――詩織が倒れてから、三日が経った。

 月読家の一室で、皓は詩織の布団の傍らに座っていた。
 体のあちこちに包帯を巻かれ、静かに眠る詩織の姿は、あまりにも痛々しい。

「詩織ちゃん、まだ目を覚まさないのか」
「飛燕……」

 戸の向こうから、飛燕の声が聞こえた。
 皓が振り返ると、飛燕が部屋に入ってくる。その表情は暗い。

「医者は何て言ってるんだ?」
「浄化のために生命力を使いすぎて、危険な状態だと」

 皓の声は低く、抑制された怒りが込められていた。
 その表情は、飛燕よりもさらに暗い。疲れと心配、何より悲しみが滲んでいた。

「何故なんだ、詩織……あんな男のために、なぜ命を賭けた……?」

 皓は布団の詩織を見つめる。
 自分が他所で戦っていたあの時。橘など、討伐してしまえばそれで済んだものを。

「皓、気づいてるか?」

 飛燕が傍らの椅子に座り、真剣な表情で皓を見た。

「何をだ?」
「詩織ちゃんの行動原理ってやつだ」

 飛燕は腕を組み、深いため息をついた。

「妹を救ったって時も、田中とかいう教師の件も、そして今回も……全部、他人のために自分を犠牲にしている」
「……ああ」
「しかも、毎回エスカレートしている。最初は怪我程度だったが、今回は生死の境を彷徨っている」

 飛燕の指摘に、皓の表情が険しくなった。
 言われてみれば、確かにその通りだった。

「この状況が続けば……」

 飛燕が言い淀む。皓が促すように見つめると、飛燕は重い口を開いた。

「いずれ詩織ちゃんは死ぬぞ。自己犠牲で」
「……何だと」

 皓の声が低く唸った。

「詩織ちゃんは、自分の命を他人より遥かに軽く見ている。今回だって、橘を救うためなら死んでもいいと思ってたんじゃないか?」
「まさか……」
「まさかじゃない」

 飛燕が立ち上がり、窓辺に向かう。

「俺の見立てでは、詩織ちゃんには自殺願望はない。だが、それ以上に危険な『自己軽視』がある」
「自己軽視……」
「自分の存在価値を、恐ろしく低く見積もっているんだ。だから、他人のためなら簡単に命を投げ出せる」

 飛燕が振り返る。その瞳には、柄にもなく真剣な光が宿っていた。

「これは推測だが……長年の虐待で、そう刷り込まれたんだろう。『お前は価値のない存在だ』と」
「……」

 皓の拳が、小さく震えた。
 如月美津子と撫子の仕打ち。詩織への精神的虐待の数々。

「それが今も、詩織ちゃんの行動を支配している。『私なんてどうなってもいい』という考えがな」
「……だが、彼女は成長している。自信もついてきているはずだ」
「表面的にはな」

 飛燕が首を振る。

「でも、根本的な部分は変わっていない。むしろ、花札使いとしての力を得て、より危険になった」
「どういうことだ?」
「力があるから、より大きな犠牲を払えるようになったんだ。『私が死ねば皆が助かる』という発想に、現実味が出てしまった」

 飛燕の分析に、皓は目を見開く。
 確かに、詩織の行動には一貫性があった。常に他者を優先し、自分を後回しにする。

「このまま放置すれば、いずれ『究極の自己犠牲』をやらかすぞ。帝都のため、皆のため、君のために、自分の命を投げ出す」
「……絶対に、そうはさせない」

 皓の声に、静かな怒りが込められた。
 飛燕が窓の外を見つめる。明るい子供の声が聞こえてきた。

「長年かけて刷り込まれた価値観は、そう簡単には変わらないぜ。詩織ちゃん本人も、それが『普通』だと思い込んでいる」
「……どうすればいい?」
「まずは詩織ちゃん自身に、問題を自覚させることだ。そして……」

 飛燕が皓を見た。

「お前が、詩織ちゃんの価値観を根本から変えてやるしかない」

 皓は、未だ眠り続けている詩織を見た。
 穏やかな寝息。穏やかな表情。自分が命を失いかけたというのに……。

 この少女は、いずれ自分を犠牲にして死ぬかもしれない。
 『桜に幕』の希少な異能。桜花家の血。そして――。

(……お前を失うわけにはいかない。絶対に、阻止してみせる)



