仲見世通りを抜けて少し歩くと、皓様は洒落た洋館風の建物の前で立ち止まった。
「ここで少し休憩しよう」
「はい」
看板には「銀座屋」と書かれている。
ガラス張りのショーウィンドウには、色とりどりのケーキが美しく並んでいた。
「わあ……」
思わず見とれてしまう。
苺のショートケーキ、チョコレートケーキ、シュークリーム、エクレア。
どれも宝石のように輝いて見える。和菓子とはまるで違う色合いだ。
「入ろう」
皓様に促されて店内に入ると、甘い香りが鼻をくすぐった。
店内は思ったより広く、白いテーブルクロスの掛かったテーブルが並んでいる。
ウェイトレスさんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね」
「ああ」
「こちらへどうぞ」
案内された席は、窓際の明るい場所だった。
椅子に座ると、目の前にメニューが置かれる。
「何にする?」
皓様に聞かれて、私はメニューを開いた。
そして、値段を見て息を呑む。
(こ、このケーキ……私の一週間分のお弁当代くらい……!?)
今は月読家にいて、使用人の方たちにお任せしているから家計をちゃんと把握できてはいないけど……。
如月家にいた頃の私の食費から考えると、とんでもない高級品なのでは……!?
「あ、あの……私は紅茶だけで……」
「却下だ」
皓様があっさりと私の言葉を切り捨てた。
「せっかく来たんだ。好きなものを頼め」
「で、でもその……お高いですよ……?」
「詩織」
皓様がメニューを指さす。
「このミルフィーユはどうだ? それとも、苺のタルトがいいか?」
「あ、あわわわ……どちらも高すぎます……!」
「値段を気にする必要はない」
目を回す私を尻目に皓様はウェイトレスを呼ぶと、勝手に注文を始めてしまった……!
「ミルフィーユと苺のタルト、それからショートケーキを。飲み物は紅茶を二つ」
「かしこまりました」
「こ、皓様! そんなに頼んだら食べきれません……!」
慌てて止めようとするが、皓様は涼しい顔をしている。
「食べきれなかったら、私が食べる。だから遠慮するな」
「うう……」
結局、皓様の勢いに押されて何も言えなくなってしまった。
しばらくして、注文した品が運ばれてくる。
テーブルの上に並べられたケーキたちは、近くで見るとさらに美しかった。
「どれから食べる?」
皓様に聞かれて、私は迷う。
どれも美味しそうで、選べない。
「じゃ、じゃあ……この、ミルフィーユというお菓子、から」
フォークを手に取り、サクサクのパイ生地を切る。
一口食べると、バターの香りとカスタードクリームの甘さが口いっぱいに広がった。
「〜〜……!!」
思わず声が出てしまう。
こんなに美味しいものを食べたのは、いつ以来だろう。
いつも頂いている和菓子もとても美味しいが、この洋菓子も、私の全然知らない美味しさだ。
「フフッ、喜んでくれているようで何よりだ」
皓様も紅茶を飲みながら、私がケーキを食べる様子を見ている。
その視線が恥ずかしくて、つい俯いてしまう。
「あの、皓様も召し上がってください」
「私は甘いものはそれほど……まあ、一口もらおうか」
皓様がフォークを伸ばして、ショートケーキを少し切り取る。
それを口に運ぶ様子を見て、なんだか嬉しくなった。
私たちがケーキを食べていると、隣のテーブルの年配の女性たちの会話が聞こえてきた。
「まあ、見て。あちらの若いご夫婦」
「本当ね。とってもお似合いだわ」
「奥様、とても可愛らしい方ね」
「旦那様も素敵。きっと良い家柄の方よ」
小声で話しているつもりなのだろうけど、聞こえてしまう。
顔が熱くなって、ますます俯いてしまった。
「詩織」
皓様が呼ぶ。
「堂々としていればいい。その通り、君は私の花嫁なんだから」
花嫁、という言葉に、また胸が高鳴る。
皓様が苺タルトを私の方に押しやった。
「これも食べろ。遠慮は無用だ」
「は、はい……」
言われるがままに、苺タルトにもフォークを伸ばす。
甘酸っぱい苺と、濃厚なカスタードクリームの組み合わせが絶妙だった。
「美味しいです……!」
