「貴女には、私の花嫁になってもらう」
月読様の言葉が、まだ頭の中で反響している。
私は地面に座り込んだまま、銀髪の美しい青年を見上げることしかできなかった。
「あ、あの、それは……どういう……」
言葉が上手く紡げない。
花嫁? 私が? 帝都の名門、月読家の?
混乱する頭で必死に状況を整理しようとするけれど、さっきまで化け物に襲われていたことも含めて、何もかもが現実離れしすぎている。
「詳しい話は後にしよう。その傷、手当てが必要だな。立てるか?」
「あ、はい……」
自力で立とうとして、膝に力が入らないことに気づく。
さっきの戦いで、思った以上に体力を消耗していたらしい。
皓様はため息をつくと、いきなり私を抱き上げた。
「きゃっ!?」
「じっとしていろ。すぐに車が来る」
こ、これは……お姫様抱っこ、というものだろうか。
生まれて初めての経験に顔が熱くなる。
「あの、自分で歩けます……!」
「無理をするな。君は今から月読家の大切な客人だ」
あっさりとそう言って、皓様は私を抱えながら立ち上がった。
至近距離で見る彼の横顔は、やはり恐ろしいほど整っている。
まるで月光を人の形にしたような、冷たくも美しい造形。
……でも、私を支える腕は確かに温かかった。
「あちらに車を待たせている。月読家で手当てをしよう」
「え? でも、私、家に……」
「その格好で帰るつもりか?」
言われて自分の姿を見下ろす。
制服は泥と血で汚れ、あちこち破れている。髪も乱れて、とても人前に出られる姿じゃない。
「それに、君の家族に何と説明する? 化け物に襲われました、とでも?」
……確かに、その通りだった。
皓様に支えられながら、旧校舎を後にする。
振り返ると、さっきまで怪物がいた場所には、もう何の痕跡も残っていなかった。
まるで、全てが夢だったみたいに。
でも、体中の痛みが、これが現実だと教えてくれていた。
■
月読家の車は、黒塗りの大きな外国車だった。
運転手の男性は、血と泥にまみれた私を見ても顔色一つ変えず、恭しく頭を下げる。
まるで、こんなことは日常茶飯事だとでも言うように。
「申し訳ありません、お車を汚してしまって……」
私は後部座席に乗り込みながら、小さく謝った。
革張りの立派なシートを汚すのが申し訳なくて、できるだけ端に小さくなる。
「そう気にするな。もっと血まみれのやつも何度か乗せている」
「えっ……!?」
それはそれで、安心というよりは怖くなる。このシートももしかして、以前誰かが倒れていたり……!?
皓様は気にせずに私の隣に座ると、運転手に短く指示を出した。
車が滑るように走り出す。
窓の外を流れる景色を見ながら、私はまだ事態を飲み込めずにいた。
花札から出てきた化け物。
それを斬った私の力。
そして、月読様の「花嫁」発言。
どれも理解の範疇を超えている。
「あの……」
恐る恐る隣を見る。
皓様は目を閉じて、まるで瞑想でもしているかのように静かだった。
その横顔は相変わらず美しくて、でもどこか近寄りがたい。
結局、私は何も聞けないまま、また窓の外に視線を戻した。
■
月読家の屋敷は、想像を遥かに超える豪邸だった。
高い塀に囲まれた広大な敷地。
門をくぐると、まるで時代劇に出てくるような立派な日本家屋が姿を現す。
ただし、電気やガラス戸、所々に現代的な設備も見える。
きっと、伝統を守りながらも新しいものを取り入れているのだろう。
「こちらだ」
皓様に導かれて屋敷に入ると、すぐに数人の使用人が現れた。
年配の女性が一人、若い女性が二人。
皆、和服を着ている。
「皓様、お帰りなさいませ」
年配の女性——どうやら使用人頭らしい——が深々と頭を下げた。
それから私を見て、少し驚いたような顔をする。
「まあ……」
「すぐに客間を用意しろ。それから医者を。軽い怪我の手当てと、着替えも必要だ」
「かしこまりました」
皓様の指示に、使用人たちがてきぱきと動き出す。
あっという間に私は年配の女性に導かれて、廊下を歩いていた。
「あの、私……」
