「――影沼の残党が、一般人に呪詛花札を配り始めた」

 東屋での会話。昨日の夕方、飛燕様が運んできた報告が頭の中で蘇る。
 普段の軽薄な調子はなりを潜め、真剣な表情で皓様に報告していた。

「各地で小規模な札鬼の発生が相次いでいる。最初は偶発的なものかと思ったが、調べてみると全て呪詛花札が使われた形跡があった」
「呪詛花札を? 影沼の残党が直接動いたのか?」
「いや、それが妙なんだ。札を使ったのは全て一般人だった。しかも、呪詛花札の扱い方なんか知るはずのない素人ばかりだ」

 飛燕様の報告を聞きながら、皓様の表情がどんどん険しくなっていったのを覚えている。

「つまり、影沼が一般人に札を渡しているということか」
「その通りだ。憎しみ、嫉妬、執着……そういった負の感情を抱いている者を狙い撃ちにして、呪詛花札を配っている」
「一般人を巻き込むとは……影沼も堕ちたものだな」

 そのとき皓様の声に込められた怒りは、普段の冷静な彼からはかけ離れていたようにも思える。

「目的は何だと思う?」
「おそらく、帝都全体を混乱に陥れることだろう。札鬼が大量発生すれば、我々十二家も対応に追われる」
「そして?」
「そうして詩織を孤立させる算段だ」
「……っ!」

 その時、皓様が私を見た。
 紫色の瞳に宿った光は、鋭く、そして心配に満ちていた。

「俺たちが各地の札鬼対応に追われている隙に、詩織を月読家から引き離そうという魂胆だろう」

 ……そうだった。
 結局、全ては私が原因なのだ。桜花の血を引く私を、影沼は執拗に付け狙ってくる。
 そのせいで、皓様も飛燕様も危険な目に遭うことになるのだ……。




 今朝も早くから、皓様は十二家の当主たちによる緊急会議、というものに出かけていった。
 飛燕様も、帝都各地での札鬼討伐に向かったと聞いている。

(みんな、私のせいで忙しくなって……)

 月読家の庭を歩きながら、胸が重くなる。
 美しく手入れされた庭園も、今日はどこか寂しく見えた。

「詩織様」

 使用人頭の方が現れて、恭しく頭を下げる。

「お時間でございます。学校への迎えの準備ができております」
「あ……っ、ありがとうございます」

 私は振り返り、屋敷を見上げた。
 皓様は朝早くに出かけて行ったから、今日は顔を合わせることもできなかった。

(早く帰ってきてくださいますように……)

 そんな祈りを込めて、私は月読家を後にした。



 学校に着くと、何となく周りの視線が気になった。

 廊下を歩いているとき、同じクラスの女子たちがひそひそと話しているのが聞こえる。
 私の方を見ながら、何かを囁き合っている。

(……何かあったのかしら?)

 不安になりながら教室に入ると、美咲ちゃんが心配そうな顔で駆け寄ってきた。

「詩織、大丈夫?」
「え? どうして?」
「橘先輩のこと……」

 美咲ちゃんが声を小さくする。

「昨日、詩織と話してるの見た子がいるんだって。なんか、すごく険悪な雰囲気だったって」
「あ……」

 昨日の橘先輩との会話を思い出し、表情が曇る。
 あの後、私は怒って帰ってしまった。きっと、その様子を見ていた人がいたのだろう。

「それだけじゃないの」

 美咲ちゃんがさらに声を潜める。

「橘先輩、なんか変なの。一人でぶつぶつ言いながら歩いてるのを見たって子もいるし……」
「……そう、なの」

 胸が痛む。
 橘先輩がおかしくなったのは、私のせいだ。
 私が皓様と婚約したことで、先輩を混乱させてしまったのかもしれない。

「詩織、何かされたりしてない? もし変なことされたら、すぐに先生に言うのよ」
「大丈夫よ、美咲ちゃん。心配してくれてありがとう」

 私は無理に笑顔を作った。
 でも、心の中では不安が膨らんでいく。
 このまま橘先輩の行動がエスカレートしたら、どうなってしまうのだろう……。

 授業中も、なかなか集中できなかった。
 窓の外を見ながら、皓様のことを考える。

(皓様は今頃、札鬼と戦っていらっしゃるのかしら……)

 影沼の新しい作戦のせいで、皓様たちは各地を飛び回っている。
 そんな忙しい皓様に、橘先輩のことで相談するなんて……。

(……相談なんてできない。皓様にご迷惑をおかけできない)

 自分の不甲斐なさに、涙が滲みそうになる。
 せっかく一端の花札使いになったと言ってもらえたのに、結局私は皓様に守られて、迷惑をかけてばかりだ……。

 昼休みになっても、食欲が湧かなかった。
 美咲ちゃんと一緒にどうにかお弁当を口に運びながら、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
 ……申し訳なさが重なってくる。月読家の皆さんが、せっかく私のために作ってくれたおいしい食事なのに。

「詩織、本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
「ちょ、ちょっと疲れてるだけ。心配しないで」

