「……詩織!」

 皓様の声と、肩を揺さぶられる感覚で意識を取り戻す。

「はっ! わ、私……」
「気を失いかけていたぞ。大丈夫か?」

 皓様に支えられて、私はなんとか立っていることができたようだ。
 まだ足がふらつくが、意識ははっきりしている。

「す、すみません……! 情けないところを……っ」
「気にするな。少しずつ慣れていけばいい」

 皓様が優しく言ってくれる。

「少し休むか?」
「いえ、大丈夫です」

 私は深呼吸をして、気持ちを立て直した。
 確かに恐ろしいけれど、皓様がいてくださる。きっと大丈夫だ。

「では、もう一度見てみよう。今度は、よく観察するんだ」

 皓様に促されて、私は再びグラウンドに目を向けた。

 札鬼は、まだそこにいた。
 相変わらず一人でトラックを走り続けている。

 でも、今度は少し冷静に見ることができた。
 札鬼の表情……その顔に宿る感情を。

「あれ……?」

 私は首をかしげる。

「皓様、あの幽れ……札鬼、怒っているわけではないんですね」
「ほう? どう見える?」

 皓様が私の観察を待っている。私はもう一度、札鬼の顔をじっと見つめた。

「悲しそうです。とても……寂しそうな顔をしています」

 確かにそうだった。札鬼の表情は怒りや憎しみではなく、深い悲しみに満ちていた。
 まるで泣いているような、そんな表情。

「よく見ているな」

 皓様が感心したように頷く。

「一般的な札鬼は怒りや憎悪に満ちたものが多い。だが、この札鬼は違うようだ」
「はい……あの子、ずっと一人で走り続けているんですね」

 札鬼は、誰に見られるでもなく、ただひたすらトラックを回っている。
 その姿は、何だかとても切なく見えた。

「一人で走るしか、できないのかもしれません」

 私の胸に、込み上げてくるものがあった。
 恐怖ではない。別の感情だった。

「体育祭に出たかったのに出られなくて……その想いが諦められなくて……」

 札鬼の気持ちが、何となく分かる気がした。
 打ち込んでいたものに出られず、無念のまま迎えた死……。それは、とても悲しいだろう。

「あの子の気持ち……少し分かります」

 私は皓様を見上げる。

「きっと、とても悔しかったんでしょう。みんなと一緒に走りたかったのに……」

 札鬼は相変わらず走り続けている。
 でも、その走り方は楽しそうではなかった。義務のように、諦めきれない想いを抱えながら、ただ走っているだけ。

「詩織」

 皓様が私の肩に手を置く。

「君はどうしたい?」
「え?」
「あの札鬼を、どうしてやりたい?」

 皓様の問いに、私は改めて札鬼を見つめた。
 怖いという気持ちは、もうほとんどなくなっていた。
 代わりに湧いてくるのは、同情と……そして、何かしてあげたいという気持ち。

「一人で走るのは寂しいでしょうから……」

 私は小さく呟いた。

「誰かと一緒に走れたら、きっと嬉しいんじゃないでしょうか」

 そう言いながら、自分でも驚いていた。
 さっきまであんなに怖がっていたのに、今は札鬼を助けてあげたいと思っている。

「そうか」

 皓様が微笑む。

「では、君の思うようにしてみろ」
「でも、どうすれば……」
「君の心の赴くままに。きっと、正しい答えが見つかる」

 皓様の言葉に背中を押されて、私はゆっくりとグラウンドに足を向けた。

 札鬼に近づく。
 一歩、また一歩と。

 怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に強い気持ちがあった。
 あの札鬼を、一人にしておきたくない。

 私は札鬼に向かって、静かに歩き続けた。
 札鬼は私の存在に気づいたのか、走るのを止めて振り返る。朧げな顔が、私をじっと見つめていた。
 近くで見ると、やはり女学生の姿をしている。私と同じくらいの年頃だろうか。

「こ、こんばんは」

 私は震え声で挨拶をした。
 札鬼が返事をするとは思わないが、何か話しかけてあげたかった。

 札鬼は何も答えない。ただ、悲しそうな表情でこちらを見ている。

「一人で走っているんですね」

 私は足首の痛みを堪えながら、札鬼の隣に立った。

「寂しくは、ないですか?」

 その言葉に、札鬼の表情が微かに変わった気がした。

「私も……以前は一人でいることが多くて。一人って、とても辛いですよね」

 私は自分の経験を思い出しながら話す。
 如月家で過ごした、あの孤独な日々。誰にも理解されず、誰からも愛されなかった時間。

「誰かと一緒にいられるって、それだけでとても嬉しいことだと思うんです」

 札鬼が、私の方に一歩近づいた。

「もしよければ……私も一緒に走っていいですか?」

 その提案に、札鬼は驚いたような表情を見せた。
 透明な瞳が、私を見つめている。

「一緒に走る人がいたら、きっと楽しいと思うんです」

 札鬼は少しの間、私を見つめていた。
 それから、小さく頷いたような気がした。

「ありがとうございます」

 私は札鬼の隣に並ぶ。そして、ゆっくりと走り始めた。

 最初は恐る恐るだったが、札鬼も私に合わせてゆっくりと走ってくれていた。
 私の足は遅く、足首の痛みもあって、とてもぎこちない走り方だった。

「あ……っ」

 数歩進んだところで、私はバランスを崩しそうになる。
 すると、札鬼が私の隣に寄り添うように走ってくれた。

 そして、札鬼の口が動いた。
 声は聞こえないが、何かを教えてくれているようだった。

「ええと……もしかして、走り方を教えてくださってるんですか?」

 札鬼が頷く。そして、ゆっくりとした動作で、正しい走り方を見せてくれた。
 腕の振り方、足の運び方。私のものよりも身振りが大きい。それが速く走るうえで大事なのかもしれない。

