皓様が一歩踏み出した瞬間、世界が変わった。

「月華――」

 その言葉と共に、銀色の光が路地裏を満たす。
 まるで満月が地上に降りてきたかのような、圧倒的な光量。

「うわあああ!」

 黒装束たちが悲鳴を上げる。
 彼らは慌てて呪術を放つが、月光に触れた瞬間、全てが霧のように消えていく。

「――荒天」

 皓様の姿が、一瞬でぶれた。
 次の瞬間には、最前列にいた黒装束の男の背後に立っていた。

「が……はっ……」

 男が膝をつく。
 その胸から、銀色の光が漏れていた。
 刀で斬られたのではない。月光そのものに貫かれたのだ。

「ば……化け物め!」

 別の黒装束が札を取り出す。
 でも、その手が動くより早く、皓様の刃が閃いた。

 一太刀。
 たったそれだけで、男の持っていた呪詛花札が塵となって消える。
 男自身も、見えない衝撃で壁に叩きつけられた。

「退却だ! 退却――」

 リーダー格の女性が叫ぶが、もう遅い。
 皓様は音もなく移動し、次々と黒装束たちを無力化していく。
 札鬼も同様に、光の中に消し飛んでしまった。

(これが……皓様の本当の力……)

 私は震えながら、その光景を見つめていた。
 美しくも恐ろしい、月光の舞。敵を一方的に蹂躙する、圧倒的な力の差。

(……私なんて、まだ遠く及ばない……)

 わずか一分。
 それだけの時間で、五人いた黒装束は全員地面に伏していた。
 胸の中のモヤが一瞬浮かんでは消える。

「さて」

 皓様が刀を鞘に収める。
 その顔には返り血一つついていない。

「まだ意識があるのは……ああ、お前か」

 皓様が、壁際で震えている男の前にしゃがみ込む。
 リーダー格の女性は既に気を失っていた。

「く、来るな……」
「質問に答えろ。なぜ影沼はそうまで詩織を狙う」
「し、知らない……!」
「嘘をつくな」

 皓様の声が、さらに冷たくなる。
 同時に、男の周りの影が不自然に蠢き始めた。

「次に嘘をついたら、貴様は影すら残らずに消える」
「ひっ……わ、分かった! 話す!」

 男は恐怖に顔を歪めながら、震え声で話し始めた。

「影沼の当主様が……如月詩織を、必ず殺せと……」
「理由は」
「わ、分からない! 本当だ! ただ……」
「ただ?」
「と、『とにかく惨たらしく殺せ』と……『苦しめて、絶望させて、泣き叫ばせて殺せ』と……『その様子を必ず記録しろ』と」

 その言葉に、私は息を呑んだ。
 ただ殺すだけじゃない。苦しめて、絶望させて……?

「記録だと?」
「は、はい……なぜかは知りません! 当主様の考えなど、下っ端の俺には……」

 男の声は本当に困惑しているようだった。

「それだけか」
「あ、ああ……いや、もう一つ……」

 男は震えながら続ける。

「当主様は……妙にその娘のことを知っていた。好きな食べ物とか、苦手なものとか……まるで、ずっと観察していたかのような……」
「え……?」

 思わず声が出てしまう。
 影沼の当主が、私のことを? でも、会ったこともないはずなのに。
 一瞬、美津子様のことが頭に浮かぶ。……だけど、あの人がそこまで私のことを把握しているとは思えない。

「詳しくは知らない! 本当だ! ただ、当主様の命令は絶対で……理由なんて聞けるはずもない!」
「……そうか」
「あぁ、見逃して――がっ」

 皓様が立ち上がる。
 男は安堵の息を吐いたが、次の瞬間、月光に包まれて意識を失った。

「皓様……どういうこと、なんでしょう……」

 震える声で問いかける。
 桜花の血への恨みだけなら、なぜそんなに私個人のことを知っているのか。
 なぜ……「惨たらしく殺す」ことにこだわるのか。
 皓様が私の肩に手を置く。