「まずはお体を拝見させていただきますね。こちらでございます」
有無を言わせぬ調子で案内された部屋は、十畳はあろうかという広い和室だった。
床の間には立派な掛け軸。
調度品の一つ一つが、美術品のような品格を漂わせている。
私みたいな人間が足を踏み入れていい場所じゃない。
そう思って立ち尽くしていると、若い使用人の一人が優しく声をかけてくれた。
「どうぞ、楽になさってください。今、お医者様がいらっしゃいます」
「あ、でも、そんな大げさな……」
「そういうわけにはいきません! 皓様のご命令ですので」
その一言で、全ての反論が封じられた。
月読家では、皓様の言葉が絶対なのだろう。
私は恐縮しながら、用意された座布団に座った。
程なくして、初老の男性医師が現れた。
脈を取り、傷を確認し、手際よく消毒と手当てをしてくれる。
「幸い、大した怪我ではありませんね。擦り傷と打撲が主です」
「ありがとうございます」
包帯を巻かれながら、私はぼんやりと考える。
……こんなに丁寧に手当てをしてもらったのは、いつぶりだろう。
家では、怪我や病気をしても「自分で何とかしなさい」で終わりだった。
そんなことを思い出すと、心の中が暗くなっていく……。
「――それでは、着替えをご用意しております」
「あっ、はい! ……えっ?」
医師が退室すると、今度は若い使用人が着物を持って現れた。
薄い藤色の小紋。
私が普段着ているものとは、明らかに品質が違う。
「こ、こんな立派なもの……」
「仮のお召し物でございます。サイズが合うかわかりませんが……」
仮、と言われたものが、私が持っている着物より遥かに上等だった。
使用人の方に手伝ってもらいながら着替える。
破れた制服を脱ぐと、思った以上にあちこちに痣ができていた。
「まあ、お可哀想に……お若い婦女子にこのような……」
若い使用人が眉を顰める。
その同情的な眼差しが、なぜか胸に突き刺さった。
私は、慣れていないのだ。誰かに心配されることに。
「だ、大丈夫です。慣れてますから。剣道だと、よく打ち身もしますし……」
つい、そんな言葉が口を突いて出た。
使用人は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わずに着付けを続けてくれた。
鏡の前に立つと、見慣れない自分がそこにいた。
上等な着物に身を包んだ、長い黒髪の少女。……まるで普段とは別人みたいだ。
でも、怯えたような目つきは相変わらず。鏡の中の自分とも目が合わない……。
「お似合いですよ、詩織様」
「あ……ありがとう、ございます」
使用人の言葉に、曖昧に微笑む。
似合う、似合わない以前に、私にはこれが重すぎる。
こんな良いものを身に着ける資格なんて、私にはない……。
「さぁ。皓様がお待ちでございます」
促されて、私は再び廊下に出た。
磨き上げられた床。
塵一つない襖。
全てが完璧に整えられた空間。
如月家とは、まるで違う世界だった。
■
書斎に通された私は、豪華な調度品に圧倒されながら、皓様の向かいに座った。
壁一面の書棚には、古そうな和綴じ本がぎっしりと並んでいる。
机の上には、なぜか花札が一組置かれていた。
「詩織嬢。花札はできるか?」
「は、はい。昔、親戚に教わりました」
正月に誰かの家に行った、数少ない楽しい思い出。
でも、今は親戚の集まりに連れていってもらえることも少なくなった。
まるで、私を誰にも見せたくないかのように、家族は私を家の中に閉じ込めるからだ。
「では、一局付き合ってもらおう」
皓様は慣れた手つきで札を切り始めた。
その姿は、さっき剣を振るっていた時とはまた違う優雅さがある。
「あの……えっと、色々とお聞きしたいことが……」
「札を配りながら話そう。その方が、理解しやすいだろう」
配られた手札を見る。
松に鶴、梅に鶯、桜に幕……。
見慣れた絵柄のはずなのに、今日の出来事を思い出すと、違って見える。
「君が今日見たもの。アレは札鬼という」
