――月読皓との婚約を解消しろ。
 別の人と結婚しろ。
 それが桜花家のため、十二家のためだと。

 私は呆然と紅葉様を見つめる。
 美しい琥珀色の瞳には、確固たる信念が宿っていた。
 この方は、本気でそう思っているのだ。私が皓様を諦めることが正しいのだと。

「詩織さん。お返事をお聞かせくださいませ」

 紅葉様の声が、静かに響く。
 私は皓様を見た。皓様は無言で、じっと私を見つめている。

 その瞳に、何か試すような光があるのを感じた。
 まるで、私がどんな答えを出すのかを見極めようとしているような……。

(皓様は、私の気持ちを確かめているのだろうか……)

 そう理解した瞬間、胸の奥で何かが燃え上がった。

 今まで、私はずっと虐げられてきた。
 美津子様に、撫子に、そして周りの多くの人に。
 自分の意見を言うことも、自分の気持ちを伝えることも許されずに。

 でも、今は違う。
 皓様が私を見ている。私の答えを待っている。
 ならば、はっきりと言わなければならない。

 私は立ち上がった。足首が痛むが、構わない。

「紅葉様」

 私の声は、思ったよりもしっかりしていた。

「お申し出はありがたく思いますが、お断りいたします」
「え?」

 紅葉様の目が、驚きに見開かれた。

「私は、桜花家を再興する気はありません」

 言った瞬間、部屋の空気が凍りついた。
 紅葉様の顔が、見る見るうちに険しくなっていく。

「何を……おっしゃっているの?」
「文字通りの意味です」

 私は真っ直ぐに紅葉様を見つめた。
 もう、俯くのはやめよう。自分の意志を、はっきりと示すんだ。

「私には、十二家の責務よりも大切なものがあります」

 皓様を見る。皓様の瞳が、少しだけ和らいだような気がした。

「私は、皓様をお支えすることの方が大切です。皓様と共に歩むことの方が、母の家のためだけの結婚よりもずっと価値があると思います」
「詩織さん……!」

 紅葉様が立ち上がった。その顔は怒りで紅潮している。

「あなたは自分が何を言っているのか分かっているのですか!?」
「はい。十分に分かっています」

 私は一歩も引かなかった。

「血筋がどうとか、家の責務がどうとか……そんなもののために生きるのは嫌です!」

 今まで溜め込んでいた想いが、一気に溢れ出す。

「私は長い間……『前妻の子』や『出来損ない』と呼ばれてきました。血筋のことなど何も知らずに、ただ虐げられて生きてきました」

 紅葉様が口を開きかけるが、私は続ける。

「そんな地獄から、皓様は救ってくださいました。……始まりは、確かに血筋ゆえだったかもしれません」
「…………」
「でも、皓様は私を一人の人間として見てくださった。大切にしてくださっています」

 皓様の口元が、微かに緩む。

「だから私も、一人の女性として皓様を選びます。ただの詩織として、皓様をお慕いしています」

 ついに、自分の気持ちを言葉にすることができた。
 顔が熱くなるが、後悔はない。

「だから……皓様のためなら、桜花家の名が消えても悔いはありません」

 紅葉様は、しばらく呆然と私を見つめていた。
 それから、怒りで震える声で言った。

「……愚かな。なんと愚かな考えでしょう」
「愚かかもしれません。でも、これが私の意志です」

 紅葉様は私に歩み寄り、鋭い視線を向けた。

「あなたは十二家全体の責任を背負っているのですよ! 個人の感情で判断していい問題ではありません」
「それでも、私の答えは変わりません」

 私は決して首を縦に振らなかった。私にとって大切なものは、私が決める。

「あなたの我儘のせいで、帝都全体が危険にさらされるかもしれないのですよ! 桜花家の不在も、月読家の過剰な戦力も、どちらも帝都に波乱を招きます!」
「それなら……」

 私は深呼吸をした。

「それなら、私が強くなって、皓様と一緒に帝都を守ります」

 紅葉様の目が、さらに大きく見開かれた。

「まだ未熟な私ですが、必ず一人前の花札使いになってみせます。皓様のお隣で戦えるくらいに」
「だ、だからそれは、月読家の戦力でしかなく……」

 その時、皓様が口を開いた。

「紅葉」

 静かだが、有無を言わせぬ響きがある声だった。

「詩織の意志は聞いた通りだ。私も、彼女の気持ちを尊重する」

 皓様が立ち上がり、私の隣に立つ。その存在感に、心強さを感じた。

「これで安心した」

 皓様が私を見て、微かに微笑む。彼の手が髪を撫でる。

「やはり君は私が守るに値する――いや、共に歩むに値する女性だ」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 やはり皓様は、私を試していたのだ。私が本当に自分の意志を持っているのかを。

