その夜、私は月読家の自室で一人考え込んでいた。

 橘先輩の件を、皓様に相談するべきか――。
 昨日の暴力事件のこと、ストーキングのこと、全てを話すべきなのだろうか。

 でも、皓様は朝から十二家の緊急会議に出席しているそうだ。
 影沼の新しい作戦により、帝都各地で札鬼の発生が相次いでいるらしい。
 飛燕様も、今日は遠方の討伐任務に向かったと聞いた。

(皓様も、飛燕様も、帝都の平和のために戦っていらっしゃる……)

 襖越しに聞こえてくる使用人の方たちの慌ただしい足音。
 きっと、皓様の帰りが遅くなることの連絡や、新たな緊急事態への対応に追われているのだろう。
 そんな中で、私が過去の男性関係のことで相談なんて……。

(私のせいで皓様のお仕事に支障が出るなんて、絶対にダメだ)

 私は膝の上で手を握りしめた。
 そうだ。私はもう、守られるだけの存在ではない。
 田中先生の事件では、自分の力で友達を救った。『光の幕』の力を習得し、皓様にも認めてもらった。
 だから、今度も――。

(橘先輩の件は、私が解決する)

 私は顔を上げた。
 橘先輩は確かに怖かったけれど、元は優しい人だった。きっと話せば分かってもらえるはず。

(……それに、私の『桜に幕』の力があれば、先輩を正気に戻せるかもしれない)

 皓様が帰っていらしたら、きちんと解決済みだとご報告できるように……。

 決意を固めた私は、明日の作戦を考え始めた。
 放課後、橘先輩と二人きりで話す機会を作る。
 そして、『桜に幕』の力で先輩の心に宿る暗いものを払う。

 簡単ではないかもしれない。でも、やってみる価値はある。
 私にだって、できることがあるはずだ。



 翌日の学校は、相変わらず居心地が悪かった。

 廊下を歩くたび、ひそひそ声が聞こえてくる。
 昨日の橘先輩との一件は、もう学校中の知るところとなっていた。

「如月さん、橘先輩に何されたのかしら」
「橘さんは生徒指導室に呼ばれてたって聞いたわよ」
「いやねぇ、揉め事ばかりで……」

 嫌な憶測の声に、胸が痛む。
 でも、今日で全てを解決するのだ。そう自分に言い聞かせて、授業に集中しようとした。


 その昼休み、美咲ちゃんが心配そうに声をかけてくれた。

「詩織、本当に大丈夫? なんか元気ないよ」
「ありがとう、美咲ちゃん。大丈夫」

 私は精一杯の笑顔を作った。

「今日、橘先輩とちゃんと話してくるから」
「え? でも危険じゃない……? 昨日、大変だったんでしょ?」
「大丈夫。橘先輩だって、少し興奮してるだけで……きちんとお話しすれば分かってもらえると思うの」

 美咲ちゃんは不安そうな表情を浮かべたが、私の決意を感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。

「気をつけてね。何かあったら、すぐに先生を呼ぶのよ」
「うん、ありがとう」



 放課後。私は橘先輩の居場所を確認した。
 今日は部活動がないので、先輩はまっすぐ帰宅するらしい。

 校門で待っていると、やがて先輩の姿が見えた。
 一人で歩いてくる先輩は、どこか様子がおかしい。足取りがふらついていて、時々立ち止まって頭を振っている。

(やっぱり、先輩は何かに影響されている……?)

 私は深呼吸をして、先輩に声をかけた。

「橘先輩」

 先輩がゆっくりと顔を上げる。
 その瞳に一瞬、赤い光が宿ったような気がした。

「詩織……」

 先輩の声は掠れていて、いつもの爽やかさは微塵もない。

「お話があります。少しだけ、お時間をいただけませんか?」
「話……?」

 先輩の表情が変わった。
 まるで獲物を見つけた獣のような、危険な光が瞳に宿る。

「ああ、そうだな。俺も、君と話したいことがあった」

 先輩は私の腕を掴もうとしてくる。
 咄嗟に身を引いて、掴まれないように避けた。

「落ち着いて、話しましょう。こちらです」

 私は先輩を、学校裏の小さな公園に案内した。
 放課後で人通りは少ないが、完全に孤立した場所ではない。何かあれば、助けを呼ぶことができる。
 ベンチに座ろうとした瞬間、先輩が私の手首を掴んだ。

「っ……!」
「詩織、やっと二人きりになれた」

 その握力が、昨日よりもさらに強い。
 まるで、人間離れした力のように感じられた。

「橘先輩……手が痛いです」
「あ……? あ、あぁ。すまない」

 先輩の瞳が、確実に赤く光っている。
 そして、その目つきは完全に正気を失っていた。
 ……同時に、彼の手に触れてわかった。今の感覚は――!

(これは……呪詛花札の影響!?)

 直感的に理解した。
 橘先輩は、何者かによって呪詛花札を渡されたのだ。

「先輩、落ち着いてください。最近何か、変なものを渡されませんでしたか?」
「変なもの? ……これのことか?」

 先輩が懐から取り出したのは、一枚の花札だった。
 萩の花と、その前を駆ける猪が描かれている。

「『萩に猪』……」

 私は息を呑んだ。
 確実に呪詛花札だった。猪の絵柄が不気味に脈動し、暗い気を放っている。

「これは素晴らしい札だ。これがあると、目標に向かって集中できるんだよ。疲れも感じずにね」

 先輩の笑みが、狂気じみて見える。

「そして、君を彼の魔の手から救い出せる」
「先輩、その札は危険です。捨ててください」
「危険? 危険なのは月読の方だ!」

 先輩が立ち上がり、私を見下ろす。
 その威圧感に、思わず後ずさりしてしまった。

「詩織、俺と一緒に来るんだ。今すぐに」
「……先輩。その札を捨てて、私の話を聞いてください」

 私は懸命に説得を試みた。
 でも、先輩の瞳に宿る赤い光は、ますます強くなっていく。

「話? もう話すことなどない。俺が君を、安全なところに連れて行く。それだけだ」

 先輩が一歩近づく。
 その時、先輩の体から猪のような獣臭が漂ってきた。
 呪詛花札の影響、なのだろうか……?

