田中蛭次の事件から一週間が経った。
学校では、例の誘拐騒動はあっけなく収束していた。
行方不明になっていた生徒たちは全員無事に発見され、「家出騒動」として処理された。
本人たちも記憶が曖昧で、詳しいことは覚えていないという。
おそらく、月読家や十二家による記憶処理の力なのだろう。
一般の人たちが花札使いや札鬼の存在を知ることは、混乱を招くだけだから。
そんな平穏を取り戻した昼休み、私は美咲ちゃんと一緒に中庭のベンチに座っていた。
「ねえ、詩織」
お弁当を食べながら、美咲ちゃんがこちらを見る。
いつもの人懐っこい笑顔だけれど、その瞳には何か探るような光があった。
「なあに?」
「あの事件……結局、詩織がなんとかしたんでしょ?」
ぎくりとする。
でも、以前の私なら慌てて俯いてしまっていただろうその質問に、今なら冷静に答えられるはずだ……!
「ど、ど、どうしてそう思うの?」
「ああ、うん。確信したわ、今ので……」
「なんでっ……!?」
「だって、あの時さ。気がついたら、詩織が私の手を握ってくれてて……」
美咲ちゃんは苦笑いしながらも、少しずつ目を閉じる。以前の記憶を思い出そうとしているかのように。
「あの時、詩織の手がすごく温かくて。なんていうか、安心したの。『詩織が守ってくれてるんだ』って」
「美咲ちゃん……」
鋭い直感に驚く。
美咲ちゃんは花札使いではないし、霊感が特別強いわけでもない。
それでも、あのときのことを断片的に覚えているみたいだった。
「詩織が私たちを助けてくれたんでしょ? よくわかんないけど、そんな気がするの」
「……ううん。私は、ちょっと手伝っただけだから」
それを聞いた美咲ちゃんは、むしろ余計に嬉しそうに笑った。
「詩織、なんか変わったよね。いい意味で」
「変わった?」
「うん。前はいつも俯いてて、なんか怯えてるみたいだったけど……最近は背筋がピンと伸びてるし、ちゃんと前を向いてる感じ!」
美咲ちゃんの言葉に、胸が温かくなる。
確かに、以前とは違う。義母様や撫子に虐げられていた頃の私とは、何もかもが変わった。
皓様に出会い、守られ、愛され……そして、自分の力で大切な人を守ることができるようになった。
「それに、綺麗になったよ」
「え?」
「前から可愛かったけど、なんていうか最近……輝いてる? 感じがする!」
「えええっ……!?」
美咲ちゃんがくすくすと笑う。私は顔も耳も熱かった。な、なんで急にそんなこと……!?
「もしかして、彼氏でもできた?」
「あ……っ!? そ、その……」
彼氏、というより婚約者なのだけれど。
とはいえ、そんなことは言えない。余計に混乱を招きそうだ。
「やっぱり! 詩織の顔真っ赤だよ! どんな人? 歳上? 格好いい?」
「え、えっと……」
「絶対素敵な人でしょ! だって詩織、すっごく幸せそうだもん」
その言葉に、私は思わず微笑んでいた。
幸せ。
そう、確かに私は今、幸せだった。
辛い過去も、まだ残る不安も、全部ひっくるめて、今の私は幸せなのだろう。
「うん……とても、素敵な方よ」
「ふふっ、詳しいことはまた今度聞かせてね」
美咲ちゃんが満足そうに頷く。
そして、いつものように話題を変えた。
「そういえば、撫子ちゃん最近見ないけど、どうしたのかな?」
その名前に、私の表情が曇る。
撫子は、あの事件以来学校を休んでいる。皓様の話では、家に引きこもって出てこないとのことだった。
「体調を……崩してるみたい」
「そっかあ……心配だね」
