――私は今日の出来事を皓様に詳しく話し始めた。
リレーの練習中に転んだこと。
その時に感じた、まるで何かに足を掴まれたような不可解な感覚。
そして、美咲ちゃんから聞いた学校の怪談について……。
「体育祭に出られなかった、女生徒の話らしいんです」
私は皓様に向かって説明する。
「その子は体育祭の前日に怪我をして、とても悔しがっていたそうです。そして体育祭当日の夕方、グラウンドで一人で走り回っている姿を見られたのに、本人は家で……熱で亡くなっていたって」
「ほう」
皓様は真剣な表情で頷いている。
「つまり、体育祭に出られなかった無念が霊となって現れたということか」
「は、はい……もしかして、私が転んだのも、その幽霊が……」
考えるだけで背筋がぞくりとする。
美咲ちゃんの話を思い出すと、やはり怖くなってしまう。
「なるほど、それは確かに厄介だな」
皓様が腕を組んで考え込む。
「幽霊の仕業となると、通常の手段では対処が難しい」
「え……」
「特に、強い無念を抱いた霊は執念深い。君のような体育祭に参加する生徒を狙って、足を引っ張ったのだろう」
皓様の声が、どんどん深刻になっていく。
「そうなると……君は常に狙われ続けることになる。体育祭が終わるまで、いや、その霊の無念が晴れるまで……」
「ひ、ひいいぃ……」
思わず変な声が出てしまう。そ、そんな恐ろしいことになっているなんて……。
「まずいな。このままでは君の身に危険があるだろう」
皓様が立ち上がり、部屋の中を歩き回り始める。
まるで、何か重大な決断を迫られているような様子だった。
「ど、どうすれば……」
「ふむ……」
皓様が私を振り返る。その表情は、とても深刻で……。
そして、ぽつりと呟いた。
「除霊でもするしかないかもしれんな」
「じょ、除霊……!?」
除霊なんて、テレビでしか見たことがない。そんな本格的なことになってしまうの?
私の顔は、きっと真っ青になっていただろう。
「――という話になると思ったか?」
突然、皓様の表情が緩んだ。
「え?」
「冗談だ、詩織」
皓様がくすりと笑う。私は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「じょ、冗談……?」
「ああ。君があまりにも真剣に怖がるものだから、つい悪戯したくなった」
皓様が悪戯っぽく微笑む。私は安堵と同時に、顔が赤くなった。
「ひ、酷いです皓様! 本気で怖がっていたのに……!」
「すまん、すまん」
皓様が私の頭を優しく撫でる。
「でも、君の恐がる顔が可愛くてな」
「も、もう……」
怖がらせておいて、可愛いだなんて……。
そういえば、美咲ちゃんも似たようなことを言っていたような。困っているのに、もう。
「それで、本当のところはどうなんですか? やっぱり幽霊なんでしょうか……」
まだ心配が残っている私に、皓様は落ち着いた声で説明してくれた。
「幽霊ではない。だが、君の感じた違和感は本物だろう」
「え?」
「噂話というものは、時として強い力を持つ」
皓様が窓辺に立ち、夜空を見上げる。
「特に、多くの人が同じ話を信じ、恐怖や不安といった負の感情を共有すると……それが実体を持つことがある」
「実体……?」
「札鬼だ」
皓様が振り返る。
「人々の負の思いが集まって、自然発生的に札鬼が生まれるのだ」
「じゅ……呪詛花札なしでも、発生するものなのですか?」
「ああ。札鬼とは本来、人の負の感情に応じてどこにでも現れうる災害に過ぎん。それを無理やり発生させるのが呪詛花札だ。
今回の場合、体育祭に出られなかった無念の幽霊という『噂』が元になって札鬼を生んだのだろう。幽霊そのものとは違うと思え」
なるほど。つまり、本物の幽霊ではなく、あくまで幽霊を再現した札鬼ということなのか……。