「分からん。だが影沼の当主は相当歪んでいるようだな」
「……どうして、私をそこまで憎んで……っ」
「詩織」

 皓様が私の顔を両手で包む。
 冷たい手のはずなのに、今は温かく感じた。

「どんな理由があろうと関係ない。私は君を守る。誰にも君を傷つけさせない」
「皓様……」

 優しい言葉に、涙が滲む。
 でも、得体の知れない恐怖は消えなかった。

 影沼の当主は、なぜ私にこだわるのか。
 まるで何か、私たちの知らない大きな計画の一部であるかのような……。

「帰ろう」

 皓様が私の手を取る。

「この連中は月読家で引き取る。詳しい尋問は後日だ」
「はい……」

 気絶した黒装束たちを残して、私たちは路地裏を後にする。
 楽しかったデートの終わりが、こんな形になるなんて。

 でも、それ以上に恐ろしいのは、影沼の不可解な執着だった。
 私を知っている。私を惨たらしく殺したがっている。
 その理由は、まるで霧の中に隠されているかのように見えない。

 答えの出ない謎を抱えながら、私は皓様の手にすがるようにして歩いた。
 夕闇は既に夜の闇へと変わり、月だけが静かに私たちを見下ろしていた。



 月読家へ戻る車の中、私は小さく震えていた。

 影沼の異常な執着。私を惨たらしく殺したいという欲望。
 それらが頭から離れず、恐怖が後から後から湧いてくる。

「詩織」

 隣に座る皓様が、優しく声をかけてくださった。

「寒いか?」
「い、いえ……大丈夫です」

 それは半分ウソで半分本当だった。
 たしかに、寒いわけじゃない。ただ、恐怖で震えが止まらないだけ。

 皓様は何も言わず、そっと私を引き寄せた。
 そして、自分の羽織を脱いで私の肩にかけてくださる。

「皓様? 私は寒くは……」
「いいから」

 有無を言わせぬ口調だったが、その声は限りなく優しかった。
 羽織からは皓様の香りがして、不思議と心が落ち着いていく。

「もっとこちらに」

 皓様が私を自分の胸元に抱き寄せる。
 恥ずかしさよりも、安心感の方が勝った。皓様の体温を感じながら、少しずつ震えが収まっていく。

「怖かったか」
「……はい」

 正直に答えると、皓様の腕に少し力が込められた。

「すまなかったな。せっかくの楽しいデートが、あんな結末になってしまって」
「そんな! 皓様のせいじゃありません」
「だが、もっと警戒しておくべきだった。詩織の目に触れる前に消せれば良かったんだが」

 物騒な言葉とともに自責の念を滲ませた皓様の声に、苦笑する。
 私は勇気を出して、皓様の胸に顔を埋めた。

「でも、皓様が守ってくださいました。だから、私は大丈夫です」
「詩織……」

 皓様の手が、私の髪を優しく撫でる。
 まるで壊れ物を扱うような、繊細な手つきだった。


 月読家に着くと、皓様は私の手を取ったまま歩き始めた。

「あの、皓様? 私の部屋はあっちで……」
「今夜は私の部屋で休め」
「えっ?」

 驚いて顔を上げると、皓様は真剣な表情をしていた。

「今の君を一人にはできない。……私の側にいてくれ」

 その言葉に、また涙が滲みそうになる。
 ……私なんかのために、ここまで心配してくださるなんて。

「……はいっ。ありがとうございます、皓様」


 皓様のお部屋は、私の部屋よりもずっと広かった。
 書物が整然と並べられ、調度品も上質なものばかり。
 でも、どこか生活感があって、皓様の人となりが感じられる空間だった。