皓様は場に札を出しながら、静かに語り始めた。
「札鬼……さっきの化け物のことですか?」
「そうだ。札鬼は人の負の感情——憎しみ、嫉妬、恐怖、そういったものが形を得たものだ。ただし、普通はそう簡単に実体化はしない」
「なら、あの怪物は……?」
皓様は私の出した札を見て、少し考えてから紅葉に鹿を出した。
「先ほどの札鬼は、花札が触媒となったものだ。正確には、呪術的な処理を施された『呪詛花札』と呼ばれている」
私は驚いて手札を見る。
これと同じようなただの札が、あんな恐ろしいものを生み出すなんて。
「花札の絵柄には、それぞれ意味がある。古来より、この国では森羅万象に神が宿ると信じられてきた。花札の絵柄も、その思想を反映している」
場札を合わせながら、私は皓様の説明に耳を傾ける。
「例えば、桜は春の生命力を。月は静謐と浄化を。それぞれの札には、それぞれの『力』が宿っている。呪詛花札は、その力を歪めて人為的に札鬼を生み出す」
「じゃあ、撫子が持っていたのは……」
「柳に燕の呪詛花札だ。柳は不安定さを、燕は執着を象徴する。君の妹は、それがどれほど危険なものか理解せずに使ったのだろう」
皓様の声に、わずかに呆れのような響きが混じった。
「では、あの……私が出したのは? こう、木刀にぶわって……」
手振りでなんとか説明しようとしながら尋ねると、皓様は手を止めて私を見た。
「……ふっ」
「す、すみません……わかりづらいですよね。ええとですね……」
「いや、構わない。君の疑問も理解している」
思わず頬が熱くなる。皓様は、私の稚拙な説明に笑われてしまったのだろうか……。
「君は、自分の血に宿る力を解放した」
「宿る……力?」
「そうだ。極稀に、呪詛花札とは逆に花札の清浄な力と共鳴し、それを行使できる者がいる。我々はそれを花札使いと呼ぶ」
私は首を振る。
「でも、私にそんな特別な力なんて……」
「持っている」
皓様は私の髪を見た。
「君のリボンを見せてもらえるか」
言われて、髪を結んでいる茜色のリボンに触れる。
母の形見だと聞かされていた、古い組紐のリボン。
「それは桜花家に伝わる霊具だ。『桜に幕』の力を宿している」
「これ……このリボンが、力を……?」
「その力を引き出せるのは君だけだ。霊具は媒介に過ぎん。あれは、君の力なのだ」
信じられない思いで、リボンと、自らの手を見つめる。
私にそんなことが、できるなんて……。とても信じられなかった。
「君の母、桜花椿は花札使いの家系の生き残りだった。そして君は、その血と力を受け継いでいる」
場札が増えていく。
私は機械的に札を出しながら、皓様の話を聞く。
「花札使いの、家系? そんなものがあるのですか……?」
「帝都には、古くから十二の花札使いの家があった。それぞれが花札の月に対応している。一月の松、二月の梅、三月の桜……という具合にな」
皓様は手札から芒に月を出した。
赤い空、白い月、黒い芒が描かれている。光札、と呼ばれる強力な札だ。
「月読家は八月、『芒に月』の異能を司る。そして桜花家は三月、桜を司っていた」
「いた……過去形なんですね」
「百年以上前、『禍祓いの大乱』と呼ばれる事件があった。強大な札鬼が大量発生し、帝都が危機に陥った」
皓様の声が、少し重くなる。
「その時、多くの花札使いが命を落とした。桜花家もその時にほぼ滅びた。君の母は、数少ない生き残りの子孫だったのだろう」
私は手札を見つめる。
偶然にも、『桜に幕』の札を引いていた。
私に。私の血に宿る、力……。
「花札使いの力は血によって受け継がれる。そして君は、かなり濃い桜花の血を引いているようだ」
……出せる札がない。仕方なくこつり、と私が『桜に幕』を場に出す。それを見た皓様は口元に笑みを浮かべる。
「今日、君が見せた力がその証拠だ。訓練も受けていない人間が、いきなり札鬼を斬れるものではない」
「でも、二度目は何も起こりませんでしたが……」
「初めての覚醒は、力が不安定なことが多い。私もそうだった」
皓様は私の出した『桜に幕』を、別の桜札と合わせて取った。