「そして、その札鬼は噂の内容に沿った行動を取る。体育祭に出たくても出られない無念……だから、体育祭に参加しようとする生徒の足を引っ張るのだ」
「それじゃ、私が転んだのも……」
「おそらくそうだろう。生徒が体育祭の練習をしていることを察知して、妨害したのだ」
皓様の説明で、ようやく状況が理解できた。でも……。
(幽霊の噂によって現れて、幽霊と同じ事をする……。それってつまり、幽霊そのものとなにも変わらないのでは……)
そんな疑問が頭をよぎる。
でも、深く考えると怖くなりそうなので、考えるのをやめた。
「では、どうすれば解決できるんでしょうか?」
「方法は二つある」
皓様が指を立てる。
「一つは、噂そのものを消すこと。人々がその話を信じなくなれば、札鬼を支えている負の思いも消える」
「でも、それは難しそうですね……」
「ああ。一度広まった噂を完全に消すのは困難だ」
皓様が二本目の指を立てる。
「もう一つは、その札鬼の無念を晴らすこと」
「無念を晴らす……?」
「札鬼が模倣している『体育祭に出られなかった無念』を解消してやるのだ。そうすれば、札鬼は自然に消滅する」
つまり、体育祭に出たかったという願いを叶えてあげるということだろうか。
「でも、札鬼にどうやって体育祭に参加させるんですか?」
「それは……実際に札鬼と対峙してみないと分からん」
皓様が顎に手を当てて考える。
「まずは、その札鬼の正体を突き止める必要がある。どこに潜んでいるのか、どの程度の力を持っているのか」
「調査するということですね」
「そうだ。明日は土曜日だろう? 学校に忍び込んで、札鬼の痕跡を探してみよう」
学校に忍び込む、という言葉にどきどきする。でも、このまま放っておけば体育祭当日に大変なことになるかもしれない。
「私も一緒に行きます」
「危険だぞ」
「でも、学校の地形なら私のほうが詳しいです。それに……」
私は皓様を見つめる。
「私も一人前の花札使いになりたいんです。こういう時にお手伝いできなければ、いつまでたっても成長できません」
皓様はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。ただし、私の指示には絶対に従うこと。いいな?」
「はい!」
私は力強く答えた。
明日、学校でどんなことが待っているのだろう。
少し不安だが、皓様が一緒なら大丈夫だろう。
それに、これは私にとって大切な経験になるはずだ。
紅葉様に認めてもらえるような花札使いになるためにも、頑張らなければ。
「それでは、今夜はゆっくり休め。明日に備えて、体力を温存しておくんだ」
「はい。皓様も、お疲れさまでした」
私は皓様に頭を下げて、自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、今日一日のことを振り返る。
紅葉様との対峙。自分の意志を貫いたこと。そして、学校の札鬼の件。
色々なことがあったけれど、確実に前に進んでいる実感がある。
明日からまた、新しい挑戦が始まるのだ。
■
翌日の夜、私は皓様と共に泰平高等學校の正門前に立っていた。
街灯の明かりが作る長い影。風に揺れる木々のざわめき。
そして何より、しんと静まり返った校舎の不気味さ……。
「……」
私は皓様の袖をぎゅっと掴んでいた。
「どうした? 顔が青いぞ」
皓様が私を見下ろす。
……その表情には、明らかに面白がっているような光が宿っていた。
「だ、大丈夫です。全然、怖くありません」
震え声でそう答えるが、自分でも説得力がないのが分かる。
でも、私から一緒に行きたいと言ったのだ。今更弱音を吐くわけにはいかない。
「ふむ。それは頼もしいな」
皓様が小さく笑う。
「では、中に入るとしよう」
皓様が校門に手をかけると、鍵が外れる音がした。
きっと、皓様の力で開けたのだろう。でも、そんな超常的な力すら今は頼もしく感じられた。