 月読家の別室では、橘蓮が目を覚ましていた。

 簡素な布団に横たわり、ぼんやりと天井を見つめている。
 体に大きな怪我はないが、精神的な疲労は深刻だった。

 何より辛いのは、記憶がすべて残っていることだった。

 呪詛花札『萩に猪』の影響下で行った、あらゆる行為。
 詩織への暴力、ストーカー行為、学校での騒動、そして札鬼と化してからの記憶まで。

 全てが鮮明に、まるで昨日のことのように思い出される。

(俺は……なんてことを……)

 しかし、橘の心境は複雑だった。

(……確かに、酷いことをした。けどあれは、あの札のせいで……)

 自分の意志ではなかった。操られていたのだ。
 だから、完全に自分が悪いわけではない――そんな甘い考えが、頭の片隅にあった。

「……入るぞ」
「!」

 襖が静かに開き、月読皓が入ってきた。
 その表情は氷のように冷たく、橘を見下ろす瞳には一片の温情もない。

「気がついたようだな。橘蓮」
「月読……あ、いや、月読、さん」

 橘は慌てて起き上がろうとしたが、皓が手で制した。

「不用意に動くな。お前は傷病人だが、同時に罪人だ」
「……あの、詩織は……」
「お前が心配することではない」

 皓の声は、刃物のように鋭かった。橘の顔が青ざめる。

「でも、俺は詩織を……っ」
「襲った。暴力を振るった。付き纏いもした。そして札鬼となって彼女を殺そうとした」

 皓が淡々と事実を並べ立てる。
 その一言一言が、橘の胸に突き刺さった。

「それは……っ! あの札に操られて……!」
「操られた?」

 皓の瞳が、さらに冷たくなった。

「では聞くが、呪詛花札を受け取る前の行為はどう説明する?」
「え?」
「詩織を呼び出して無理やり掴みかかった。学校での執拗な説得。……調査済みだ。これらは全て、お前自身の意志で行ったものだろう?」

 橘が言葉に詰まる。
 確かに、呪詛花札を受け取る前から、自分は異常な行動を取っていた。

「つまり、あの呪詛花札はお前の中にあった醜い感情を増幅しただけだ。元々なければ、影響を受けることもなかった」
「そんな……」
「詩織への執着、独占欲、そして彼女の意思を無視した身勝手な『愛情』。全てお前の、醜い本性だ」

 皓の言葉が、容赦なく橘の心を抉る。
 橘は反論しようとしたが、言葉が出てこない。

「俺は……俺は詩織を愛していただけで……」
「愛していただと?」

 皓が嘲笑うような表情を浮かべた。

「お前の『愛』とは、相手の意思を無視し、暴力で従わせることか?」
「違います! 俺は詩織を守ろうと……」
「守る? 詩織の命を危険に晒しておいてか? お前なぞのせいで、彼女は死にかけた。今も、目覚めるかどうかわからん」

 皓が一歩近づく。
 その威圧感に、橘は身を縮こまらせた。

「くっ……あ、あんたは……詩織を騙して……!」
「騙している? お前は詩織から話を聞いたのか?」

 皓の声に、強い感情が込められた。
 それは怒り――深く、静かな怒りだった。

「それは……っ」
「お前は話も聞かず、彼女のこともまるで知らない。詩織がお前を倒し、救えるほどに強い女性だということもな」
「……っ!」

 橘の脳裏に、あの戦いの光景が浮かぶ。
 札によって狂わされ、人間ですらなくなった自分を。彼女は倒し、あまつさえ救ってみせた――。

「お前は詩織の何を知っていた? 彼女の本当の強さを? 優しさを知っていたか? それとも、ただ都合のいい『守るべき対象』として見ていただけか?」
「俺は……俺は……っ」
「答えろ」

 皓の声が、部屋に響いた。
 橘は震える声で答える。

「……知りません、でした。詩織の、本当の姿を」

 皓が鼻で笑い、踵を返す。

「二度と、彼女に近づくな」
「待ってください! せめて一言、彼女に謝罪を……」
「お前に、詩織への謝罪を許すつもりはない」

 皓が振り返る。
 その瞳には、絶対的な拒絶があった。

「お前は詩織を散々に傷つけた。それだけで十分だ。これ以上彼女に関わる資格はない」

 皓が部屋を出て行った後、橘は一人布団に残された。
 自分の行為の醜さ、身勝手さを、これでもかと突きつけられて。

(俺は……詩織を愛していたんじゃ……なかったのか……?)