「座りなさい」

 皓様に促されて、私は座卓の前に正座する。
 皓様は別室に行き、しばらくして茶器を持って戻ってきた。

「お茶、ご自分で淹れられるのですか?」
「たまにはな。使用人を呼ぶより、こういう時は自分でやりたい」

 皓様が丁寧にお茶を淹れる様子を、私は見つめていた。
 その所作は美しく、まるで茶道の師範のよう。

「ほら」

 差し出されたお茶を受け取る。
 温かい湯呑みが、冷えた手を温めてくれた。

「美味しい……」
「そうか」

 皓様も自分の分を飲みながら、私の隣に座る。
 いつもより距離が近くて、どきどきしてしまう。

「詩織」
「はい」
「今日のことは、あまり深く考えるな」

 皓様が私の手に、自分の手を重ねた。

「影沼の連中が何を企んでいようと、私が必ず阻止する。君は何も心配しなくていい」
「でも、私だけ守られてばかりで……」
「それでいいんだ」

 皓様の声は、断定的だった。

「君は守られるべき存在だ。少なくとも今は、まだ」
「まだ……?」
「いずれ君も強くなる。私と肩を並べて戦えるくらいに。だが、それまでは私が守るさ」

 皓様の言葉に、胸が熱くなる。
 信じてくださっているのだ。私が強くなれると……。

「……ありがとうございます」
「礼はいらない」

 皓様が立ち上がり、私の正面に回る。
 そして、膝をついて私と目線を合わせた。

「詩織。君は私の大切な人だ」
「皓様……」
「今日はとても楽しかった。君を失うことなど、考えられない」

 皓様の手が、私の頬に触れる。
 その瞳に映る感情は、今まで見たことがないほど深いものだった。

「私も……皓様を失いたくありません」

 震える声でそう言うと、皓様が優しく微笑んだ。
 そして、ゆっくりと顔を近づけて――

 私の額に、そっと唇を押し当てた。

「っ……」

 額に感じる温かさに、全身が熱くなる。
 皓様の唇が離れても、その感触はずっと残っていた。

「もう遅い。今夜はここで休め」
「で、でも……」
「心配するな。布団は別々だからな」

 皓様の提案に、さすがに恐縮してしまう。
 でも、従うしかなかった。何より、本当は私も不安だった。一人で寝るのも、少し怖かったから。

 寝間着は侍女さんが持ってきてくれて、着替えも済ませた。
 皓様の使っているお布団に入ると、ほのかに皓様の香りがして、顔が赤くなる。

「おやすみ、詩織」

 書斎に向かう前に、皓様が声をかけてくださった。

「何かあったら、すぐに呼べ。必ず駆けつける」
「はい。おやすみなさい、皓様」

 皓様が書斎に入っていく。これからお仕事なのだろうか。
 そうして一人になっても、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

 皓様が近くにいる。
 それだけで、こんなにも安心できる。

 羽織の温もりと、額に残るキスの感触を思い出しながら、私はゆっくりと目を閉じた。
 今日は怖いこともあったけれど、それ以上に幸せな一日だった。

 皓様と過ごした時間。
 皓様にもらった櫛。
 皓様の優しさ。

 全てが宝物のように大切で、胸の奥がじんわりと温かい。

(皓様……大好きです)

 心の中でそう呟いて、私は安らかな眠りに落ちていった。



 薄暗い洋館の一室で、影沼美津子は背筋を伸ばして正座していた。

 目の前には、大きな革張りの椅子に深く腰掛けた男がいる。
 黒いハットを目深にかぶり、顔の上半分は影に隠れている。
 見えるのは、口元に貼り付いたような笑みだけ。
 まるで能面のように、その笑みは微動だにしない。

「失敗続きですねぇ、美津子さん」

 男の声は、妙に軽やかだった。
 怒りも失望も感じられない、ただ事実を述べているような口調。

「……っ、申し訳ございません、当主様」

 美津子は深く頭を下げた。
 その手は、悔しさで震えている。

「最初は上手くいっていたんです……如月家に入り込んで、あの小娘を徹底的に虐げて。精神的に追い詰めて、自分から死を選ぶように仕向けていたのに……」
「ええ、知っていますよ」

 男は紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
 その仕草は洗練されていて、上流階級の人間のようだった。

