「貴女には、私の花嫁になってもらう」

 月読様の言葉が、まだ頭の中で反響している。
 
 私は地面に座り込んだまま、銀髪の美しい青年を見上げることしかできなかった。

「あ、あの、それは……どういう……」

 言葉が上手く紡げない。
 花嫁? 私が? 帝都の名門、月読家の?
 
 混乱する頭で必死に状況を整理しようとするけれど、さっきまで化け物に襲われていたことも含めて、何もかもが現実離れしすぎている。

「詳しい話は後にしよう。その傷、手当てが必要だな。立てるか?」
「あ、はい……」

 自力で立とうとして、膝に力が入らないことに気づく。
 さっきの戦いで、思った以上に体力を消耗していたらしい。
 皓様はため息をつくと、いきなり私を抱き上げた。

「きゃっ!?」
「じっとしていろ。すぐに車が来る」

 こ、これは……お姫様抱っこ、というものだろうか。
 生まれて初めての経験に顔が熱くなる。

「あの、自分で歩けます……!」
「無理をするな。君は今から月読家の大切な客人だ」

 あっさりとそう言って、皓様は私を抱えながら立ち上がった。
 至近距離で見る彼の横顔は、やはり恐ろしいほど整っている。
 まるで月光を人の形にしたような、冷たくも美しい造形。

 ……でも、私を支える腕は確かに温かかった。

「あちらに車を待たせている。月読家で手当てをしよう」
「え? でも、私、家に……」
「その格好で帰るつもりか?」

 言われて自分の姿を見下ろす。
 制服は泥と血で汚れ、あちこち破れている。髪も乱れて、とても人前に出られる姿じゃない。

「それに、君の家族に何と説明する? 化け物に襲われました、とでも?」

 ……確かに、その通りだった。
 皓様に支えられながら、旧校舎を後にする。
 振り返ると、さっきまで怪物がいた場所には、もう何の痕跡も残っていなかった。

 まるで、全てが夢だったみたいに。

 でも、体中の痛みが、これが現実だと教えてくれていた。



 月読家の車は、黒塗りの大きな外国車だった。
 
 運転手の男性は、血と泥にまみれた私を見ても顔色一つ変えず、恭しく頭を下げる。
 まるで、こんなことは日常茶飯事だとでも言うように。

「申し訳ありません、お車を汚してしまって……」

 私は後部座席に乗り込みながら、小さく謝った。
 革張りの立派なシートを汚すのが申し訳なくて、できるだけ端に小さくなる。

「そう気にするな。もっと血まみれのやつも何度か乗せている」
「えっ……!?」

 それはそれで、安心というよりは怖くなる。このシートももしかして、以前誰かが倒れていたり……!?
 皓様は気にせずに私の隣に座ると、運転手に短く指示を出した。
 車が滑るように走り出す。