「訓練すれば、意識的に力を使えるようになる」
「訓練……」
私には、そんな大それたことができるとは思えない。……松の札を場に出す。
「君には素質がある」
皓様の声は、断定的だった。
彼は『松に鶴』の札を、私が出した松の札と合わせる。
これで彼の場に『松に鶴』『桜に幕』、そして『芒に月』が揃った。三光と呼ばれる役の完成だ。
「この局は私の勝ちだ」
「うう……。お強いですね」
「運が良かっただけだ。……さて。それで、君にもぜひ力を貸してほしい。私の花嫁として」
その言葉に、再び心臓が跳ねる。三光の役を表す花札が並んでいる。『桜に幕』、『芒に月』が意味ありげに隣り合っている……。
「し、しかし……どうして、私なんかが月読家の花嫁に……?」
恐る恐るそう尋ねる。
嬉しくない、わけじゃないと思う。降って湧いた幸運。だけど、その実感は得られていない。
花札とか異能とかも、正直よくわかっていない。
百歩譲って私に能力があるとして、なぜ嫁に、などと仰るのだろう……?
「妹は君を陥れようとした。呪詛花札を使って、君を傷つけようとした。そうだろう」
「……はい」
「それなのに君は彼女を助けた。自分の身を危険に晒してまで」
皓様の視線が、私の包帯が巻かれた腕に向けられる。
「それはなぜだ?」
「それは……」
答えに詰まる。
なぜだろう。あの時は、ただ体が動いていた。
「分かりません。でも……見捨てたら、きっと後悔すると思ったんです」
「後悔?」
「はい。撫子がどんなに私を嫌っていても、私が撫子を見殺しにしたら、きっと一生自分を許せない……から」
我ながら、馬鹿みたいな理由だと思う。
でも、それが本心だった。
「……やはり美しいな、君は」
「え……えっ?」
皓様の呟きに、私は驚いて顔を上げた。
皓様は立ち上がり、窓辺に向かう。
月光が、彼の銀髪を照らしている。
「花札使いとして戦っていると、人の醜さばかりが目につく。嫉妬、憎悪、裏切り。それらが札鬼を生み、人を傷つける」
振り返った皓様の表情は、どこか寂しげだった。
「だが君は違った。裏切られても、なお相手を守ろうとした。その清らかな心こそが、桜花の力を呼び覚ましたのだろう」
「そんな、清らかだなんて……」
私は慌てて首を振る。
私の心は、そんなに綺麗じゃない。
撫子への憎しみも、美津子様への恨みも、ちゃんと抱えている。
「謙遜することはない」
皓様は私の前に戻ってきた。そして、私の手に触れる。
「君のような人間は、稀だ」
「……」
「だから、守りたいと思った。君の身を。そして心をな」
その言葉に、胸が熱くなる。
守りたいなんて、誰からも言われたことがなかった。
私はいつも、守られる価値もない存在だと思っていたから。
「……ありがとう、ございます」
やっとそれだけ言うと、皓様は小さく微笑んだ。
初めて見る、柔らかな表情。
月のように冷たいと思っていた人が、こんな顔もできるのだと知った。
……その瞬間だった。
ぐぅ~~
静かな書斎に、恥ずかしい音が響き渡った。
私のお腹が、盛大に鳴ったのだ。
「あ……」
顔から火が出そうになる。
慌てて両手でお腹を押さえるが、もう遅い。
「す、すみません……」
消え入りそうな声で謝る私を、皓様は少し驚いたような顔で見ていた。
「謝ることではない。では、すぐに夕餉を用意させよう」
「えっ!? そ、そこまでご厄介になるわけには……!」
「そういうわけにはいかない。私の花嫁にひもじい思いをさせられないからな」
「は、花嫁って……」
有無を言わせぬ皓様に手を取られ、私は立ち上がる。
花嫁。その言葉が頭に響く。彼はどこまで本気なのだろうか……。
皓様に続いて廊下を歩きながら、私は恥ずかしさで俯いていた。
月読様の言葉が、まだ頭の中で反響している。
私は地面に座り込んだまま、銀髪の美しい青年を見上げることしかできなかった。
「あ、あの、それは……どういう……」
言葉が上手く紡げない。
花嫁? 私が? 帝都の名門、月読家の?