「そうか」
皓様は満足そうに頷く。
私がケーキを食べる様子を、じっと見つめている。
「あの、皓様? 何か私の顔についてますか?」
「いや、幸せそうな顔をしているなと思ってな」
「えっ……」
恥ずかしさのあまり、また俯きそうになる。
でも、皓様の言葉を思い出して、なんとか顔を上げたままでいた。
「……前から思っていたが」
「? どうされましたか……?」
「いや……君は案外、甘党だな。ずいぶん甘いものが好きなようだ。今日で一番、楽しそうにしている」
「う……!」
今度こそ顔が赤くなって俯いてしまった。
それを見て、皓様は愉快そうに笑う。
「子供っぽい、でしょうか……」
「いいや、気にすることはない。それに、実際に詩織はまだ子供だからな」
「むぅ……」
つい頬を膨らませてしまう。
子供扱いされるのは、なんだか悔しい。
「私、もう十七です。結婚だってできる年なんですよ……?」
そう言ってから、自分で何を言っているのか気づいて固まる。
皓様の動きも、一瞬止まった。
それから、紫色の瞳に悪戯っぽい光が宿る。
「なるほど。詩織は私と早く結婚したいのか」
「ち、違います! いやっ、その、違わないんですけど……そういう意味じゃなくて……!」
「では、どういう意味だ?」
皓様が身を乗り出してくる。
テーブル越しとはいえ、距離が近い。整った顔が間近にあって、呼吸が浅くなる。
「その……子供じゃないって言いたかっただけで……」
「ふむ。つまり、大人として扱ってほしいと」
「は、はい……」
小さく頷くと、皓様の表情がさらに悪戯っぽくなった。
「なら、大人らしく振る舞ってもらおうか」
「え?」
「まず、その頬についたクリームを自分で拭け」
「えっ!?」
慌てて頬を触るが、何もついていない。
皓様が低く笑う。
「冗談だ」
「こ、皓様!」
抗議の声を上げるが、皓様は涼しい顔でタルトを食べている。
「しかし、結婚か。確かに詩織はもうそういう年齢だな」
「……はい」
「月読家に嫁ぐ覚悟は、もうできているか?」
真っ直ぐに見つめられて、心臓が早鐘を打つ。
こういう時の皓様は、本当にずるい。
「そ、それは……」
「まだか。なら、もう少し時間をかけて口説く必要があるな」
「く、口説く……!?」
顔から火が出そうになる。
皓様はそんな私の様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「君の反応は本当に面白い。見ていて飽きないな」
「い、いじわるです……」
「そうか? この上なく優しくしているつもりだが」
皓様が残りのケーキを平らげる。
その仕草すら優雅で、見とれてしまう。
「まあいい。詩織が大人だと言うなら、それなりに扱おう」
「それなりに……?」
「ああ。例えば」
皓様が立ち上がり、私の隣にやってくる。
そして、さっと私の手を取った。
「これからは、もっと積極的に触れることにする」
「ひゃっ……」
手の甲に、皓様の唇が触れる。
まるで西洋の騎士のような仕草に、頭が真っ白になった。
「大人の女性なら、この程度は平気だろう?」
「へ、平気じゃないです……」
「おや、やはりまだまだ子供か」
「うう……」
結局、皓様にからかわれているだけのような気がする。
でも、手にキスをされた場所が熱くて、文句を言う余裕もない。
「さて、そろそろ行こうか」
皓様がお会計を済ませている間、私は必死に頬の熱を冷まそうとする。
でも、さっきの「もっと積極的に触れる」という言葉が頭から離れない。
(これから、どうなっちゃうんだろう……)
期待と緊張が入り混じった気持ちで、店を後にする。
皓様と手を繋いで歩きながら、私はちらちらと横顔を窺った。
いつも通りの涼しい顔をしているけれど、口元が少し緩んでいるような気がする。
きっと、私をからかって楽しんでいるのだろう。
(でも……)
手を繋いでくれる温度は優しくて、幸せな気持ちは変わらない。
午後の陽射しの中を、二人で歩いていった。
■
それからしばらくして、私たちは月読家への帰路についていた。
西に傾き始めた陽射しが、街並みを橙色に染めている。
