教室に戻ると、午後の応援旗作りの準備が始まっていた。
机が移動され、大きな布や絵の具が用意されている。
私が足を引きずりながら入ってくると、クラスメートたちがざわめいた。
「詩織ちゃん、大丈夫?」
「怪我、酷くないか?」
「体育祭、出られるの?」
皆が心配そうに声をかけてくれる。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、私は小さく頭を下げた。
「ご心配をおかけして、すみません……」
「謝ることないわよ。座って、座って」
美咲ちゃんが私の椅子を引いてくれる。足首の痛みで、ゆっくりと腰を下ろした。
「捻挫って聞いたけど、痛い?」
「少し……でも、包帯を巻いていただいたので、だいぶ楽になったわ」
美咲ちゃんは私の隣に座り、心配そうに包帯を見つめている。
「体育祭まであと三日よね。間に合うかしら」
「分からないの……クラスに迷惑をかけちゃって、ごめん……」
情けない気持ちで俯いていると、美咲ちゃんが私の肩をぽんぽんと叩いた。
「気にしちゃダメよ。怪我は仕方ないんだから」
「でも……」
「そ・れ・よ・り……」
美咲ちゃんが急に声を小さくした。周りを見回してから、私の耳元に口を寄せる。
「実は、詩織の怪我の話を聞いて思い出したことがあるの」
「思い出したこと?」
美咲ちゃんの表情が、なんだか意味ありげになった。
「この学校に伝わる怪談なんだけどね……」
「か、怪談……?」
その単語を聞いただけで、背筋がぞくりと寒くなる。私は怖い話が大の苦手なのだ。
「聞く?」
「え、えーっと……その……」
聞きたくないけれど、自分の怪我と関係があるかもしれないと言われると気になってしまう。
美咲ちゃんは私の返事を待たずに話し始めた。
「昔、この学校に通っていた女生徒の話なの」
美咲ちゃんの声が、ひそひそと小さくなる。
「その子はね、体育がとても得意で、特に走るのが大好きだったの。でも、体育祭の前日に階段から落ちて足を骨折してしまったのよ」
「かわいそう……」
なんだか、私の状況と似ている気がして、胸がざわざわする。
「その子は体育祭に出られなくて、とても悔しがって泣いていたらしいの。そして……」
美咲ちゃんが一旦言葉を切る。その間が怖くて、私は身を縮こまらせてしまった。
「体育祭当日、その子は熱を出して学校を休んだの。でも、その日の夕方……」
「ゆ、夕方?」
声が震えてしまう。
「グラウンドで、その子が一人で走り回っているのを警備員さんが見たんですって。『私も走りたい』って泣きながら……」
「ひぃっ……」
思わず変な声が出てしまった。怖くて、美咲ちゃんの袖を掴んでしまう。
「でもね、実はその女の子はひどい熱のせいで死んじゃったらしいの。つまり……」
「つ、つまり……?」
「グラウンドにいたのは、その子の幽霊だったのよ」
美咲ちゃんがそう言った瞬間、私は椅子から飛び上がりそうになった。
「…………っ!!」
クラスメートたちがこちらを見て、何事かと首をかしげていた。
「ゆ、幽霊って……そんな……」
震え声で呟く私を見て、美咲ちゃんがくすくすと笑い始めた。
「詩織って、本当に怖がりなのね」
「だ、だって……うう……!」
想像するだけで鳥肌が立つ。
体育祭に出られなかった無念の幽霊が、今でもこの学校を彷徨っている……!?