「詩織、私から離れるなよ」
「は、はい……」
私は皓様の後に続いて、校門をくぐる。
昼間は慣れ親しんだ学校の敷地も、夜になると全く別の場所のようだった。
影がゆらゆらと揺れて、まるで何かが潜んでいるみたい。
私は皓様の着物の袖を離さないよう、しっかりと掴んでいた。
「詩織」
「は、はい!」
皓様に名前を呼ばれて、私は飛び上がりそうになる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。まだ何も起きていない」
「も、もちろん分かっています。私は全然緊張なんて……!」
その時、風で木の枝がざわさわと音を立てた。
「ひゃっ!」
思わず皓様の腕にしがみついてしまう。
皓様の体温が伝わってきて、少しだけ安心した。
「……風の音だ」
皓様が静かに言う。その声には、明らかに笑いを堪えている響きがあった。
「わ、分かってます……風ですよね、風……」
恥ずかしくて顔が熱くなる。でも、皓様の腕から離れることはできなかった。
「まあ、夜の学校は確かに不気味だからな。君が怖がるのも無理はない」
皓様が私の頭を優しく撫でる。
嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちになる。
私たちは校舎に向かって歩き続けた。足音が静寂の中に響いて、やけに大きく聞こえる。
昼間は何でもない校庭の小道も、夜になると果てしなく長く感じられた。
「あの……皓様」
「なんだ?」
「もしも本当に……その、札鬼以外のものが出てきたらどうしましょう?」
つい、そんな質問をしてしまう。
「札鬼以外とは?」
「その……本物の、お化けとか……」
言いながら、自分でも情けなくなる。
花札使いを目指している身で、お化けを怖がるなんて。
「心配するな」
皓様が振り返って微笑む。
「もしも何か出てきても、私が全て祓ってやる。君に指一本触れさせない」
「ありがとうございます……」
皓様の言葉に、心が温かくなる。
こんなに頼りになる方が隣にいてくださるのだから、本当は怖がる必要なんてないのだ。
でも、身体は正直に震えてしまう。
「それに」
皓様が立ち止まる。
「君がそんなに震えていては、札鬼の方が警戒して出てこないかもしれんぞ」
「え?」
「札鬼は負の感情に敏感だ。君の恐怖心を察知して、距離を置く可能性がある」
そんなことがあるのだろうか。
「で、では……私が怖がっていると、調査の妨げに……?」
「いや、それは冗談だ」
皓様がまたくすりと笑う。
「札鬼は恐怖心があろうとなかろうと、必要に応じて現れる。君は安心して怖がっていればいい」
「ひ、酷いです……」
またからかわれてしまった。でも、皓様のおかげで少し緊張が和らいだ気がする。
……その時、遠くの方から微かに音が聞こえてきた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
規則正しい、足音のような音。
「皓様……今の音……」
「ああ、私にも聞こえる」
皓様の表情が急に真剣になった。
「どうやら、目当ての相手が現れたようだな」
私の身体が、また震え始める。
ついに、幽霊……じゃなく、札鬼と遭遇する時が来たのだ。
「詩織。覚悟はいいか?」
「は、はい……」
震え声で答える。怖いけれど、逃げるわけにはいかない。
「グラウンドの方へ向かおう。音はあちらから聞こえてくる」
皓様が歩き出す。私も、震える足でその後に続いた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
足音は、だんだんとはっきりしてくる。
確実に、何かがグラウンドを走り回っているのだ。
(ど、どうしよう……いや、だめよ怖がっちゃ。私は花札使い、札鬼を倒す者……!)