美咲ちゃんは純粋に心配している。
撫子がどんなことをしたのか、美咲ちゃんは知らないから。
私も、複雑な気持ちだった。
撫子を恨んでいないわけではない。でも、憎みきることもできない。
だけど、まだ顔を合わせるのは怖い……。彼女が学校に来ていないのは、ある意味幸いと言えたかもしれない。こんなことを考えるのは、いけないことだろうけど……。
「詩織?」
「あ、うん! 何……?」
こうして美咲ちゃんと他愛のない話をしていると、自分が普通の女学生に戻れたような気がした。
花札使いとしての私も、月読家の花嫁としての私も、どちらも大切。
だけど、友達と笑い合うこんな時間も、同じくらい大切なのだと思った。
■
その日の放課後、私は月読家に帰った。
もう「帰る」という言葉が自然に出てくる。
如月家ではなく、ここが私の居場所なのだと、心の底から思えるようになっていた。
玄関で靴を脱ぐと、使用人の方が恭しく迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、詩織様」
「ただいま帰りました」
とはいえ、使用人の方が丁寧に頭を下げてくれる姿には未だに慣れない。
つい、こちらも深々と頭を下げてしまう。
「皓様は書斎でお仕事中でございます。お茶の時間にお呼びするよう仰せつかっております」
「ありがとうございます」
私は自分の部屋で制服から着物に着替えた。
淡い桃色の小紋。月読家で用意してもらった着物の中でも、特に気に入っている一着だ。
鏡の前で帯を締めながら、ふと自分の変化に気づく。
顔色が良くなった。
髪にも艶が出て、瞳にも生気がある。
美咲ちゃんの言う通り、確かに以前とは違う自分がそこにいた。
(これも、皓様のおかげだわ)
胸が温かくなる。
皓様に出会わなければ、私は今でも如月家で惨めな思いをしていただろう。
それどころか、美津子様に殺されていたかもしれない……。
(……いやなことを考えるのはやめよう。皓様を心配させてしまう)
時間になり、私は庭に向かった。
今日は天気が良いので、庭でお茶をいただくことになっている。
月読家の庭は、まるで絵画のように美しい。
手入れの行き届いた松の木、色とりどりの花々、静かに水を湛える池。
その中央に設えられた東屋で、皓様が待っていてくれた。
「皓様。お待たせいたしました」
「ああ、お帰り」
皓様は書類から顔を上げ、私を見た。かけていた眼鏡を外す。
(眼鏡……珍しいお姿……)
いつにも増して理知的に見えるその姿に、胸がきゅんと締めつけられる。
「学校はどうだった?」
「は……はい! みんな、もうすっかり普通に戻っています」
私は皓様の向かいに座り、使用人の方が運んでくれたお茶を受け取る。
煎茶の香りが、夕日に染まる庭に広がった。
「それと……美咲ちゃんが、私の変化に気づいていました」
「ほう」
「詳しいことは聞かれませんでしたけれど……『守ってくれた』って言ってくれました」
皓様は茶碗を口元に運びながら、小さく頷いた。
「君が成長した証拠だな」
「そう……でしょうか?」
「以前の君なら、そんな風に堂々と称賛を受け入れることはできなかっただろう」
皓様の言葉に、頬が熱くなる。
褒められることには、まだ慣れない。
だけど確かに、美咲ちゃんの感謝をきちんと受け取ることができたのは、間違いなく進歩と言えた。
「それに」
皓様が茶碗を置き、私をじっと見つめた。
「君は美しくなったな」
「え……」
(み、美咲ちゃんと同じことを……?)
