皓様が一歩踏み出した瞬間、世界が変わった。
「月華――」
その言葉と共に、銀色の光が路地裏を満たす。
まるで満月が地上に降りてきたかのような、圧倒的な光量。
「うわあああ!」
黒装束たちが悲鳴を上げる。
彼らは慌てて呪術を放つが、月光に触れた瞬間、全てが霧のように消えていく。
「――荒天」
皓様の姿が、一瞬でぶれた。
次の瞬間には、最前列にいた黒装束の男の背後に立っていた。
「が……はっ……」
男が膝をつく。
その胸から、銀色の光が漏れていた。
刀で斬られたのではない。月光そのものに貫かれたのだ。
「ば……化け物め!」
別の黒装束が札を取り出す。
でも、その手が動くより早く、皓様の刃が閃いた。
一太刀。
たったそれだけで、男の持っていた呪詛花札が塵となって消える。
男自身も、見えない衝撃で壁に叩きつけられた。
「退却だ! 退却――」
リーダー格の女性が叫ぶが、もう遅い。
皓様は音もなく移動し、次々と黒装束たちを無力化していく。
札鬼も同様に、光の中に消し飛んでしまった。
(これが……皓様の本当の力……)
私は震えながら、その光景を見つめていた。
美しくも恐ろしい、月光の舞。敵を一方的に蹂躙する、圧倒的な力の差。
(……私なんて、まだ遠く及ばない……)
わずか一分。
それだけの時間で、五人いた黒装束は全員地面に伏していた。
胸の中のモヤが一瞬浮かんでは消える。
「さて」
皓様が刀を鞘に収める。
その顔には返り血一つついていない。
「まだ意識があるのは……ああ、お前か」
皓様が、壁際で震えている男の前にしゃがみ込む。
リーダー格の女性は既に気を失っていた。
「く、来るな……」
「質問に答えろ。なぜ影沼はそうまで詩織を狙う」
「し、知らない……!」
「嘘をつくな」
皓様の声が、さらに冷たくなる。
同時に、男の周りの影が不自然に蠢き始めた。
「次に嘘をついたら、貴様は影すら残らずに消える」
「ひっ……わ、分かった! 話す!」
男は恐怖に顔を歪めながら、震え声で話し始めた。
「影沼の当主様が……如月詩織を、必ず殺せと……」
「理由は」
「わ、分からない! 本当だ! ただ……」
「ただ?」
「と、『とにかく惨たらしく殺せ』と……『苦しめて、絶望させて、泣き叫ばせて殺せ』と……『その様子を必ず記録しろ』と」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ただ殺すだけじゃない。苦しめて、絶望させて……?
「記録だと?」
「は、はい……なぜかは知りません! 当主様の考えなど、下っ端の俺には……」
男の声は本当に困惑しているようだった。
「それだけか」
「あ、ああ……いや、もう一つ……」
男は震えながら続ける。
「当主様は……妙にその娘のことを知っていた。好きな食べ物とか、苦手なものとか……まるで、ずっと観察していたかのような……」
「え……?」
思わず声が出てしまう。
影沼の当主が、私のことを? でも、会ったこともないはずなのに。
一瞬、美津子様のことが頭に浮かぶ。……だけど、あの人がそこまで私のことを把握しているとは思えない。
「詳しくは知らない! 本当だ! ただ、当主様の命令は絶対で……理由なんて聞けるはずもない!」
「……そうか」
「あぁ、見逃して――がっ」
皓様が立ち上がる。
男は安堵の息を吐いたが、次の瞬間、月光に包まれて意識を失った。
「皓様……どういうこと、なんでしょう……」
震える声で問いかける。
桜花の血への恨みだけなら、なぜそんなに私個人のことを知っているのか。
なぜ……「惨たらしく殺す」ことにこだわるのか。
皓様が私の肩に手を置く。
「分からん。だが影沼の当主は相当歪んでいるようだな」
「……どうして、私をそこまで憎んで……っ」
「詩織」
皓様が私の顔を両手で包む。
冷たい手のはずなのに、今は温かく感じた。
「どんな理由があろうと関係ない。私は君を守る。誰にも君を傷つけさせない」
「皓様……」
優しい言葉に、涙が滲む。
でも、得体の知れない恐怖は消えなかった。
影沼の当主は、なぜ私にこだわるのか。
まるで何か、私たちの知らない大きな計画の一部であるかのような……。
「帰ろう」
皓様が私の手を取る。
「この連中は月読家で引き取る。詳しい尋問は後日だ」
「はい……」
気絶した黒装束たちを残して、私たちは路地裏を後にする。