混乱する頭で必死に状況を整理しようとするけれど、さっきまで化け物に襲われていたことも含めて、何もかもが現実離れしすぎている。
「詳しい話は後にしよう。その傷、手当てが必要だな。立てるか?」
「あ、はい……」
自力で立とうとして、膝に力が入らないことに気づく。
さっきの戦いで、思った以上に体力を消耗していたらしい。
皓様はため息をつくと、いきなり私を抱き上げた。
「きゃっ!?」
「じっとしていろ。すぐに車が来る」
こ、これは……お姫様抱っこ、というものだろうか。
生まれて初めての経験に顔が熱くなる。
「あの、自分で歩けます……!」
「無理をするな。君は今から月読家の大切な客人だ」
あっさりとそう言って、皓様は私を抱えながら立ち上がった。
至近距離で見る彼の横顔は、やはり恐ろしいほど整っている。
まるで月光を人の形にしたような、冷たくも美しい造形。
……でも、私を支える腕は確かに温かかった。
「あちらに車を待たせている。月読家で手当てをしよう」
「え? でも、私、家に……」
「その格好で帰るつもりか?」
言われて自分の姿を見下ろす。
制服は泥と血で汚れ、あちこち破れている。髪も乱れて、とても人前に出られる姿じゃない。
「それに、君の家族に何と説明する? 化け物に襲われました、とでも?」
……確かに、その通りだった。
皓様に支えられながら、旧校舎を後にする。
振り返ると、さっきまで怪物がいた場所には、もう何の痕跡も残っていなかった。
まるで、全てが夢だったみたいに。
でも、体中の痛みが、これが現実だと教えてくれていた。
■
月読家の車は、黒塗りの大きな外国車だった。
運転手の男性は、血と泥にまみれた私を見ても顔色一つ変えず、恭しく頭を下げる。
まるで、こんなことは日常茶飯事だとでも言うように。
「申し訳ありません、お車を汚してしまって……」
私は後部座席に乗り込みながら、小さく謝った。
革張りの立派なシートを汚すのが申し訳なくて、できるだけ端に小さくなる。
「そう気にするな。もっと血まみれのやつも何度か乗せている」
「えっ……!?」
それはそれで、安心というよりは怖くなる。このシートももしかして、以前誰かが倒れていたり……!?
皓様は気にせずに私の隣に座ると、運転手に短く指示を出した。
車が滑るように走り出す。
窓の外を流れる景色を見ながら、私はまだ事態を飲み込めずにいた。
花札から出てきた化け物。
それを斬った私の力。
そして、月読様の「花嫁」発言。
どれも理解の範疇を超えている。
「あの……」
恐る恐る隣を見る。
皓様は目を閉じて、まるで瞑想でもしているかのように静かだった。
その横顔は相変わらず美しくて、でもどこか近寄りがたい。
結局、私は何も聞けないまま、また窓の外に視線を戻した。
■
月読家の屋敷は、想像を遥かに超える豪邸だった。
高い塀に囲まれた広大な敷地。
門をくぐると、まるで時代劇に出てくるような立派な日本家屋が姿を現す。
ただし、電気やガラス戸、所々に現代的な設備も見える。
きっと、伝統を守りながらも新しいものを取り入れているのだろう。
「こちらだ」
皓様に導かれて屋敷に入ると、すぐに数人の使用人が現れた。
年配の女性が一人、若い女性が二人。
皆、和服を着ている。
「皓様、お帰りなさいませ」
年配の女性——どうやら使用人頭らしい——が深々と頭を下げた。
それから私を見て、少し驚いたような顔をする。
「まあ……」
「すぐに客間を用意しろ。それから医者を。軽い怪我の手当てと、着替えも必要だ」
「かしこまりました」
皓様の指示に、使用人たちがてきぱきと動き出す。
あっという間に私は年配の女性に導かれて、廊下を歩いていた。
「あの、私……」
「まずはお体を拝見させていただきますね。こちらでございます」
有無を言わせぬ調子で案内された部屋は、十畳はあろうかという広い和室だった。