「もしかして、詩織の怪我も……」
美咲ちゃんがニヤリと笑う。
「体育祭に出たくても出られなかった幽霊の仕業かもしれないわよ? 『走れる足をくれ』って足を掴んだとか……!」
「や、やめてぇ〜……!」
消え入るような声で美咲ちゃんに懇願する。手が震えている……。
「如月さん、どうしたの?」
「何かあった?」
皆が心配そうに声をかけてくれるが、説明するのも恥ずかしい。美咲ちゃんが代わりに答えてくれた。
「ちょっと怖い話をしただけよ。詩織が怖がっちゃって」
「詩織ちゃんって怖がりなのね」
「可愛い〜」
クラスメートたちにからかわれて、顔が真っ赤になる。
美咲ちゃんも私の反応が面白いのか、まだくすくすと笑っていた。
「ご、ごめんね、美咲ちゃん……騒いじゃって……」
「いいのよ。でも、そんなに怖がらなくても大丈夫」
美咲ちゃんが私の背中をさすってくれる。
「ただの噂話だから。それに、もしも本当に幽霊がいたとしても、詩織みたいな優しい子なら大丈夫よ」
「そ、そうかな……」
でも、心の中では別のことを考えていた。
確かに、あの時の感覚は何かに足を掴まれたようだった。
そう……見えない手に。地面から生えた、手に……。
(ひいいいいい……っ)
「詩織どしたの!? 顔が青くなってるよ!」
美咲ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「怖がりだねぇ詩織……平気だよ、幽霊なんていないって」
「そ、そう……よね。うん……」
美咲ちゃんの優しさが嬉しくて、少しだけ心が軽くなった。
しかし……。
(「花札使い」だって、存在を知らなかったけどこの世に存在していた……だったら幽霊だって存在していたっておかしくないのでは……)
「体育祭までに怪我が治るといいわね」
美咲ちゃんがそう言いながら、応援旗の準備を始める。
……私も気持ちを切り替えて、できる範囲でお手伝いをしようと思った。
でも、頭の片隅では、まだあの怪談のことが気になっていた。
体育祭に出られなかった無念の幽霊……。
(まさか、本当にそんなことが……)
考えるだけで、また背筋がぞくりとする。
早く皓様に会って、この不安を相談したい。けど……。
(……また子供みたいだって言われるかも……)
……相談するかどうか、少し悩んだ。
■
授業が終わって、月読家に帰宅する。
玄関で出迎えてくださった使用人の方が、私の足の包帯に気づいて驚かれた。
「詩織様、お怪我を……!?」
「ちょ、ちょっと捻挫をしてしまって。大したことはないんです」
心配をおかけしたくなくて、なるべく平静を装う。
でも、歩くたびにずきずきと痛むのは確かだった。
「大変! すぐに皓様にお知らせいたします!」
「あ、いえ……! そんな、大げさなことでは……」
でも、使用人の方は既に奥へと向かってしまった。
私は仕方なく、自分の部屋へ向かう。
足を引きずりながら廊下を歩いていると、途中で皓様とすれ違った。
「詩織。怪我をしたと聞いたが」
皓様は私の足元を見て、眉をひそめる。
「学校でリレーの練習中に転んでしまって……捻挫です。保健室で手当てしていただきました」
「そうか。痛みはどうだ?」
「そんなに酷くはありません。ご心配ありがとうございます」
……それから、私は皓様に今日の違和感について話そうとした。
あの、足を掴まれたような感覚。そして美咲ちゃんから聞いた怪談のこと。
しかし、私が言葉を切り出す前に、皓様からお話があるようだった。
「申し訳ないが、急な来客がある。君にも同席してもらいたい」
「え? 私が、同席……ですか?」
「十二家の件だ。君も関係がある」
十二家、と聞いて背筋が伸びる。
十二の花札使いの家。それぞれが別の異能を受け継ぐ集団。
それは、私の血筋に関わる重要な話だということかもしれない。
「分かりました。すぐに身支度を……」
「いや、そのままでいい」
「せ、制服のままですが……」
「そう畏まる相手ではないからな」
皓様は有無を言わせぬ口調で、私の手を取った。
私は皓様に続いて、応接間へ向かう。
(皓様、どこか不機嫌そう……?)