楽しかったデートの終わりが、こんな形になるなんて。
でも、それ以上に恐ろしいのは、影沼の不可解な執着だった。
私を知っている。私を惨たらしく殺したがっている。
その理由は、まるで霧の中に隠されているかのように見えない。
答えの出ない謎を抱えながら、私は皓様の手にすがるようにして歩いた。
夕闇は既に夜の闇へと変わり、月だけが静かに私たちを見下ろしていた。
■
月読家へ戻る車の中、私は小さく震えていた。
影沼の異常な執着。私を惨たらしく殺したいという欲望。
それらが頭から離れず、恐怖が後から後から湧いてくる。
「詩織」
隣に座る皓様が、優しく声をかけてくださった。
「寒いか?」
「い、いえ……大丈夫です」
それは半分ウソで半分本当だった。
たしかに、寒いわけじゃない。ただ、恐怖で震えが止まらないだけ。
皓様は何も言わず、そっと私を引き寄せた。
そして、自分の羽織を脱いで私の肩にかけてくださる。
「皓様? 私は寒くは……」
「いいから」
有無を言わせぬ口調だったが、その声は限りなく優しかった。
羽織からは皓様の香りがして、不思議と心が落ち着いていく。
「もっとこちらに」
皓様が私を自分の胸元に抱き寄せる。
恥ずかしさよりも、安心感の方が勝った。皓様の体温を感じながら、少しずつ震えが収まっていく。
「怖かったか」
「……はい」
正直に答えると、皓様の腕に少し力が込められた。
「すまなかったな。せっかくの楽しいデートが、あんな結末になってしまって」
「そんな! 皓様のせいじゃありません」
「だが、もっと警戒しておくべきだった。詩織の目に触れる前に消せれば良かったんだが」
物騒な言葉とともに自責の念を滲ませた皓様の声に、苦笑する。
私は勇気を出して、皓様の胸に顔を埋めた。
「でも、皓様が守ってくださいました。だから、私は大丈夫です」
「詩織……」
皓様の手が、私の髪を優しく撫でる。
まるで壊れ物を扱うような、繊細な手つきだった。
月読家に着くと、皓様は私の手を取ったまま歩き始めた。
「あの、皓様? 私の部屋はあっちで……」
「今夜は私の部屋で休め」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、皓様は真剣な表情をしていた。
「今の君を一人にはできない。……私の側にいてくれ」
その言葉に、また涙が滲みそうになる。
……私なんかのために、ここまで心配してくださるなんて。
「……はいっ。ありがとうございます、皓様」
皓様のお部屋は、私の部屋よりもずっと広かった。
書物が整然と並べられ、調度品も上質なものばかり。
でも、どこか生活感があって、皓様の人となりが感じられる空間だった。
「座りなさい」
皓様に促されて、私は座卓の前に正座する。
皓様は別室に行き、しばらくして茶器を持って戻ってきた。
「お茶、ご自分で淹れられるのですか?」
「たまにはな。使用人を呼ぶより、こういう時は自分でやりたい」
皓様が丁寧にお茶を淹れる様子を、私は見つめていた。
その所作は美しく、まるで茶道の師範のよう。
「ほら」
差し出されたお茶を受け取る。
温かい湯呑みが、冷えた手を温めてくれた。
「美味しい……」
「そうか」
皓様も自分の分を飲みながら、私の隣に座る。
いつもより距離が近くて、どきどきしてしまう。
「詩織」
「はい」
「今日のことは、あまり深く考えるな」
皓様が私の手に、自分の手を重ねた。
「影沼の連中が何を企んでいようと、私が必ず阻止する。君は何も心配しなくていい」
「でも、私だけ守られてばかりで……」
「それでいいんだ」
皓様の声は、断定的だった。
「君は守られるべき存在だ。少なくとも今は、まだ」
「まだ……?」
「いずれ君も強くなる。私と肩を並べて戦えるくらいに。だが、それまでは私が守るさ」
皓様の言葉に、胸が熱くなる。
信じてくださっているのだ。私が強くなれると……。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
皓様が立ち上がり、私の正面に回る。
そして、膝をついて私と目線を合わせた。
「詩織。君は私の大切な人だ」
「皓様……」
「今日はとても楽しかった。君を失うことなど、考えられない」
皓様の手が、私の頬に触れる。
その瞳に映る感情は、今まで見たことがないほど深いものだった。
