茶会前日の放課後、私は一人で教室の掃除当番をしていた。

 もう生徒はほとんど帰ってしまい、廊下から聞こえてくるのは遠くの運動部の声だけ。
 黒板を消しながら、明日のことを考える。

 ……明日はいよいよ月読家との茶会。撫子のための、大切な日。

 私は粗相のないよう、心の中で何度も作法を確認していた。

「お姉様」
「わっ……」

 突然の声に振り返ると、教室の入り口に撫子が立っていた。一人だった。いつもなら取り巻きの女の子たちと一緒なのに。

「撫子……?」
「掃除当番? 大変ね」

 撫子は教室に入ってきて、私の手元を見た。
 その声は、いつもの棘のある調子ではなく、妙に優しい。

 ……何か、変だ。

「ごめんね。もうすぐ終わるから」

 私は曖昧に答えて、黒板消しを動かし続けた。
 撫子は窓際まで歩いていき、夕日を眺める。

「明日、いよいよね。月読様との茶会」
「……うん」

 撫子の横顔は、夕日に照らされて美しい。でも、その表情は読めない。

「それで、お姉様」

 撫子が振り返った。いつもの意地悪な笑顔ではなく、真面目な顔をしている。

「ちょっと相談があるの。明日の茶会のことで」
「相談?」
「そう。大切な話だから、二人きりで話したいの」

 私は手を止めた。撫子が私に相談なんて、今まで一度もなかった。撫子が私に近づいてくる。

「この後、時間ある?」
「う、うん。大丈夫よ」

 断る理由なんてない。掃除が終われば、私はただ家に帰るだけだ。
 それから家族の食事を作ったり、掃除をしたり……とにかく、私の時間というものは基本的にはない。

「旧校舎裏の桜の木の下で待ってて。三十分後くらいに」
「わかった……でも、どうして旧校舎なの?」
「誰にも聞かれたくない話だからよ。お願い、お姉様」

 もしかしたら、撫子も明日のことで不安なのかもしれない。
 相手が帝都一の名家月読家ともなれば、緊張もするだろう。姉として、相談に乗ってあげるべきなのかも……。

「……うん」

 私は頷いた。撫子の顔に、満足そうな笑みが浮かぶ。

「ありがとう、お姉様。じゃあ、後でね」

 撫子は軽やかな足取りで教室を出て行った。

 一人残された私は、また黒板消しを動かし始める。でも、胸の奥で小さな不安が渦巻いていた。

(本当に、ただの相談……なんだよね?)

 窓の外を見ると、夕日がもう西の空を赤く染め始めていた。
 旧校舎は、この時間になると人気がなくなる。
 私は掃除用具を片付けて、撫子の指定した時間まで暇をつぶすことにした。



 三十分後、私は旧校舎裏の桜の大木の下にいた。

 もう生徒の姿は見えない。古い木造校舎は夕闇に沈み始め、大きな桜の木が不気味な影を落としている。

「遅いわよ、お姉様」

撫子の声がした。振り返ると、彼女は桜の木にもたれかかるようにして立っていた。
 その手には、何か小さなものを持っている。

「ご、ごめんね。それで相談って……?」

 近づいてみて、私は息を呑んだ。撫子の手にあるのは花札だった。
 でも、普通の花札じゃない。「柳と燕」が描かれた札から、なにかどす黒い気配が漂っている。

「ええ、相談よ」

 撫子がにっこりと笑う。でも、その笑顔は獲物を前にした猫のようだった。

「お姉様に、明日の茶会を諦めてもらう相談」
「え?」
「あら、聞こえなかった? お姉様は明日、茶会に出なくていいの。体調不良ってことにしておいてあげる」

 撫子の笑顔は、もう完全に勝ち誇った悪意のあるものに変わっていた。

「だって、考えてもみてよ。月読様がお姉様なんか見るはずないじゃない。地味で、暗くて、女らしさのかけらもない」
「撫子……」
「あ、そうそう。蓮先輩、知ってる? 『詩織といると息が詰まる』って言ってたわよ。『撫子といる方がずっと楽しい』って」

 ……胸が痛む。彼は本当にそんなことを言っていたのだろうか。
 でもそれよりも、撫子の手にある札が気になった。

「その札は、何?」
「これ? お母様からもらったの。特別な力があるんですって」

 撫子は札を掲げた。

「お姉様は知らないでしょうけど、世の中には不思議な力があるのよ。この札で、ちょっと懲らしめてあげる」
「撫子、やめて。そんなもの——」
「黙って!」

 撫子の声が鋭くなった。私の肩が思わず跳ねる。

「いつもいつも、お姉様は私の邪魔ばかり! 何もできないくせに、どうして私より目立とうとするの!」

 ……私が、目立とうとしている?