胸が早鐘のように打つ。皓様の袖を掴む手に、じっとりと汗が滲んでいた。
でも、引き返すわけにはいかない。
札鬼の無念を晴らすために、私は皓様と共に夜の学校に来たのだから。
グラウンドが見えてきた。
そして、その中央で……。
「あ……」
私の息が止まった。
そこには、朧げな人影があった。
女子生徒の姿をしているが、輪郭がぼんやりと霞んでいる。
まるで霧でできているような、この世のものとは思えない存在。
それが、一人でトラックを走り続けていた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
さっきから聞こえていた足音の正体は、やはりこれだったのだ。
「ひ……ひ……」
声にならない声が、喉の奥で震える。
頭がくらくらして、立っていることができなくなりそうだった。
(これが……幽霊の札鬼……)
皓様から説明は聞いていたが、実際に目にすると恐怖は想像以上だった。
膝が震えて、今にもその場に崩れ落ちてしまいそう。
「詩織、大丈夫か?」
皓様の声が遠くに聞こえる。
「だ、大丈――」
そう言いかけて、私の意識は暗闇に落ちそうになった。
あとがき:皓様は基本ドSです
リレーの練習中に転んだこと。
その時に感じた、まるで何かに足を掴まれたような不可解な感覚。
そして、美咲ちゃんから聞いた学校の怪談について……。
「体育祭に出られなかった、女生徒の話らしいんです」
私は皓様に向かって説明する。
「その子は体育祭の前日に怪我をして、とても悔しがっていたそうです。そして体育祭当日の夕方、グラウンドで一人で走り回っている姿を見られたのに、本人は家で……熱で亡くなっていたって」
「ほう」
皓様は真剣な表情で頷いている。
「つまり、体育祭に出られなかった無念が霊となって現れたということか」
「は、はい……もしかして、私が転んだのも、その幽霊が……」
考えるだけで背筋がぞくりとする。
美咲ちゃんの話を思い出すと、やはり怖くなってしまう。
「なるほど、それは確かに厄介だな」
皓様が腕を組んで考え込む。
「幽霊の仕業となると、通常の手段では対処が難しい」
「え……」
「特に、強い無念を抱いた霊は執念深い。君のような体育祭に参加する生徒を狙って、足を引っ張ったのだろう」
皓様の声が、どんどん深刻になっていく。
「そうなると……君は常に狙われ続けることになる。体育祭が終わるまで、いや、その霊の無念が晴れるまで……」
「ひ、ひいいぃ……」
思わず変な声が出てしまう。そ、そんな恐ろしいことになっているなんて……。
「まずいな。このままでは君の身に危険があるだろう」
皓様が立ち上がり、部屋の中を歩き回り始める。
まるで、何か重大な決断を迫られているような様子だった。
「ど、どうすれば……」
「ふむ……」
皓様が私を振り返る。その表情は、とても深刻で……。
そして、ぽつりと呟いた。
「除霊でもするしかないかもしれんな」
「じょ、除霊……!?」
除霊なんて、テレビでしか見たことがない。そんな本格的なことになってしまうの?
私の顔は、きっと真っ青になっていただろう。
「――という話になると思ったか?」
突然、皓様の表情が緩んだ。
「え?」
「冗談だ、詩織」
皓様がくすりと笑う。私は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「じょ、冗談……?」
「ああ。君があまりにも真剣に怖がるものだから、つい悪戯したくなった」
皓様が悪戯っぽく微笑む。私は安堵と同時に、顔が赤くなった。
「ひ、酷いです皓様! 本気で怖がっていたのに……!」
「すまん、すまん」
皓様が私の頭を優しく撫でる。
「でも、君の恐がる顔が可愛くてな」
「も、もう……」
怖がらせておいて、可愛いだなんて……。
そういえば、美咲ちゃんも似たようなことを言っていたような。困っているのに、もう。
「それで、本当のところはどうなんですか? やっぱり幽霊なんでしょうか……」
まだ心配が残っている私に、皓様は落ち着いた声で説明してくれた。
「幽霊ではない。だが、君の感じた違和感は本物だろう」
「え?」
「噂話というものは、時として強い力を持つ」
皓様が窓辺に立ち、夜空を見上げる。
「特に、多くの人が同じ話を信じ、恐怖や不安といった負の感情を共有すると……それが実体を持つことがある」
「実体……?」
「札鬼だ」
皓様が振り返る。
「人々の負の思いが集まって、自然発生的に札鬼が生まれるのだ」
「じゅ……呪詛花札なしでも、発生するものなのですか?」
