても大きくて安心感がある。
「集中しろ。君の霊気の流れを感じてみろ」
皓様の声が耳元で響く。近すぎて、心臓がどきどきしてしまう。
「は、はい……」
目を閉じて、体の中の霊気の流れを探ってみる。
最初はよくわからなかったが、だんだんと温かい何かが体を巡っているのを感じ始めた。
「感じられるか?」
「はい……なんだか、温かくて……」
「それを手のひらに集めろ。ゆっくりでいい」
言われた通り、その温かい力を手のひらに向かって流していく。すると、リボンがほのかに光り始めた。
「そうだ、その調子だ」
皓様の励ましの声に、さらに集中する。手のひらがじんじんと温かくなってきた。
「今度は、その力に形を与えろ。君が一番使いやすい武器の形を思い浮かべるんだ」
武器の形……。
私が一番慣れているのは、やはり剣だろうか。竹刀や木刀を何年も使ってきたから。
剣の形をイメージしながら、霊気をさらに集中させていく。
「あ……」
手のひらに、薄っすらと桜色の光が集まり始めた。それがゆっくりと細長い形になっていく。
「できてる……本当にできてます!」
「まだ完成していない。最後まで集中しろ」
皓様の手が、私の手をしっかりと支えてくれる。
その安心感に包まれながら、私は必死に霊気をコントロールした。
そして――
「できました……!」
私の手の中に、桜色に光る短剣が現れた。
まだ不安定で、光がゆらゆらと揺れているけれど、確かに武器の形をしている。
「素晴らしい。初回でここまでできるとは思わなかった」
皓様の褒め言葉に、視界がぱあっと明るくなるような心地がした。
「本当ですか?」
「ああ。だが、まだ安定していない。もっと練習が必要だ」
確かに、手の中の短剣はぼんやりとして、今にも消えそうだった。
「これから毎日、この練習も取り入れよう。いざという時に、必ず役に立つ」
「はい!」
皓様に教えてもらった新しい技術に、私は心躍らせていた。
■
「……撫子」
私の手には確かに、桜色の刀が握られていた。
あの時よりもずっと安定している。形もはっきりとして、長さも実際の刀と遜色ない。
「な、なによそれ……! そんなの、そんなのがあるなんて聞いてない……!」
撫子が怯えたような声を上げる。
「聞いていないのも当然よ。これは私が、皓様と一緒に身につけた力だもの」
私は刀を構え直し、札鬼と撫子を見据えた。
もう怯えてはいない。
皓様が教えてくれた技術が、私を支えてくれている。
「ギュオオオォォ……!」
札鬼が雄叫びを上げて襲いかかってきた。
松の幹のような太い腕が、私の頭上に振り下ろされる。
「っ!」
咄嗟に横に跳んで避ける。札鬼の拳が畳を砕き、木片が飛び散った。
そのまま回転するように身を翻し、桜色の刀で札鬼の脇腹を斬りつける。
「ギャアアアッ!」
札鬼が苦悶の声を上げ、黒い液体を滴らせた。確かな手応えがあった。
(皓様の教えの通り……相手の懐に飛び込んで、一撃離脱!)
すぐに距離を取る。札鬼の反撃の触手が、私がいた場所を薙ぎ払った。
「そ、そんな……お姉様が、あんなに強いなんて……」
撫子が座卓の陰に隠れながら震え声で呟く。
札鬼に指示を出すこともできずに、ただ呆然と戦いを見つめている。
札鬼が今度は複数の触手を同時に繰り出してきた。
赤い短冊のような触手が、鞭のようにしなって襲いかかる。
私は刀を縦に構え、触手を次々と切り払っていく。
一本、二本、三本――焦らず、確実に。
だが四本目の触手が、私の頬を掠めた。
「あっ……!」
頬に温かいものが流れる。血だった。
でも、致命傷ではない。むしろ、それで頭が冷静になった。
(完璧に避ける必要はない。致命傷さえ避ければいい)
皓様との実戦練習で学んだことだ。
全ての攻撃を完璧に避けようとすると、かえって動きが硬くなる。
札鬼が怒りに任せて突進してきた。巨大な体躯で押し潰そうという魂胆だろう。
私は刀を横に構え、札鬼の突進を受け流すように斬り上げた。
「はあぁっ!」
桜の霊気を込めた一撃が、札鬼の胸を大きく裂く。
「ギギギィィィ……!」
札鬼がよろめき、後ずさった。だが、まだ倒れない。
傷口から黒い煙が立ち上り、ゆっくりと再生を始めている。
(再生能力があるのね……なら、一気に決めないと)
私は刀に更なる霊気を込めた。桜色の光がより強く輝く。
その時、札鬼が苦し紛れに暴れ始めた。
太い腕を振り回し、触手を無茶苦茶に振り回す。
もはや私を狙ったものではなく、ただの暴走だった。
ガシャンガシャンと大きな音が鳴り響く。
座卓が粉々に砕け散る。
障子が破れ、柱に亀裂が入る。
「や、やめて! お家が壊れちゃうでしょ!」
撫子が悲鳴を上げるが、札鬼は聞く耳を持たない。
ゴギッ……ミシミシッ……
如月家の居間全体が軋み始めた。
まるで家屋そのものが崩壊しかけているかのように。
そして――
バキィィィン!
