翌朝、私はぼんやりとした意識の中で目を覚ました。

 いつもと違う天井。いつもと違う部屋の香り。そして……。
 隣で規則正しく聞こえる、穏やかな寝息。

(あ……そうだった)

 昨夜のことを思い出す。皓様のお部屋で眠らせていただいたのだった。
 額にキスをしていただいたことも、一緒のお部屋で過ごしたことも、全部が夢みたいで……でも、確かに起こったことなのだ。

 そっと横を向くと、皓様が静かに眠っていらっしゃった。

 いつもは凛として、ともすれば近寄りがたいオーラをお持ちの皓様が、今はとても穏やかな表情をしている。
 銀髪が枕に広がって、月光のように美しい。
 長い睫毛が頬に影を落として、整った鼻筋、そして少しだけ開いた唇……。

(美しい……)

 見とれてしまう。こんなに間近で皓様のお顔を拝見するのは初めてで、胸がどきどきと高鳴る。
 普段は完璧に整えられた皓様の、無防備なお姿。こんな貴重な機会は二度とないかもしれない。

 思わず身体を起こして、皓様のお顔を覗き込んでしまう。
 すると――

「……悪戯か?」

 突然聞こえた低い声に、私は飛び上がりそうになった。

「ひゃっ……!」

 皓様の紫色の瞳が、いつの間にか開いていて、私を見つめている。
 その瞳には、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。

「お、おはようございます、皓様……!」

 慌てて離れようとするが、皓様の手が私の手首を掴む。

「逃げるのか? 人の寝顔をじっと見ておいて」
「み、みみ、見てません……! そんな、失礼なことは……」
「嘘をつくな。君の視線で目が覚めた」

 皓様が身体を起こし、私の顔を覗き込む。その距離の近さに、顔が真っ赤になってしまう。

「ど、どれくらい前からお気づきに……?」
「君が起きたあたりからだ」
「ず、ずっと起きていらしたんですか……っ!?」

 つまり、私が皓様のお顔を見つめていた間も、ずっと起きていらしたということ?
 恥ずかしさで穴があったら入りたい気持ちになる。

「そんなに驚くな。君が起きれば、気配で分かる」

 皓様はそう言いながら、私の顔をさらに間近で見つめてくる。
 鼻先が触れそうなほど近くて、皓様の息遣いまで感じられる。

「こ、皓様……?」
「君は私の寝顔をじっと見ていた。なら、私も君の顔をじっと見る権利があるだろう?」

 皓様の瞳が、悪戯っぽく光る。
 こんなに近くで見つめられると、心臓が破裂しそうなほど高鳴ってしまう。

「そ、そんな……恥ずかしいです……! 許してくださいー……!」

 なんとか顔をそらしたり、目をぎゅっと瞑ったりする。
 そんな私を見て、皓様がくすりと笑った。

「可愛い奴だな」

 そっと私の頬に手を添えて、皓様は立ち上がる。
 朝の光が差し込んで、皓様の横顔を美しく照らしていた。

「よく眠れたか?」
「は、はい……とても」

 あんなにぐっすり寝たのは久しぶりだった。皓様が近くにいると思うと、すごく安心できたのだ。
 だけど今は顔が熱くて、皓様をまっすぐ見ることができずにいる……。

「それは良かった。さて、君は学校の準備があるのだろう?」
「あ……そうでした。今日は体育祭の準備があるんです」
「ほう、体育祭か……。怪我をしないようにな、詩織」

 皓様がそう言いながら立ち上がる。
 私も、急いで身支度を整えなければ。



「詩織〜! おはよう!」

 昇降口で、いつものように美咲ちゃんが手を振ってくれた。

「おはよう、美咲ちゃん」
「今日は体育祭の準備で授業潰れてるでしょ? 楽しみだなあ! 詩織はどの競技に出るんだっけ?」
「えっと……徒競走と、クラス対抗リレー、かな」

 美咲ちゃんと並んで廊下を歩きながら答える。
 本当は、あまり目立ちたくはないのだが、クラスの皆に推薦されてしまった。

(運動部をやっているから、って推薦されたけど……私、足はあんまり速くないんだよね……)