思わず顔を上げる。
皓様の紫色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「内面の輝きが、外見にも表れている。君は実に、美しい女性になった」
「そ、そんな……」
慌てて俯く。
心臓が早鐘を打っている。
「皓様が、そうしてくださったんです。その、服も、綺麗ですし」
「違う」
皓様の声が、少し近くなった。
見ると、いつの間にか私の隣に座っている。
「君自身の美しさだ。服も私も、ただそれを支えただけだ」
皓様の手が、そっと私の頬に触れる。
冷たいはずの手が、今は温かい。
「詩織」
「は、はい……」
見つめる皓様の瞳から、目が離せない。
夕日に照らされた皓様の横顔が神秘的に美しい。
(し、心臓が弾けそう……)
私が目をギュッと強くつむった、その瞬間――
「よお、皓! いるかー!」
突然、豪快な声が庭に響き渡った。
「!」
私は慌てて皓様から離れる。
彼の表情が、一瞬で冷たいものに変わった。
「……飛燕か」
「おっ! そこにいたか皓ー!」
溜息混じりに呟く皓様。
その声には、明らかな苛立ちが込められていた。
庭の向こうから現れたのは、茶色の髪をした快活そうな青年だった。
月読家の使用人の案内を振り切るように、軽やかな足取りでこちらに向かってくる。
「よう、皓! 忙しいところ悪いな」
(飛燕……というと、この方が)
松平飛燕様――皓様から聞いていた、十二家の一つ『松平家』の当主。
『松に鶴』の異能を持つ花札使いで、今回の誘拐事件でも海上での救出作戦を担当してくれた。
「報告があるなら書面で済むだろう」
皓様の声は、明らかに迷惑そうだった。
でも飛燕様は気にした様子もなく、にこやかに笑っている。
「まあそう言うなよ。大事な話なんだから――って、おお」
飛燕様の視線が、私に向けられた。
その瞳が、興味深そうに輝く。
「これが噂の月読の嫁か」
飛燕様はあっけらかんとそう言うと、私の前に歩み寄った。
「初めまして、如月詩織さん。松平飛燕だ」
「あ、は、初めまして……」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。
飛燕様は私の手を取ると、軽やかにお辞儀をした。
「いやあ、皓の野郎、随分と美人を捕まえたもんだ」
「飛燕……」
皓様の声に、警告の響きが混じる。
でも飛燕様は全く気にしていない。
「なあ、詩織ちゃん。こんな堅物と一緒にいて退屈しないか? 俺なんてどうだ、もっと楽しい男だぞ?」
「は、はあ……」
どう答えていいか分からず、困惑する。
すると皓様が立ち上がり、飛燕様と私の間に割って入った。
「用件を聞こう、飛燕」
その声は、氷のように冷たかった。
さっきまでの優しい皓様とは、まるで別人のよう。
「おおっと、怖い怖い」
飛燕様は両手を上げて苦笑する。
「そんなに睨まなくても、取って食ったりしないよ。ただ、皓の嫁がどんな女性か気になっただけさ」
そして、私を見て悪戯っぽく笑う。
「でも確かに、この美人なら皓が独占したがるのも分かるな」
「……っ」
皓様の拳が、小さく握られた。
その様子を見て、飛燕様がくつくつと笑う。
「冗談だよ、冗談。そんなに嫉妬するなって」
「嫉妬などしていない」
「はいはい、分かったよ」
飛燕様は肩をすくめると、ようやく真面目な顔になった。
「じゃあ、本題に入ろうか。詩織ちゃんもいることだし、一緒に聞いてもらった方がいいかもな」
「わ、私も……ですか?」
その言葉に、私と皓様は顔を見合わせた。
嫌な予感がする。
「何があった?」
皓様の問いに、飛燕の表情が引き締まった。
「影沼の動きがあった。本格的に、な」
■
翌日の昼休み、私は一人で中庭を歩いていた。
昨日の飛燕様の話が、頭から離れない。
影沼家の暗躍。それがおそらく、私たちを狙ってくる……。
(また、戦いが始まるのかしら……)
今は青い葉をつけた桜の木の下で立ち止まり、空を見上げる。
空に白い雲が浮かんでいて、平和そのものに見える。
でも、その裏側では危険な陰謀が渦巻いているのだろうか。
「詩織」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、橘先輩が立っていた。
「橘先輩……?」
久しぶりに見る先輩の顔は、どこか疲れているように見えた。
以前のような爽やかな笑顔はなく、困ったような表情を浮かべている。
「ちょっと、話がしたいんだ。時間はあるか?」
「は、はい」
私は頷いた。
先輩は周りを見回してから、人気のない校舎の陰へと歩いていく。私もその後に続いた。
「詩織、なんで最近剣道部に来ないんだ? その、もしかして俺が……」
開口一番、先輩はそう尋ねた。
その声には、明らかな心配の色が込められている。
「いえ、退部したんです。いろいろと、事情がありまして……橘先輩とは関係ありませんので、ご心配なさらず」
「事情って何だ? 君は剣道が好きだったじゃないか!」
先輩が一歩近づく。
その瞳には、焦りのような感情が宿っていた。
