だんだんと近付いてくる、皓様のお顔。
 私は目を閉じる――

 次の瞬間、皓様の唇が私の唇に触れた。

「んっ……」

 温かくて、柔らかい。
 でも、それだけではなかった。皓様の唇から、月光のような涼やかな霊気が流れ込んでくる。

 最初は優しく、まるで花びらが触れるような軽い口づけだった。
 でも霊力を注入するためには、もっと深い接触が必要らしい。

「力を抜け」

 皓様が唇を離し、小さく囁いた。
 その息が頬にかかって、全身が震える。

「は、はい……」

 返事をしようとした瞬間、皓様の唇が再び私の唇を塞いだ。
 今度は、さっきより深く。

「んん……っ!」

 皓様の舌が、私の唇の隙間を探っている。
 こんなの、初めて。頭が真っ白になって、何をすればいいのか分からない。

 皓様は慣れているのか、とても上手だった。
 私が息苦しくならないよう、角度を変えながら少しずつ深くしていく。

「ん……あ……」

 口の中に、皓様の舌が入ってきた。
 その瞬間、強い霊気が直接流れ込んできて、全身に電気が走ったような感覚になる。

(なに、これ……ビリビリする……っ)

 皓様の霊気は、月光のように冷たくて、でも芯の部分に温かさがあった。
 それが私の枯渇した霊力に染み込んでいく。

「ん……んんっ……!」

 息ができない。
 でも、苦しいというより、むしろ気持ちがいい。
 皓様の舌が私の舌に絡みついて、口の中を丁寧に愛撫してくるようだ……。

 こんなことをされたら、頭がぼうっとして、何も考えられない。
 ただ皓様に身を委ね、流れ込んでくる霊気を受け入れることしかできない。

「ん、あ……、っ」

 小さな声が漏れてしまう。
 皓様の霊気が、私の体の奥まで浸透していくのが分かる。疲れ切っていた体に、少しずつ力が戻ってくる。

 でも、それ以上に意識を奪われるのは、皓様との口づけそのものだった。
 舌を絡められるたび、背筋がぞくぞくと震える。体の奥が熱くてせつない。

「ふ……んっ……」

 呼吸のタイミングが分からなくて、だんだん苦しくなってくる。
 でも、皓様から離れたくない。このまま、ずっと……。

 皓様が私の呼吸の乱れに気づいたのか、少しだけ唇を離してくれた。

「はっ……はあ……はあ……」

 必死に息を整える。
 でも、皓様はまだ私の顔のすぐ近くにいて、その紫色の瞳が私を見つめていた。

「大丈夫か?」
「は、はい……」

 声が震えている。
 顔が火のように熱くて、きっと真っ赤になっているだろう。
 全身の力が入らない。それは霊力が足りないせいではなく、体中に走るむず痒さのせいだ……。