「でも、月読の坊やが現れてしまった。残念でしたねぇ」
「月読皓さえいなければ……! あの男さえいなければ、詩織はとっくに絶望の中で死んでいたはずです!」

 美津子の声に、憎悪が滲む。

「まあまあ、そう熱くならないで」

 男はカップを置き、指先で机を軽く叩いた。
 リズミカルな音が、静かな部屋に響く。

「でもねぇ、美津子さん。感情に任せずもう少し上手くやってくれれば、彼女を惨たらしく殺せたのに。絶望させて、泣き叫ばせて、心を完全に折ってから殺せたのにねぇ」
「……はい」
「撫子ちゃんを使った呪詛花札も、結局は詩織ちゃんの覚醒を促しただけ。茶会での襲撃も月読に止められた。
 影沼の兵士まで使っておいて、どれも中途半端じゃありませんか?」

 男の笑みが、少しだけ深くなった。
 それは喜んでいるようにも、嘲っているようにも見える。

「私は、計画的に動いていたつもりです……っ!」

 美津子は唇を噛んだ。

「十年以上かけて、あの娘を追い詰めてきました。桜花の血を引く者への、我が一族の恨みを晴らすために」
「恨み、ねぇ」

 男は首を傾げた。
 その動作は芝居がかっていて、どこか違和感がある。

「美津子さんは、本当に桜花家を恨んでいるんですねぇ」
「と、当然です! 百年前、我が影沼家は桜花家に滅ぼされかけた! この恨み、決して忘れません!」

 美津子の瞳に、狂気じみた炎が宿る。
 しかし、男の反応は薄かった。

「ふぅん。そうですか」
「……当主様?」

 美津子は、初めて違和感を覚えた。
 影沼家の当主なら、もっと桜花家への恨みを共有してくれるはずではないのか。

「ああ、いえいえ。もちろん私も恨んでいますよ? 桜花家は憎い。うん、すごい憎いなー」

 男の言葉は、まるで台本を読んでいるかのようだった。
 感情がこもっていない。
 ただ、そう言うべきだから言っている、という風にしか聞こえない。

「……当主様は、なぜ詩織をそれほどまでに殺したがるのですか?」

 美津子は恐る恐る尋ねた。

「ただの桜花の血筋なら、他にもいるかもしれません。なのに、なぜ詩織だけを……」
「おや、ご質問ですか?」

 男の笑みが、さらに不気味さを増した。
 まるで、面白いおもちゃを見つけた子供のような。

「理由なんて、簡単ですよ。彼女は特別だからです」
「特別?」
「ええ。とても特別な存在なんです。だから、特別に惨たらしく殺さなければならない」

 男は立ち上がり、窓辺へと歩いた。
 月光が差し込むが、ハットの影で相変わらず顔の上半分は見えない。

「とにかく次は頑張ってくださいね。それとうまく行ったら記録は必ず残してください。彼女が苦しむ様子、絶望する様子、泣き叫ぶ様子。全て、詳細に」
「しょ……承知しております」

 美津子は答えたが、心の中で疑問が膨らんでいく。
 この男は、本当に桜花家を恨んでいるのだろうか。
 それとも、何か別の目的が……?

「次は失敗しないでくださいよ?」

 男が振り返る。
 その口元の笑みは、まったく変わっていなかった。

「月読の坊やは厄介ですがねぇ。でも、方法はいくらでもある。彼女を絶望させる方法は、ね」
「……はい、当主様」

 美津子は再び頭を下げた。
 しかし、心の奥で警戒心が芽生え始めていた。

(この男は本当に、影沼家の恨みを晴らすために動いているのかしら……)

 答えの出ない疑問を抱えながら、美津子は薄暗い部屋を後にした。
 残された男は、月を見上げながら、相変わらず口元に笑みを貼り付けていた。

「さて、次はどんな絶望を見せてくれるかな。詩織ちゃん」

 独り言は、まるで楽しいゲームを前にした子供のような口調だった。
 その真意を知る者は、この場には誰もいない。