床の間には立派な掛け軸。
調度品の一つ一つが、美術品のような品格を漂わせている。
私みたいな人間が足を踏み入れていい場所じゃない。
そう思って立ち尽くしていると、若い使用人の一人が優しく声をかけてくれた。
「どうぞ、楽になさってください。今、お医者様がいらっしゃいます」
「あ、でも、そんな大げさな……」
「そういうわけにはいきません! 皓様のご命令ですので」
その一言で、全ての反論が封じられた。
月読家では、皓様の言葉が絶対なのだろう。
私は恐縮しながら、用意された座布団に座った。
程なくして、初老の男性医師が現れた。
脈を取り、傷を確認し、手際よく消毒と手当てをしてくれる。
「幸い、大した怪我ではありませんね。擦り傷と打撲が主です」
「ありがとうございます」
包帯を巻かれながら、私はぼんやりと考える。
……こんなに丁寧に手当てをしてもらったのは、いつぶりだろう。
家では、怪我や病気をしても「自分で何とかしなさい」で終わりだった。
そんなことを思い出すと、心の中が暗くなっていく……。
「――それでは、着替えをご用意しております」
「あっ、はい! ……えっ?」
医師が退室すると、今度は若い使用人が着物を持って現れた。
薄い藤色の小紋。
私が普段着ているものとは、明らかに品質が違う。
「こ、こんな立派なもの……」
「仮のお召し物でございます。サイズが合うかわかりませんが……」
仮、と言われたものが、私が持っている着物より遥かに上等だった。
使用人の方に手伝ってもらいながら着替える。
破れた制服を脱ぐと、思った以上にあちこちに痣ができていた。
「まあ、お可哀想に……お若い婦女子にこのような……」
若い使用人が眉を顰める。
その同情的な眼差しが、なぜか胸に突き刺さった。
私は、慣れていないのだ。誰かに心配されることに。
「だ、大丈夫です。慣れてますから。剣道だと、よく打ち身もしますし……」
つい、そんな言葉が口を突いて出た。
使用人は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局何も言わずに着付けを続けてくれた。
鏡の前に立つと、見慣れない自分がそこにいた。
上等な着物に身を包んだ、長い黒髪の少女。……まるで普段とは別人みたいだ。
でも、怯えたような目つきは相変わらず。鏡の中の自分とも目が合わない……。
「お似合いですよ、詩織様」
「あ……ありがとう、ございます」
使用人の言葉に、曖昧に微笑む。
似合う、似合わない以前に、私にはこれが重すぎる。
こんな良いものを身に着ける資格なんて、私にはない……。
「さぁ。皓様がお待ちでございます」
促されて、私は再び廊下に出た。
磨き上げられた床。
塵一つない襖。
全てが完璧に整えられた空間。
如月家とは、まるで違う世界だった。
■
書斎に通された私は、豪華な調度品に圧倒されながら、皓様の向かいに座った。
壁一面の書棚には、古そうな和綴じ本がぎっしりと並んでいる。
机の上には、なぜか花札が一組置かれていた。
「詩織嬢。花札はできるか?」
「は、はい。昔、親戚に教わりました」
正月に誰かの家に行った、数少ない楽しい思い出。
でも、今は親戚の集まりに連れていってもらえることも少なくなった。
まるで、私を誰にも見せたくないかのように、家族は私を家の中に閉じ込めるからだ。
「では、一局付き合ってもらおう」
皓様は慣れた手つきで札を切り始めた。
その姿は、さっき剣を振るっていた時とはまた違う優雅さがある。
「あの……えっと、色々とお聞きしたいことが……」
「札を配りながら話そう。その方が、理解しやすいだろう」
配られた手札を見る。
松に鶴、梅に鶯、桜に幕……。
見慣れた絵柄のはずなのに、今日の出来事を思い出すと、違って見える。
「君が今日見たもの。アレは札鬼という」
皓様は場に札を出しながら、静かに語り始めた。