「それに、最近はすぐに帰っているみたいだし……どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、体調は大丈夫です。ただ……」
言葉を濁す。
月読家での訓練や花札使いとしての活動のことは、到底説明できない。
「詩織」
先輩が私の肩に手を置いた。
その手は温かかったけれど、私にはどこか重く感じられた。
「俺、撫子と別れたんだ」
「……え?」
予想外の言葉に、目を見張る。
「どうして……」
「あいつ、変わってしまったんだ。いつもイライラしてて、人の悪口ばかり言うようになって」
先輩の表情が暗くなる。嫌なことを思い出しているようだ。
「特に、君のことになると異常だった。『お姉様が』『あの女が』って、聞いていて気分が悪くなるくらいだ」
「……」
撫子の心の傷は、まだ癒えていないのだろう。
あの事件で受けた恐怖と屈辱が、憎しみとなって私に向けられている……。
……情けない。それを聞いて未だに、心の奥で……怖いと、思ってしまう。
「それで、気づいたんだ」
先輩が私を真っ直ぐ見つめた。
「俺が本当に好きだったのは、君だったんだって」
「橘先輩……?」
「詩織、もう一度付き合ってくれないか? 今度は、絶対に君を大切にする!」
真剣な眼差しで、先輩は私を見つめている。
以前の私なら、きっと心が揺れただろう。初恋の相手からの、二度目のアプローチ。
でも今は、違った。
「申し訳ありません。私には、もう婚約者がいるんです」
「婚約者……!?」
先輩の顔が青ざめた。
まるで、信じられないものを見るような表情。
「嘘だろう? 詩織が、そんな……俺たち、別れて一月ほどじゃないか!」
「本当です。月読皓という方と、婚約させていただいています」
「月読……」
先輩が眉をひそめる。
「聞いたことがある名前だな。確か、帝都の守護者とか呼ばれている名家の……」
「はい。とても立派な方です」
「でも、おかしいじゃないか」
先輩の声に、苛立ちが混じり始める。
「そんな名家の跡取りが、どうして詩織なんかと……」
「……なんか、ですか?」
私の声が、少し冷たくなった。同時に、自分自身がその声に驚く。
以前はこんなふうに軽んじられたって、胸の痛みを無視するだけだったのに。
先輩は慌てたように手を振る。
「い、いや、そういう意味じゃない。詩織は素晴らしい女性だ。でも、身分が違いすぎるだろう?」
「身分……」
「考えてもみろよ。帝都の名門中の名門と、如月家じゃ格が違う。そんな男が、本気で詩織を愛するわけがないじゃないか」
先輩の言葉が、胸に突き刺さる。
……その通りだ。月読家と如月家では、確かに身分が違う。
「きっと何か下心があるんだ。詩織の見た目に目をつけて、愛人にでもするつもりなんじゃないのか?」
「そんな、ことは……」
「詩織は純粋だから、そういう男の本性が見抜けないんだよ」
先輩が一歩近づく。
その瞳に宿る光は、もはや心配を通り越して何か別のものになっていた。
「その男、詩織に手を出したりしてないだろうな? 名家の跡取りなんて、どうせ女遊びが激しいに決まってる」
「……やめてください」
私の声が震えた。
皓様への侮辱を、これ以上聞いていられない。
「皓様は、そんな方ではありません」
「皓様だって? もう随分と懐いてるじゃないか」
先輩が嘲笑うように言った。
「詩織、君は騙されてるんだ。そんな男に本気になっちゃダメだ」
「……違います!」
私は声を上げた。
周りにいた生徒たちが、こちらを振り返る。
「皓様は、私を……愛してくださっています。こんな私を守ってくださる、素晴らしい方なんです」
「大げさだな。まあ、大人の口先だけなら何とでも言えるだろ?」
先輩の言葉に、怒りが込み上げてくる。
皓様がどれだけ私のために戦ってくださったか、この人は何も知らない。
「俺が、君をその男から守ってやるから……」
「お断りします」
私は踵を返した。ざわざわする胸の内を、なんとか鎮めようとする。
「皓様を侮辱する方とは、お話しすることはありません」
「詩織、待つんだ!」
先輩が私の腕を掴もうとする。
でも私は振り返らずに、そのまま歩き続けた。
「俺は諦めないからな……! 絶対に、その怪しい男の正体を暴いてやる!」
学校では、例の誘拐騒動はあっけなく収束していた。
行方不明になっていた生徒たちは全員無事に発見され、「家出騒動」として処理された。
本人たちも記憶が曖昧で、詳しいことは覚えていないという。
おそらく、月読家や十二家による記憶処理の力なのだろう。
一般の人たちが花札使いや札鬼の存在を知ることは、混乱を招くだけだから。
そんな平穏を取り戻した昼休み、私は美咲ちゃんと一緒に中庭のベンチに座っていた。
「ねえ、詩織」
お弁当を食べながら、美咲ちゃんがこちらを見る。
いつもの人懐っこい笑顔だけれど、その瞳には何か探るような光があった。
「なあに?」
「あの事件……結局、詩織がなんとかしたんでしょ?」
ぎくりとする。
でも、以前の私なら慌てて俯いてしまっていただろうその質問に、今なら冷静に答えられるはずだ……!