 橘は枕に顔を埋め、初めて心の底から後悔した。



 重い瞼をゆっくりと開けると、見慣れた月読家の天井があった。

 体中が痛い。特に胸の奥が、まるで空っぽになったような感覚がする。
 でも、生きている、みたいだ。橘先輩を救うことができて、私も生きて帰ってこられた。

「……詩織!」

 低い声が聞こえて、顔を向ける。
 傍らに座っていたのは、皓様だった。

「皓様……!」

 嬉しくて、思わず微笑みかける。
 でも皓様の表情は、いつもと違っていた。紫色の瞳が、鋭く私を見つめている。

「……君に、まずは話がある」

 皓様の声は冷たく、感情を抑え込んでいるように聞こえた。
 その声色に、少しぞわりと背筋が震える。

「あの……橘先輩は……?」
「生きている。君のおかげでな」

 皓様の口調に、なぜか棘がある。
 でも、先輩が助かったのなら……。

「よかった……」

 心の底から安堵して、涙が滲んできた。

「本当によかったです。先輩が元に戻って……」
「よかった?」

 皓様の声が、さらに低くなった。

「君は、自分が三日間も意識を失っていたんだぞ。それを『よかった』と言うのか?」
「三日間……?」

 驚いて皓様を見上げる。
 そんなに長い間、眠っていたの?
 ……でも、確かに体がほとんど動かない。

「生命力を使いすぎて、生死の境を彷徨っていた。医者も『助からないかもしれない』と言っていたほどだ」
「……そ、そんな……」
「事の重大さがわかったか――」
「す、すみません……! 皓様に、看病の手間などおかけして……!」

 私はなんとか体を起こし、頭を下げようとする。
 だけど、やはり体が動かなかった。目を伏せて、その代わりにするしかない……。

「……ッ!」

 皓様が立ち上がった。
 その瞳に宿る光は、明らかに怒りの色をしている。

「……本気で言っているのか、君は……」
「な、何が……です……?」

 皓様のその声は、氷のように冷たかった。
 私は思わず身を縮こまらせる。

「君は……自分の命をなんだと思っている!」

 皓様が怒鳴った。
 今まで見たことのない、激しい怒りだった。私は怖くて、布団を握りしめる。

「あの男一人のために、君が死んでもよかったと言うのか!」
「そ、そんな……死ぬつもりは、ありませんでした……」
「結果的に死にかけた! それで『よかった』だと? あまつさえ、心配するのは私の看病の手間か!?」

 皓様の怒りが、まるで嵐のように私を襲う。
 なぜ、こんなに怒られているのか分からない。

「あ、の……ごめん、なさい……」

 皓様が私を見下ろす。
 その視線が怖くて、涙が溢れてきた。

「……君の命は、そんなに軽いものなのか? 死にかけたということに、恐怖はないのか!」
「ひ……」

 皓様の声が、部屋に響いた。
 私は怖くて、小さく震える。

(死にかけたという、こと……? それ、は……)

 ――怖くは、ない。
 私は不思議と、そう思っていた。
 だけどそれを口に出す勇気はなかった。

「君が死ねば、私はどうなる? 君を守ろうとしている私の気持ちは、どうでもいいのか?」
「そんな、ことは……っ」

 皓様の瞳が、私を射抜く。
 言葉が出てこない。

「君は自分の命を、他の誰よりも軽く見ている。それが分からないのか……?」

 皓様の言葉は……わかるようで、わからなかった。
 私は、自分の命は大切だ。それはきっと間違いない。粗末にするつもりもない。
 だけどそれでも、死ぬことに恐怖はないのだ。もっと恐ろしいこと。それは――
 
(皓様は……私が、嫌いになったの……?)