「札鬼……さっきの化け物のことですか?」
「そうだ。札鬼は人の負の感情——憎しみ、嫉妬、恐怖、そういったものが形を得たものだ。ただし、普通はそう簡単に実体化はしない」
「なら、あの怪物は……?」
皓様は私の出した札を見て、少し考えてから紅葉に鹿を出した。
「先ほどの札鬼は、花札が触媒となったものだ。正確には、呪術的な処理を施された『呪詛花札』と呼ばれている」
私は驚いて手札を見る。
これと同じようなただの札が、あんな恐ろしいものを生み出すなんて。
「花札の絵柄には、それぞれ意味がある。古来より、この国では森羅万象に神が宿ると信じられてきた。花札の絵柄も、その思想を反映している」
場札を合わせながら、私は皓様の説明に耳を傾ける。
「例えば、桜は春の生命力を。月は静謐と浄化を。それぞれの札には、それぞれの『力』が宿っている。呪詛花札は、その力を歪めて人為的に札鬼を生み出す」
「じゃあ、撫子が持っていたのは……」
「柳に燕の呪詛花札だ。柳は不安定さを、燕は執着を象徴する。君の妹は、それがどれほど危険なものか理解せずに使ったのだろう」
皓様の声に、わずかに呆れのような響きが混じった。
「では、あの……私が出したのは? こう、木刀にぶわって……」
手振りでなんとか説明しようとしながら尋ねると、皓様は手を止めて私を見た。
「……ふっ」
「す、すみません……わかりづらいですよね。ええとですね……」
「いや、構わない。君の疑問も理解している」
思わず頬が熱くなる。皓様は、私の稚拙な説明に笑われてしまったのだろうか……。
「君は、自分の血に宿る力を解放した」
「宿る……力?」
「そうだ。極稀に、呪詛花札とは逆に花札の清浄な力と共鳴し、それを行使できる者がいる。我々はそれを花札使いと呼ぶ」
私は首を振る。
「でも、私にそんな特別な力なんて……」
「持っている」
皓様は私の髪を見た。
「君のリボンを見せてもらえるか」
言われて、髪を結んでいる茜色のリボンに触れる。
母の形見だと聞かされていた、古い組紐のリボン。
「それは桜花家に伝わる霊具だ。『桜に幕』の力を宿している」
「これ……このリボンが、力を……?」
「その力を引き出せるのは君だけだ。霊具は媒介に過ぎん。あれは、君の力なのだ」
信じられない思いで、リボンと、自らの手を見つめる。
私にそんなことが、できるなんて……。とても信じられなかった。
「君の母、桜花椿は花札使いの家系の生き残りだった。そして君は、その血と力を受け継いでいる」
場札が増えていく。
私は機械的に札を出しながら、皓様の話を聞く。
「花札使いの、家系? そんなものがあるのですか……?」
「帝都には、古くから十二の花札使いの家があった。それぞれが花札の月に対応している。一月の松、二月の梅、三月の桜……という具合にな」
皓様は手札から芒に月を出した。
赤い空、白い月、黒い芒が描かれている。光札、と呼ばれる強力な札だ。
「月読家は八月、『芒に月』の異能を司る。そして桜花家は三月、桜を司っていた」
「いた……過去形なんですね」
「百年以上前、『禍祓いの大乱』と呼ばれる事件があった。強大な札鬼が大量発生し、帝都が危機に陥った」
皓様の声が、少し重くなる。
「その時、多くの花札使いが命を落とした。桜花家もその時にほぼ滅びた。君の母は、数少ない生き残りの子孫だったのだろう」
私は手札を見つめる。
偶然にも、『桜に幕』の札を引いていた。
私に。私の血に宿る、力……。
「花札使いの力は血によって受け継がれる。そして君は、かなり濃い桜花の血を引いているようだ」
……出せる札がない。仕方なくこつり、と私が『桜に幕』を場に出す。それを見た皓様は口元に笑みを浮かべる。
「今日、君が見せた力がその証拠だ。訓練も受けていない人間が、いきなり札鬼を斬れるものではない」
「でも、二度目は何も起こりませんでしたが……」