「ど、ど、どうしてそう思うの?」
「ああ、うん。確信したわ、今ので……」
「なんでっ……!?」
「だって、あの時さ。気がついたら、詩織が私の手を握ってくれてて……」
美咲ちゃんは苦笑いしながらも、少しずつ目を閉じる。以前の記憶を思い出そうとしているかのように。
「あの時、詩織の手がすごく温かくて。なんていうか、安心したの。『詩織が守ってくれてるんだ』って」
「美咲ちゃん……」
鋭い直感に驚く。
美咲ちゃんは花札使いではないし、霊感が特別強いわけでもない。
それでも、あのときのことを断片的に覚えているみたいだった。
「詩織が私たちを助けてくれたんでしょ? よくわかんないけど、そんな気がするの」
「……ううん。私は、ちょっと手伝っただけだから」
それを聞いた美咲ちゃんは、むしろ余計に嬉しそうに笑った。
「詩織、なんか変わったよね。いい意味で」
「変わった?」
「うん。前はいつも俯いてて、なんか怯えてるみたいだったけど……最近は背筋がピンと伸びてるし、ちゃんと前を向いてる感じ!」
美咲ちゃんの言葉に、胸が温かくなる。
確かに、以前とは違う。義母様や撫子に虐げられていた頃の私とは、何もかもが変わった。
皓様に出会い、守られ、愛され……そして、自分の力で大切な人を守ることができるようになった。
「それに、綺麗になったよ」
「え?」
「前から可愛かったけど、なんていうか最近……輝いてる? 感じがする!」
「えええっ……!?」
美咲ちゃんがくすくすと笑う。私は顔も耳も熱かった。な、なんで急にそんなこと……!?
「もしかして、彼氏でもできた?」
「あ……っ!? そ、その……」
彼氏、というより婚約者なのだけれど。
とはいえ、そんなことは言えない。余計に混乱を招きそうだ。
「やっぱり! 詩織の顔真っ赤だよ! どんな人? 歳上? 格好いい?」
「え、えっと……」
「絶対素敵な人でしょ! だって詩織、すっごく幸せそうだもん」
その言葉に、私は思わず微笑んでいた。
幸せ。
そう、確かに私は今、幸せだった。
辛い過去も、まだ残る不安も、全部ひっくるめて、今の私は幸せなのだろう。
「うん……とても、素敵な方よ」
「ふふっ、詳しいことはまた今度聞かせてね」
美咲ちゃんが満足そうに頷く。
そして、いつものように話題を変えた。
「そういえば、撫子ちゃん最近見ないけど、どうしたのかな?」
その名前に、私の表情が曇る。
撫子は、あの事件以来学校を休んでいる。皓様の話では、家に引きこもって出てこないとのことだった。
「体調を……崩してるみたい」
「そっかあ……心配だね」
美咲ちゃんは純粋に心配している。
撫子がどんなことをしたのか、美咲ちゃんは知らないから。
私も、複雑な気持ちだった。
撫子を恨んでいないわけではない。でも、憎みきることもできない。
だけど、まだ顔を合わせるのは怖い……。彼女が学校に来ていないのは、ある意味幸いと言えたかもしれない。こんなことを考えるのは、いけないことだろうけど……。
「詩織?」
「あ、うん! 何……?」
こうして美咲ちゃんと他愛のない話をしていると、自分が普通の女学生に戻れたような気がした。
花札使いとしての私も、月読家の花嫁としての私も、どちらも大切。
だけど、友達と笑い合うこんな時間も、同じくらい大切なのだと思った。
■
その日の放課後、私は月読家に帰った。
もう「帰る」という言葉が自然に出てくる。
如月家ではなく、ここが私の居場所なのだと、心の底から思えるようになっていた。
玄関で靴を脱ぐと、使用人の方が恭しく迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、詩織様」
