……暗い。
……狭い。
そして、とてもさむい……。
私は押し入れの奥で小さく身を縮めて、必死に涙を堪えていた。
でも、もう限界だった。お腹がぐうぐうと鳴って、喉がからからに渇いている。
「お義母様、ごめんなさい……ごめんなさい……」
か細い声で謝り続ける。
まだ八歳だった私の声は、震えて掠れていた。
――何が悪かったのか、よくわからなかった。
撫子が泣きながら義母様に訴えていたのは覚えている。
『お姉様が私のお人形を壊したの! わざと、わざと足で踏んづけて!』
『まあ、なんて意地悪な! 詩織、本当なの!?』
私は首を振った。お人形なんて触ってもいない。
撫子の大切なお人形を壊すなんて、そんなひどいことするはずがない。
『ち、ちがう……! 私、そんなことしてません!』
『嘘をつくなんて! 前妻の子はこれだから……!』
義母様の手が、私の頬を勢いよく叩いた。痛くて、頭がくらくらした。
『お姉様は嘘つきよ! 嘘つき!』
撫子も一緒になって私を責める。
涙を流しながら、まるで本当に傷ついているような顔で。
でも私は、本当に何もしていなかった。
撫子のお人形のそばにも近づいていない。なのに、なぜ……。
『押し入れに入りなさい! 夕飯抜きよ!』
『お願いします、何もしてないんです……!』
『うるさい! 反省するまで出さないわよ!』
そうして私は、この暗い押し入れに閉じ込められた。
時間の感覚がわからない。
窓もないこの場所では、外が明るいのか暗いのかもわからない。
お腹はもうぺこぺこで、喉は砂漠みたいに乾いている。
「お父様……お父様、助けて……」
小さく父の名前を呼んでみる。でも、父は今日も遅い。
それに、帰ってきても義母様の言うことを聞くだけ。私の味方になってくれたことなんて、一度もない。
お腹がまたぐうぐうと鳴いた。痛いくらいに空っぽで、立っていることもできない。
「ひっく……うっく……」
しゃくりあげながら泣く。涙も、もうあまり出てこない。
なんで私だけ、こんな目に遭うんだろう。なんで撫子は愛されて、私は嫌われるんだろう。
(……お母様が生きていたら、こんなことにはならなかったのかな……)
うっすらとしか覚えていないお母様の顔を想像しながら、私はまた小さく嗚咽を漏らした。
どれだけ時間が経ったかわからない。
お腹の痛みと喉の渇きで、だんだん意識がぼんやりしてくる。
「お母様……お母様……会いたいよぉ……」
暗闇の中で、私は母への想いを呟き続けた。
助けて。
誰か、助けて。
私は本当に、何も悪いことしてないのに――
「詩織……詩織」
遠くから、誰かの声が聞こえる。優しくて、温かい声。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
その声に、私はゆっくりと瞼を開いた。
■
「皓、様……?」
見慣れた天井。見慣れた部屋。
そして、心配そうに私を見下ろす美しい銀髪の人。
……夢、だったんだ。あの押し入れの記憶は。
でも、頬に涙の跡が残っている。きっと、寝ながら泣いていたのだろう。
「ひどくうなされていた。悪い夢を見ていたようだな」
皓様が優しく私の髪を撫でてくれる。
その手の温かさに、ようやく現実に戻ってきた実感が湧いた。
「すみ、ません……お騒がせして」
「謝ることではない。辛い夢だったのだろう?」
皓様の紫色の瞳に、深い慈愛が宿っている。
その優しさに触れると、また涙が溢れそうになる。
あれは実際にあった、昔の記憶。
あの暗くて狭い押し入れの中で、誰にも助けてもらえずに泣いていた。
……あれから確か、遅くにお父様が帰ってきて。一応出してくれたっけ。
それからも私は押し入れが怖くなって、しばらく近づけなかった。
(でも、今は違う……よね)
今は、私を心配してくれる人がいる。
守ってくれる人がいる。
