朝の光が障子越しに差し込む中、私は鏡の前で固まっていた。

 今日は、皓様とのお出かけの日。
 先日約束していただいた、二人きりでの外出。それだけで心臓が早鐘のように打っている。

「詩織様、こちらの帯はいかがでしょうか」

 侍女の方の一人が、白地に銀糸で波文様を織り込んだ帯を持ってきてくれる。
 もう一人の方は、私の髪を丁寧に梳いてくれていた。

「あ、でも、そんな立派なものは……」
「何をおっしゃいますか。皓様とのお出かけなのですから、これくらい当然です」
「そうですよ。詩織様はもっとご自分を飾ってよろしいのです」

 二人の侍女――春江さんと夏美さんが、張り切って私の支度を整えてくれる。
 藤色の小紋は、白い帯でより一層上品に見える。袖を通すと、まるで別人になったような気がした。

「あ――」

 鏡に映る自分の姿が信じられない。
 これが、本当に私なのだろうか。いつもの地味で目立たない如月詩織が、こんなに綺麗に着飾っているなんて。

「うふふ、詩織様ったら頬が真っ赤ですよ」
「皓様もきっとお喜びになります」

 彼女たちの言葉に、ますます顔が熱くなる。
 私なんかが着飾ったところで、皓様の隣に立つにはきっと不釣り合いなのに。
 ……なのに、浮かれてしまう。もしかしたら皓様にも喜んでもらえるかも、なんて。

「そ、そろそろ行かないと……皓様をお待たせしてしまいます」
「まだお約束の時間まで三十分もございますよ」
「でも、早めに行かないと……もしも遅れたりしたら……わっ!」

 私は慌てて立ち上がろうとして、裾を踏みそうになる。
 春江さんが苦笑しながら私を支えてくれた。

「詩織様、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。それに、少しくらいお待たせする方が、殿方は喜ぶものです」
「そ、そうなんですか……?」
「ええ。でも詩織様の場合は、そんな駆け引きは必要ありませんね。皓様は詩織様に首ったけですから」
「そ、そんな……皓様は私を保護してくださっているだけで……!」

 私の言葉に、二人の侍女は意味ありげに顔を見合わせる。
 何か言いたそうにしながらも、結局は優しい笑顔で送り出してくれた。

 廊下を歩きながら、私は何度も帯の位置を確認する。
 着崩れていないだろうか。髪は乱れていないだろうか。
 せっかく皓様がお時間を作ってくださったのに、みっともない姿を見せるわけにはいかない……!



 玄関に着くと、皓様は既にそこにいらした。

 深い藍色の着物に、同系色の羽織。
 普段の黒い着物とは違う、少し柔らかな印象の装いだった。
 それでも、その立ち姿の美しさは変わらない。
 まるで一幅の絵のように、完璧な佇まいでそこに立っていた。

「お、お待たせしました!」

 私は深く頭を下げる。
 まだ約束の時間前のはずだけど、皓様を待たせてしまったことに変わりはない。

「いや、私も今来たところだ」

 皓様が顔を上げて、私を見た。
 その瞬間、紫色の瞳が少し見開かれる。

「美しいな」
「え……」

 思わず顔を上げてしまった。
 皓様は真っ直ぐに私を見つめている。その視線に、嘘や社交辞令の色はない。

「い、いえ、私なんて……」

 恥ずかしさのあまり、また俯いてしまう。
 藤色の着物も、白い帯も、きっと私には不釣り合いだ。
 侍女さんたちが頑張ってくれたけれど、中身は相変わらずの冴えない私なのだから。

 すっと、顎に手が添えられた。
 皓様の冷たい指が、私の顔を上向かせる。

「俯くな。君は自分の美しさをもっと自覚すべきだ」
「でも、私は……」
「詩織」

 名前を呼ばれて、言葉が止まる。
 皓様の表情は真剣そのものだった。

「君は美しい。それは事実だ。いい加減、認めろ」
「……はい」

 有無を言わせぬ口調に、私は小さく頷くしかなかった。
 皓様はそれでようやく満足したのか、手を離してくれる。

「では、行こうか」
「はいっ……」

 皓様に導かれて、門の外に停まっている車に向かう。
 運転手の方が恭しく扉を開けてくれた。
 車に乗り込もうとして、私は改めて皓様の着物姿を見る。品の良い着こなしは、相変わらず素敵だった。

「どうかしたか?」
「あ、いえ……皓様の着物姿も、とても素敵だなと思って」

 正直に言うと、皓様が少し目を瞬かせた。
 それから、小さく微笑む。

「君に褒められると、悪い気はしないな」

 皓様が私の隣に座る。
 車がゆっくりと動き出し、月読家を後にしていく。

 初めての、皓様との二人きりのお出かけ。
 緊張と期待で、胸がいっぱいになっていた。



 車が浅草の街に入ると、窓の外の景色が一変した。

 立ち並ぶ商店、行き交う人々、威勢のいい呼び込みの声。
 月読家やその周辺の静謐な雰囲気とは正反対。活気に満ちた世界がそこに広がっていた。

「わあ……!」

 思わず声が漏れてしまう。
 車窓に顔を近づけて、きょろきょろと外を見回してしまう。子供みたいで恥ずかしいけれど、止められなかった。

 車が停まり、運転手さんが扉を開けてくれる。
 外に出た瞬間、様々な音と匂いが押し寄せてきた。

 焼き団子の香ばしい匂い、人形焼きの甘い香り、呼び込みの声、下駄の音、子供たちの笑い声。
 すべてが混ざり合って、独特の活気を作り出している。

「すごい……」

 仲見世通りの入り口に立って、私は圧倒されていた。
 石畳の通りの両側にずらりと並ぶ店々。
 色とりどりの商品、のれん、看板。
 まるでお祭りのような賑わいだった。