「こ、こうですかっ?」

 私は札鬼の真似をして、もう少し足を高く上げて走ってみる。
 まだぎこちないが、さっきよりは少し上手に走れているような気がした。

 札鬼がまた頷いて、今度は私と並んで走ってくれる。
 一緒に走るペースは遅いが、確実に前に進んでいる。

「はぁ、はぁ……っ、楽しい、です」

 私は素直な気持ちを口にした。

「一人で走るより、ずっと楽しい」

 札鬼の表情が、少しずつ穏やかになっているのが分かった。
 さっきまでの悲しそうな顔ではなく、安らかな笑顔が浮かんでいる。

 私たちは何周か、一緒にトラックを回った。
 私は途中で息が上がってしまい、歩くようなペースになったが、札鬼は嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。

「す、すみません……っ」

 立ち止まった私に、札鬼も立ち止まる。
 それからしばらく、息を整える時間がかかった。

「……あなたと一緒に走れて、とても嬉しかったです」

 札鬼は私を見つめて、微笑んだ。
 その笑顔は、とても優しくて温かかった。

 そして、札鬼の口が動く。
 今度は、かすかに声が聞こえた。

『アリガトウ……』

 小さな、小さな声だった。

 札鬼の身体が、薄っすらと光り始める。
 柔らかな、桜色の光。
 札鬼の姿が、だんだんと薄くなっていく。

 でも、その表情は穏やかで、もう悲しみの影はなかった。
 満足したような、安らかな笑顔を浮かべている。札鬼は光となって夜空に溶けていった。

 グラウンドに、静寂が戻る。
 でも、それは不気味な静寂ではなく、平和な静寂だった。そんな気がする。

「……終わった、のですね」

 私は夜空を見上げながら呟いた。

「ああ」

 いつの間にか私の隣に来ていた皓様が、頷く。

「見事だったぞ、詩織」
「そんな……私は何も特別なことはしていません。それに、戦いもしませんでしたし」
「いや」

 皓様が私の頭を優しく撫でる。

「君らしい、素晴らしい解決法だった。
 戦わずに解決できるのは、戦って解決するよりもよほどいい」

 皓様の言葉に、胸が温かくなる。私にも、できることがあったのだ。



 それから四日後。
 体育祭当日の朝、更衣室は慌ただしい空気に包まれていた。

 私は制服を脱いで、体操服を手に取る。紺色のブルマと白いシャツ。
 ……体操服はやっぱり苦手だ……。もう少し、デザインはなんとかならないのだろうか……。

(もっと、こう……短いズボンくらいなら、そこまで恥ずかしくもないんだけど……)
「詩織、早く着替えなさいよ〜」

 美咲ちゃんが既に着替え終わって、私を急かしている。

「う、うん……」

 私は周りの視線を気にしながら、そっと着替え始めた。ブルマを履いて、シャツを着る。

(この格好を皓様に見られたら……)

 想像しただけで、顔が真っ赤になってしまう。
 でも、皓様は帝都のお仕事でお忙しいはず。体育祭なんて見に来られるわけがない。

「詩織、なんで顔が赤いの? 熱でもある?」

 美咲ちゃんが心配そうに私の額に手を当ててくる。

「だ、大丈夫……ちょっと暑いだけ」
「そう? でも今日は涼しいくらいよ」

 確かに、春の風が涼やかで過ごしやすい一日だった。
 昨夜は少し雲行きが怪しかったのに、今朝は雲一つない青空が広がっている。
 ……あの子が晴らしてくれた、というのは考え過ぎだろうか。

「足首の調子はどう? 痛くない?」

 美咲ちゃんが私の足を見る。
 包帯も外れて、もうすっかり普通に歩けるようになっていた。

「全然痛くないの。不思議なくらい」
「よかった! それなら安心してリレーに出られるわね」
「うっ……が、頑張ります」

 緊張で声が震える。クラスの皆に迷惑をかけないよう、精一杯走らなければならない。
 更衣室の外から、開会式を知らせる放送が聞こえてきた。

「さあ、行きましょう!」

 美咲ちゃんが私の手を引く。私も深呼吸をして、更衣室を出た。

 廊下は体操服姿の生徒たちでいっぱいで、みんな興奮した様子でグラウンドに向かっている。
 その賑やかな雰囲気に、私も少しずつ緊張がほぐれてきた。



 午後、いよいよクラス対抗リレーの時間がやってきた。

 グラウンドは生徒たちの熱気と、観客席からの声援に包まれている。
 各クラスの応援団が、色とりどりの旗を振って応援していた。
 私は三走のポジションで、スタートラインから少し離れた場所に立っている。

「みんな、最後まで諦めないで頑張りましょう」

 主将が私たちを集めて、最後の打ち合わせをする。

「如月さんは、無理しないでいいからね。転ばないように気をつけて」
「はい、ありがとうございます」

 皆の優しさが身に染みる。だけど、私だって頑張らないと!

