「女性に手を上げる輩は許せない質でね。悪いが容赦はしないぜ」

 飛燕様の声には、いつもの軽薄さの代わりに、怒りが込められていた。
 空中に浮かんだその姿は、まさに救世主のように見える。

「飛燕様……どうして、ここに……?」
「まぁ、ある筋から連絡があってな。詩織ちゃんに何かあったかもしれないって」

 飛燕様は松の霊弓を構え直し、橘先輩を見下ろした。

「おい、そこのお兄さん。彼女から離れろ」

 橘先輩は飛燕様を見上げて、獣のような唸り声を上げた。
 その瞳の赤い光は、さらに激しくなっている。

「邪魔をするなぁ……! 詩織は俺のものだ!」
「随分ないい草だ。人をモノ扱いするのはよくないぜ」

 飛燕様が霊弓を引き絞る。
 松の霊気を纏った矢が、弦の上で光を放った。

「詩織ちゃん、そこから離れろ」
「でも……」
「ウガアアァァァッ!!」

 私が躊躇していると、橘先輩が叫びながら飛燕様に飛びかかっていく。
 猪のような突進を、飛燕様は軽やかに空中で回避する。

「遅いな。もう少し頭を使えよ」

 空中で避けながら、飛燕様が矢を放つ。
 松の光を纏った矢が、橘先輩の足元に突き刺さった。爆発的な霊気が辺りに散らばる。

「ぐあああっ!」

 橘先輩が苦悶の声を上げて膝をつく。
 その隙に、飛燕様が空中から舞い降りてきた。

「詩織ちゃん、こっちだ」

 飛燕様が私の手を取った。――直後、その翼の飛行能力で、私たちは宙に浮く……!

「きゃあぁっ!?」

 突然の浮遊感に、思わず飛燕様にしがみついてしまう。
 一瞬にして地面が遠のくのが視界の端に見える。
 
「あー……その、詩織ちゃん。なかなかすごい格好だな……」
「え?」

 格好……?
 言われて改めて自分を見下ろすと、制服はあちこち破れ、血や砂で汚れていた。
 セーラー服の袖は破れて肩が見えているし、スカートにも大きな裂け目が入っていた。

「……っ! す、すみません……! 汚してしまって……」
「いや、汚れは別にいいんだが……まぁ、うん。これは俺が悪い。セクハラだったな……」

 ゴニョゴニョ言っている飛燕様を尻目に、私は恥ずかしさで顔を両手で覆った。
 こんな格好を、男の人に見られるなんて……!