畏まる相手ではないが、急ぎで会う必要があり、どこか不愉快そうな相手……。何者なのだろう。
足の痛みよりも、これから会う相手への不安の方が大きくなっていくのを感じた。
■
応接間の襖を開けると、そこには美しい女性が座っていた。
深い紅色の振袖に身を包み、艶やかな赤毛を丁寧に結い上げている。
白い肌に映える琥珀色の瞳が印象的で、年齢は二十代前半といったところだろうか。
背筋をぴんと伸ばして座る姿は、まさに名家の令嬢という佇まいだった。
「月読皓。お久しぶりですわね」
女性は皓様に向かって、丁寧だが冷たい口調で挨拶をした。
「夕霧紅葉。わざわざ何の用だ」
皓様の声も、普段より冷たい。どうやらやはり、あまり歓迎すべき客人ではないようだ。
「ご挨拶もそこそこに……相変わらずですのね」
紅葉様と呼ばれた女性は、小さくため息をつく。
そして、その視線が私に向けられた。
「そちらが噂の如月詩織さんですわね」
その視線は、まるで品定めをするように厳しい。私は思わず身を縮こまらせてしまった。
「は、初めまして……如月詩織です」
震える声で挨拶をすると、紅葉様は私の足元に視線を落とした。
「おや、お怪我をしていらっしゃるのですね」
「あ、はい……学校で少し……」
「まあ。それは大変でしたわね」
紅葉様の言葉は丁寧だが、どこか同情のない響きがあった。
まるで、私の怪我を見下すような、そんな冷たさを感じる。
「紅葉、本題に入れ」
皓様が苛立ったように言った。
「そう急かさないでくださいまし。まずは詩織さんとお話をしたいのです」
紅葉様は立ち上がり、私の前に歩いてきた。
そして、真っ直ぐに私の目を見つめる。
「詩織さん。あなたは自分が何者か、ご存知ですか?」
「え?」
突然の質問に、戸惑ってしまう。
何者、というと……。
「私は……如月詩織です。桜花家の血を引いているとは聞いていますが……」
「桜花家の血を引いている、ではありません」
紅葉様の声が、厳しくなった。
「あなたは桜花家の直系の血筋。正統な後継者です。十二家の一角を担うべき、重要な血なのですよ」
その言葉に、胸がざわめく。
後継者。そんな大それたことを言われても、私には何の実感もない。
「でも、私にはそんな立派なことは……」
「だからこそ、問題なのです」
紅葉様は私を見据えたまま、続ける。
「あなたは桜花の血を引くことを知らずに育った。そして今は一つの家に囲われ、本来受けるべき十二家としての教育を受けていない。
これでは、桜花家の復活など夢のまた夢ですわ」
私は皓様を見る。皓様の表情は険しく、明らかに不快感を表していた。
「紅葉、詩織の身は月読家が責任を持って如月家から預かっている」
「それが問題だと申し上げているのです、月読皓!」
紅葉様は皓様を鋭く見つめた。
「月読家の庇護は確かに手厚いでしょう。しかし、それは詩織さんのためではなく、月読家の利益のためではありませんか?」
「何を言っている」
「桜花家の力を独占するために、詩織さんを囲い込んでいるのでしょう?」
紅葉様の指摘に、私の心臓が跳ねる。
それは――私が以前、度々考えていたことだ。皓様は、血のために私を求めているのだと。
……でも今は、そうじゃないと確信できる。
「詩織さん」
紅葉様が私の手を取った。その手は冷たく、でも力強い。
「あなたには、桜花家として果たすべき責務があります。十二家の一員として、帝都を守る使命があるのです」
「責務……使命……」
重い言葉に、息が詰まりそうになる。
「そのためには、月読家の庇護から離れ、正式に十二家に復帰なさるべきです」
「離れ、って……でも、私は皓様と……」
私は皓様を見る。皓様は無表情だが、その瞳の奥に何かが燃えているのを感じた。
「ああ、婚約の件ですわね」
紅葉様が小さく笑った。その笑いには、どこか冷ややかなものがあった。
「それも含めて、見直していただきたいのです」
「え……?」
見直す。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「詩織さん。あなたは桜花家を再興するために、より相応しい相手と結婚なさるべきです」
紅葉様の言葉に、頭が真っ白になる。
「相応しい、相手……?」
「ええ。もし月読家と結婚してしまったら、あなたは月読家の嫁。桜花家の当主にはなれません。
であれば、十二家の傍系などそれなりに事情を知っている相手と結婚した上で、独立して桜花家を名乗っていくべきですわ」
紅葉様の声が、だんだんと遠くに聞こえてくる。
皓様との婚約を諦めろ。
別の人と結婚しろ。
それが、桜花家のため、十二家のためだと……。
「詩織さん。月読皓との婚約は、正式に解消なさい。そして、真に桜花家に相応しい方との縁組をお考えください」
紅葉様の最後の言葉が、胸に突き刺さった。
あとがき:なんてこと言うんだこいつ!!!