「皓様……」
「なんだ?」
「ありがとうございます。起こしてくださって」
私がそう言うと、皓様は少し眉を寄せた。
「君は、もう一人じゃない。それを忘れるな」
「……はい」
その言葉が、胸の奥を温かく包んでくれる。
一人じゃない。
この言葉を聞くたび、私は救われる気持ちになる。
「茶を入れてこよう。少し待っていろ」
「あっ、あの……」
皓様が立ち上がろうとしたとき、私は慌てて袖を掴んだ。
「あの……もう少しだけ、隣にいていただけませんか?」
「……ああ。構わない」
皓様は再び私の隣に座り、私の手をそっと握ってくれた。
冷たいはずの手が、今はとても温かい。
「大丈夫か? 震えているようだが」
「はい……大丈夫です。皓様がいてくださるから」
握られた手の温もりを感じながら、私は深く息を吸った。
桜の香りがかすかに漂う。私の髪の香りだろうか……。
……私はもうあの頃の、誰にも愛されない詩織じゃない。
私には、大切な人がいる。
そして、大切に思ってくれる人もいる。
そう繰り返し胸の中で唱える。
だけど、本当だろうか。私はいつかまた、あの地獄に引き戻されるんじゃないか。
……夢のせいか、そんなことを考えてしまう。
「今度そんな夢を見たら、私の部屋に来るといい。一人で我慢する必要はない」
「え、あ……っ、ありがとう、ございます」
皓様の言葉に、また頬が熱くなる。
昔の私だったら、迷惑をかけたくないと遠慮してしまっただろう。
でも今は、皓様の優しさを素直に受け取ることができる。
それも、きっと成長の証なのかもしれない。
「さて、茶の準備をしてこよう」
「あっ、お待ちください。私が淹れてきます……!」
■
そうして私がお茶を淹れて、私たちは居間で静かに朝の時間を過ごしていた。
悪夢の余韻はまだ残っているけれど、皓様の優しさのおかげで少しずつ心が落ち着いてくる。温かい茶の香りも、気持ちを和らげてくれた。
「今日の訓練は軽めにしよう。昨夜はよく眠れなかったようだしな」
「いえ、大丈夫です。私も頑丈ですから!」
「無理はするな。君の体調が第一だ」
皓様のそんな優しい言葉に、胸が温かくなる。
――そんな静かな朝の時間を破ったのは、庭の方から響いてきた豪快な声だった。
「皓ー! 急用だ! いるかー!」
その瞬間、皓様の表情がぴくりと動いた。そして深いため息をつく。
「また、か」
「皓様? 今の声、もしかして……」
「飛燕だろうな。まったく、朝からなんの用事やら……」
皓様の声には明らかな困惑が混じっていた。
程なくして、使用人に案内された茶色い髪の青年が居間に現れる。
「よお皓、朝から悪いな!」
飛燕様は相変わらず人懐っこい笑顔で、ずかずかと部屋に入ってきた。
そして私を見つけると、軽く片手を上げる。
「おっ、詩織ちゃんも一緒か。おはよう」
「お、おはようございます、飛燕様」
私は慌てて頭を下げた。前に一度お会いしているとはいえ、まだ緊張してしまう。
「で、今度は何の用だ? また面倒な依頼でも持ち込むつもりか」
皓様の冷たい視線を受けながらも、飛燕様は全く動じていない。
むしろ、少し表情を引き締めた。
「今回は冗談じゃないんだ。緊急事態だよ、皓」
「緊急事態?」
皓様の声にも、急に緊張が走る。
飛燕様は私と皓様を見回してから、大きく息を吸った。
「昨夜遅く、『九條家』から各家に緊急連絡があった。十二家緊急会議の開催だ」
皓様が眉をひそめる。
「十二家会議は年に一度、春の例会のみのはずだが……」
「ああ。だから緊急なんだ」
飛燕様は私の方を見て、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「詩織ちゃん、君のことが議題の中心になる」
「え……私の、ですか?」
思わず声が震えてしまう。私が、十二家なんていう大きな組織の議題に……?