「橘先輩……」

 もう、話し合いでは解決できない。
 私は震える手を懸命に抑え、彼の胸に触れた。

(呪詛花札の影響を、浄化するんだ……!)

 心の中で自分に言い聞かせる。
 『桜に幕』には、邪悪なものを祓う力がある。呪詛の影響を受けた先輩を、元の優しい人に戻せるはず……!

「詩織、こっちに来い!」

 先輩が私に飛び掛かってきた。
 その動きは、まさに猪のように直線的で力強い。
 ……到底理性的な人間の行動とは思えないけど……!

「『桜に幕』よ……!」

 私は咄嗟に力を解放した。
 桜色の光が私を包み、先輩に向かって広がっていく。
 温かく、優しい光。全てを包み込み、癒すための光……!

「ぐあっ……!」

 先輩が光に触れて、苦悶の表情を浮かべる。
 一瞬、その瞳から赤い光が消えたような気がした。

「先輩! 大丈夫ですか!?」

 私は慌てて駆け寄ろうとした。
 でも、それが間違いだった。

「だま、される、か……!」

 先輩の手が、鞭のように私の腕を打った。
 呪術的な力が込められた一撃に、私は小さな悲鳴を上げて転倒する。

「あっ……!」

 膝を地面に打ちつけて、制服のスカートに土がついた。
 擦りむいた膝から、血が滲んでいる。

「何をしたか知らないけど、そんなもので俺の決意が揺らぐと思ったのか!」

 先輩の声が、低く唸るように響く。
 立ち上がった先輩は、さっきより一回り大きく見えた。
 呪詛花札の力が、より強く全身を包んでいるように見える……。

「詩織、大人しく俺についてこい。そうすれば、痛い思いをしなくて済む」
「嫌、です……!」

 私は立ち上がろうとしたが、膝の痛みで思うようにいかない。
 それでも、諦めるわけにはいかなかった。

「先輩を、このままにしておくわけにはいきません! 取り返しのつかないことになってしまいます……!」

 再び『桜に幕』の力を集中する。
 今度はより強く、より深く。先輩の心の奥底に巣食う呪詛を、完全に払い除けるために!

「無駄だ!」

 先輩が地面を蹴って突進してくる。
 猪突猛進という言葉そのままの、一直線の攻撃。

 私は慌てて桜の光で防壁を作った。
 紅と紺。二層の光の壁が、先輩の突進を受け止める。

 しかし――

「うああっ!?」

 先輩の怪力が、私の防御を破った。
 光の壁が砕け散り、その衝撃で私は再び倒れる。

「がふっ……!」

 今度は背中から地面に叩きつけられた。
 肺から空気が押し出されて、息ができない。
 セーラー服の背中部分が破れたのか、砂の感触と冷たい空気が肌に触れる。

「は……ぐ、っ……」

 必死に呼吸を整えながら、私は這うようにして先輩から離れようとした。
 でも、足に力が入らない。

「もう逃げられないぞ、詩織」

 先輩がゆっくりと近づいてくる。
 その足音が、まるで死神の足音のように聞こえた。

(どうして……私の力が、通じないの……?)

 『桜に幕』は確実に発動している。でも、先輩にかかった呪詛を完全に払うことができない。
 私の力が足りないのか、それとも呪詛花札の力が強すぎるのか……。

「先、ぱ……げほっ……!」

 先輩の名を呼ぼうにも、さっき打ち付けた背中が痛む。
 その衝撃が体を巡っているのか、咳が出てまともに喋れない……。
 一方で、先輩の瞳の赤い光は、ますます激しくなっていた。

「大丈夫か、詩織……かわいそうに……コんなひどいコトに」

 先輩が私の前に膝をついた。
 その目は、私を見ているようで見ていない。私の負傷が、自分のやったことだとも認識できていないようだ。
 そして、乱暴に私の顎を掴む。

「うぐ……!」
「月読に洗脳される前の、本当の君を取り戻してやる」

 顎を掴む手に力が込められて、涙が溢れてくる。
 昔の優しい先輩は、もうどこにもいない。

「泣くな。俺が、俺が俺が俺が君を幸せにしてやるんだ……!」

 先輩のもう一方の手が、私の頬に向かって伸びてくる。
 その手に込められた異常な執着を感じて、全身が震え上がった。

 先輩の顔が、私に近づいてくる。
 その瞬間――

「おいおい、淑女に乱暴は感心しないな」

 軽やかな声が響いた。

 空から降ってきたのは、矢だった。
 霊気を纏った矢が、先輩と私の間の地面に突き刺さる。先輩が慌てて飛び退いた。

「誰だ、貴様ァ!」
「飛燕、様……?」

 見上げると、宙に浮かんだ飛燕様の姿があった。
 その背には光で象られた翼。弓を構えて、こちらを見下ろしている。

「よう、詩織ちゃん。加勢するぜ」

 飛燕様が、私に微笑みかける。
 直後に、射抜くような視線を橘先輩に向けた……。