皓様と過ごした一日を思い返すと、夢のような時間だったと改めて感じる。
「楽しかったか?」
隣を歩く皓様が、優しく尋ねてくる。
「はい、とても。本当にありがとうございました」
「また連れて行く。今度は別の場所にしよう」
「えっ……いいん、ですか?」
「当然だろう。君は私の花嫁なんだから」
さらりと言われて、また顔が熱くなる。
皓様は本当に、こういうことを普通に言ってくるから困る。
――その時。
人通りの少ない路地を歩いていた時だった。
「……っ」
突然、背筋に冷たいものが走った。
この感覚は、札鬼が現れた時のものに似ている。
「どうした?」
私の変化に気づいた皓様が、足を止める。
「あの……なんだか、嫌な気配が……」
その時、どこからか微かな声が聞こえてきた。
「たす……けて……」
か細い声。子供の声のようにも聞こえる。
反射的に声のする方向へ走り出そうとして――
「っ!」
自分の足を、必死で止めた。
前回の記憶が蘇る。
橘先輩を助けようとして無謀な行動を取り、皓様に激しく叱られた時のこと。
……きっとあのときの皓様は、怒りというよりも悲しみの色が強かった。思い返すと、そんなふうに思える。
(……皓様を悲しませるわけにはいかない)
「皓様」
震える声で、隣に立つ人を見上げる。
「あそこから……助けを求める声が聞こえます。でも、もしかしたら罠かもしれません」
自分でも成長したと思う。
以前の私なら、考えるより先に飛び出していただろう。
皓様の表情が、少し和らいだ。
「よく気づいた。そして、よく私に報告したな」
「はい……」
「一緒に確認しに行こう。ただし、私の指示に従え」
「分かりました」
皓様を先頭に、声のする路地裏へと向かう。
薄暗い路地は、昼間の賑わいとは正反対の不気味さを漂わせていた。
「誰か……いるの……?」
また声が聞こえる。
路地の奥、ゴミ箱の陰に小さな人影が見えた。
「子供……?」
思わず呟いてしまう。
でも、皓様が片手を上げて私を制した。
「待て。何かおかしい」
「おかしい、ですか?」
「ああ。この気配は――」
皓様の言葉が終わる前に、異変は起きた。
うずくまっていた人影が、ゆらりと立ち上がる。
顔を上げたそれは、確かに子供の姿をしていた。でも、その顔面には……顔が、ない。
「っ!」
「助けて……助けて……」
同じ言葉を繰り返しながら、のろのろとこちらに近づいてくる。
皓様が鋭く言った。
「下がれ、詩織。これは一般人じゃない。人間を模した札鬼だ」
「じゃあ――」
突然、建物の影から黒い影が飛び出してきた。
一つ、二つ、三つ……次々と人影が現れる。
「囲まれた、か」
皓様が私を背中に庇いながら、刀の柄に手をかける。
「呪詛花札を使った罠。恐らく影沼に雇われたか」
その時、路地の入り口から高笑いが響いた。
「ご明察! 月読の若様」
黒い装束に身を包んだ数人の男女。
……数えると、数は五人。私たちの倍以上の人数だ。
「そのお嫁さんをとにかく消せって、上からの命令でね。大人しくしていりゃああんたは見逃してやるよ」
「……ほう」
皓様の声が、ぞっとするほど低くなった。
今まで聞いたことのない、氷のような冷たさを帯びた声。
「私を見逃す、か」
「そうさ。あんたと事を構えたくはないからな。桜花の娘さえ始末できれば、それでいいんだ」
男の言葉に、私は震えが止まらなくなる。
でも、それは恐怖からではなかった。
……皓様から発せられる、尋常ではない殺気を感じたからだ。
「皓様……?」
恐る恐る声をかけるが、皓様は微動だにしない。
ただ、その横顔は能面のように無表情で、それがかえって恐ろしかった。
「実に楽しいデートだったんだ」
皓様が、ぽつりと呟いた。
「こういう機会はなかなか無い。あったとしても、私をモノにしようと必死な女ばかりだったしな。その点、彼女はとても純粋に楽しんでくれた」
「は? 何言って――」
「それを」
皓様の手が、ゆっくりと刀の柄を握る。
その動作だけで、空気が変わった。
まるで夜の帳が一気に降りたような、重苦しい気配……!