「私も……皓様を失いたくありません」
震える声でそう言うと、皓様が優しく微笑んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけて――
私の額に、そっと唇を押し当てた。
「っ……」
額に感じる温かさに、全身が熱くなる。
皓様の唇が離れても、その感触はずっと残っていた。
「もう遅い。今夜はここで休め」
「で、でも……」
「心配するな。布団は別々だからな」
皓様の提案に、さすがに恐縮してしまう。
でも、従うしかなかった。何より、本当は私も不安だった。一人で寝るのも、少し怖かったから。
寝間着は侍女さんが持ってきてくれて、着替えも済ませた。
皓様の使っているお布団に入ると、ほのかに皓様の香りがして、顔が赤くなる。
「おやすみ、詩織」
書斎に向かう前に、皓様が声をかけてくださった。
「何かあったら、すぐに呼べ。必ず駆けつける」
「はい。おやすみなさい、皓様」
皓様が書斎に入っていく。これからお仕事なのだろうか。
そうして一人になっても、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
皓様が近くにいる。
それだけで、こんなにも安心できる。
羽織の温もりと、額に残るキスの感触を思い出しながら、私はゆっくりと目を閉じた。
今日は怖いこともあったけれど、それ以上に幸せな一日だった。
皓様と過ごした時間。
皓様にもらった櫛。
皓様の優しさ。
全てが宝物のように大切で、胸の奥がじんわりと温かい。
(皓様……大好きです)
心の中でそう呟いて、私は安らかな眠りに落ちていった。
■
薄暗い洋館の一室で、影沼美津子は背筋を伸ばして正座していた。
目の前には、大きな革張りの椅子に深く腰掛けた男がいる。
黒いハットを目深にかぶり、顔の上半分は影に隠れている。
見えるのは、口元に貼り付いたような笑みだけ。
まるで能面のように、その笑みは微動だにしない。
「失敗続きですねぇ、美津子さん」
男の声は、妙に軽やかだった。
怒りも失望も感じられない、ただ事実を述べているような口調。
「……っ、申し訳ございません、当主様」
美津子は深く頭を下げた。
その手は、悔しさで震えている。
「最初は上手くいっていたんです……如月家に入り込んで、あの小娘を徹底的に虐げて。精神的に追い詰めて、自分から死を選ぶように仕向けていたのに……」
「ええ、知っていますよ」
男は紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
その仕草は洗練されていて、上流階級の人間のようだった。
「でも、月読の坊やが現れてしまった。残念でしたねぇ」
「月読皓さえいなければ……! あの男さえいなければ、詩織はとっくに絶望の中で死んでいたはずです!」
美津子の声に、憎悪が滲む。
「まあまあ、そう熱くならないで」
男はカップを置き、指先で机を軽く叩いた。
リズミカルな音が、静かな部屋に響く。
「でもねぇ、美津子さん。感情に任せずもう少し上手くやってくれれば、彼女を惨たらしく殺せたのに。絶望させて、泣き叫ばせて、心を完全に折ってから殺せたのにねぇ」
「……はい」
「撫子ちゃんを使った呪詛花札も、結局は詩織ちゃんの覚醒を促しただけ。茶会での襲撃も月読に止められた。
影沼の兵士まで使っておいて、どれも中途半端じゃありませんか?」
男の笑みが、少しだけ深くなった。
それは喜んでいるようにも、嘲っているようにも見える。
「私は、計画的に動いていたつもりです……っ!」
美津子は唇を噛んだ。
「十年以上かけて、あの娘を追い詰めてきました。桜花の血を引く者への、我が一族の恨みを晴らすために」
「恨み、ねぇ」
男は首を傾げた。
その動作は芝居がかっていて、どこか違和感がある。
「美津子さんは、本当に桜花家を恨んでいるんですねぇ」
「と、当然です! 百年前、我が影沼家は桜花家に滅ぼされかけた! この恨み、決して忘れません!」
美津子の瞳に、狂気じみた炎が宿る。
しかし、男の反応は薄かった。
「ふぅん。そうですか」
「……当主様?」
美津子は、初めて違和感を覚えた。
影沼家の当主なら、もっと桜花家への恨みを共有してくれるはずではないのか。
「ああ、いえいえ。もちろん私も恨んでいますよ? 桜花家は憎い。うん、すごい憎いなー」