「ああ。札鬼とは本来、人の負の感情に応じてどこにでも現れうる災害に過ぎん。それを無理やり発生させるのが呪詛花札だ。
今回の場合、体育祭に出られなかった無念の幽霊という『噂』が元になって札鬼を生んだのだろう。幽霊そのものとは違うと思え」
なるほど。つまり、本物の幽霊ではなく、あくまで幽霊を再現した札鬼ということなのか……。
「そして、その札鬼は噂の内容に沿った行動を取る。体育祭に出たくても出られない無念……だから、体育祭に参加しようとする生徒の足を引っ張るのだ」
「それじゃ、私が転んだのも……」
「おそらくそうだろう。生徒が体育祭の練習をしていることを察知して、妨害したのだ」
皓様の説明で、ようやく状況が理解できた。でも……。
(幽霊の噂によって現れて、幽霊と同じ事をする……。それってつまり、幽霊そのものとなにも変わらないのでは……)
そんな疑問が頭をよぎる。
でも、深く考えると怖くなりそうなので、考えるのをやめた。
「では、どうすれば解決できるんでしょうか?」
「方法は二つある」
皓様が指を立てる。
「一つは、噂そのものを消すこと。人々がその話を信じなくなれば、札鬼を支えている負の思いも消える」
「でも、それは難しそうですね……」
「ああ。一度広まった噂を完全に消すのは困難だ」
皓様が二本目の指を立てる。
「もう一つは、その札鬼の無念を晴らすこと」
「無念を晴らす……?」
「札鬼が模倣している『体育祭に出られなかった無念』を解消してやるのだ。そうすれば、札鬼は自然に消滅する」
つまり、体育祭に出たかったという願いを叶えてあげるということだろうか。
「でも、札鬼にどうやって体育祭に参加させるんですか?」
「それは……実際に札鬼と対峙してみないと分からん」
皓様が顎に手を当てて考える。
「まずは、その札鬼の正体を突き止める必要がある。どこに潜んでいるのか、どの程度の力を持っているのか」
「調査するということですね」
「そうだ。明日は土曜日だろう? 学校に忍び込んで、札鬼の痕跡を探してみよう」
学校に忍び込む、という言葉にどきどきする。でも、このまま放っておけば体育祭当日に大変なことになるかもしれない。
「私も一緒に行きます」
「危険だぞ」
「でも、学校の地形なら私のほうが詳しいです。それに……」
私は皓様を見つめる。
「私も一人前の花札使いになりたいんです。こういう時にお手伝いできなければ、いつまでたっても成長できません」
皓様はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。ただし、私の指示には絶対に従うこと。いいな?」
「はい!」
私は力強く答えた。
明日、学校でどんなことが待っているのだろう。
少し不安だが、皓様が一緒なら大丈夫だろう。
それに、これは私にとって大切な経験になるはずだ。
紅葉様に認めてもらえるような花札使いになるためにも、頑張らなければ。
「それでは、今夜はゆっくり休め。明日に備えて、体力を温存しておくんだ」
「はい。皓様も、お疲れさまでした」
私は皓様に頭を下げて、自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、今日一日のことを振り返る。
紅葉様との対峙。自分の意志を貫いたこと。そして、学校の札鬼の件。
色々なことがあったけれど、確実に前に進んでいる実感がある。
明日からまた、新しい挑戦が始まるのだ。
■
翌日の夜、私は皓様と共に泰平高等學校の正門前に立っていた。
街灯の明かりが作る長い影。風に揺れる木々のざわめき。
そして何より、しんと静まり返った校舎の不気味さ……。
「……」
私は皓様の袖をぎゅっと掴んでいた。
「どうした? 顔が青いぞ」
皓様が私を見下ろす。
……その表情には、明らかに面白がっているような光が宿っていた。
「だ、大丈夫です。全然、怖くありません」
震え声でそう答えるが、自分でも説得力がないのが分かる。
でも、私から一緒に行きたいと言ったのだ。今更弱音を吐くわけにはいかない。
「ふむ。それは頼もしいな」
皓様が小さく笑う。
「では、中に入るとしよう」
皓様が校門に手をかけると、鍵が外れる音がした。
きっと、皓様の力で開けたのだろう。でも、そんな超常的な力すら今は頼もしく感じられた。
「詩織、私から離れるなよ」
「は、はい……」
私は皓様の後に続いて、校門をくぐる。
昼間は慣れ親しんだ学校の敷地も、夜になると全く別の場所のようだった。
影がゆらゆらと揺れて、まるで何かが潜んでいるみたい。
私は皓様の着物の袖を離さないよう、しっかりと掴んでいた。
「詩織」