 またも作り笑いで誤魔化す。
 美咲ちゃんは納得していない様子だったけれど、それ以上は追及してこなかった。

 ――そんな時だった。
 教室の入り口に、橘先輩の姿が現れたのは。

「詩織」

 先輩の声が、教室に響いた。
 一瞬で、クラス中の視線が私に集まる。

「あっ……橘、先輩」

 私は慌てて立ち上がった。
 先輩の表情は、昨日にも増して険しく見える。

「ちょっと話がある。外に出てくれ」

 有無を言わせぬ口調。
 周りの生徒たちが、興味深そうに私たちを見ている。

(また、変な噂が立ってしまう……)

 でも、ここで断るわけにもいかない。
 私は美咲ちゃんに「すぐ戻るから」と小声で言い、橘先輩の後について教室を出た。

 廊下を歩きながら、背中に突き刺さる視線を感じていた。
 きっと、みんな好奇心でいっぱいになって見ているのだろう。

 恥ずかしさと申し訳なさで、顔が熱くなった。



 先輩は私を人気のない校舎の裏まで連れて行った。

 昨日と同じ場所。でも、今日の先輩は昨日以上におかしかった。
 髪は少し乱れ、目には異様な光が宿っている。
 まるで、一晩中眠らなかったかのような顔色……。

「詩織、あの男について調べたよ」

 先輩がいきなり口を開いた。
 その声は興奮を抑えきれないような響きがある。

「調べたって……」
「昨日、君を送っていった車を追跡したんだ」
「……!?」

 私の血の気が引いた。
 まさか、先輩は月読家まで来ていたの……!?

「屋敷を見てきた。あそこは異常だ、詩織」

 先輩が一歩近づく。
 その瞳に宿る光が、どこか狂気じみて見えて、私は思わず後ずさりした。

「高い塀に囲まれて、警備員が何人もいる。まるで要塞みたいだった」
「それは……」

 声が震える。
 ……私の護衛のために、警備員は一時的に増えている。彼はそれを見たのだろう。

「詩織、君は監視されているんだ。あの男に」
「違います! 皓様は私を守るために……っ」
「囚人を守るようにか!?」

 先輩の声が大きくなる。
 その目は、もはや私を見ているようで見ていない。

「君は洗脳されているんだ! あの男の正体を知れば、きっと目が覚める!」
「先輩、お願いです。こんなことはやめて……」

 私は震える声で訴えた。

「皓様に迷惑をかけないでください」
「迷惑? 迷惑をかけているのはあの男の方だ!」

 先輩が怒鳴った。
 その瞬間、私の肩を掴んできた。

「!? い、痛いっ……!」

 先輩の手に込められた力が強くて、肩に鈍い痛みが走る。
 しまった……鞄は教室においてきてしまった。護身用の木刀も手元にない……!

「詩織、目を覚ませ! 俺が君を救ってやる!」
「離してください!」

 私は必死に身をよじったが、先輩の握力は想像以上に強い。
 恐怖で涙が溢れてきた。

「俺と一緒に来るんだ! 今すぐあの屋敷から逃げ出そう!」
「いやです! 離して!」

 先輩がもう片方の手で私の腕を掴もうとする。
 痛い。怖い……!
 完全にパニック状態になった私は、大声で叫んでしまった。

「――助けて! 誰か……!」
「し、詩織!? 静かに! 君のためなんだ……!」

 先輩が私を抱きしめるように引き寄せようとした時——

「何をしている!」

 厳しい声が響いた。
 振り返ると、国語の田村先生が立っていた。

「橘! 如月さんから離れなさい!」

 先生の怒鳴り声に、先輩の手が緩む。
 私は慌ててその隙に逃れ、先生の後ろに隠れた。

「先生……」

 安堵で膝が震える。
 もう少し遅かったら、どうなっていたことか。

「橘、君は一体何をしているんだ?」

 田村先生の声は、怒りに震えていた。

「如月が嫌がっているのが見えないのか?」
「先生、これは誤解です。俺は詩織を……」
「誤解もなにも、暴力じゃないか!」

 先生が橘先輩と私の間に立ちはだかる。

「如月、怪我はないか?」
「だ、大丈夫です……」

 でも、肩がまだ痛んでいた。
 きっと、あざになっているだろう。目の端の涙を拭う。

「橘、君は生徒指導室に来なさい。このような行為は看過できない」
「先生、俺は詩織を助けようと……」
「言い訳は聞かない! すぐに来い!」

 田村先生の迫力に押されて、橘先輩は渋々歩き始める。
 でも、振り返りざまに私を見る目は、まだ諦めていない光を宿していた。

「詩織、これで終わりじゃない。俺は必ず君を……」
「橘!」

 先生の一喝で、先輩はようやく口を閉じた。

「……うう……」

 二人が去った後、私はその場に座り込んでしまった。
 全身の力が抜けて、立っていられない。

(なんでこんなことに……)

 橘先輩。ああなってしまったからには、たぶん先生に何を言われても止まりはしないだろう。
 彼の行動は明らかに激化している。私が対応を間違えたから……?
 かつて好きだったはずの人の好意が、こんなに怖くなるだなんて……。