 怖い。彼に嫌われたと思うととても、怖い。
 皓様がこんなに怒るなんて、初めてだった。

「皓様……」

 震える声で呼びかける。

「私……私、何か悪いことをしましたか……?」

 子供のような声になってしまった。
 皓様の怒りが怖くて、まるで小さな子供に戻ったみたいだった。

「嫌われて……しまったんですか……?」

 涙が頬を伝い落ちる。
 皓様の表情が、一瞬動揺したように見えた。
 皓様の怒りが怖くて、私はただ泣くことしかできない。

「ご、ごめんなさい……」

 なぜ謝っているのか、自分でもよく分からない。
 でも、皓様に怒られるのが怖くて、謝るしかなかった。

「ごめんなさい……皓様ぁ……」

 涙が止まらない。
 子供の頃、義母様に怒られた時のように、ただひたすら謝り続ける。

 皓様に嫌われてしまったら、私はどうすればいいのだろう。
 この世界で、皓様だけが私を愛してくれているのに。

「私……私、分からないんです……何が悪かったのか……」

 正直な気持ちを口にする。
 本当に分からなかった。橘先輩を救うことが、どうして悪いことなのか。

 その瞬間、皓様の表情が変わった。
 怒りが消え、代わりに深い悲しみと驚きのような色が浮かんだ。

「詩、織……」

 皓様の声が、震えている。

「君は――本当に、分からないのか……」
「? は、はい……」

 私は素直に頷いた。
 嘘をついても仕方がない。本当に、何が悪かったのか理解できないのだから。

 皓様が、ゆっくりと布団の傍らに腰を下ろした。
 その表情は、もう怒りではなく、深い後悔に満ちていた。

「……すまない、詩織」

 皓様が頭を下げた。その姿に、私は驚く。

「皓様……?」
「私が間違っていた。君を怒るべきではなかった」

 皓様の声に、自分を責めるような響きがある。

「君は……何も悪くない」
「でも……」
「君は長い間、自分の価値を認められずに育った」

 皓様が私を見つめる。
 その瞳には、深い同情があった。

「だから、自分と他人の命を同じように大切だと感じることができない。それは君の責任ではない」

 皓様の手が、そっと私の頬に触れる。

「……しかし、まさかここまで重症とは思っていなかった。安易に叱れば済むようなものではなかったな」

 その言葉に、胸の奥が痛んだ。

「私……私、おかしいんですか……?」
「おかしくない」

 皓様が首を振る。

「君は傷ついているだけだ。そして、その傷を癒すのは私の役目だ」

 皓様が私を抱きしめてくれた。
 その腕の中で、ようやく安心できた。バクバクと鳴っていた心臓が、緩やかになっていく。

「君の命は、誰よりも大切なんだ。それを君自身が理解できるまで、私が教え続ける」

 皓様の声が、私の心に染み込んでいく。

「もう二度と、君が自分の命を投げ出したりしないように。私が、教え続ける」

 その優しい声に、涙が溢れてきた。
 でも今度は、怖さではなく安堵の涙だった。

「皓、様……?」
「ゆっくりでいい。君の歩調で、君自身を大切にすることを覚えていこう」

 皓様が私を離し、優しく、泣きそうな顔で微笑んだ。

「……まずは体を治すか。詩織、私の霊力を分けてやる」
「え?」

 皓様の霊力を、私に?
 そんなことができるのだろうか?

「君は生命力と霊力をひどく消耗している。霊力を直接注入することで、回復を早められる」

 皓様が私の手を取る。
 その手は、いつもより少し震えているような気がした。

「霊力の注入には、直接的な接触が必要だ」
「直接的……?」

 皓様の顔が、私に近づいてくる。呼吸が感じられるほどに。
 その距離が縮まるにつれて、私の鼓動はますます激しくなった。

(え……え……!?)

 皓様の顔が、すぐ目の前にある。
 長い睫毛、整った鼻筋、そして……。

「詩織」

 私の名前を呼ぶ声が、囁くように近い。
 皓様の唇が、ゆっくりと私に向かってくる――。


★あとがき
皓様が怖かった方、すみません!
ただ皓様も怒るの無理ないと思うんですよね……
詩織ちゃんを守るためにいろいろやってるのに目を離したら本人が(ほぼ)自殺しようとしてるんだから……
以降はこんなに怒ることはないので、安心してください