「初めての覚醒は、力が不安定なことが多い。私もそうだった」
皓様は私の出した『桜に幕』を、別の桜札と合わせて取った。
「訓練すれば、意識的に力を使えるようになる」
「訓練……」
私には、そんな大それたことができるとは思えない。……松の札を場に出す。
「君には素質がある」
皓様の声は、断定的だった。
彼は『松に鶴』の札を、私が出した松の札と合わせる。
これで彼の場に『松に鶴』『桜に幕』、そして『芒に月』が揃った。三光と呼ばれる役の完成だ。
「この局は私の勝ちだ」
「うう……。お強いですね」
「運が良かっただけだ。……さて。それで、君にもぜひ力を貸してほしい。私の花嫁として」
その言葉に、再び心臓が跳ねる。三光の役を表す花札が並んでいる。『桜に幕』、『芒に月』が意味ありげに隣り合っている……。
「し、しかし……どうして、私なんかが月読家の花嫁に……?」
恐る恐るそう尋ねる。
嬉しくない、わけじゃないと思う。降って湧いた幸運。だけど、その実感は得られていない。
花札とか異能とかも、正直よくわかっていない。
百歩譲って私に能力があるとして、なぜ嫁に、などと仰るのだろう……?
「妹は君を陥れようとした。呪詛花札を使って、君を傷つけようとした。そうだろう」
「……はい」
「それなのに君は彼女を助けた。自分の身を危険に晒してまで」
皓様の視線が、私の包帯が巻かれた腕に向けられる。
「それはなぜだ?」
「それは……」
答えに詰まる。
なぜだろう。あの時は、ただ体が動いていた。
「分かりません。でも……見捨てたら、きっと後悔すると思ったんです」
「後悔?」
「はい。撫子がどんなに私を嫌っていても、私が撫子を見殺しにしたら、きっと一生自分を許せない……から」
我ながら、馬鹿みたいな理由だと思う。
でも、それが本心だった。
「……やはり美しいな、君は」
「え……えっ?」
皓様の呟きに、私は驚いて顔を上げた。
皓様は立ち上がり、窓辺に向かう。
月光が、彼の銀髪を照らしている。
「花札使いとして戦っていると、人の醜さばかりが目につく。嫉妬、憎悪、裏切り。それらが札鬼を生み、人を傷つける」
振り返った皓様の表情は、どこか寂しげだった。
「だが君は違った。裏切られても、なお相手を守ろうとした。その清らかな心こそが、桜花の力を呼び覚ましたのだろう」
「そんな、清らかだなんて……」
私は慌てて首を振る。
私の心は、そんなに綺麗じゃない。
撫子への憎しみも、美津子様への恨みも、ちゃんと抱えている。
「謙遜することはない」
皓様は私の前に戻ってきた。そして、私の手に触れる。
「君のような人間は、稀だ」
「……」
「だから、守りたいと思った。君の身を。そして心をな」
その言葉に、胸が熱くなる。
守りたいなんて、誰からも言われたことがなかった。
私はいつも、守られる価値もない存在だと思っていたから。
「……ありがとう、ございます」
やっとそれだけ言うと、皓様は小さく微笑んだ。
初めて見る、柔らかな表情。
月のように冷たいと思っていた人が、こんな顔もできるのだと知った。
……その瞬間だった。
ぐぅ~~
静かな書斎に、恥ずかしい音が響き渡った。
私のお腹が、盛大に鳴ったのだ。
「あ……」
顔から火が出そうになる。
慌てて両手でお腹を押さえるが、もう遅い。
「す、すみません……」
消え入りそうな声で謝る私を、皓様は少し驚いたような顔で見ていた。
「謝ることではない。では、すぐに夕餉を用意させよう」
「えっ!? そ、そこまでご厄介になるわけには……!」
「そういうわけにはいかない。私の花嫁にひもじい思いをさせられないからな」
「は、花嫁って……」
有無を言わせぬ皓様に手を取られ、私は立ち上がる。
花嫁。その言葉が頭に響く。彼はどこまで本気なのだろうか……。
皓様に続いて廊下を歩きながら、私は恥ずかしさで俯いていた。