「邪魔した上に、詩織を消せ、だと?」
皓様が一歩、前に出る。
たったそれだけの動作なのに、黒装束たちが一斉に後ずさった。
「ひっ……」
子供の姿の札鬼も本能的に何かを感じ取ったのか、動きを止めている。
「私を見逃す? 笑わせるな」
月が雲間から顔を出した。
その光を受けて、皓様の銀髪が不気味に輝く。
「感謝しろ。今から全員、地獄に送ってやる」
「ここで少し休憩しよう」
「はい」
看板には「銀座屋」と書かれている。
ガラス張りのショーウィンドウには、色とりどりのケーキが美しく並んでいた。
「わあ……」
思わず見とれてしまう。
苺のショートケーキ、チョコレートケーキ、シュークリーム、エクレア。
どれも宝石のように輝いて見える。和菓子とはまるで違う色合いだ。
「入ろう」
皓様に促されて店内に入ると、甘い香りが鼻をくすぐった。
店内は思ったより広く、白いテーブルクロスの掛かったテーブルが並んでいる。
ウェイトレスさんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね」
「ああ」
「こちらへどうぞ」
案内された席は、窓際の明るい場所だった。
椅子に座ると、目の前にメニューが置かれる。
「何にする?」
皓様に聞かれて、私はメニューを開いた。
そして、値段を見て息を呑む。
(こ、このケーキ……私の一週間分のお弁当代くらい……!?)
今は月読家にいて、使用人の方たちにお任せしているから家計をちゃんと把握できてはいないけど……。
如月家にいた頃の私の食費から考えると、とんでもない高級品なのでは……!?
「あ、あの……私は紅茶だけで……」
「却下だ」
皓様があっさりと私の言葉を切り捨てた。
「せっかく来たんだ。好きなものを頼め」
「で、でもその……お高いですよ……?」
「詩織」
皓様がメニューを指さす。
「このミルフィーユはどうだ? それとも、苺のタルトがいいか?」
「あ、あわわわ……どちらも高すぎます……!」
「値段を気にする必要はない」
目を回す私を尻目に皓様はウェイトレスを呼ぶと、勝手に注文を始めてしまった……!
「ミルフィーユと苺のタルト、それからショートケーキを。飲み物は紅茶を二つ」
「かしこまりました」
「こ、皓様! そんなに頼んだら食べきれません……!」
慌てて止めようとするが、皓様は涼しい顔をしている。
「食べきれなかったら、私が食べる。だから遠慮するな」
「うう……」
結局、皓様の勢いに押されて何も言えなくなってしまった。
しばらくして、注文した品が運ばれてくる。
テーブルの上に並べられたケーキたちは、近くで見るとさらに美しかった。
「どれから食べる?」
皓様に聞かれて、私は迷う。
どれも美味しそうで、選べない。
「じゃ、じゃあ……この、ミルフィーユというお菓子、から」
フォークを手に取り、サクサクのパイ生地を切る。
一口食べると、バターの香りとカスタードクリームの甘さが口いっぱいに広がった。
「〜〜……!!」
思わず声が出てしまう。
こんなに美味しいものを食べたのは、いつ以来だろう。
いつも頂いている和菓子もとても美味しいが、この洋菓子も、私の全然知らない美味しさだ。
「フフッ、喜んでくれているようで何よりだ」
皓様も紅茶を飲みながら、私がケーキを食べる様子を見ている。
その視線が恥ずかしくて、つい俯いてしまう。
「あの、皓様も召し上がってください」
「私は甘いものはそれほど……まあ、一口もらおうか」
皓様がフォークを伸ばして、ショートケーキを少し切り取る。
それを口に運ぶ様子を見て、なんだか嬉しくなった。
私たちがケーキを食べていると、隣のテーブルの年配の女性たちの会話が聞こえてきた。
「まあ、見て。あちらの若いご夫婦」
「本当ね。とってもお似合いだわ」
「奥様、とても可愛らしい方ね」
「旦那様も素敵。きっと良い家柄の方よ」
小声で話しているつもりなのだろうけど、聞こえてしまう。
顔が熱くなって、ますます俯いてしまった。
「詩織」
皓様が呼ぶ。
「堂々としていればいい。その通り、君は私の花嫁なんだから」
花嫁、という言葉に、また胸が高鳴る。
皓様が苺タルトを私の方に押しやった。
「これも食べろ。遠慮は無用だ」
「は、はい……」
言われるがままに、苺タルトにもフォークを伸ばす。