 窓の外を流れる景色を見ながら、私はまだ事態を飲み込めずにいた。
 
 花札から出てきた化け物。
 それを斬った私の力。
 そして、月読様の「花嫁」発言。

 どれも理解の範疇を超えている。

「あの……」

 恐る恐る隣を見る。
 皓様は目を閉じて、まるで瞑想でもしているかのように静かだった。

 その横顔は相変わらず美しくて、でもどこか近寄りがたい。
 結局、私は何も聞けないまま、また窓の外に視線を戻した。



 月読家の屋敷は、想像を遥かに超える豪邸だった。

 高い塀に囲まれた広大な敷地。
 門をくぐると、まるで時代劇に出てくるような立派な日本家屋が姿を現す。
 
 ただし、電気やガラス戸、所々に現代的な設備も見える。
 きっと、伝統を守りながらも新しいものを取り入れているのだろう。

「こちらだ」

 皓様に導かれて屋敷に入ると、すぐに数人の使用人が現れた。
 年配の女性が一人、若い女性が二人。
 皆、和服を着ている。

「皓様、お帰りなさいませ」

 年配の女性——どうやら使用人頭らしい——が深々と頭を下げた。
 それから私を見て、少し驚いたような顔をする。

「まあ……」
「すぐに客間を用意しろ。それから医者を。軽い怪我の手当てと、着替えも必要だ」
「かしこまりました」

 皓様の指示に、使用人たちがてきぱきと動き出す。
 あっという間に私は年配の女性に導かれて、廊下を歩いていた。

「あの、私……」
「まずはお体を拝見させていただきますね。こちらでございます」

 有無を言わせぬ調子で案内された部屋は、十畳はあろうかという広い和室だった。
 
 床の間には立派な掛け軸。
 調度品の一つ一つが、美術品のような品格を漂わせている。

 私みたいな人間が足を踏み入れていい場所じゃない。
 そう思って立ち尽くしていると、若い使用人の一人が優しく声をかけてくれた。

「どうぞ、楽になさってください。今、お医者様がいらっしゃいます」
「あ、でも、そんな大げさな……」
「そういうわけにはいきません! 皓様のご命令ですので」

 その一言で、全ての反論が封じられた。
 
 月読家では、皓様の言葉が絶対なのだろう。
 私は恐縮しながら、用意された座布団に座った。

 程なくして、初老の男性医師が現れた。
 脈を取り、傷を確認し、手際よく消毒と手当てをしてくれる。

「幸い、大した怪我ではありませんね。擦り傷と打撲が主です」
「ありがとうございます」

 包帯を巻かれながら、私はぼんやりと考える。
 
 ……こんなに丁寧に手当てをしてもらったのは、いつぶりだろう。
 家では、怪我や病気をしても「自分で何とかしなさい」で終わりだった。
 そんなことを思い出すと、心の中が暗くなっていく……。

「――それでは、着替えをご用意しております」
「あっ、はい! ……えっ?」

 医師が退室すると、今度は若い使用人が着物を持って現れた。

 薄い藤色の小紋。
 私が普段着ているものとは、明らかに品質が違う。

「こ、こんな立派なもの……」
「仮のお召し物でございます。サイズが合うかわかりませんが……」

 仮、と言われたものが、私が持っている着物より遥かに上等だった。

 使用人の方に手伝ってもらいながら着替える。
 破れた制服を脱ぐと、思った以上にあちこちに痣ができていた。

「まあ、お可哀想に……お若い婦女子にこのような……」

 若い使用人が眉を顰める。
 その同情的な眼差しが、なぜか胸に突き刺さった。
 私は、慣れていないのだ。誰かに心配されることに。

「だ、大丈夫です。慣れてますから。剣道だと、よく打ち身もしますし……」

 つい、そんな言葉が口を突いて出た。
 使用人は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わずに着付けを続けてくれた。

 鏡の前に立つと、見慣れない自分がそこにいた。
 
 上等な着物に身を包んだ、長い黒髪の少女。……まるで普段とは別人みたいだ。
 でも、怯えたような目つきは相変わらず。鏡の中の自分とも目が合わない……。

「お似合いですよ、詩織様」
「あ……ありがとう、ございます」

 使用人の言葉に、曖昧に微笑む。

 似合う、似合わない以前に、私にはこれが重すぎる。
 こんな良いものを身に着ける資格なんて、私にはない……。

「さぁ。皓様がお待ちでございます」

 促されて、私は再び廊下に出た。

 磨き上げられた床。
 塵一つない襖。
 全てが完璧に整えられた空間。

 如月家とは、まるで違う世界だった。



 書斎に通された私は、豪華な調度品に圧倒されながら、皓様の向かいに座った。

 壁一面の書棚には、古そうな和綴じ本がぎっしりと並んでいる。
 机の上には、なぜか花札が一組置かれていた。

「詩織嬢。花札はできるか?」
「は、はい。昔、親戚に教わりました」

 正月に誰かの家に行った、数少ない楽しい思い出。
 でも、今は親戚の集まりに連れていってもらえることも少なくなった。
 まるで、私を誰にも見せたくないかのように、家族は私を家の中に閉じ込めるからだ。

「では、一局付き合ってもらおう」

 皓様は慣れた手つきで札を切り始めた。
 その姿は、さっき剣を振るっていた時とはまた違う優雅さがある。

「あの……えっと、色々とお聞きしたいことが……」
「札を配りながら話そう。その方が、理解しやすいだろう」

 配られた手札を見る。
 松に鶴、梅に鶯、桜に幕……。
 見慣れた絵柄のはずなのに、今日の出来事を思い出すと、違って見える。

「君が今日見たもの。アレは札鬼という」

 皓様は場に札を出しながら、静かに語り始めた。

「札鬼……さっきの化け物のことですか?」
「そうだ。札鬼は人の負の感情——憎しみ、嫉妬、恐怖、そういったものが形を得たものだ。ただし、普通はそう簡単に実体化はしない」
「なら、あの怪物は……?」