机が移動され、大きな布や絵の具が用意されている。
私が足を引きずりながら入ってくると、クラスメートたちがざわめいた。
「詩織ちゃん、大丈夫?」
「怪我、酷くないか?」
「体育祭、出られるの?」
皆が心配そうに声をかけてくれる。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、私は小さく頭を下げた。
「ご心配をおかけして、すみません……」
「謝ることないわよ。座って、座って」
美咲ちゃんが私の椅子を引いてくれる。足首の痛みで、ゆっくりと腰を下ろした。
「捻挫って聞いたけど、痛い?」
「少し……でも、包帯を巻いていただいたので、だいぶ楽になったわ」
美咲ちゃんは私の隣に座り、心配そうに包帯を見つめている。
「体育祭まであと三日よね。間に合うかしら」
「分からないの……クラスに迷惑をかけちゃって、ごめん……」
情けない気持ちで俯いていると、美咲ちゃんが私の肩をぽんぽんと叩いた。
「気にしちゃダメよ。怪我は仕方ないんだから」
「でも……」
「そ・れ・よ・り……」
美咲ちゃんが急に声を小さくした。周りを見回してから、私の耳元に口を寄せる。
「実は、詩織の怪我の話を聞いて思い出したことがあるの」
「思い出したこと?」
美咲ちゃんの表情が、なんだか意味ありげになった。
「この学校に伝わる怪談なんだけどね……」
「か、怪談……?」
その単語を聞いただけで、背筋がぞくりと寒くなる。私は怖い話が大の苦手なのだ。
「聞く?」
「え、えーっと……その……」
聞きたくないけれど、自分の怪我と関係があるかもしれないと言われると気になってしまう。
美咲ちゃんは私の返事を待たずに話し始めた。
「昔、この学校に通っていた女生徒の話なの」
美咲ちゃんの声が、ひそひそと小さくなる。
「その子はね、体育がとても得意で、特に走るのが大好きだったの。でも、体育祭の前日に階段から落ちて足を骨折してしまったのよ」
「かわいそう……」
なんだか、私の状況と似ている気がして、胸がざわざわする。
「その子は体育祭に出られなくて、とても悔しがって泣いていたらしいの。そして……」
美咲ちゃんが一旦言葉を切る。その間が怖くて、私は身を縮こまらせてしまった。
「体育祭当日、その子は熱を出して学校を休んだの。でも、その日の夕方……」
「ゆ、夕方?」
声が震えてしまう。
「グラウンドで、その子が一人で走り回っているのを警備員さんが見たんですって。『私も走りたい』って泣きながら……」
「ひぃっ……」
思わず変な声が出てしまった。怖くて、美咲ちゃんの袖を掴んでしまう。
「でもね、実はその女の子はひどい熱のせいで死んじゃったらしいの。つまり……」
「つ、つまり……?」
「グラウンドにいたのは、その子の幽霊だったのよ」
美咲ちゃんがそう言った瞬間、私は椅子から飛び上がりそうになった。
「…………っ!!」
クラスメートたちがこちらを見て、何事かと首をかしげていた。
「ゆ、幽霊って……そんな……」
震え声で呟く私を見て、美咲ちゃんがくすくすと笑い始めた。
「詩織って、本当に怖がりなのね」
「だ、だって……うう……!」
想像するだけで鳥肌が立つ。
体育祭に出られなかった無念の幽霊が、今でもこの学校を彷徨っている……!?