甘酸っぱい苺と、濃厚なカスタードクリームの組み合わせが絶妙だった。
「美味しいです……!」
「そうか」
皓様は満足そうに頷く。
私がケーキを食べる様子を、じっと見つめている。
「あの、皓様? 何か私の顔についてますか?」
「いや、幸せそうな顔をしているなと思ってな」
「えっ……」
恥ずかしさのあまり、また俯きそうになる。
でも、皓様の言葉を思い出して、なんとか顔を上げたままでいた。
「……前から思っていたが」
「? どうされましたか……?」
「いや……君は案外、甘党だな。ずいぶん甘いものが好きなようだ。今日で一番、楽しそうにしている」
「う……!」
今度こそ顔が赤くなって俯いてしまった。
それを見て、皓様は愉快そうに笑う。
「子供っぽい、でしょうか……」
「いいや、気にすることはない。それに、実際に詩織はまだ子供だからな」
「むぅ……」
つい頬を膨らませてしまう。
子供扱いされるのは、なんだか悔しい。
「私、もう十七です。結婚だってできる年なんですよ……?」
そう言ってから、自分で何を言っているのか気づいて固まる。
皓様の動きも、一瞬止まった。
それから、紫色の瞳に悪戯っぽい光が宿る。
「なるほど。詩織は私と早く結婚したいのか」
「ち、違います! いやっ、その、違わないんですけど……そういう意味じゃなくて……!」
「では、どういう意味だ?」
皓様が身を乗り出してくる。
テーブル越しとはいえ、距離が近い。整った顔が間近にあって、呼吸が浅くなる。
「その……子供じゃないって言いたかっただけで……」
「ふむ。つまり、大人として扱ってほしいと」
「は、はい……」
小さく頷くと、皓様の表情がさらに悪戯っぽくなった。
「なら、大人らしく振る舞ってもらおうか」
「え?」
「まず、その頬についたクリームを自分で拭け」
「えっ!?」
慌てて頬を触るが、何もついていない。
皓様が低く笑う。
「冗談だ」
「こ、皓様!」
抗議の声を上げるが、皓様は涼しい顔でタルトを食べている。
「しかし、結婚か。確かに詩織はもうそういう年齢だな」
「……はい」
「月読家に嫁ぐ覚悟は、もうできているか?」
真っ直ぐに見つめられて、心臓が早鐘を打つ。
こういう時の皓様は、本当にずるい。
「そ、それは……」
「まだか。なら、もう少し時間をかけて口説く必要があるな」
「く、口説く……!?」
顔から火が出そうになる。
皓様はそんな私の様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「君の反応は本当に面白い。見ていて飽きないな」
「い、いじわるです……」
「そうか? この上なく優しくしているつもりだが」
皓様が残りのケーキを平らげる。
その仕草すら優雅で、見とれてしまう。
「まあいい。詩織が大人だと言うなら、それなりに扱おう」
「それなりに……?」
「ああ。例えば」
皓様が立ち上がり、私の隣にやってくる。
そして、さっと私の手を取った。
「これからは、もっと積極的に触れることにする」
「ひゃっ……」
手の甲に、皓様の唇が触れる。
まるで西洋の騎士のような仕草に、頭が真っ白になった。
「大人の女性なら、この程度は平気だろう?」
「へ、平気じゃないです……」
「おや、やはりまだまだ子供か」
「うう……」
結局、皓様にからかわれているだけのような気がする。
でも、手にキスをされた場所が熱くて、文句を言う余裕もない。
「さて、そろそろ行こうか」
皓様がお会計を済ませている間、私は必死に頬の熱を冷まそうとする。
でも、さっきの「もっと積極的に触れる」という言葉が頭から離れない。
(これから、どうなっちゃうんだろう……)
期待と緊張が入り混じった気持ちで、店を後にする。
皓様と手を繋いで歩きながら、私はちらちらと横顔を窺った。
いつも通りの涼しい顔をしているけれど、口元が少し緩んでいるような気がする。
きっと、私をからかって楽しんでいるのだろう。
(でも……)
手を繋いでくれる温度は優しくて、幸せな気持ちは変わらない。
午後の陽射しの中を、二人で歩いていった。
■
それからしばらくして、私たちは月読家への帰路についていた。
西に傾き始めた陽射しが、街並みを橙色に染めている。
皓様と過ごした一日を思い返すと、夢のような時間だったと改めて感じる。
「楽しかったか?」
隣を歩く皓様が、優しく尋ねてくる。