「は、はい!」
皓様に名前を呼ばれて、私は飛び上がりそうになる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。まだ何も起きていない」
「も、もちろん分かっています。私は全然緊張なんて……!」
その時、風で木の枝がざわさわと音を立てた。
「ひゃっ!」
思わず皓様の腕にしがみついてしまう。
皓様の体温が伝わってきて、少しだけ安心した。
「……風の音だ」
皓様が静かに言う。その声には、明らかに笑いを堪えている響きがあった。
「わ、分かってます……風ですよね、風……」
恥ずかしくて顔が熱くなる。でも、皓様の腕から離れることはできなかった。
「まあ、夜の学校は確かに不気味だからな。君が怖がるのも無理はない」
皓様が私の頭を優しく撫でる。
嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちになる。
私たちは校舎に向かって歩き続けた。足音が静寂の中に響いて、やけに大きく聞こえる。
昼間は何でもない校庭の小道も、夜になると果てしなく長く感じられた。
「あの……皓様」
「なんだ?」
「もしも本当に……その、札鬼以外のものが出てきたらどうしましょう?」
つい、そんな質問をしてしまう。
「札鬼以外とは?」
「その……本物の、お化けとか……」
言いながら、自分でも情けなくなる。
花札使いを目指している身で、お化けを怖がるなんて。
「心配するな」
皓様が振り返って微笑む。
「もしも何か出てきても、私が全て祓ってやる。君に指一本触れさせない」
「ありがとうございます……」
皓様の言葉に、心が温かくなる。
こんなに頼りになる方が隣にいてくださるのだから、本当は怖がる必要なんてないのだ。
でも、身体は正直に震えてしまう。
「それに」
皓様が立ち止まる。
「君がそんなに震えていては、札鬼の方が警戒して出てこないかもしれんぞ」
「え?」
「札鬼は負の感情に敏感だ。君の恐怖心を察知して、距離を置く可能性がある」
そんなことがあるのだろうか。
「で、では……私が怖がっていると、調査の妨げに……?」
「いや、それは冗談だ」
皓様がまたくすりと笑う。
「札鬼は恐怖心があろうとなかろうと、必要に応じて現れる。君は安心して怖がっていればいい」
「ひ、酷いです……」
またからかわれてしまった。でも、皓様のおかげで少し緊張が和らいだ気がする。
……その時、遠くの方から微かに音が聞こえてきた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
規則正しい、足音のような音。
「皓様……今の音……」
「ああ、私にも聞こえる」
皓様の表情が急に真剣になった。
「どうやら、目当ての相手が現れたようだな」
私の身体が、また震え始める。
ついに、幽霊……じゃなく、札鬼と遭遇する時が来たのだ。
「詩織。覚悟はいいか?」
「は、はい……」
震え声で答える。怖いけれど、逃げるわけにはいかない。
「グラウンドの方へ向かおう。音はあちらから聞こえてくる」
皓様が歩き出す。私も、震える足でその後に続いた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
足音は、だんだんとはっきりしてくる。
確実に、何かがグラウンドを走り回っているのだ。
(ど、どうしよう……いや、だめよ怖がっちゃ。私は花札使い、札鬼を倒す者……!)
胸が早鐘のように打つ。皓様の袖を掴む手に、じっとりと汗が滲んでいた。
でも、引き返すわけにはいかない。
札鬼の無念を晴らすために、私は皓様と共に夜の学校に来たのだから。
グラウンドが見えてきた。
そして、その中央で……。
「あ……」
私の息が止まった。
そこには、朧げな人影があった。
女子生徒の姿をしているが、輪郭がぼんやりと霞んでいる。
まるで霧でできているような、この世のものとは思えない存在。
それが、一人でトラックを走り続けていた。
ぺた、ぺた、ぺた……。
さっきから聞こえていた足音の正体は、やはりこれだったのだ。
「ひ……ひ……」
声にならない声が、喉の奥で震える。
頭がくらくらして、立っていることができなくなりそうだった。
(これが……幽霊の札鬼……)
皓様から説明は聞いていたが、実際に目にすると恐怖は想像以上だった。
膝が震えて、今にもその場に崩れ落ちてしまいそう。
「詩織、大丈夫か?」
皓様の声が遠くに聞こえる。
「だ、大丈――」
そう言いかけて、私の意識は暗闇に落ちそうになった。
あとがき:皓様は基本ドSです