「もしかして、詩織の怪我も……」
美咲ちゃんがニヤリと笑う。
「体育祭に出たくても出られなかった幽霊の仕業かもしれないわよ? 『走れる足をくれ』って足を掴んだとか……!」
「や、やめてぇ〜……!」
消え入るような声で美咲ちゃんに懇願する。手が震えている……。
「如月さん、どうしたの?」
「何かあった?」
皆が心配そうに声をかけてくれるが、説明するのも恥ずかしい。美咲ちゃんが代わりに答えてくれた。
「ちょっと怖い話をしただけよ。詩織が怖がっちゃって」
「詩織ちゃんって怖がりなのね」
「可愛い〜」
クラスメートたちにからかわれて、顔が真っ赤になる。
美咲ちゃんも私の反応が面白いのか、まだくすくすと笑っていた。
「ご、ごめんね、美咲ちゃん……騒いじゃって……」
「いいのよ。でも、そんなに怖がらなくても大丈夫」
美咲ちゃんが私の背中をさすってくれる。
「ただの噂話だから。それに、もしも本当に幽霊がいたとしても、詩織みたいな優しい子なら大丈夫よ」
「そ、そうかな……」
でも、心の中では別のことを考えていた。
確かに、あの時の感覚は何かに足を掴まれたようだった。
そう……見えない手に。地面から生えた、手に……。
(ひいいいいい……っ)
「詩織どしたの!? 顔が青くなってるよ!」
美咲ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「怖がりだねぇ詩織……平気だよ、幽霊なんていないって」
「そ、そう……よね。うん……」
美咲ちゃんの優しさが嬉しくて、少しだけ心が軽くなった。
しかし……。
(「花札使い」だって、存在を知らなかったけどこの世に存在していた……だったら幽霊だって存在していたっておかしくないのでは……)
「体育祭までに怪我が治るといいわね」
美咲ちゃんがそう言いながら、応援旗の準備を始める。
……私も気持ちを切り替えて、できる範囲でお手伝いをしようと思った。
でも、頭の片隅では、まだあの怪談のことが気になっていた。
体育祭に出られなかった無念の幽霊……。
(まさか、本当にそんなことが……)
考えるだけで、また背筋がぞくりとする。
早く皓様に会って、この不安を相談したい。けど……。
(……また子供みたいだって言われるかも……)
……相談するかどうか、少し悩んだ。
■
授業が終わって、月読家に帰宅する。
玄関で出迎えてくださった使用人の方が、私の足の包帯に気づいて驚かれた。
「詩織様、お怪我を……!?」
「ちょ、ちょっと捻挫をしてしまって。大したことはないんです」
心配をおかけしたくなくて、なるべく平静を装う。
でも、歩くたびにずきずきと痛むのは確かだった。
「大変! すぐに皓様にお知らせいたします!」
「あ、いえ……! そんな、大げさなことでは……」
でも、使用人の方は既に奥へと向かってしまった。
私は仕方なく、自分の部屋へ向かう。
足を引きずりながら廊下を歩いていると、途中で皓様とすれ違った。
「詩織。怪我をしたと聞いたが」
皓様は私の足元を見て、眉をひそめる。
「学校でリレーの練習中に転んでしまって……捻挫です。保健室で手当てしていただきました」
「そうか。痛みはどうだ?」
「そんなに酷くはありません。ご心配ありがとうございます」
……それから、私は皓様に今日の違和感について話そうとした。
あの、足を掴まれたような感覚。そして美咲ちゃんから聞いた怪談のこと。
しかし、私が言葉を切り出す前に、皓様からお話があるようだった。
「申し訳ないが、急な来客がある。君にも同席してもらいたい」
「え? 私が、同席……ですか?」
「十二家の件だ。君も関係がある」
十二家、と聞いて背筋が伸びる。
十二の花札使いの家。それぞれが別の異能を受け継ぐ集団。
それは、私の血筋に関わる重要な話だということかもしれない。
「分かりました。すぐに身支度を……」
「いや、そのままでいい」
「せ、制服のままですが……」
「そう畏まる相手ではないからな」
皓様は有無を言わせぬ口調で、私の手を取った。
私は皓様に続いて、応接間へ向かう。
(皓様、どこか不機嫌そう……?)