「夕霧の報告書が原因でな。アイツ、ホント昔からバカ真面目で」
皓様が静かに説明してくれる。
「君の異能の成長と、先日の学校での大規模浄化の件。それらが十二家全体に大きな衝撃を与えたようだな」
「そういうこった。紅葉がちょいと誤魔化して書いてくれりゃ騒ぎにもならなかったっつーのによ」
飛燕様が頷き、肩をすくめた。
体育祭のときの、紅葉様の姿を思い出す。真面目な方、という印象はたしかに受けた。
「桜花家の血を引く者が現れた。それも、これまでにない強大な力を持って。これは十二家にとって、百年に一度の大事件だからな」
「百年に一度……」
「問題は、君の処遇をどうするかってことだ」
飛燕様の表情が、少し曇る。そ、そんな大げさな話なのだろうか。
「桜花家は百年前の大乱で途絶えた。その血を引く君が現れたとなれば、桜花家の復活を認めるかどうか。そして、君を十二家の一員として迎え入れるかどうか」
「それと、だ」
皓様が続ける。その声には、警戒の響きがあった。
「君の力を政治的に利用しようとする輩も出てくるだろう。十二家の中には、そういう思考の者もいる」
「政治的に……利用?」
「ぶっちゃけそれってお前のこ――」
晧様が素早く飛燕様の口をふさいだ。な、なんだったのだろう。
「心配するな、詩織」
皓様が私の手をそっと握ってくれた。
「私が君を守る。誰にも、君を政治の道具にはさせない」
「皓様……」
「だから政治してるのはお前――グゥッ」
飛燕様の脇腹に晧様の蹴りが入る。だ、大丈夫だろうか……。
「……で、会議はいつなんだ?」
皓様が飛燕様に尋ねる。
「あ、明日の午後だ。場所は花仙神宮」
「明日……」
あまりにも急な話に、頭がついていかない。
「詩織ちゃんも出席が求められている」
飛燕様が私を見た。その瞳には、励ますような優しさがある。
「でも大丈夫だ。皓もいるし、俺もいる。君の味方は少なくない」
「飛燕様……」
「それに」
飛燕様がにっと笑う。
「君の人となりは俺も知ってる。いつも通り堂々としていればいい。きっと、みんな君を認めてくれるさ」
その言葉に、少しだけ勇気が湧いてくる。
でも、やはり緊張は隠せない。
「詳しい議題は決まっているのか?」
「桜花家の復活について、それから……」
飛燕様が少し言葉を濁した。
「それから?」
「お前らの婚約についても、確認を求められるかもしれない」
「!」
私の顔が、一気に熱くなる。私と晧様の婚約の話を、そんな大勢の前でするの……?
「婚約の、確認って……そんな」
「詩織」
皓様が私を見つめる。その瞳には、確かな決意があった。
「我々の関係は、誰に承認されようとされまいと変わらない。そうだろう?」
「は、はい……」
頷きながらも、やはり恥ずかしい。十二家という大きな組織に、私たちの関係を認めてもらうなんて。
「まあ、とにかく明日だ」
飛燕様が立ち上がる。
「準備はしておけよ。特に詩織ちゃん、緊張するだろうけど、君らしくしていれば大丈夫だ。ホント~にいい子だからな」
「あ、ありがとうございます……」
「飛燕。詩織を口説こうとするのはやめろ」
「ハイハイ。じゃあ、俺はこれで失礼するよ。明日、会場で会おう」
飛燕様は軽やかに手を振って、出て行った。
部屋に静寂が戻る。
しかし、その静寂は朝のような穏やかなものではなく、嵐の前のような緊張を孕んでいた。