障子戸が完全に吹き飛んだ瞬間、その向こうに別の景色が見えた。
「え……?」
畳敷きの広い座敷。格子状の美しい天井。そして、なにか大きな祭壇のようなもの。
おそらくそれは、花仙神宮の本殿だった。
「ここは……やっぱり……」
私は理解した。如月家の居間は幻だったのだ。
実際には、私たちは花仙神宮の中にいる。
撫子が作り出した偽の空間が、札鬼の暴走で壊れ始めているのだろう。
「嘘……嘘よ……なんで壊れるの……」
撫子が泣きそうな顔で呟いている。
彼女にとって、この如月家の空間は理想の風景のようなものだったのかもしれない。
それが崩れ去っている。彼女の歪んだ望みとともに――。
札鬼の暴走はさらに激しくなった。もはや撫子の制御も完全に外れている。
ズドン!
天井に大きな穴が開き、瓦が落ちてくる。
このままでは、空間は完全に崩壊するだろう。だけど、ああいう瓦礫に当たったら私も無事では済まないかもしれない。
私は決意を固めた。
(今、決着をつける)
刀を上段に構える。『桜に幕』の力を最大限に引き出し、刃に込める。
桜色の光が刀身を包み、花びらのような光の粒子が舞い始めた。
『機を見て決めろ。迷いは命取りだ』
また、皓様の言葉が頭に響く。
私は札鬼の懐に飛び込んだ。
「とどめよ!」
「や、やめ――!」
渾身の力を込めて、札鬼の核心を狙って振り下ろす。
桜の光が一閃し、如月家の偽りの空間を照らし出した。
■
札鬼が光に包まれて消滅すると、如月家の偽りの空間も完全に崩れ去った。
畳や障子、座卓といったものがまるで幻のように霞んで消えていく。
そして現れたのは、花仙神宮の広い部屋だった。
しかし、それは会議で使われていた部屋とは違う。もっと奥の、神聖な空間のようだった。
高い天井には複雑な彫刻が施され、床には畳。だがその畳も、何かの文様に沿って置かれている。
そして、正面には――
「あれは……」
巨大な祭壇があった。
白い大理石で作られた台座の上に、大きな鏡のような物が安置されている。
その鏡は静かに光を湛え、見る者を吸い込むような神秘的な輝きを放っていた。
鏡の周りにはまた別の文様が刻まれ、時折その文様が淡く光っているのが見える。
「綺麗……」
思わず呟いてしまう。それは確かに美しく、神々しいものだった。
でも、同時にとても重要なもののような気がする……。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが聞こえて、振り返ると撫子がその場にへたり込んでいた。
朱色の振袖は乱れ、丁寧に結った髪も崩れている。
もう、以前のような美しく整った姿ではなかった。
「撫子……」
「なんで……なんでよ……」
撫子が震え声で呟く。
「私の大切な場所が……お家が……全部壊れちゃった……」
その声には、深い絶望が込められていた。
「あそこは、私が一番安心できる場所だったのに……お姉様がいて、私が愛されていた場所だったのに……」
撫子が顔を覆って泣き始める。
私は複雑な気持ちでそれを見ていた。
撫子にとって、あの如月家は確かに大切な場所だったのだろう。
でも、それは私を犠牲にした上での平和だった。
私はあの場所で何度も。……何度も、心を殺されてきたのだ。
「もう……もう何もない……」
撫子の嗚咽が、静かな神殿に響く。
「お母様に言われた計画も失敗して……お姉様は強くなっちゃって……私には、もう何も残ってない……」
その姿を見ていると、怒りよりも哀れみの気持ちが湧いてくる。
撫子は確かに私を苦しめた。
でも、彼女自身も歪んだ愛情の中で育ち、間違った価値観を植え付けられてしまった被害者なのかもしれない。
「撫子、まだ遅くないわ」
私は彼女に近づいて、静かに声をかけた。
「あなたには、まだ時間がある。やり直すことだって……」
「やり直すですって?」
撫子が顔を上げた。その瞳は涙で濡れているが、まだ諦めていない光があった。
「何をやり直すって言うの? お姉様は私より強くて、みんなに愛されて……私には何も!」
「そんなことない。あなたにはあなたの……」
「嘘よ!」
撫子が立ち上がった。
「お姉様は何もわかってない! 私がどれだけ――!」
その時だった。
祭壇の向こうから、ゆっくりとした足音が響いてきた。
カツ、カツ、カツ……
上品な草履の音。そして、覚えのある気配。
「あら、まだやっていたの?」
祭壇の陰から現れたのは、美津子様だった。
「な……お義母、様……」
深い緑色の着物を着て、いつものように上品な笑みを浮かべている。
でも、その瞳には狂気じみた光が宿っていた。
「お、お母様……! どうして……ここに……」
「当然、計画を進めに来たのよ。……それにしても」
美津子が優雅に、そして邪悪に微笑む。
「――あなたはホントに役に立たないわねぇ、撫子?」
「え――?」
その瞬間、祭壇の鏡が不気味に光り始めた。
まるで、何か恐ろしいことが始まろうとしているかのように……。
あとがき:実際撫子は一度も役には立っていないのだ
まぁ美津子さんだって一度も計画成功してないけどね!