 剣道に必要なのは腕の力や瞬発力、そして競技のルールの理解。
 競走のような瞬発力を測るものとはまったく別種の運動なのだ。

「頑張ってね。私は玉入れだし練習もあんまりしないから、詩織の雄姿を見させてもらうわ」
「雄姿だなんて……そんな大げさな」

 美咲ちゃんの言葉に苦笑していると、チャイムが鳴った。朝の予鈴だ。
 私たちは教室に入り、それぞれ席に座った。



 一時間目から体育祭の準備が始まった。

 まずは更衣室で体操着に着替える。
 セーラー服を脱ぎ、ロッカーから取り出した白い半袖のシャツに袖を通す。次に手に取ったのは濃紺のブルマだった。

 足を通すと、ひんやりとした感触と共に、太ももからお尻にかけてのラインにぴったりと吸い付くようにフィットする。
 腰の太いゴムをぐっと引き上げると、きゅっとウエストが締まった。

(……あれ? なんだか、前より……)

 気のせいではない。太ももの付け根あたりが、少し窮屈に感じる。
 裾のゴムが肌に食い込み、布地がぱつんと張り詰めているのが分かった。

(……痩せないとまずいかも……)

 月読家での食事はどれも栄養があって美味しく、つい食べすぎてしまう。
 皓様は「以前が痩せすぎだっただけ」だと言ってくださっていたけど、本当だろうか……。

 お尻や太もものラインが、この一枚の布によってくっきりと縁取られている。
 そう思うと、誰も見ていないのにかあっと顔に熱が集まった。

 剣道の袴ならば、足捌きは隠してくれるというのに。これはあまりにも無防備すぎる。
 ほとんど剥き出しになった脚が、なんだか自分のものではないみたいでそわそわしてしまう。
 もし万が一、何かの間違いで皓様が学校にいらっしゃったりしたら……。

(こんな姿見られたら、死んでしまう……)

 想像しただけで、心臓が口から飛び出しそうだった。

「詩織、準備できた?」

 美咲ちゃんが声をかけてくれる。彼女も体操着だ。

「う、うん、大丈夫」

 各クラスはグラウンドや体育館に分かれて、競技の練習や道具の準備をする。
 私たちのクラスは午前中はグラウンドでのリレー練習、午後は教室での応援旗作りの予定だ。

「それじゃあ、まずは走順を決めるか」

 体育委員の男子が皆を集めて説明を始める。
 クラス対抗リレーは各クラス八人で走るのだが、走順によって勝敗が大きく左右されるらしい。

「如月さんは三走でお願いね」
「はっ、はい……!」

 あっさりと私の順番が決まった。三走は前半の要となる重要なポジションだ。責任重大……。

「詩織、大丈夫? 胃が痛そうだけど」

 隣にいた美咲ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。

「う、うん……ちょっと緊張してるだけ」
「詩織なら大丈夫よ」

 皆からの期待が重くのしかかる。
 もしも転んだり、バトンを落としたりしたらどうしよう。クラスの皆に迷惑をかけてしまう……。
 そんな不安を抱えながら、私は練習用のバトンを握りしめた。

「それじゃ、軽く走ってみましょう」

 体育の先生の合図で、リレーの練習が始まった。
 まずは髪をまとめなければ。いつもの髪を、走りやすいようにポニーテールに結う。

 最初は軽いジョギング程度のペースで、バトンパスの確認をする。
 二走の柏木さんから私へ、私から四走の鈴木さんへ。
 思っていたより上手くいって、少しほっとした。

「詩織さん、バトンパス上手ね」
「あ、ありがとう。本番もうまくいくといいんだけど……」

 クラスメートたちから褒められて、顔が赤くなる。

「じゃ、次は本気で走ってみましょう」
(えっ、もう……!?)