「もう少し続ける。霊力の注入はまだ完全ではない」
「あ……はい……」

 皓様が再び私に口づけをしてくる。
 今度は最初から深く、舌を絡めながら霊気を注いでくれる。

「んっ……んんっ……」

 もう抵抗することもできず、ただ皓様に身を任せる。
 口の中で交わされる霊気の流れが、だんだん激しくなっていく。

 皓様の手が、私の頬を支えるように触れている。
 その手も温かくて、安心できる。

「ふ……あっ……」

 霊気の流れが一際強くなって、体の奥が熱くなる。
 これで、回復は完了なのだろうか。

 皓様がゆっくりと唇を離してくれた。
 糸を引くように、唾液が繋がっているのが見えて、恥ずかしくて目を逸らす。

「はあ……はあ……」

 まだ息が荒い。
 でも、確かに体に力が戻ってきているのが分かった。

「これでひとまずは大丈夫だ」

 皓様の声は、いつも通り冷静だった。
 まるで何事もなかったかのように。
 でも私は、まだ口の中に残る皓様の感触に、心臓が早鐘を打っていた。

「ありがとう……ございました……」

 顔を見ることができず、俯いて呟く。
 皓様との初めての口づけ。それが、こんな形になるなんて思ってもみなかった。

「休め。明日からは、君の価値観を正しく育て直す」

 皓様が立ち上がる。
 その背中を見送りながら、私はそっと唇に指を当てた。

 まだ、皓様の感触が残っていた。



 翌日の朝、私は月読家の自室でお粥をいただいていた。

 昨日の皓様の霊力注入のおかげで、体調はすっかり良くなっている。
 でも、皓様は「まだ安静にしていろ」と言って、布団から出ることを許してくれない。

「どうだ? 体調は」

 皓様が私の隣に座り、心配そうに覗き込んでくる。
 ……先日の、皓様の怖さ。そして直後の、あの……霊力の、注入。
 それらを思い出して胸と頭の中がぐちゃぐちゃになりそうになる。だけど、その眼差しの暖かさは確かにわかった。

(考えて、みれば。……あんなふうに、「私のために」怒ってくれた人は……生まれて、はじめてかもしれない)

 そう思うと、またよくわからなくなる。嬉しさと、怖さ……いろいろなものが、絵の具のように頭に混ざる。

「は、はい……おかげさまで、大分楽になりました」

 私は微笑んで答える。
 お粥も、月読家の料理人の方が作ってくださったもので、とても美味しい。

「そうか。よかった」

 皓様が安堵の表情を浮かべる。
 そんな皓様を見ていると、本当に愛されているのだという気がしてくる。

 でも……。

(……甘いものが食べたいな……)

 ふと、そんな思いが頭をよぎった。
 お粥は美味しいけれど、少し物足りない。和菓子か何か、甘いものが少しあれば……。
 しかし、すぐにその考えを打ち消す。

(ううん。病人のくせに、贅沢を言ってはダメよ……!)

 こんなに丁寧に看病していただいているのに、文句を言うなんて図々しい。
 わがままを言って、皓様を困らせるわけにはいかない。

「ご飯も、ありがとうございます。美味しいです」

 私は努めて明るく言った。
 実際、お粥は美味しい。甘いものが欲しいなんて、ただの我儘だ。

「そうか」

 皓様が頷く。
 でも、その瞳が私の表情を注意深く観察しているのに気づいた。

(あ……変な顔をしてた、かしら)

 慌てて笑顔を作り直す。
 皓様に心配をかけてはいけない。……でも、皓様の疑惑は晴れない。

「詩織」

 皓様が私の名前を呼んだ。
 その声には、何か確信を持ったような響きがある。

「何か、欲しいものはないか?」
「え?」

 突然の質問に、心臓が跳ねる。
 まさか、私の考えていることがバレてしまったのだろうか。

「い、いえ、十分です!」

 慌てて首を振る。
 こんな風にわがままを言うなんて、してはいけない。

「本当に?」

 皓様の瞳が、私を見つめている。
 まるで、嘘を見抜こうとするような鋭い眼差し。

「は、はい……」

 目を逸らしてしまう。
 皓様の前では、嘘をつくのが苦手だった。
 ……というか、いつも苦手な気もするけど……。

「詩織、遠慮しなくていい」

 皓様の声が優しくなる。

「君が何かを欲しがることは、悪いことではない」
「でも……」

 私は俯く。

「私はもう十分すぎるほど、皓様にお世話になっています。これ以上、迷惑をかけるわけには……」
「迷惑? 君が何かを欲しいと言うことが、なぜ迷惑になるんだ」
「だって……病人のわがままなんて……」