「はい、とても。本当にありがとうございました」
「また連れて行く。今度は別の場所にしよう」
「えっ……いいん、ですか?」
「当然だろう。君は私の花嫁なんだから」
さらりと言われて、また顔が熱くなる。
皓様は本当に、こういうことを普通に言ってくるから困る。
――その時。
人通りの少ない路地を歩いていた時だった。
「……っ」
突然、背筋に冷たいものが走った。
この感覚は、札鬼が現れた時のものに似ている。
「どうした?」
私の変化に気づいた皓様が、足を止める。
「あの……なんだか、嫌な気配が……」
その時、どこからか微かな声が聞こえてきた。
「たす……けて……」
か細い声。子供の声のようにも聞こえる。
反射的に声のする方向へ走り出そうとして――
「っ!」
自分の足を、必死で止めた。
前回の記憶が蘇る。
橘先輩を助けようとして無謀な行動を取り、皓様に激しく叱られた時のこと。
……きっとあのときの皓様は、怒りというよりも悲しみの色が強かった。思い返すと、そんなふうに思える。
(……皓様を悲しませるわけにはいかない)
「皓様」
震える声で、隣に立つ人を見上げる。
「あそこから……助けを求める声が聞こえます。でも、もしかしたら罠かもしれません」
自分でも成長したと思う。
以前の私なら、考えるより先に飛び出していただろう。
皓様の表情が、少し和らいだ。
「よく気づいた。そして、よく私に報告したな」
「はい……」
「一緒に確認しに行こう。ただし、私の指示に従え」
「分かりました」
皓様を先頭に、声のする路地裏へと向かう。
薄暗い路地は、昼間の賑わいとは正反対の不気味さを漂わせていた。
「誰か……いるの……?」
また声が聞こえる。
路地の奥、ゴミ箱の陰に小さな人影が見えた。
「子供……?」
思わず呟いてしまう。
でも、皓様が片手を上げて私を制した。
「待て。何かおかしい」
「おかしい、ですか?」
「ああ。この気配は――」
皓様の言葉が終わる前に、異変は起きた。
うずくまっていた人影が、ゆらりと立ち上がる。
顔を上げたそれは、確かに子供の姿をしていた。でも、その顔面には……顔が、ない。
「っ!」
「助けて……助けて……」
同じ言葉を繰り返しながら、のろのろとこちらに近づいてくる。
皓様が鋭く言った。
「下がれ、詩織。これは一般人じゃない。人間を模した札鬼だ」
「じゃあ――」
突然、建物の影から黒い影が飛び出してきた。
一つ、二つ、三つ……次々と人影が現れる。
「囲まれた、か」
皓様が私を背中に庇いながら、刀の柄に手をかける。
「呪詛花札を使った罠。恐らく影沼に雇われたか」
その時、路地の入り口から高笑いが響いた。
「ご明察! 月読の若様」
黒い装束に身を包んだ数人の男女。
……数えると、数は五人。私たちの倍以上の人数だ。
「そのお嫁さんをとにかく消せって、上からの命令でね。大人しくしていりゃああんたは見逃してやるよ」
「……ほう」
皓様の声が、ぞっとするほど低くなった。
今まで聞いたことのない、氷のような冷たさを帯びた声。
「私を見逃す、か」
「そうさ。あんたと事を構えたくはないからな。桜花の娘さえ始末できれば、それでいいんだ」
男の言葉に、私は震えが止まらなくなる。
でも、それは恐怖からではなかった。
……皓様から発せられる、尋常ではない殺気を感じたからだ。
「皓様……?」
恐る恐る声をかけるが、皓様は微動だにしない。
ただ、その横顔は能面のように無表情で、それがかえって恐ろしかった。
「実に楽しいデートだったんだ」
皓様が、ぽつりと呟いた。
「こういう機会はなかなか無い。あったとしても、私をモノにしようと必死な女ばかりだったしな。その点、彼女はとても純粋に楽しんでくれた」
「は? 何言って――」
「それを」
皓様の手が、ゆっくりと刀の柄を握る。
その動作だけで、空気が変わった。
まるで夜の帳が一気に降りたような、重苦しい気配……!
「邪魔した上に、詩織を消せ、だと?」
皓様が一歩、前に出る。
たったそれだけの動作なのに、黒装束たちが一斉に後ずさった。
「ひっ……」
子供の姿の札鬼も本能的に何かを感じ取ったのか、動きを止めている。
「私を見逃す? 笑わせるな」
月が雲間から顔を出した。
その光を受けて、皓様の銀髪が不気味に輝く。
「感謝しろ。今から全員、地獄に送ってやる」