 皓様は私の出した札を見て、少し考えてから紅葉に鹿を出した。

「先ほどの札鬼は、花札が触媒となったものだ。正確には、呪術的な処理を施された『呪詛花札(じゅそかるた)』と呼ばれている」

 私は驚いて手札を見る。
 これと同じようなただの札が、あんな恐ろしいものを生み出すなんて。

「花札の絵柄には、それぞれ意味がある。古来より、この国では森羅万象に神が宿ると信じられてきた。花札の絵柄も、その思想を反映している」

 場札を合わせながら、私は皓様の説明に耳を傾ける。

「例えば、桜は春の生命力を。月は静謐と浄化を。それぞれの札には、それぞれの『力』が宿っている。呪詛花札は、その力を歪めて人為的に札鬼を生み出す」
「じゃあ、撫子が持っていたのは……」
「柳に燕の呪詛花札だ。柳は不安定さを、燕は執着を象徴する。君の妹は、それがどれほど危険なものか理解せずに使ったのだろう」

 皓様の声に、わずかに呆れのような響きが混じった。

「では、あの……私が出したのは? こう、木刀にぶわって……」

 手振りでなんとか説明しようとしながら尋ねると、皓様は手を止めて私を見た。

「……ふっ」
「す、すみません……わかりづらいですよね。ええとですね……」
「いや、構わない。君の疑問も理解している」

 思わず頬が熱くなる。皓様は、私の稚拙な説明に笑われてしまったのだろうか……。

「君は、自分の血に宿る力を解放した」
「宿る……力?」
「そうだ。極稀に、呪詛花札とは逆に花札の清浄な力と共鳴し、それを行使できる者がいる。我々はそれを花札使いと呼ぶ」

 私は首を振る。

「でも、私にそんな特別な力なんて……」
「持っている」

 皓様は私の髪を見た。

「君のリボンを見せてもらえるか」

 言われて、髪を結んでいる茜色のリボンに触れる。
 母の形見だと聞かされていた、古い組紐のリボン。

「それは桜花家に伝わる霊具だ。『桜に幕』の力を宿している」
「これ……このリボンが、力を……?」
「その力を引き出せるのは君だけだ。霊具は媒介に過ぎん。あれは、君の力なのだ」

 信じられない思いで、リボンと、自らの手を見つめる。
 私にそんなことが、できるなんて……。とても信じられなかった。

「君の母、桜花椿は花札使いの家系の生き残りだった。そして君は、その血と力を受け継いでいる」

 場札が増えていく。
 私は機械的に札を出しながら、皓様の話を聞く。

「花札使いの、家系? そんなものがあるのですか……?」
「帝都には、古くから十二の花札使いの家があった。それぞれが花札の月に対応している。一月の松、二月の梅、三月の桜……という具合にな」

 皓様は手札から芒に月を出した。
 赤い空、白い月、黒い芒が描かれている。光札、と呼ばれる強力な札だ。

「月読家は八月、『芒に月』の異能を司る。そして桜花家は三月、桜を司っていた」
「いた……過去形なんですね」
「百年以上前、『禍祓いの大乱』と呼ばれる事件があった。強大な札鬼が大量発生し、帝都が危機に陥った」

 皓様の声が、少し重くなる。

「その時、多くの花札使いが命を落とした。桜花家もその時にほぼ滅びた。君の母は、数少ない生き残りの子孫だったのだろう」

 私は手札を見つめる。
 偶然にも、『桜に幕』の札を引いていた。
 私に。私の血に宿る、力……。

「花札使いの力は血によって受け継がれる。そして君は、かなり濃い桜花の血を引いているようだ」

 ……出せる札がない。仕方なくこつり、と私が『桜に幕』を場に出す。それを見た皓様は口元に笑みを浮かべる。

「今日、君が見せた力がその証拠だ。訓練も受けていない人間が、いきなり札鬼を斬れるものではない」
「でも、二度目は何も起こりませんでしたが……」
「初めての覚醒は、力が不安定なことが多い。私もそうだった」