男の言葉は、まるで台本を読んでいるかのようだった。
感情がこもっていない。
ただ、そう言うべきだから言っている、という風にしか聞こえない。
「……当主様は、なぜ詩織をそれほどまでに殺したがるのですか?」
美津子は恐る恐る尋ねた。
「ただの桜花の血筋なら、他にもいるかもしれません。なのに、なぜ詩織だけを……」
「おや、ご質問ですか?」
男の笑みが、さらに不気味さを増した。
まるで、面白いおもちゃを見つけた子供のような。
「理由なんて、簡単ですよ。彼女は特別だからです」
「特別?」
「ええ。とても特別な存在なんです。だから、特別に惨たらしく殺さなければならない」
男は立ち上がり、窓辺へと歩いた。
月光が差し込むが、ハットの影で相変わらず顔の上半分は見えない。
「とにかく次は頑張ってくださいね。それとうまく行ったら記録は必ず残してください。彼女が苦しむ様子、絶望する様子、泣き叫ぶ様子。全て、詳細に」
「しょ……承知しております」
美津子は答えたが、心の中で疑問が膨らんでいく。
この男は、本当に桜花家を恨んでいるのだろうか。
それとも、何か別の目的が……?
「次は失敗しないでくださいよ?」
男が振り返る。
その口元の笑みは、まったく変わっていなかった。
「月読の坊やは厄介ですがねぇ。でも、方法はいくらでもある。彼女を絶望させる方法は、ね」
「……はい、当主様」
美津子は再び頭を下げた。
しかし、心の奥で警戒心が芽生え始めていた。
(この男は本当に、影沼家の恨みを晴らすために動いているのかしら……)
答えの出ない疑問を抱えながら、美津子は薄暗い部屋を後にした。
残された男は、月を見上げながら、相変わらず口元に笑みを貼り付けていた。
「さて、次はどんな絶望を見せてくれるかな。詩織ちゃん」
独り言は、まるで楽しいゲームを前にした子供のような口調だった。
その真意を知る者は、この場には誰もいない。
「月華――」
その言葉と共に、銀色の光が路地裏を満たす。
まるで満月が地上に降りてきたかのような、圧倒的な光量。
「うわあああ!」
黒装束たちが悲鳴を上げる。
彼らは慌てて呪術を放つが、月光に触れた瞬間、全てが霧のように消えていく。
「――荒天」
皓様の姿が、一瞬でぶれた。
次の瞬間には、最前列にいた黒装束の男の背後に立っていた。
「が……はっ……」
男が膝をつく。
その胸から、銀色の光が漏れていた。
刀で斬られたのではない。月光そのものに貫かれたのだ。
「ば……化け物め!」
別の黒装束が札を取り出す。
でも、その手が動くより早く、皓様の刃が閃いた。
一太刀。
たったそれだけで、男の持っていた呪詛花札が塵となって消える。
男自身も、見えない衝撃で壁に叩きつけられた。
「退却だ! 退却――」
リーダー格の女性が叫ぶが、もう遅い。
皓様は音もなく移動し、次々と黒装束たちを無力化していく。
札鬼も同様に、光の中に消し飛んでしまった。
(これが……皓様の本当の力……)
私は震えながら、その光景を見つめていた。
美しくも恐ろしい、月光の舞。敵を一方的に蹂躙する、圧倒的な力の差。
(……私なんて、まだ遠く及ばない……)
わずか一分。
それだけの時間で、五人いた黒装束は全員地面に伏していた。
胸の中のモヤが一瞬浮かんでは消える。
「さて」
皓様が刀を鞘に収める。
その顔には返り血一つついていない。
「まだ意識があるのは……ああ、お前か」
皓様が、壁際で震えている男の前にしゃがみ込む。
リーダー格の女性は既に気を失っていた。
「く、来るな……」
「質問に答えろ。なぜ影沼はそうまで詩織を狙う」
「し、知らない……!」
「嘘をつくな」
皓様の声が、さらに冷たくなる。
同時に、男の周りの影が不自然に蠢き始めた。
「次に嘘をついたら、貴様は影すら残らずに消える」
「ひっ……わ、分かった! 話す!」
男は恐怖に顔を歪めながら、震え声で話し始めた。
「影沼の当主様が……如月詩織を、必ず殺せと……」
「理由は」
「わ、分からない! 本当だ! ただ……」
「ただ?」
「と、『とにかく惨たらしく殺せ』と……『苦しめて、絶望させて、泣き叫ばせて殺せ』と……『その様子を必ず記録しろ』と」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ただ殺すだけじゃない。苦しめて、絶望させて……?