「皓様……」
「なんだ?」
「私、本当に大丈夫でしょうか? 十二家の方々の前で……」
不安を隠しきれずに呟く。
皓様は私の隣に座り直し、私の肩に手を置いた。
「君は強くなった。昔の君と今の君は違う」
「でも……」
「それに」
皓様の手が、私の頬にそっと触れる。
「私がいる。君を一人にはしない」
その優しい言葉に、胸の奥が温かくなる。
明日、十二家会議。
きっと今までで一番大きな試練が待っている。
でも、皓様がいてくれる。
それだけで、どんなことにも立ち向かっていける気がした。
「はい。頑張ります」
私は皓様を見つめ返し、小さく頷いた。
■
夕方、撫子は如月家から少し離れた街角の公衆電話ボックスにいた。
母からの連絡を受けてから、彼女の心は再び燃え上がっていた。
あの忌々しい詩織への復讐。今度こそ、完璧に仕留めてやる。
約束の時間に、黒電話が鳴った。
撫子は慌てて受話器を取る。
「も、もしもし……」
『おォ、君が撫子ちゃんかなァ?』
電話の向こうから、妙に甘い男性の声が聞こえてきた。
どこか粘りつくような、蜜のような声。
「はい……あの、お母様から聞いています。私に、情報をくださるとか……」
『そうだよォ。君のお母様とは、古いお付き合いでねェ』
相手の声には、不思議な魅力があった。
聞いているだけで、なぜか安心してしまう。
「どのような情報を……?」
『詩織ちゃんのことだよォ。君の憎いお姉様のねェ』
詩織の名前が出た途端、撫子の顔が歪んだ。
「あの女のことなら、何でも知りたいです!」
『ふふふ……そうだろうねェ。実はねェ、明日、とても大切な集まりがあるんだァ』
「大切な集まり……?」
『十二家会議。詩織ちゃんも出席するよォ』
撫子は息を呑んだ。十二家という言葉は、母から聞いた。
花札使いたちの最高権力機関。
呪詛花札に、札鬼……それらも、母からおおかた全て聞いていた。
月読皓やあの女が、不思議な力を持っているということも。
「どうして、あの女がそんな……」
『詳しいことは君には関係ないがねェ、とにかく絶好の機会だと思わないかァ?』
電話の向こうの声が、ますます甘く響く。
まるで悪魔の囁きのように。
「機会……ですか?」
『そうだァ。詩織ちゃんが一人になる瞬間を作れるかもしれないねェ』
「!」
撫子の心臓が高鳴った。
一人になる瞬間。それは、復讐の絶好のチャンス。
「教えてください! どこで、いつ……!」
『落ち着きなさい。まず、場所から教えてあげるよォ』
相手は会議の場所と時間を、詳細に教えてくれた。
撫子は必死にメモを取る。
「でも、どうやってお姉様を一人に……?」
『それは君次第だァ。でも、いい方法があるよォ』
「方法?」
『罠を仕掛けるのさァ。詩織ちゃん専用の、特別な罠をねェ』
その声に、ぞくりと背筋が震えた。
でも、怖さよりも期待が勝っていた。
「教えてください……何でもします」
『ふふふ……いい子だねェ、撫子ちゃんは。君のお母様が用意してくれた札と組み合わせれば、きっと素晴らしい効果が期待できるだろうねェ』
撫子は母から受け取った新しい呪詛花札に触れた。
前回よりも、遥かに強力な気配を放つ札。
以前はうまく使いこなせなかったけど、今度こそお母様の期待に答えてみせる……!