「悪い、これを着ていてくれ」

 飛燕様が慌てたように言いながら、自分の上着を脱いだ。
 空中で器用にバランスを取りながら、私の肩にかけてくれる。

「これで少しはマシだろ」
「ありがとう、ございます……」

 飛燕様の上着は男性物だからか大きくて、私の体をすっぽりと包んでくれた。
 松の花の香りがほのかに漂って、安心感に包まれる。

「しかし、よくそんな状態まで戦ったな。無茶にも程があるぞ」

 飛燕様の声に心配の色が滲む。

「あいつは完全におかしくなってる。呪詛花札の影響だな」
「やっぱり……」

 私は下を見下ろした。
 橘先輩が立ち上がり、空中の私たちを見上げて吠えている。もはや人間の声ではない。

「先輩……」

 胸が痛む。
 あんなに優しかった先輩が、私のせいであんな姿に……。

「詩織ちゃん、あいつはもう手遅れだ」

 飛燕様の声が重くなった。

「呪詛花札の浸食がここまで進むと、元に戻るのは不可能だ。奴はこのまま、おそらく……」
「ど、どうなるのですか?」
「札鬼化する」

 その言葉に、私の体が震えた。

「札鬼に……なってしまうんですか? 人間が……!?」
「ああ。そうなったらもう救えない。討伐するしかなくなる」

 飛燕様が霊弓を構え直す。
 その表情は、先程まで慌てていた方とは別人だった。花札使いとしての、真剣な――ともすれば冷酷な顔。

「でも……でも、まだ……」
「詩織ちゃん」

 飛燕様が私を見た。
 その瞳には、優しさと同時に厳しさが宿っている。

「君の気持ちは分かる。でも現実を見ろ。あいつはもう……」

 その時だった。
 下から、異様な雄叫びが響いてきた。

「うおおオオおおっ……!」

 見下ろすと、橘先輩の体が変化し始めていた。
 筋肉が異常に膨張し、手足が太く短くなっていく。
 顔が大きく伸びて、鼻が潰れ、牙が生えてきている……。

「嘘……」

 私は息を呑んだ。
 橘先輩が、本当に化け物になっていく……。

「札鬼化が始まったな……もうアイツは後戻りできない」

 橘先輩の体が、見る見るうちに変化していく。
 人間の面影は薄れ、巨大な猪のような姿になっていった。理性的な言葉は消え、獣の唸り声だけが響いている。

「ウウゥゥウウ……!」
「た、橘先輩の姿が……!?」
「これで完全に札鬼だ。素質があったのか、あるいは渡された札が特別強かったのか」

 飛燕様が霊弓に本格的な霊力を込め始める。
 その矢尻が、鋭い殺気を放っていた。

「詩織ちゃん、目を逸らしていろ。すぐに片付ける」
「ま、待ってください……!」

 私は飛燕様の腕を掴んだ。

「まだ、救う方法があるかもしれません」
「詩織ちゃん……」

 飛燕様が困ったような表情を浮かべる。

「気持ちは分かるが、あれはもう橘じゃない。札鬼になった以上、討伐するしかないんだ」
「でも、完全に札鬼化してから、まだ時間が経っていません……!」

 私は下を見つめながら、冷静に状況を分析した。

「田中先生の事件の時、生徒たちは催眠状態でしたが、私の『桜に幕』で正気に戻りました。先輩も、もしかしたら……」
「その時とは状況が違う」

 飛燕様が首を振る。

「催眠と札鬼化は別物だ。札鬼になってしまったら、もう元の人格は残っていない」
「それでも」

 私は飛燕様を真っ直ぐ見つめた。

「可能性がゼロではないなら、試してみる価値があります」

 飛燕様の瞳に、驚きの色が浮かんだ。

「君は……本気で言っているのか?」
「はい」

 私は頷いた。迷いはない。

「私は……花札使いです。救えるかもしれない人を、見捨てるわけにはいきません」
「詩織ちゃん……奴は自分から札を手に取った。しかも詩織ちゃんを傷つけた男だろ?」
「……でも、元々は優しい人だったんです」

 私は飛燕様の手を離し、空中で身を翻した。

「きっと、呪詛花札の呪詛を払えば……元に戻るはずなんです!」
「君まで死ぬぞ! 札鬼の力は人間の比ではない。『桜に幕』でも、完全には防げないかもしれない!」
「分かっています」

 私は微笑んだ。……でも下手な表情だったかもしれない。顔の筋肉が固まっている気がする。

「それでも、私は……自分の力で救える人を救いたいんです」

 下から、札鬼と化した橘先輩の咆哮が響いてくる。
 その声に、もう人間の面影はない。

「飛燕様。お願いがあります」
「何だ?」
「援護を、いただけませんか。私一人では、さっきと同じことになってしまいますから……」

 飛燕様の表情が苦渋に歪んだ。
 当然だ。彼にとってはまるで理のない行動に付き合わされるのだから。
 申し訳なさで胸が詰まる。……だけど、それでも。

「……わかったよ。君にこれ以上傷をつけたら、皓にブチギレられるしな」
「す、すみません……そして、ありがとうございます……!」

 私は飛燕様の上着を羽織り直し、地上に向かって降下を始めた。
 『桜に幕』の力で、自分の体をそっと地面に降ろしていく。

「詩織ちゃん! 油断するなよ!」

 飛燕様の声が上から聞こえてくる。

 札鬼と化した橘先輩が、私を見つけて雄叫びを上げた。
 巨大な体躯から放たれる威圧感は、確かに人間のものではない。
 かつて戦った札鬼とも違う。暴力的で、抗いきれない恐怖感。しかし……。


「先輩」

 私は『桜に幕』の力を解放し始める。
 桜色の光が、私の握る木刀を包み込んでいく。

「必ず、元に戻してみせます」
「――グオオォォオオッ!」

 札鬼と化した橘先輩が、私を見つけて突進してきた。
 猪のような巨体から繰り出される突撃は、人間離れした破壊力を持っている。
 まともに受け止めれば、能力を使っても破られるだけだ。

「はっ!」

 私は横に飛んで突進を回避し、同時に木刀を構える。
 月読家での訓練で、激しく動く相手への対処は何度も練習していた。

 札鬼は勢い余って木に激突し、幹を粉々に砕く。
 その隙を、私は見逃さなかった。

「そこだ……!」

 木刀に桜の光を纏わせ、札鬼の背中に向かって振り下ろす。
 光る刃が、札鬼の体表を薄く切り裂いた。

「グオオオオッ!」

 札鬼が苦痛の雄叫びを上げて振り返る。
 その瞳の奥で、一瞬何かが光ったような気がした。

(先輩の意思は、きっとまだ残ってる……!)