 小さくなりながら答える。

「詩織」

 皓様が私の顎に手を添えて、顔を上げさせる。
 その瞳は、怒りではなく、深い慈愛を湛えていた。

「君はわがままを言っていい。その資格があるからだ」

 皓様の言葉に、胸が締めつけられる。
 そんな風に言われると、どうしても甘えたくなってしまう。

「……あの」

 私は小さな声で呟いた。

「もしも……もしも、お手数でなければ……」
「何だ?」

 皓様が身を乗り出す。
 その真剣な表情に、勇気をもらった。

「甘いものが……少し、食べたいです」

 やっと言えた。
 顔が熱くなって、恥ずかしくて俯いてしまう。

「甘いもの?」
「桜餅、とか……その……以前いただいたとき、とても美味しかったので……」

 声がどんどん小さくなる。
 こんなわがままを言って、皓様に呆れられてしまうかもしれない。

「分かった。すぐに用意させよう」

 皓様が立ち上がった。
 その動きに、私は慌てる。

「あ、でも、そんな今すぐでなくても……!」
「君が欲しいと言ったものに手は抜けないからな」

 皓様の声はどこか弾んでいた。微笑んでいるのだろうか。

「待っていろ。最高の桜餅を作らせる」

 皓様が部屋を出て行った後、私は一人で赤くなった頬を冷ました。
 こんなことで、月読家の料理人の方にお手間をかけてしまって……。

 でも、心の奥で小さな期待も膨らんでいた。
 桜餅……久しぶりに食べられる。



 三十分ほど後、皓様が戻ってきた。
 お盆の上には、美しい桜餅が三個、丁寧に並べられている。

「待たせたな」
「わあ……!」

 息を呑む。
 葉で包まれた桜餅は、まるで芸術品のような美しさだった。
 ほんのり桜色に染まったお餅が、春の陽射しを浴びて輝いている。

「こんなに立派な……」
「月読家の料理人が腕を振るった。君のためだけに作ったものだ」

 皓様が私の隣に座る。

「食べるといい。……とはいえ、病み上がりだ。ゆっくり食べるんだぞ」

 私は恐る恐る桜餅を手に取った。
 葉の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。

 一口食べると、上品な甘さが口の中に広がった。
 お餅は柔らかく、中の餡子は甘すぎず、桜の風味が絶妙にバランスを取っている。

「美味しい……」

 思わず声が出てしまった。
 今まで食べた桜餅の中で、一番美味しい。

「本当に、美味しいです!」

 今度は心の底からの笑顔で、皓様を見上げる。
 皓様の表情が、パッと明るくなった。

「そうか。よかった」

 私が桜餅を食べる様子を、皓様は嬉しそうに見守ってくれる。
 こんな些細なことで、こんなにも幸せになれるなんて。

「ありがとうございます、皓様」

 心からの感謝を込めて言うと、皓様が優しく微笑んだ。

「これからはもっと、いつでも遠慮せずに言ってくれ。君の欲求を表現することは悪いことではないと、君自身が理解せねばな」
「は、はい……。少しずつ……頑張ってみます」

 私は桜餅を大切に味わいながら答えた。
 一朝一夕には変われないかもしれないけれど、皓様がいてくれるなら、きっと変われる……ような、気がする。

「詩織」

 皓様が私を見つめた。

「体調が完全に回復したら、一緒に出かけないか?」
「お出かけ……ですか?」

 桜餅を食べる手が止まる。

「そうだ。君と一度、二人で帝都を歩きたい」
「帝都を……」
「ああ。行ったことは?」
「……いえ。あった気もするんですが……覚えていない、です」
「そうか。なら、案内してやろう。今の帝都には何でもあるぞ」

 皓様の提案に、心臓が跳ねる。
 二人きりで、帝都に。帝都も楽しそうだけど、つまり、それは……デート……?

「で、でも……私なんかと一緒で、皓様が楽しめるでしょうか……」
「楽しめるに決まっている」

 皓様が即答する。
 そんなことを言われて、顔が真っ赤になる。
 桜餅どころではない。

「あ、あの……迷惑じゃない、でしょうか……」
「迷惑なはずがない。私から誘っているんだぞ」

 皓様が苦笑する。私は俯いて桜餅をつまむ。
 皓様とのお出かけなんて、夢みたい。

「……ふ、ふつつかものですが」
「ふっ、何だそれは」

 吹き出した皓様の笑顔を見て、私も幸せな気持ちになった。
 桜餅の甘さと、皓様の優しさに包まれて、心の底から温かくなる。

 きっと、素敵なお出かけになる。
 そう思うだけで、胸がどきどきと高鳴っていた。