「本当に……本当に、あの女を……?」
『もちろんだァ。でも、君が望むならの話だよォ? 強制はしないさァ』
しかし、その声には確信があった。
撫子が断るはずがないと、完全に見透かしている。
「やります……私、やります!」
『いい返事だねェ。では、詳しい手順を教えてあげようかァ』
電話の向こうから、悪魔のような笑い声が漏れた。
夕日が沈みかけた街角で、撫子は復讐の計画に耳を傾けていた。
明日、詩織に本当の絶望を味わわせてやる。
今度こそ、完璧に。
『それじゃあ、明日を楽しみにしているよォ、撫子ちゃん』
電話が切れた後も、撫子の耳にはあの甘い声が残っていた。
公衆電話ボックスを出ると、彼女の顔には狂気じみた笑みが浮かんでいた。
「お姉様……明日こそ、あなたの最期よ」
夜の帳が降り始めた帝都に、撫子の呟きが消えていった。
あとがき:どうしてそんなに足を引っ張ることにやる気満々になれるんでしょうね……
……狭い。
そして、とてもさむい……。
私は押し入れの奥で小さく身を縮めて、必死に涙を堪えていた。
でも、もう限界だった。お腹がぐうぐうと鳴って、喉がからからに渇いている。
「お義母様、ごめんなさい……ごめんなさい……」
か細い声で謝り続ける。
まだ八歳だった私の声は、震えて掠れていた。
――何が悪かったのか、よくわからなかった。
撫子が泣きながら義母様に訴えていたのは覚えている。
『お姉様が私のお人形を壊したの! わざと、わざと足で踏んづけて!』
『まあ、なんて意地悪な! 詩織、本当なの!?』
私は首を振った。お人形なんて触ってもいない。
撫子の大切なお人形を壊すなんて、そんなひどいことするはずがない。
『ち、ちがう……! 私、そんなことしてません!』
『嘘をつくなんて! 前妻の子はこれだから……!』
義母様の手が、私の頬を勢いよく叩いた。痛くて、頭がくらくらした。
『お姉様は嘘つきよ! 嘘つき!』
撫子も一緒になって私を責める。
涙を流しながら、まるで本当に傷ついているような顔で。
でも私は、本当に何もしていなかった。
撫子のお人形のそばにも近づいていない。なのに、なぜ……。
『押し入れに入りなさい! 夕飯抜きよ!』
『お願いします、何もしてないんです……!』
『うるさい! 反省するまで出さないわよ!』
そうして私は、この暗い押し入れに閉じ込められた。
時間の感覚がわからない。
窓もないこの場所では、外が明るいのか暗いのかもわからない。
お腹はもうぺこぺこで、喉は砂漠みたいに乾いている。
「お父様……お父様、助けて……」
小さく父の名前を呼んでみる。でも、父は今日も遅い。
それに、帰ってきても義母様の言うことを聞くだけ。私の味方になってくれたことなんて、一度もない。
お腹がまたぐうぐうと鳴いた。痛いくらいに空っぽで、立っていることもできない。
「ひっく……うっく……」
しゃくりあげながら泣く。涙も、もうあまり出てこない。
なんで私だけ、こんな目に遭うんだろう。なんで撫子は愛されて、私は嫌われるんだろう。
(……お母様が生きていたら、こんなことにはならなかったのかな……)
うっすらとしか覚えていないお母様の顔を想像しながら、私はまた小さく嗚咽を漏らした。
どれだけ時間が経ったかわからない。
お腹の痛みと喉の渇きで、だんだん意識がぼんやりしてくる。
「お母様……お母様……会いたいよぉ……」
暗闇の中で、私は母への想いを呟き続けた。
助けて。
誰か、助けて。
私は本当に、何も悪いことしてないのに――
「詩織……詩織」
遠くから、誰かの声が聞こえる。優しくて、温かい声。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
その声に、私はゆっくりと瞼を開いた。
■
「皓、様……?」
見慣れた天井。見慣れた部屋。
そして、心配そうに私を見下ろす美しい銀髪の人。
……夢、だったんだ。あの押し入れの記憶は。
でも、頬に涙の跡が残っている。きっと、寝ながら泣いていたのだろう。
「ひどくうなされていた。悪い夢を見ていたようだな」
皓様が優しく私の髪を撫でてくれる。
その手の温かさに、ようやく現実に戻ってきた実感が湧いた。
「すみ、ません……お騒がせして」
「謝ることではない。辛い夢だったのだろう?」