「知ってる? 如月家の令嬢を2人とも参加させるよう言ってきたのは、月読家の方からなんですって。つまり、万に一つ……あなたが選ばれる可能性もあるの」
「お、落ち着いて、撫子。そんなことは……」
「あるのよ! だって、アンタは――!」

 撫子は何かを言いかけたがそれを途切れさせる。札を高く掲げ、何かの呪文を唱え始めた……!

「——穢れし者よ、柳の下に集いて燕となれ。恨みを糧に、憎しみを翼に」

 札が不気味な紫色の光を放ち始める。その瞬間、空気が変わった。

 ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。
 喉の奥が急に渇いて、呼吸が浅くなる。
 まるで見えない何かに首を絞められているような息苦しさ。

(こ、これは……!?)

 本能が叫んでいる。逃げろ、今すぐここから逃げろと。
 でも、足が動かない。まるで地面に根が生えたように、その場に立ち尽くしてしまう。

 撫子の手の中で、花札が黒く脈動し始めた。
 どくん、どくん、と生き物の心臓のように。
 その度に、周囲の空気がねじれ、歪んでいく。

 地面から、何かが染み出してくる。
 最初は黒い水たまりのようだったそれが、みるみるうちに盛り上がり、形を成していく。

 腐敗臭が鼻を突いた。生臭く、甘ったるい死の匂い。
 思わず口を手で覆うが、その匂いは肺の奥まで入り込んでくる。

「ひっ……」

 声にならない悲鳴が漏れた。
 地面から這い出してきたそれは、もはや生き物とは呼べない何かだった。

 柳の枝のようでいて、どこか人の腕のようにも見える無数の触手。
 その先端には、燕の形をした影がまとわりついている。
 でも、その燕たちの目は真っ赤に爛れ、嘴からは黒い液体が滴っている。

(な……なんなの、これは……!?)

 冷たい汗が背中を伝い落ちる。膝が震えて、今にも崩れ落ちそうだ。

「さあ、お姉様。せいぜい苦しんでね。そして二度と、私の前に現れないで!」

 撫子の高笑いが、薄暗い旧校舎裏に響き渡った。

「こ、これは……!? この怪物は、なに……!?」

 地面から完全に這い出した怪物は、私の想像を遥かに超えた大きさだった。
 柳の大木が根こそぎ動き出したような巨体。
 無数の触手が不規則にうねり、その周りを燕の影が狂ったように飛び回る。

「お姉様を襲——」

 撫子の命令は、最後まで言い終わらなかった。

 燕の赤い目が、ぎょろりと撫子を見下ろす。まるで、獲物を品定めするかのように。

「え?」

 撫子の顔から、血の気が引いた。
 次の瞬間、柳の触手が撫子に向かって振り下ろされた。

「きゃあああああ!」

 撫子は間一髪で横に飛びのいたが、触手は地面を抉り、土煙を上げた。その威力に、撫子の顔が恐怖で歪む。

「ち、違う! あなたが襲うのはお姉様よ! 私じゃない!」

 必死に札を掲げて命令しようとするが、怪物は全く聞く耳を持たない。
 それどころか、より凶暴性を増していく。

「なんで! お母様は、ちゃんと言うことを聞くって……」

 その時、燕の影の群れが撫子を取り囲んだ。
 真っ赤な目が無数に瞬き、甲高い鳴き声が響き渡る。

「いや! 来ないで!」

 撫子が逃げようとした瞬間、柳の触手が彼女の足首を掴んだ。

「いやあああ! 離して! 離しなさい!」

 触手は撫子を引きずり、宙に吊り上げる。彼女の悲鳴が夕闇に響いた。

「助けて! 誰か! お母様! お父様!」

 必死に叫ぶ声。でも、ここには誰もいない。
 撫子自身が――たぶん私を始末するために――人気のない場所を選んだのだから。

「助けて……ッ、お姉様!」

 撫子の目が、私を見つけた。
 恐怖に歪んだその顔は、もういつもの高慢な妹ではなかった。ただの怯えた女の子だ。

「助けて! お願い! 死にたくない!」

 悲痛な彼女の叫び声を聞きながら、私は、動けなかった。

(助ける? ……撫子を?)