畏まる相手ではないが、急ぎで会う必要があり、どこか不愉快そうな相手……。何者なのだろう。
足の痛みよりも、これから会う相手への不安の方が大きくなっていくのを感じた。
■
応接間の襖を開けると、そこには美しい女性が座っていた。
深い紅色の振袖に身を包み、艶やかな赤毛を丁寧に結い上げている。
白い肌に映える琥珀色の瞳が印象的で、年齢は二十代前半といったところだろうか。
背筋をぴんと伸ばして座る姿は、まさに名家の令嬢という佇まいだった。
「月読皓。お久しぶりですわね」
女性は皓様に向かって、丁寧だが冷たい口調で挨拶をした。
「夕霧紅葉。わざわざ何の用だ」
皓様の声も、普段より冷たい。どうやらやはり、あまり歓迎すべき客人ではないようだ。
「ご挨拶もそこそこに……相変わらずですのね」
紅葉様と呼ばれた女性は、小さくため息をつく。
そして、その視線が私に向けられた。
「そちらが噂の如月詩織さんですわね」
その視線は、まるで品定めをするように厳しい。私は思わず身を縮こまらせてしまった。
「は、初めまして……如月詩織です」
震える声で挨拶をすると、紅葉様は私の足元に視線を落とした。
「おや、お怪我をしていらっしゃるのですね」
「あ、はい……学校で少し……」
「まあ。それは大変でしたわね」
紅葉様の言葉は丁寧だが、どこか同情のない響きがあった。
まるで、私の怪我を見下すような、そんな冷たさを感じる。
「紅葉、本題に入れ」
皓様が苛立ったように言った。
「そう急かさないでくださいまし。まずは詩織さんとお話をしたいのです」
紅葉様は立ち上がり、私の前に歩いてきた。
そして、真っ直ぐに私の目を見つめる。
「詩織さん。あなたは自分が何者か、ご存知ですか?」
「え?」
突然の質問に、戸惑ってしまう。
何者、というと……。
「私は……如月詩織です。桜花家の血を引いているとは聞いていますが……」
「桜花家の血を引いている、ではありません」
紅葉様の声が、厳しくなった。
「あなたは桜花家の直系の血筋。正統な後継者です。十二家の一角を担うべき、重要な血なのですよ」
その言葉に、胸がざわめく。
後継者。そんな大それたことを言われても、私には何の実感もない。
「でも、私にはそんな立派なことは……」
「だからこそ、問題なのです」
紅葉様は私を見据えたまま、続ける。
「あなたは桜花の血を引くことを知らずに育った。そして今は一つの家に囲われ、本来受けるべき十二家としての教育を受けていない。
これでは、桜花家の復活など夢のまた夢ですわ」
私は皓様を見る。皓様の表情は険しく、明らかに不快感を表していた。
「紅葉、詩織の身は月読家が責任を持って如月家から預かっている」
「それが問題だと申し上げているのです、月読皓!」
紅葉様は皓様を鋭く見つめた。
「月読家の庇護は確かに手厚いでしょう。しかし、それは詩織さんのためではなく、月読家の利益のためではありませんか?」
「何を言っている」
「桜花家の力を独占するために、詩織さんを囲い込んでいるのでしょう?」
紅葉様の指摘に、私の心臓が跳ねる。
それは――私が以前、度々考えていたことだ。皓様は、血のために私を求めているのだと。
……でも今は、そうじゃないと確信できる。
「詩織さん」
紅葉様が私の手を取った。その手は冷たく、でも力強い。
「あなたには、桜花家として果たすべき責務があります。十二家の一員として、帝都を守る使命があるのです」
「責務……使命……」
重い言葉に、息が詰まりそうになる。
「そのためには、月読家の庇護から離れ、正式に十二家に復帰なさるべきです」
「離れ、って……でも、私は皓様と……」
私は皓様を見る。皓様は無表情だが、その瞳の奥に何かが燃えているのを感じた。
「ああ、婚約の件ですわね」
紅葉様が小さく笑った。その笑いには、どこか冷ややかなものがあった。
「それも含めて、見直していただきたいのです」
「え……?」
見直す。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「詩織さん。あなたは桜花家を再興するために、より相応しい相手と結婚なさるべきです」
紅葉様の言葉に、頭が真っ白になる。
「相応しい、相手……?」
「ええ。もし月読家と結婚してしまったら、あなたは月読家の嫁。桜花家の当主にはなれません。
であれば、十二家の傍系などそれなりに事情を知っている相手と結婚した上で、独立して桜花家を名乗っていくべきですわ」
紅葉様の声が、だんだんと遠くに聞こえてくる。
皓様との婚約を諦めろ。
別の人と結婚しろ。
それが、桜花家のため、十二家のためだと……。
「詩織さん。月読皓との婚約は、正式に解消なさい。そして、真に桜花家に相応しい方との縁組をお考えください」
紅葉様の最後の言葉が、胸に突き刺さった。
あとがき:なんてこと言うんだこいつ!!!