「詩織〜! 頑張って〜!」

 観客席から美咲ちゃんの声が聞こえる。
 彼女は応援係として、一生懸命私たちのクラスを応援してくれていた。
 その声援に手を振って応えると、胸の奥が温かくなる。

 ピストルの音が響いて、一走がスタートした。

 私のクラスは中位あたりでバトンが繋がれている。
 特別早くもなく、遅くもない。でも、みんな一生懸命走っているのがよく分かった。

 二走の柏木さんが私の方に向かって駆けてくる。
 私は右手を後ろに伸ばして、バトンを受け取る準備をした。

 心臓がどきどきと早鐘を打っている。
 失敗したらどうしよう。転んだらどうしよう。

「如月さん!」

 柏木さんの声が聞こえる。あと少しで私の番だ。
 パシッ、という音と共に、バトンが私の手の中に収まった。

「よし!」

 私は全力で駆け出した。

 風を切って走る感覚。地面を蹴る足音。荒くなっていく呼吸。
 前に、札鬼に教わった走り方を思い出しながら、腕を振り、足を運ぶ。

 隣のレーンを走る他のクラスの生徒と、ほぼ同じペースで走れている。
 練習の時よりも、ずっと上手に走れている気がした。足首の痛みもなく、身体が軽やかだ。

「詩織〜! 頑張れ〜!」
「いいぞ、如月ちゃん!」

 観客席からの声援が聞こえる。その声に背中を押されて、私はさらに足を速めた。

 あと少しで四走の鈴木さんにバトンを渡せる。転ばないように、落とさないように、慎重に……!

「鈴木さんっ」

 私は精一杯の声で呼びかけながら、バトンを差し出す。

 パシッ。
 今度もしっかりと、バトンが渡った。

「ナイスラン、詩織さん!」

 鈴木さんが振り返って笑顔を見せてくれる。その笑顔に、私も思わず笑顔になった。

 役目を終えた私は、ゴール付近でクラスメートたちと一緒に応援する。
 息が上がっているけれど、とても爽やかな疲労感だった。
 みんなの役に立てた。それだけで、十分に嬉しかった。

「詩織、すごかったじゃない!」
「練習の時より全然早かったよ!」

 クラスメートたちが口々に褒めてくれる。その言葉一つ一つが、胸に響いた。


 結果は3位入賞。一番の勝ちではなかったけれど、みんなで力を合わせた結果だった。
 表彰式では、1位の生徒たちが賞状をもらっている。
 私たちも拍手をしながら、その光景を見守った。

「みんな、お疲れさま! 如月さんも、本当によく頑張ったね。ありがとう」
「い、いえ……私なんて、大したことは……」
「そんなことないわよ。あなたがいてくれたから、いい結果が出せたのよ」

 柏木さんの言葉に、涙が出そうになる。

「詩織、次は綱引きがあるから、少し休んでなよ」

 美咲ちゃんが私の肩を叩く。

「俺たちは道具の準備があるから、先に行ってるぞ」
「は、はい。ありがとうございます……!」

 クラスメートたちがぞろぞろと移動していく。私は一人、校舎の陰で一息ついていた。
 リレーの興奮がまだ冷めやらず、胸がどきどきしている。

「……ふぅ」

 日差しが温かくて、とても気持ちがいい。こんなに充実した気持ちになったのは、いつぶりだろう。
 深呼吸をして空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。

「お疲れさまでした、詩織さん」

 突然、後ろから上品な声がかけられた。

 振り返ると、そこには深い紅色の着物に身を包んだ美しい女性が立っていた。
 艶やかな赤毛を丁寧に結い上げて、琥珀色の瞳がこちらを見つめている。

「夕霧……紅葉様? どうして、こんなところに……?」
「体育祭を拝見させていただいておりました」

 紅葉様は優雅に微笑みながら、私に近づいてくる。
 その表情は、前回お会いした時とは明らかに違っていた。

「この目で確かめたかったのです」
「確かめる……って?」
「リレー、とてもお上手でしたわね」
「え? そ、そんな……大したことは……」

 褒められると、どうしても身が縮こまってしまう。
 紅葉様の瞳に、複雑な光が宿る。

「あなたの力、『桜に幕』。……想像していた以上でした」

 その言葉の意味が、私にはよく分からなかった。

 でも、紅葉様の表情からは、何か重要な話があることが伝わってきた。
 体育祭の賑やかな音が遠くに聞こえる中、私たちを包む空気だけが、静かで緊張感に満ちていた。


あとがき:わざわざ学校のリレーを見に来た紅葉さん!