 心の中で、暗い声が囁く。

(この子は、私を消そうとした。橘先輩を奪い、家では虐げられ続けてきた。
 今だって、私を傷つけようとして、あの化け物に襲われているだけ。自業自得じゃない)

 触手が撫子の体を締め上げる。彼女の顔が苦痛に歪む。

(ここで逃げれば、全てが終わる。撫子はいなくなり、明日の茶会も、これからの日々も、少しは楽になるかもしれない。
 撫子さえいなくなれば、お父様も、お義母様も私を見てくれるかもしれない。……愛してくれるかもしれない)

「お姉様! お姉様ああ!」

 撫子の必死の叫びが、私の思考を遮る。

(でも——)

 私は、震える手を見つめた。

(ここで撫子を見捨てたら、私は一生、この手を見る度に思い出す。妹を見殺しにした手だって)

 胸の奥が、きりきりと痛む。

(そんな私を、誰が愛してくれるの? 妹を見殺しにした私を?)

 何より——。

(そんな自分を――私自身が愛せない)
「……助ける」

 呟いた言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
 札鬼の触手が、撫子をさらに高く吊り上げる。燕の影が、彼女の体に群がり始める。

「いや! いやああああ!」

 もう時間がない。
 私は震えを押し殺し、学生鞄を開けた。中から、自主練習用の木刀を引き抜く。
 こんなもので、あの化け物に勝てるはずもない。でも——

「撫子!!」

 走り出していた。恐怖で足はもつれ、手は震えている。それでも、走る。

「今助けるから!」

 撫子の目が、信じられないものを見るように見開かれた。

「お姉様……?」

 札鬼が私に気づき、新たな触手を向けてくる。

「撫子から離れなさい!」

 木刀を構える。剣道の型なんて、こんな化け物相手に何の意味もない。
 それでも、これしか私にはない。
 触手が唸りを上げて迫ってくる。

(……怖い!)

 でも、足は止まらない。

(死ぬかもしれない)

 でも、引き返せない。
 たとえ撫子が私を憎んでいても、私は——

「私は、見捨てないから!」

 木刀を振り上げた瞬間、突然、温かい何かが全身を包み込んだ。
 私の髪に結んだリボンが、眩い光を放っている。まるで春の陽射しのような、優しくて力強い光。

「……っ!?」

 桜の花びらが、どこからともなく舞い始めた。
 幻のように儚く、でも確かにそこにある花びら。それが、木刀に纏わりついている。

「……やあぁッ!」

 温かい光に包まれたまま、私は木刀を振り下ろした。
 すると、ただの木刀から桜色の光が迸る。
 まるで春の嵐のように、無数の花びらが刃となって怪物に襲いかかる……!

 ざぁっ、という音と共に、柳の触手が切り裂かれた。
 黒い血のようなものが飛び散り、怪物が耳をつんざくような悲鳴を上げる。

「ギャアアアアアアッ!!」
「うそ……」

 撫子が呆然とした声を上げた。切断された触手から解放され、地面に落ちる。

(な、何なのこれは……!?)

 私も、自分の起こしたことが信じられなかった。
 手の中の木刀は、まだ桜色の光を纏っている。

(なんだかわからない……けど、体の奥から知らない力が湧き上がってくる)

 これは、一体……。
 その時、視界の端で撫子が立ち上がるのが見えた。そして——

「ひいぃっ……!」

 小さな悲鳴を上げて、撫子は走り出した。これでいい。少なくともあの子は逃げられるはずだ。
 代わりに怪物は怒り狂い、残った触手を全て私に向けてきた。
 さっきとは比べ物にならない殺気。
 そして、その無数の赤い目に、明らかな悪意が宿っていた。

 私は木刀を構え直した。もう一度、さっきと同じように——!