 皓様は私の出した『桜に幕』を、別の桜札と合わせて取った。

「訓練すれば、意識的に力を使えるようになる」
「訓練……」

 私には、そんな大それたことができるとは思えない。……松の札を場に出す。

「君には素質がある」

 皓様の声は、断定的だった。
 彼は『松に鶴』の札を、私が出した松の札と合わせる。
 これで彼の場に『松に鶴』『桜に幕』、そして『芒に月』が揃った。三光と呼ばれる役の完成だ。

「この局は私の勝ちだ」
「うう……。お強いですね」
「運が良かっただけだ。……さて。それで、君にもぜひ力を貸してほしい。私の花嫁として」

 その言葉に、再び心臓が跳ねる。三光の役を表す花札が並んでいる。『桜に幕』、『芒に月』が意味ありげに隣り合っている……。

「し、しかし……どうして、私なんかが月読家の花嫁に……?」

 恐る恐るそう尋ねる。
 嬉しくない、わけじゃないと思う。降って湧いた幸運。だけど、その実感は得られていない。
 花札とか異能とかも、正直よくわかっていない。
 百歩譲って私に能力があるとして、なぜ嫁に、などと仰るのだろう……?

「妹は君を陥れようとした。呪詛花札を使って、君を傷つけようとした。そうだろう」
「……はい」
「それなのに君は彼女を助けた。自分の身を危険に晒してまで」

 皓様の視線が、私の包帯が巻かれた腕に向けられる。

「それはなぜだ?」
「それは……」

 答えに詰まる。
 なぜだろう。あの時は、ただ体が動いていた。

「分かりません。でも……見捨てたら、きっと後悔すると思ったんです」
「後悔?」
「はい。撫子がどんなに私を嫌っていても、私が撫子を見殺しにしたら、きっと一生自分を許せない……から」

 我ながら、馬鹿みたいな理由だと思う。
 でも、それが本心だった。

「……やはり美しいな、君は」
「え……えっ?」

 皓様の呟きに、私は驚いて顔を上げた。
 皓様は立ち上がり、窓辺に向かう。
 月光が、彼の銀髪を照らしている。

「花札使いとして戦っていると、人の醜さばかりが目につく。嫉妬、憎悪、裏切り。それらが札鬼を生み、人を傷つける」

 振り返った皓様の表情は、どこか寂しげだった。

「だが君は違った。裏切られても、なお相手を守ろうとした。その清らかな心こそが、桜花の力を呼び覚ましたのだろう」
「そんな、清らかだなんて……」

 私は慌てて首を振る。
 私の心は、そんなに綺麗じゃない。
 撫子への憎しみも、美津子様への恨みも、ちゃんと抱えている。

「謙遜することはない」

 皓様は私の前に戻ってきた。そして、私の手に触れる。

「君のような人間は、稀だ」
「……」
「だから、守りたいと思った。君の身を。そして心をな」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 守りたいなんて、誰からも言われたことがなかった。
 私はいつも、守られる価値もない存在だと思っていたから。

「……ありがとう、ございます」

 やっとそれだけ言うと、皓様は小さく微笑んだ。
 
 初めて見る、柔らかな表情。
 月のように冷たいと思っていた人が、こんな顔もできるのだと知った。
 ……その瞬間だった。

 ぐぅ~~

 静かな書斎に、恥ずかしい音が響き渡った。
 私のお腹が、盛大に鳴ったのだ。

「あ……」

 顔から火が出そうになる。
 慌てて両手でお腹を押さえるが、もう遅い。

「す、すみません……」

 消え入りそうな声で謝る私を、皓様は少し驚いたような顔で見ていた。

「謝ることではない。では、すぐに夕餉を用意させよう」
「えっ!? そ、そこまでご厄介になるわけには……!」
「そういうわけにはいかない。私の花嫁にひもじい思いをさせられないからな」
「は、花嫁って……」

 有無を言わせぬ皓様に手を取られ、私は立ち上がる。
 花嫁。その言葉が頭に響く。彼はどこまで本気なのだろうか……。
 皓様に続いて廊下を歩きながら、私は恥ずかしさで俯いていた。