(皓様……)

 皓様の顔を思い浮かべる。
 今頃、札鬼と戦っているかもしれない皓様。
 そんな方に、こんな恥ずかしい事態を報告するわけにはいかない……。

(私が、なんとかしないと……)

 でも、どうやって……。自己嫌悪と苦しさで胸が潰れそうだった。
 一人では解決できそうにない。でも、皓様に相談するのも申し訳ない。

 座り込んだまま、私はただ胸の前で拳を握るしかなかった。
 校舎の向こうから聞こえてくる生徒たちの声が、やけに遠く感じられた……。

■(橘視点)

 生徒指導室を出たとき、俺の心は怒りで煮えたぎっていた。

 田村のやつ、何も分かっていない。
 俺が詩織を助けようとしているのに、まるで俺が悪者みたいな扱いをしやがって。

 説教は三十分は続いた。
 「女子生徒への暴力は許されない」だの「ストーカー行為は犯罪だ」だの、聞き飽きた正論ばかり。

(俺はストーカーじゃない。詩織を守ろうとしているだけだ!)

 あの月読とかいう男の正体を暴き、詩織を救い出そうとしているだけなのに。

「畜生……」

 校門を出ながら、俺は拳を握りしめた。
 詩織の泣き顔が頭から離れない。あんなに怯えて、助けを求めていた。

(きっと、普段から月読に脅されているんだ。だから俺が助けようとしても、恐怖で正常な判断ができなくなっているんだな)

 可哀想な詩織。
 純粋で優しい詩織が、あんな得体の知れない男に騙されて……。

「許せないな……」

 呟いた言葉が、夕暮れの空に消えていく。
 
 俺は歩きながら、今日見た月読家の屋敷を思い出していた。
 異様に高い塀。厳重な警備。まるで何かを隠しているような雰囲気。

 絶対に怪しい。
 普通の家なら、あんな警備は必要ない。

(でも、どうやって詩織を救い出せばいいんだ……? 力ずくで連れ出そうとしても、あの警備じゃあな……)

 詩織もまだ完全に洗脳されている状態だし、明日からは教師の目も厳しくなるだろう。
 学校でいくら話しても埒が明かなそうだ。

 ――そうして途方に暮れながら歩いていると、後ろから声をかけられた。

「お悩みのようですね」

 振り返ると、そこには上品な身なりをした中年の男性が立っていた。
 黒い洋装に身を包み、どこか知的な雰囲気を漂わせている。
 ハットを目深にかぶっており、その目は見えない。ただニヤニヤとした口元の笑みがハッキリと見えていた。

「誰ですか?」
「失礼。通りがかりの者です」

 男はハットを押さえながら、丁寧に頭を下げた。

「ですが、あなたの苦悩が手に取るように分かります。愛する女性を、悪い男に奪われてしまったのでしょう?」
「……なんで、それを」
「お顔に書いてありますよ」

 男が微笑む。
 その笑みには、どこか人を引きつける魅力があった。

「――月読皓という男のことでしょう?」
「!?」

 俺は驚いて男を見つめた。
 なぜこの人が、月読皓の名前を知っているんだ?

「やはり。あの男に騙された方は、あなたの恋人だけではありません」
「騙された?」
「ええ。月読皓は表向きは名家の跡取りですが、実は……」

 男が声を潜める。

「裏の世界で暗躍する、危険な人物なのです」
「やっぱり……!」

 俺の予感は当たっていた。
 あの男は絶対に怪しいと思っていたんだ。

「詳しく教えてください」
「ここでは人目があります。少し場所を変えましょう」

 男に導かれて、俺は近くの公園に向かった。
 人気のないベンチに座ると、男は懐から小さな袋を取り出した。

「これを見てください」

 袋の中には、一枚の花札が入っていた。
 萩の花と、その前を駆ける猪が描かれている。

「これは?」
「特別な札です。これを持てば、月読皓の正体を暴くことができます」
「本当ですか!?」

 俺は身を乗り出した。
 ついに、あの男の化けの皮を剥がす方法が見つかったのか。

「ただし」

 男の表情が真剣になる。

「これは危険な品でもあります。使い方を間違えると、あなた自身にも害が及ぶかもしれません」
「構いません」

 俺は即答した。

「詩織を救うためなら、何だってやります」
「そうですか……フフ」

 男が満足そうに頷く。

「では、使い方をお教えしましょう」

 男が札の使い方を説明し始める。
 俺はその一言一句を、必死に記憶した。

 これで、ついに月読皓の正体を暴ける。
 詩織を、あの男の魔の手から救い出せる。

「ありがとうございます!」

 俺は札を大切に受け取った。
 その瞬間、札がほんの少し温かく感じられたような気がした。

「頑張ってください。愛する人のために」

 男はそう言い残すと、夕闇の中に消えていった。

 俺は札を見つめる。
 『萩に猪』。猪のように勇猛に、真っ直ぐに突き進む。
 詩織を救うために。

「待ってろ、詩織。必ず助けてやる」

 俺は札を胸ポケットにしまい込んだ。
 今度こそ、あの男の正体を白日の下に晒してやる。