皓様の紫色の瞳に、深い慈愛が宿っている。
その優しさに触れると、また涙が溢れそうになる。
あれは実際にあった、昔の記憶。
あの暗くて狭い押し入れの中で、誰にも助けてもらえずに泣いていた。
……あれから確か、遅くにお父様が帰ってきて。一応出してくれたっけ。
それからも私は押し入れが怖くなって、しばらく近づけなかった。
(でも、今は違う……よね)
今は、私を心配してくれる人がいる。
守ってくれる人がいる。
「皓様……」
「なんだ?」
「ありがとうございます。起こしてくださって」
私がそう言うと、皓様は少し眉を寄せた。
「君は、もう一人じゃない。それを忘れるな」
「……はい」
その言葉が、胸の奥を温かく包んでくれる。
一人じゃない。
この言葉を聞くたび、私は救われる気持ちになる。
「茶を入れてこよう。少し待っていろ」
「あっ、あの……」
皓様が立ち上がろうとしたとき、私は慌てて袖を掴んだ。
「あの……もう少しだけ、隣にいていただけませんか?」
「……ああ。構わない」
皓様は再び私の隣に座り、私の手をそっと握ってくれた。
冷たいはずの手が、今はとても温かい。
「大丈夫か? 震えているようだが」
「はい……大丈夫です。皓様がいてくださるから」
握られた手の温もりを感じながら、私は深く息を吸った。
桜の香りがかすかに漂う。私の髪の香りだろうか……。
……私はもうあの頃の、誰にも愛されない詩織じゃない。
私には、大切な人がいる。
そして、大切に思ってくれる人もいる。
そう繰り返し胸の中で唱える。
だけど、本当だろうか。私はいつかまた、あの地獄に引き戻されるんじゃないか。
……夢のせいか、そんなことを考えてしまう。
「今度そんな夢を見たら、私の部屋に来るといい。一人で我慢する必要はない」
「え、あ……っ、ありがとう、ございます」
皓様の言葉に、また頬が熱くなる。
昔の私だったら、迷惑をかけたくないと遠慮してしまっただろう。
でも今は、皓様の優しさを素直に受け取ることができる。
それも、きっと成長の証なのかもしれない。
「さて、茶の準備をしてこよう」
「あっ、お待ちください。私が淹れてきます……!」
■
そうして私がお茶を淹れて、私たちは居間で静かに朝の時間を過ごしていた。
悪夢の余韻はまだ残っているけれど、皓様の優しさのおかげで少しずつ心が落ち着いてくる。温かい茶の香りも、気持ちを和らげてくれた。
「今日の訓練は軽めにしよう。昨夜はよく眠れなかったようだしな」
「いえ、大丈夫です。私も頑丈ですから!」
「無理はするな。君の体調が第一だ」
皓様のそんな優しい言葉に、胸が温かくなる。
――そんな静かな朝の時間を破ったのは、庭の方から響いてきた豪快な声だった。
「皓ー! 急用だ! いるかー!」
その瞬間、皓様の表情がぴくりと動いた。そして深いため息をつく。
「また、か」
「皓様? 今の声、もしかして……」
「飛燕だろうな。まったく、朝からなんの用事やら……」
皓様の声には明らかな困惑が混じっていた。
程なくして、使用人に案内された茶色い髪の青年が居間に現れる。
「よお皓、朝から悪いな!」
飛燕様は相変わらず人懐っこい笑顔で、ずかずかと部屋に入ってきた。
そして私を見つけると、軽く片手を上げる。
「おっ、詩織ちゃんも一緒か。おはよう」
「お、おはようございます、飛燕様」
私は慌てて頭を下げた。前に一度お会いしているとはいえ、まだ緊張してしまう。
「で、今度は何の用だ? また面倒な依頼でも持ち込むつもりか」
皓様の冷たい視線を受けながらも、飛燕様は全く動じていない。
むしろ、少し表情を引き締めた。
「今回は冗談じゃないんだ。緊急事態だよ、皓」
「緊急事態?」
皓様の声にも、急に緊張が走る。
飛燕様は私と皓様を見回してから、大きく息を吸った。
「昨夜遅く、『九條家』から各家に緊急連絡があった。十二家緊急会議の開催だ」
皓様が眉をひそめる。
「十二家会議は年に一度、春の例会のみのはずだが……」
「ああ。だから緊急なんだ」
飛燕様は私の方を見て、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「詩織ちゃん、君のことが議題の中心になる」
「え……私の、ですか?」
思わず声が震えてしまう。私が、十二家なんていう大きな組織の議題に……?