「はあぁっ!」

 迫る触手に振り下ろした木刀。
 ……しかし。

 今度は、何も起こらなかった。

「え?」

 ただの木刀が、触手にぶつかって跳ね返される。衝撃で手が痺れた。

「な、なんで……!?」

 触手が、まるで嘲笑うかのようにゆらゆらと揺れる。
 そして、鞭のようにしなって私の脇腹を打った。

「ぐっ……!」

 激痛に膝をつく。でも、立ち上がらなければ。
 木刀を杖にして、よろよろと立ち上がる。

 今度は足を狙って触手が迫る。
 咄嗟に木刀で受けるが、圧倒的な力の差に吹き飛ばされた。

「きゃあ!」

 地面を転がり、木刀が手から離れる。
 慌てて取りに行こうとするが、触手が容赦なく私の腕を打ち据えた。

「あぁっ……!」

 痛みに涙が滲む。でも、諦めない。諦めたら、本当に終わりだ……!
 這いずって木刀に手を伸ばす。指先が柄に触れた――

(あと少し……っ)
「ギギギィィィ……!」

 その瞬間、触手が私の足首を掴んだ。ゴツゴツした植物が巻き付く感触に、背筋が凍る。

「いやっ!」

 そのまま恐ろしい力で引きずられ、宙に吊り上げられる。
 さっきの撫子と同じ状況。だけど、今度は誰も助けてはくれない……!
 怪物は、まるで獲物をいたぶる猫のように、私をゆらゆらと揺らす。

「う……ぐぅ……!」

 もう声も出ない。体中が痛んでいた。
 怪物の無数の目が、私を見下ろしている。もう遊びは終わり、とでも言うように。
 太い触手が、とどめを刺すために振り上げられる。

(ここで、終わりなの……?)

 思わず目を閉じる。

 その時——


「――月華一閃」

 静かで、けれど圧倒的な力を持つ声が、夕闇を切り裂いた。
 銀色の光が、まるで満月のように輝きながら、怪物を一刀両断する。

「ギャアアアアアア……!!」
「痛っ」

 叫ぶ怪物。私の足首を掴んでいた触手が緩み、私は地面に落ちた。

(な、何が起きたの……? 私、助かった……?)

 軽く手を握り、体の感触を確かめる。痛みはあるが、折れた場所はなさそう……。
 それから、身体を起こす。すると――

 そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい青年だった。

 銀髪が陽の光を受けて輝き、紫色の瞳は静謐な光を宿している。
 黒い外套を纏い、手には銀色に光る日本刀を持っていた。

「ゲゲゲゲ……」

 真っ二つに切り裂かれた怪物が、黒い霧となって消えていく。
 ……なにがなんだかわからない。
 だけどとりあえず、危機は去った……のかな。

「い……っ」

 忘れていた痛みで声が漏れる。
 青年はゆっくりと刀を鞘に収め、私を見下ろした。
 その瞳が驚きに見開かれ、光を宿す。

「奇妙な気配に駆けつけてみれば……やはり先ほどの光、『桜に幕』の力か」
「……?」

 彼は私の傍らに膝をつき、私の髪を一房持ち上げた。
 その手がくすぐったく感じられる。……彼は、私の髪のリボンを見ていたようだ。

「あの……あなたは……」

 震える声で問いかける私に、青年は静かに答えた。

「月読皓。月読家の跡取りだ」

 ……月読様。明日の茶会で会うはずだった人。
 でも、なぜここに……?
 皓様は立ち上がり、私に手を差し伸べた。

「立てるか?」
「あ……」

 その手を取ろうとして、でも、自分の手が血で汚れていることに気づいて躊躇する。
 先ほどの戦いのときに、どこか擦りむいたのだろうか。

「血か? 気にするな」

 皓様は構わず私の手を取り、グイと力強く立ち上がらせてくれた。
 その手は、冷たいけれどどこか優しかった。
 そして、真っ直ぐに私の目を見つめて言う。

「如月詩織。桜花の血を引く者よ」
「え?」
「貴女には、私の花嫁になってもらう」