「人が多いな。はぐれないように」

 そう言って、皓様が私の手を取った。

「えっ……」

 突然のことに心臓が跳ね上がる。
 皓様の手は相変わらず冷たいけれど、その握り方はしっかりとしていて優しい。

「迷子になっては困る」

 皓様はさらりとそう言って、私を連れて通りを歩き始めた。

(て、手が……汗とか、大丈夫かしら……)

 手を繋いだまま仲見世を歩く。
 周りの人々は、私たちを見て微笑ましそうな顔をしていた。
 あの人たちには、私たちはどう見えているのだろう。恋人か――あるいは親子だろうか。

(皓様と手を繋いで歩くなんて……夢みたい)

 雷おこしを売る店、扇子の店、人形の店。
 どの店も魅力的で、つい足を止めて見入ってしまう。

「あ……! あちらに射的がありますよ!」

 私は通りの向こうを指さした。
 射的の屋台があり、子供たちが楽しそうに遊んでいる。

「射的、か」

 皓様が興味深そうに屋台を見る。
 私を連れて近づくと、店主が愛想よく声をかけてきた。

「旦那さん、一回どうです? 景品も色々ありますよ」
「ふむ」

 皓様は並んでいる景品を眺める。
 そして、棚の上段にある小さな狐のお面に目を留めた。

「あれを狙おう」
「皓様、射的のご経験が?」
「ない。だが、弓術の心得はある」

 皓様は自信満々に銃を構える。
 でも、射的の銃と弓では勝手が違うはずで……。

 パン、と音がして……弾は見事に的を外れた。

「……」

 皓様が眉を顰める。
 店主が苦笑しながら説明する。

「お侍さん、この銃は少し右に曲がる癖がありましてね」
「なるほど。では、もう一度」

 皓様は追加料金を払い、再び銃を構える。
 今度は先ほどの失敗を踏まえて、少し左を狙ったようだった。

 パン。
 ……今度は隣の景品に当たってしまった。

「惜しい! もう一息ですよ」
「もう一度だ」

 店主の言葉に、皓様の目に闘志が宿ったのが見えた。
 そんな姿も新鮮で、つい微笑んでしまう。

 三度目の挑戦。
 皓様は慎重に狙いを定め、引き金を引いた。

 パン。
 弾は見事に狐のお面に当たり、お面が棚から落ちる。

「やった!」

 思わず声を上げてしまった。
 皓様も満足そうに頷いている。

「いやあ、お見事! 三回目で仕留めるとは」

 店主がお面を渡してくれる。
 皓様はそれを受け取ると、少し照れたような顔をした。

「……考えてみれば、特に面がほしいわけでもなかったな。君に贈るにしても、こんなものは要るまい?」
「そ、そんなことないです! いただけたら、とても嬉しいです」

 私は慌てて両手を振る。
 皓様が私のために贈ってくれるものなら、なんでも嬉しい。

「それに、狐のお面も可愛いですよ。ほら、この表情とか」
「そうか?」
「はい。ありがとうございます。いただきますね」

 私の言葉に、皓様は安堵したような顔をした。

 射的を後にして、さらに通りを進む。
 すると、老舗らしい櫛屋の前を通りかかった。店先には美しい櫛や簪がずらりと並んでいる。

「ああ、そうだ」

 皓様が急に立ち止まり、その店を指さした。

「詩織、少し待っていてくれ」
「え? はい……」

 皓様は櫛屋に入っていく。
 私は店の外で待ちながら、何を買うのだろうと首を傾げた。

 しばらくして、皓様が小さな包みを持って出てきた。

「これを」

 差し出された包みを開けると、中には黒柿の櫛が入っていた。
 桜の蒔絵が施された、とても上品な櫛だった。

「こ、これは……」
「君の髪は美しい。きちんと手入れをすべきだと思ってな」

 皓様の言葉に、胸が熱くなる。

「月読家にも櫛はあるが、これは君専用のものだ。普段使いにしてくれ」
「私、専用……」

 震える手で櫛を持つ。
 ずっしりとした重みがあって、品質の良さが分かる。
 こんな立派なものを、私なんかが使ってもいいのだろうか。

「……大切にします。本当に、ありがとうございます」
「礼はいらない。君の髪を、毎日これで梳いてくれればそれでいい」

 皓様の言葉に、また顔が赤くなる。
 毎日、という言葉が、なんだか特別な響きを持って聞こえた。

「さあ、まだ見るところはたくさんある。行こう」
「は、はい!」

 櫛を大切に懐にしまい、再び皓様と手を繋ぐ。
 通りを歩きながら、私はちらりと皓様の横顔を見る。

 いつもの冷たい表情ではなく、どこか楽しそうな、柔らかい表情をしていた。

(皓様も、楽しんでくださっているのかな……)

 そう思うと、また胸が温かくなる。
 人混みの中でも、皓様と繋いだ手だけは、決して離れることはなかった。