「夕霧の報告書が原因でな。アイツ、ホント昔からバカ真面目で」
皓様が静かに説明してくれる。
「君の異能の成長と、先日の学校での大規模浄化の件。それらが十二家全体に大きな衝撃を与えたようだな」
「そういうこった。紅葉がちょいと誤魔化して書いてくれりゃ騒ぎにもならなかったっつーのによ」
飛燕様が頷き、肩をすくめた。
体育祭のときの、紅葉様の姿を思い出す。真面目な方、という印象はたしかに受けた。
「桜花家の血を引く者が現れた。それも、これまでにない強大な力を持って。これは十二家にとって、百年に一度の大事件だからな」
「百年に一度……」
「問題は、君の処遇をどうするかってことだ」
飛燕様の表情が、少し曇る。そ、そんな大げさな話なのだろうか。
「桜花家は百年前の大乱で途絶えた。その血を引く君が現れたとなれば、桜花家の復活を認めるかどうか。そして、君を十二家の一員として迎え入れるかどうか」
「それと、だ」
皓様が続ける。その声には、警戒の響きがあった。
「君の力を政治的に利用しようとする輩も出てくるだろう。十二家の中には、そういう思考の者もいる」
「政治的に……利用?」
「ぶっちゃけそれってお前のこ――」
晧様が素早く飛燕様の口をふさいだ。な、なんだったのだろう。
「心配するな、詩織」
皓様が私の手をそっと握ってくれた。
「私が君を守る。誰にも、君を政治の道具にはさせない」
「皓様……」
「だから政治してるのはお前――グゥッ」
飛燕様の脇腹に晧様の蹴りが入る。だ、大丈夫だろうか……。
「……で、会議はいつなんだ?」
皓様が飛燕様に尋ねる。
「あ、明日の午後だ。場所は花仙神宮」
「明日……」
あまりにも急な話に、頭がついていかない。
「詩織ちゃんも出席が求められている」
飛燕様が私を見た。その瞳には、励ますような優しさがある。
「でも大丈夫だ。皓もいるし、俺もいる。君の味方は少なくない」
「飛燕様……」
「それに」
飛燕様がにっと笑う。
「君の人となりは俺も知ってる。いつも通り堂々としていればいい。きっと、みんな君を認めてくれるさ」
その言葉に、少しだけ勇気が湧いてくる。
でも、やはり緊張は隠せない。
「詳しい議題は決まっているのか?」
「桜花家の復活について、それから……」
飛燕様が少し言葉を濁した。
「それから?」
「お前らの婚約についても、確認を求められるかもしれない」
「!」
私の顔が、一気に熱くなる。私と晧様の婚約の話を、そんな大勢の前でするの……?
「婚約の、確認って……そんな」
「詩織」
皓様が私を見つめる。その瞳には、確かな決意があった。
「我々の関係は、誰に承認されようとされまいと変わらない。そうだろう?」
「は、はい……」
頷きながらも、やはり恥ずかしい。十二家という大きな組織に、私たちの関係を認めてもらうなんて。
「まあ、とにかく明日だ」
飛燕様が立ち上がる。
「準備はしておけよ。特に詩織ちゃん、緊張するだろうけど、君らしくしていれば大丈夫だ。ホント~にいい子だからな」
「あ、ありがとうございます……」
「飛燕。詩織を口説こうとするのはやめろ」
「ハイハイ。じゃあ、俺はこれで失礼するよ。明日、会場で会おう」
飛燕様は軽やかに手を振って、出て行った。
部屋に静寂が戻る。
しかし、その静寂は朝のような穏やかなものではなく、嵐の前のような緊張を孕んでいた。
「皓様……」
「なんだ?」
「私、本当に大丈夫でしょうか? 十二家の方々の前で……」
不安を隠しきれずに呟く。
皓様は私の隣に座り直し、私の肩に手を置いた。
「君は強くなった。昔の君と今の君は違う」
「でも……」
「それに」
皓様の手が、私の頬にそっと触れる。
「私がいる。君を一人にはしない」
その優しい言葉に、胸の奥が温かくなる。
明日、十二家会議。