 先生の提案で、今度は体育祭本番と同じように真剣に走ることになった。

 私は三走のポジションで待機する。
 心臓がどきどきと高鳴って、手のひらにじっとりと汗が滲む。
 深呼吸をして気持ちを落ち着けようとするが、やはり緊張は収まらない。

「頑張って、詩織ー!」
「こらっ、美咲! いつまでもそっち見てないで手伝いなさい!」

 美咲ちゃんの応援の声が聞こえる。その声援に背中を押されて、私は構えた。

 一走、二走と順調にバトンが繋がれていく。
 そしていよいよ、私の番がやってきた。

「詩織さん!」

 柏木さんが懸命に駆けてくる。
 私は右手を後ろに伸ばして、バトンを受け取る準備をした。
 パシッ、という音と共に、バトンが私の手の中に収まる。

「よし……っ!」

 私は精一杯駆け出した。

 足音が地面を叩く音。荒くなっていく呼吸。
 思ったより体力の消耗が激しくて、途中で息が上がってしまう。やはり、私は足が遅い……。

(うう……だから言ったのに……)

 情けない気持ちでいっぱいになりながら、それでも最後まで走り切ろうと必死に足を動かす。
 あと少し、あと少しで四走の鈴木さんにバトンを渡せる。

 その時だった。

 ――突然、左足首に何かが突っかかった。

「あっ!?」

 まるで何かに足を掴まれたような感覚。
 バランスを崩して、私は勢いよく地面に転倒してしまった。

「痛っ……!」

 膝を強く打ち付けて、じんじんとした痛みが広がる。膝から血が滲んでいた。

「詩織さん!」
「大丈夫!?」

 クラスメートたちが慌てて駆け寄ってくる。私は地面に倒れたまま、足首を押さえた。
 ずきずきと痛むが、骨は折れていないようだ。

「す、すみません……! 大丈夫です……」

 ……今のは、なんだろう?
 足を掴まれたような感覚。まるで、見えない手で引っ張られたような……。嫌な予感が胸を過る。

「如月さん、立てる?」

 走る予定だった鈴木さんが心配そうに私の手を取ってくれる。

「う、うん……多分。いたっ……」

 皆に支えられて立ち上がろうとするが、左足首に体重をかけると痛みが走る。

「ダメそうね。保健室に行きましょう」
「うう、すみません……」

 体育の先生が私の肩を支えて、ゆっくりと歩き始めた。



 保健室では、養護の先生が優しく手当てをしてくださった。

「あらー……随分派手に転んだのね」

 先生は私の膝の傷を丁寧に消毒してくださる。
 消毒薬がしみて、思わず「痛っ」と声が漏れてしまった。

「我慢してね。もう少しよ」

 次に足首の状態を確認してくださる。腫れてはいるが、骨に異常はないようだ。

「捻挫ね。そんなに酷くはないけれど、今日は安静にしていた方がいいわ」
「は、はい」

 先生が包帯を巻いてくださる間、私はベッドに横になっていた。
 白い天井を見つめながら、先ほどの違和感について考える。

(あの感覚……なんだったの……? 確かに、何かに足を掴まれたような……)

 もしそうだとしたら、また何かの事件だったりするのだろうか……。
 でも、まだ確信は持てない。ただの偶然かもしれないし……。

「はい、これで終わりよ。でも無理は禁物。痛みが続くようなら、早めに病院に行きなさい」
「ありがとうございます」

 先生のお陰で、痛みは随分と和らいだ。
 包帯もきれいに巻いていただいて、歩くのにも支障はなさそうだ。

「それにしても、派手に転んだわね。何か足に引っかかったの?」
「いえ……それが、よく分からないんです。急に足が……その」

 先生に説明しようとするが、上手く言葉にならない。
 見えない手に掴まれたような感覚だった、なんて言っても信じてもらえないだろう。

「まあ、疲れていたのかもね。詩織ちゃん、この前も休んでたし本調子じゃないんじゃない?」

 先生はそう結論づけて、私に湿布薬を渡してくださった。

「今日は早めに帰って、ゆっくり休みなさい」
「はい……」

 保健室を出ると、授業中の静かな廊下に一人取り残された。
 包帯を巻いた足を引きずりながら歩いていると、何だか情けない気持ちになってくる。

(……人前であんなに派手にコケるなんて。恥ずかしい……)

 足を引きずりながら、私はまた靴を履き替えた。