 希望を抱いた瞬間、札鬼の巨大な腕が薙ぎ払ってきた。

「危ない!」

 上空から飛燕様の矢が飛んできて、札鬼の腕を弾く。
 松の霊気を込めた矢が、札鬼の動きを一瞬止めた。

「飛燕様……」
「援護はしてやる! でも、あんまり危なかったら、先に札鬼を仕留めるからな!」

 飛燕様の声には、明らかな諦めが混じっている。

「これまで札鬼化した人間を元に戻せた例は、一度もないんだ!」
「それでも……!」

 私は再び木刀を構える。
 札鬼が体勢を立て直し、今度は慎重に間合いを測ってきた。
 獣の本能で、私の実力を測っているかのようだ。

「先輩、聞こえますか? 私です、詩織です!」

 呼びかけながら、私は木刀を振るった。
 桜の光の軌跡が、札鬼の足を掠める。浄化の力を込めた一撃。

「グッ……!」

 札鬼が低い唸り声を上げる。
 でも、人間の反応は見えない。

「そらよっ!」

 飛燕様の矢が、札鬼の側面に突き刺さった。
 爆発的な霊気が炸裂し、札鬼がよろめく。

「見ろ、もう意識なんて残っちゃいない! 早く決着をつけよう!」
「まだです!」

 私は札鬼との距離を詰めた。
 危険な行為だが、浄化の力を直接触れさせるには近づくしかない。

 札鬼の腕が、私を狙って振り下ろされる。
 私は木刀で受け、『桜に幕』の防御力でその威力を相殺した。

「は、あ……ああっ!」

 受け流しから反撃に転じる。
 木刀の切っ先を札鬼の胸部に当て、桜の光を流し込む。

「くらえっ……!」

 桜色の光が、札鬼の体内に浸透していく。
 汚れた霊気を洗い流し、本来の姿を取り戻させる力。

「グアアアアッ!」

 札鬼が悶え苦しみ、暴れ回る。
 その動きが一瞬、人間的な苦悩を含んでいるように見えた。

「効いてる……?」

 でも、次の瞬間札鬼の反撃が来た。
 巨大な足が、私の脇腹を蹴り飛ばす。

「う゛っ……!」

 体の奥がひしゃげたような感覚――とともに、私は数歩後ずさる。
 だけど今の衝撃。本来なら、意識を持っていかれてもおかしくはなかった。どうして、この程度で済んでるんだろう……。

(……! あれは……)

 見ると、飛燕様の矢が札鬼の足に突き刺さっている。
 あれのおかげで勢いが消え、軽い打撲程度で済んだのだろう。

「ありがとうございます……!」
「もう十分だろ! 諦めよう!」

 飛燕様が苛立ちを隠さずに叫ぶ。

「いくら浄化しても、札鬼の核は変わらない! 人格なんてとっくに消えてるんだ!」
「でも……」

 私は立ち上がり、再び木刀を構える。
 確かに、完全な浄化はできていない。でも、わずかに反応があった。

「もう一度……今度はもっと強く……!」

 札鬼が再び突進してくる。
 今度は、真正面から受け止めてみせる。そうしないと、最大の浄化を当てられない!

(皓様がいつも見せてくださる、あの美しい技……)

 皓様の技、「月華一閃」を思い出す。
 月光のように静謐で、それでいて圧倒的な力を持つ、皓様の奥義。

 私にも、できるはず。
 桜の力で、皓様のように――

「先輩……!」

 木刀が桜色の光に包まれ、まるで光の剣のようになった。
 その美しさは、まさに満開の桜のよう。

「!? 詩織ちゃん、まずいぞ。力を込め過ぎだ! 君の霊力がなくなっちまうぞ!」

 飛燕様の叫びを背後に、札鬼の突進が迫る。
 私は深く息を吸い、心を静めた。
 大丈夫。たとえ力を使い果たしたとしても――。

 そして――

「――桜花……一閃!」

 木刀を振り下ろす。
 
 桜の光が一筋の線となって札鬼を貫いた。まるで桜吹雪が一瞬で散るように、美しく、そして圧倒的な力を持って。

 時が止まったような静寂。

 札鬼の巨体が、ゆっくりと光に包まれていく。
 桜色の光が、全身を優しく包み込んでいった。

「グ……グルル……」

 札鬼の唸り声が、だんだん小さくなっていく。
 そして、その巨大な体が縮み始めた。

「まさか……」

 上空の飛燕様が、信じられないという顔をしている。

 猪のような特徴が消え、人間の輪郭が戻ってくる。
 筋肉の異常な膨張も収まり、顔も元の形に戻っていく。

「先、輩……」

 ついに、橘先輩が人間の姿に戻った。
 地面に倒れ込み、静かに呼吸をしている。

「成功した……本当に成功したのか……」

 飛燕様が空中で呆然としている。

「前例がない……札鬼化した人間を、元に戻すなんて……」
「あ……」

 私はそこで全身の力を使い果たして、その場に崩れ落ちる。
 木刀が手から滑り落ち、地面に音を立てて転がった。

「はあ……はあ……」
「おいおいおい! 詩織ちゃん、大丈夫かよ!?」

 息も絶え絶えで、もう立ち上がることもできない。
 視界がぼやけて、意識が遠のいていく。

「だから言ったろ、霊力を使いすぎだ! このままじゃ――」
(でも、よかった……私、先輩を助けられたみたいで……)

 安堵で涙が溢れてくる。
 間に合った。先輩を、元に戻すことができた。
 それを確認した直後――意識の糸が緩み、私は地面に倒れ込む。

「詩織ちゃん!」

 遠くで飛燕様の声が聞こえる。
 でも、その声も次第に遠くなっていく。
 桜の花びらが、私の周りに静かに舞い落ちていた。