きっと今までで一番大きな試練が待っている。
でも、皓様がいてくれる。
それだけで、どんなことにも立ち向かっていける気がした。
「はい。頑張ります」
私は皓様を見つめ返し、小さく頷いた。
■
夕方、撫子は如月家から少し離れた街角の公衆電話ボックスにいた。
母からの連絡を受けてから、彼女の心は再び燃え上がっていた。
あの忌々しい詩織への復讐。今度こそ、完璧に仕留めてやる。
約束の時間に、黒電話が鳴った。
撫子は慌てて受話器を取る。
「も、もしもし……」
『おォ、君が撫子ちゃんかなァ?』
電話の向こうから、妙に甘い男性の声が聞こえてきた。
どこか粘りつくような、蜜のような声。
「はい……あの、お母様から聞いています。私に、情報をくださるとか……」
『そうだよォ。君のお母様とは、古いお付き合いでねェ』
相手の声には、不思議な魅力があった。
聞いているだけで、なぜか安心してしまう。
「どのような情報を……?」
『詩織ちゃんのことだよォ。君の憎いお姉様のねェ』
詩織の名前が出た途端、撫子の顔が歪んだ。
「あの女のことなら、何でも知りたいです!」
『ふふふ……そうだろうねェ。実はねェ、明日、とても大切な集まりがあるんだァ』
「大切な集まり……?」
『十二家会議。詩織ちゃんも出席するよォ』
撫子は息を呑んだ。十二家という言葉は、母から聞いた。
花札使いたちの最高権力機関。
呪詛花札に、札鬼……それらも、母からおおかた全て聞いていた。
月読皓やあの女が、不思議な力を持っているということも。
「どうして、あの女がそんな……」
『詳しいことは君には関係ないがねェ、とにかく絶好の機会だと思わないかァ?』
電話の向こうの声が、ますます甘く響く。
まるで悪魔の囁きのように。
「機会……ですか?」
『そうだァ。詩織ちゃんが一人になる瞬間を作れるかもしれないねェ』
「!」
撫子の心臓が高鳴った。
一人になる瞬間。それは、復讐の絶好のチャンス。
「教えてください! どこで、いつ……!」
『落ち着きなさい。まず、場所から教えてあげるよォ』
相手は会議の場所と時間を、詳細に教えてくれた。
撫子は必死にメモを取る。
「でも、どうやってお姉様を一人に……?」
『それは君次第だァ。でも、いい方法があるよォ』
「方法?」
『罠を仕掛けるのさァ。詩織ちゃん専用の、特別な罠をねェ』
その声に、ぞくりと背筋が震えた。
でも、怖さよりも期待が勝っていた。
「教えてください……何でもします」
『ふふふ……いい子だねェ、撫子ちゃんは。君のお母様が用意してくれた札と組み合わせれば、きっと素晴らしい効果が期待できるだろうねェ』
撫子は母から受け取った新しい呪詛花札に触れた。
前回よりも、遥かに強力な気配を放つ札。
以前はうまく使いこなせなかったけど、今度こそお母様の期待に答えてみせる……!
「本当に……本当に、あの女を……?」
『もちろんだァ。でも、君が望むならの話だよォ? 強制はしないさァ』
しかし、その声には確信があった。
撫子が断るはずがないと、完全に見透かしている。
「やります……私、やります!」
『いい返事だねェ。では、詳しい手順を教えてあげようかァ』
電話の向こうから、悪魔のような笑い声が漏れた。
夕日が沈みかけた街角で、撫子は復讐の計画に耳を傾けていた。
明日、詩織に本当の絶望を味わわせてやる。
今度こそ、完璧に。
『それじゃあ、明日を楽しみにしているよォ、撫子ちゃん』
電話が切れた後も、撫子の耳にはあの甘い声が残っていた。
公衆電話ボックスを出ると、彼女の顔には狂気じみた笑みが浮かんでいた。
「お姉様……明日こそ、あなたの最期よ」
夜の帳が降り始めた帝都に、撫子の呟きが消えていった。
あとがき:どうしてそんなに足を引っ張ることにやる気満々になれるんでしょうね……