「記録だと?」
「は、はい……なぜかは知りません! 当主様の考えなど、下っ端の俺には……」
男の声は本当に困惑しているようだった。
「それだけか」
「あ、ああ……いや、もう一つ……」
男は震えながら続ける。
「当主様は……妙にその娘のことを知っていた。好きな食べ物とか、苦手なものとか……まるで、ずっと観察していたかのような……」
「え……?」
思わず声が出てしまう。
影沼の当主が、私のことを? でも、会ったこともないはずなのに。
一瞬、美津子様のことが頭に浮かぶ。……だけど、あの人がそこまで私のことを把握しているとは思えない。
「詳しくは知らない! 本当だ! ただ、当主様の命令は絶対で……理由なんて聞けるはずもない!」
「……そうか」
「あぁ、見逃して――がっ」
皓様が立ち上がる。
男は安堵の息を吐いたが、次の瞬間、月光に包まれて意識を失った。
「皓様……どういうこと、なんでしょう……」
震える声で問いかける。
桜花の血への恨みだけなら、なぜそんなに私個人のことを知っているのか。
なぜ……「惨たらしく殺す」ことにこだわるのか。
皓様が私の肩に手を置く。
「分からん。だが影沼の当主は相当歪んでいるようだな」
「……どうして、私をそこまで憎んで……っ」
「詩織」
皓様が私の顔を両手で包む。
冷たい手のはずなのに、今は温かく感じた。
「どんな理由があろうと関係ない。私は君を守る。誰にも君を傷つけさせない」
「皓様……」
優しい言葉に、涙が滲む。
でも、得体の知れない恐怖は消えなかった。
影沼の当主は、なぜ私にこだわるのか。
まるで何か、私たちの知らない大きな計画の一部であるかのような……。
「帰ろう」
皓様が私の手を取る。
「この連中は月読家で引き取る。詳しい尋問は後日だ」
「はい……」
気絶した黒装束たちを残して、私たちは路地裏を後にする。
楽しかったデートの終わりが、こんな形になるなんて。
でも、それ以上に恐ろしいのは、影沼の不可解な執着だった。
私を知っている。私を惨たらしく殺したがっている。
その理由は、まるで霧の中に隠されているかのように見えない。
答えの出ない謎を抱えながら、私は皓様の手にすがるようにして歩いた。
夕闇は既に夜の闇へと変わり、月だけが静かに私たちを見下ろしていた。
■
月読家へ戻る車の中、私は小さく震えていた。
影沼の異常な執着。私を惨たらしく殺したいという欲望。
それらが頭から離れず、恐怖が後から後から湧いてくる。
「詩織」
隣に座る皓様が、優しく声をかけてくださった。
「寒いか?」
「い、いえ……大丈夫です」
それは半分ウソで半分本当だった。
たしかに、寒いわけじゃない。ただ、恐怖で震えが止まらないだけ。
皓様は何も言わず、そっと私を引き寄せた。
そして、自分の羽織を脱いで私の肩にかけてくださる。
「皓様? 私は寒くは……」
「いいから」
有無を言わせぬ口調だったが、その声は限りなく優しかった。
羽織からは皓様の香りがして、不思議と心が落ち着いていく。
「もっとこちらに」
皓様が私を自分の胸元に抱き寄せる。
恥ずかしさよりも、安心感の方が勝った。皓様の体温を感じながら、少しずつ震えが収まっていく。
「怖かったか」
「……はい」
正直に答えると、皓様の腕に少し力が込められた。
「すまなかったな。せっかくの楽しいデートが、あんな結末になってしまって」
「そんな! 皓様のせいじゃありません」
「だが、もっと警戒しておくべきだった。詩織の目に触れる前に消せれば良かったんだが」
物騒な言葉とともに自責の念を滲ませた皓様の声に、苦笑する。
私は勇気を出して、皓様の胸に顔を埋めた。
「でも、皓様が守ってくださいました。だから、私は大丈夫です」
「詩織……」
皓様の手が、私の髪を優しく撫でる。
まるで壊れ物を扱うような、繊細な手つきだった。
月読家に着くと、皓様は私の手を取ったまま歩き始めた。
「あの、皓様? 私の部屋はあっちで……」
「今夜は私の部屋で休め」
「えっ?」
驚いて顔を上げると、皓様は真剣な表情をしていた。
「今の君を一人にはできない。……私の側にいてくれ」
その言葉に、また涙が滲みそうになる。