「皓様……」
「君を一人の女性として見ることに、私も何の躊躇もない」

 皓様の手が、私の手を包む。
 その温かさに、涙が滲みそうになった。

「月読皓!」

 紅葉様が声を荒げた。

「あなたも同罪です! 詩織さんを甘やかしすぎて、判断力を鈍らせているのではありませんか!?」
「甘やかす?」

 皓様の声が、低くなった。

「君は勘違いしている、紅葉。詩織は甘やかされて育ったような女ではない。むしろ、誰よりも厳しい環境で生きてきた」

 皓様の瞳に、鋭い光が宿る。

「その中で培われた強さと優しさこそが、詩織の真の価値だ。私はそれを評価し、与えられるべき愛を与えているに過ぎん」
「……っ」

 紅葉様は言い返そうとしたが、皓様の迫力に圧されて口をつぐんだ。

「それに、詩織は既に一人前の花札使いとしての成長を見せている」
「……仮にそうだとすればなおさら! 月読家が囲っていい人材ではないのですよ!」
「知ったことではない。私に言わせれば、家の均衡だなんだと他家の力が増すのを危惧する者こそ、よほど十二家の和を乱していると思うがね」
「言わせておけば……っ!」

 紅葉様が怒りに震える。ピリピリした空気に、私は縮こまるしかない。

「このままでは……」

 紅葉様は深い息を吐くと、悔しそうに唇を噛んだ。

「このままでは、他の十二家が黙っていません。桜花家の血を独占する月読家に対して、強硬手段を取る家も出てくるでしょう」
「それは、その時に考える」

 皓様は動じなかった。

「詩織の意志を無視して政略結婚を強要するような家なら、敵に回っても構わん」

 皓様の言葉に、私は驚いた。
 私のために、他の十二家と敵対することも辞さないと……言ってくださっているのだ。

「こ、皓様……そこまでしていただかなくても……」
「いいや」

 皓様は私を見つめた。

「君が私を選んだように、私も君を選んだ。何があろうと、その選択を後悔するつもりはない」

 その言葉に、胸がいっぱいになる。
 私たちは、お互いを選んだのだ。始まりは血筋や政略でも、今は……心から。

「……分かりました」

 紅葉様が深いため息をついた。

「お二人の意志は理解いたしました。ですが、私はこの判断が正しいとは思えません」

 紅葉様は私たちを見回した。

「必ず後悔することになる。その時になって、私の言葉を思い出すでしょう」

 そう言い残して、紅葉様は襖に向かう。

「お見送りは結構です。私は一人で帰らせていただきます」

 最後まで背筋を伸ばして、紅葉様は部屋を出ていった。
 廊下に足音が響き、やがて聞こえなくなる。

 静寂が戻った応接間で、私と皓様は向かい合っていた。

「皓様……ご迷惑をおかけしてすみません……」
「迷惑などではない」

 皓様は私の手を両手で包んだ。

「君が自分の意志を貫いてくれて、嬉しかった」
「でも、他の十二家との関係が……」
「心配するな。私が何とかする」

 皓様の声は、確信に満ちていた。

「それより、君は自分のことを考えろ。今日、君は大きく成長した」
「成長……?」
「ああ。初めて、自分の気持ちをはっきりと口にした。それは、君にとって大きな一歩だ」

 確かに、今まで私は自分の意見を言うことができなかった。
 なにか言っても、否定される。怒られたらどうしようと不安になる。
 そんな日々が続いて、すっかり自分の意志を押し殺すのに慣れてしまっていたのだ。

「皓様がいてくださったから……」
「いいや、それは君の力だ」

 皓様が私の頬に手を添える。

「君の中にある強さが、今日表に出ただけだ。私は、それを引き出す手伝いをしただけに過ぎない」

 その優しい言葉に、胸が温かくなる。

「これからは、もっと自分の気持ちを大切にしていいんだ。君には、その権利がある」
「はい……」

 私は皓様の手に、自分の手を重ねた。

「皓様。私、頑張ります」
「何をだ?」
「一人前の花札使いになること。皓様のお隣で戦えるようになること」

 私は真っ直ぐに皓様を見つめた。

「そして、紅葉様や他の十二家の方々に認めてもらえるくらい……」

 ……いや、違う。認めてもらうわけじゃない。
 きっとそんなものも、もう必要ないのだ。

「認めてもらえなくてもいいくらい……強くなることを」
「……そうか。……ふっ、クックック……」

 皓様が微笑む。それどころか、喉を鳴らして笑い出した。

「よく言った、詩織。その通り。真に力があれば、敵対するものはすべて黙る。私もそうして生きてきたんだ」
「は、はい……!」
「政略だ十二家だ影沼だと……気に食わないことを言ってくるやつは全員潰せ。それでいいんだ」
「あ、あの……でも、そこまではその……乱暴すぎというか……っ」
「なんだ、弱腰だな。まあ、そうすぐには思いきれないか」

 皓様は相変わらず愉快そうに笑いながら私をじっと見る。

「では、明日から訓練を再開するか。足に負担をかけない形にはなるがな」
「はい!」

 私は力強く頷いた。

 ……今日、私は大きな決断をした。
 皓様を選び、自分の意志を貫いた。

 それがどんな困難を招くことになっても、後悔はしない。
 皓様と共に歩む道を、私は自分で選んだのだから。

「あ……そうでした」

 皓様の言葉で思い出す。
 そうだった。私は皓様に相談したいことがあったのだ。
 今日の転倒の件と、美咲ちゃんから聞いた怪談のこと。

「その、実は学校で……」

 私は今日の出来事を詳しく話し始めた。
 皓様は真剣な表情で、私の話に耳を傾けてくれる。

 きっと皓様なら、この不安も解決してくださるだろう。
 そう信じて、私は話を続けた。


あとがき:詩織ちゃん! 成長したね……!!