……私なんかのために、ここまで心配してくださるなんて。
「……はいっ。ありがとうございます、皓様」
皓様のお部屋は、私の部屋よりもずっと広かった。
書物が整然と並べられ、調度品も上質なものばかり。
でも、どこか生活感があって、皓様の人となりが感じられる空間だった。
「座りなさい」
皓様に促されて、私は座卓の前に正座する。
皓様は別室に行き、しばらくして茶器を持って戻ってきた。
「お茶、ご自分で淹れられるのですか?」
「たまにはな。使用人を呼ぶより、こういう時は自分でやりたい」
皓様が丁寧にお茶を淹れる様子を、私は見つめていた。
その所作は美しく、まるで茶道の師範のよう。
「ほら」
差し出されたお茶を受け取る。
温かい湯呑みが、冷えた手を温めてくれた。
「美味しい……」
「そうか」
皓様も自分の分を飲みながら、私の隣に座る。
いつもより距離が近くて、どきどきしてしまう。
「詩織」
「はい」
「今日のことは、あまり深く考えるな」
皓様が私の手に、自分の手を重ねた。
「影沼の連中が何を企んでいようと、私が必ず阻止する。君は何も心配しなくていい」
「でも、私だけ守られてばかりで……」
「それでいいんだ」
皓様の声は、断定的だった。
「君は守られるべき存在だ。少なくとも今は、まだ」
「まだ……?」
「いずれ君も強くなる。私と肩を並べて戦えるくらいに。だが、それまでは私が守るさ」
皓様の言葉に、胸が熱くなる。
信じてくださっているのだ。私が強くなれると……。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
皓様が立ち上がり、私の正面に回る。
そして、膝をついて私と目線を合わせた。
「詩織。君は私の大切な人だ」
「皓様……」
「今日はとても楽しかった。君を失うことなど、考えられない」
皓様の手が、私の頬に触れる。
その瞳に映る感情は、今まで見たことがないほど深いものだった。
「私も……皓様を失いたくありません」
震える声でそう言うと、皓様が優しく微笑んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけて――
私の額に、そっと唇を押し当てた。
「っ……」
額に感じる温かさに、全身が熱くなる。
皓様の唇が離れても、その感触はずっと残っていた。
「もう遅い。今夜はここで休め」
「で、でも……」
「心配するな。布団は別々だからな」
皓様の提案に、さすがに恐縮してしまう。
でも、従うしかなかった。何より、本当は私も不安だった。一人で寝るのも、少し怖かったから。
寝間着は侍女さんが持ってきてくれて、着替えも済ませた。
皓様の使っているお布団に入ると、ほのかに皓様の香りがして、顔が赤くなる。
「おやすみ、詩織」
書斎に向かう前に、皓様が声をかけてくださった。
「何かあったら、すぐに呼べ。必ず駆けつける」
「はい。おやすみなさい、皓様」
皓様が書斎に入っていく。これからお仕事なのだろうか。
そうして一人になっても、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
皓様が近くにいる。
それだけで、こんなにも安心できる。
羽織の温もりと、額に残るキスの感触を思い出しながら、私はゆっくりと目を閉じた。
今日は怖いこともあったけれど、それ以上に幸せな一日だった。
皓様と過ごした時間。
皓様にもらった櫛。
皓様の優しさ。
全てが宝物のように大切で、胸の奥がじんわりと温かい。
(皓様……大好きです)
心の中でそう呟いて、私は安らかな眠りに落ちていった。
■
薄暗い洋館の一室で、影沼美津子は背筋を伸ばして正座していた。
目の前には、大きな革張りの椅子に深く腰掛けた男がいる。
黒いハットを目深にかぶり、顔の上半分は影に隠れている。
見えるのは、口元に貼り付いたような笑みだけ。
まるで能面のように、その笑みは微動だにしない。
「失敗続きですねぇ、美津子さん」
男の声は、妙に軽やかだった。
怒りも失望も感じられない、ただ事実を述べているような口調。
「……っ、申し訳ございません、当主様」
美津子は深く頭を下げた。
その手は、悔しさで震えている。
「最初は上手くいっていたんです……如月家に入り込んで、あの小娘を徹底的に虐げて。精神的に追い詰めて、自分から死を選ぶように仕向けていたのに……」
「ええ、知っていますよ」
男は紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
その仕草は洗練されていて、上流階級の人間のようだった。
「でも、月読の坊やが現れてしまった。残念でしたねぇ」
「月読皓さえいなければ……! あの男さえいなければ、詩織はとっくに絶望の中で死んでいたはずです!」
美津子の声に、憎悪が滲む。
「まあまあ、そう熱くならないで」
男はカップを置き、指先で机を軽く叩いた。
リズミカルな音が、静かな部屋に響く。
「でもねぇ、美津子さん。感情に任せずもう少し上手くやってくれれば、彼女を惨たらしく殺せたのに。絶望させて、泣き叫ばせて、心を完全に折ってから殺せたのにねぇ」
「……はい」
「撫子ちゃんを使った呪詛花札も、結局は詩織ちゃんの覚醒を促しただけ。茶会での襲撃も月読に止められた。
影沼の兵士まで使っておいて、どれも中途半端じゃありませんか?」
男の笑みが、少しだけ深くなった。
それは喜んでいるようにも、嘲っているようにも見える。
「私は、計画的に動いていたつもりです……っ!」
美津子は唇を噛んだ。
「十年以上かけて、あの娘を追い詰めてきました。桜花の血を引く者への、我が一族の恨みを晴らすために」
「恨み、ねぇ」
男は首を傾げた。
その動作は芝居がかっていて、どこか違和感がある。
「美津子さんは、本当に桜花家を恨んでいるんですねぇ」
「と、当然です! 百年前、我が影沼家は桜花家に滅ぼされかけた! この恨み、決して忘れません!」
美津子の瞳に、狂気じみた炎が宿る。
しかし、男の反応は薄かった。
「ふぅん。そうですか」
「……当主様?」
美津子は、初めて違和感を覚えた。
影沼家の当主なら、もっと桜花家への恨みを共有してくれるはずではないのか。
「ああ、いえいえ。もちろん私も恨んでいますよ? 桜花家は憎い。うん、すごい憎いなー」
男の言葉は、まるで台本を読んでいるかのようだった。
感情がこもっていない。
ただ、そう言うべきだから言っている、という風にしか聞こえない。
「……当主様は、なぜ詩織をそれほどまでに殺したがるのですか?」
美津子は恐る恐る尋ねた。
「ただの桜花の血筋なら、他にもいるかもしれません。なのに、なぜ詩織だけを……」
「おや、ご質問ですか?」
男の笑みが、さらに不気味さを増した。
まるで、面白いおもちゃを見つけた子供のような。
「理由なんて、簡単ですよ。彼女は特別だからです」
「特別?」
「ええ。とても特別な存在なんです。だから、特別に惨たらしく殺さなければならない」
男は立ち上がり、窓辺へと歩いた。
月光が差し込むが、ハットの影で相変わらず顔の上半分は見えない。
「とにかく次は頑張ってくださいね。それとうまく行ったら記録は必ず残してください。彼女が苦しむ様子、絶望する様子、泣き叫ぶ様子。全て、詳細に」
「しょ……承知しております」
美津子は答えたが、心の中で疑問が膨らんでいく。
この男は、本当に桜花家を恨んでいるのだろうか。
それとも、何か別の目的が……?
「次は失敗しないでくださいよ?」
男が振り返る。
その口元の笑みは、まったく変わっていなかった。
「月読の坊やは厄介ですがねぇ。でも、方法はいくらでもある。彼女を絶望させる方法は、ね」
「……はい、当主様」
美津子は再び頭を下げた。
しかし、心の奥で警戒心が芽生え始めていた。
(この男は本当に、影沼家の恨みを晴らすために動いているのかしら……)
答えの出ない疑問を抱えながら、美津子は薄暗い部屋を後にした。
残された男は、月を見上げながら、相変わらず口元に笑みを貼り付けていた。
「さて、次はどんな絶望を見せてくれるかな。詩織ちゃん」
独り言は、まるで楽しいゲームを前にした子供のような口調だった。
その真意を知る者は、この場には誰もいない。