「ただいま帰りました」
とはいえ、使用人の方が丁寧に頭を下げてくれる姿には未だに慣れない。
つい、こちらも深々と頭を下げてしまう。
「皓様は書斎でお仕事中でございます。お茶の時間にお呼びするよう仰せつかっております」
「ありがとうございます」
私は自分の部屋で制服から着物に着替えた。
淡い桃色の小紋。月読家で用意してもらった着物の中でも、特に気に入っている一着だ。
鏡の前で帯を締めながら、ふと自分の変化に気づく。
顔色が良くなった。
髪にも艶が出て、瞳にも生気がある。
美咲ちゃんの言う通り、確かに以前とは違う自分がそこにいた。
(これも、皓様のおかげだわ)
胸が温かくなる。
皓様に出会わなければ、私は今でも如月家で惨めな思いをしていただろう。
それどころか、美津子様に殺されていたかもしれない……。
(……いやなことを考えるのはやめよう。皓様を心配させてしまう)
時間になり、私は庭に向かった。
今日は天気が良いので、庭でお茶をいただくことになっている。
月読家の庭は、まるで絵画のように美しい。
手入れの行き届いた松の木、色とりどりの花々、静かに水を湛える池。
その中央に設えられた東屋で、皓様が待っていてくれた。
「皓様。お待たせいたしました」
「ああ、お帰り」
皓様は書類から顔を上げ、私を見た。かけていた眼鏡を外す。
(眼鏡……珍しいお姿……)
いつにも増して理知的に見えるその姿に、胸がきゅんと締めつけられる。
「学校はどうだった?」
「は……はい! みんな、もうすっかり普通に戻っています」
私は皓様の向かいに座り、使用人の方が運んでくれたお茶を受け取る。
煎茶の香りが、夕日に染まる庭に広がった。
「それと……美咲ちゃんが、私の変化に気づいていました」
「ほう」
「詳しいことは聞かれませんでしたけれど……『守ってくれた』って言ってくれました」
皓様は茶碗を口元に運びながら、小さく頷いた。
「君が成長した証拠だな」
「そう……でしょうか?」
「以前の君なら、そんな風に堂々と称賛を受け入れることはできなかっただろう」
皓様の言葉に、頬が熱くなる。
褒められることには、まだ慣れない。
だけど確かに、美咲ちゃんの感謝をきちんと受け取ることができたのは、間違いなく進歩と言えた。
「それに」
皓様が茶碗を置き、私をじっと見つめた。
「君は美しくなったな」
「え……」
(み、美咲ちゃんと同じことを……?)
思わず顔を上げる。
皓様の紫色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「内面の輝きが、外見にも表れている。君は実に、美しい女性になった」
「そ、そんな……」
慌てて俯く。
心臓が早鐘を打っている。
「皓様が、そうしてくださったんです。その、服も、綺麗ですし」
「違う」
皓様の声が、少し近くなった。
見ると、いつの間にか私の隣に座っている。
「君自身の美しさだ。服も私も、ただそれを支えただけだ」
皓様の手が、そっと私の頬に触れる。
冷たいはずの手が、今は温かい。
「詩織」
「は、はい……」
見つめる皓様の瞳から、目が離せない。
夕日に照らされた皓様の横顔が神秘的に美しい。
(し、心臓が弾けそう……)
私が目をギュッと強くつむった、その瞬間――
「よお、皓! いるかー!」
突然、豪快な声が庭に響き渡った。
「!」
私は慌てて皓様から離れる。
彼の表情が、一瞬で冷たいものに変わった。
「……飛燕か」
「おっ! そこにいたか皓ー!」
溜息混じりに呟く皓様。
その声には、明らかな苛立ちが込められていた。
庭の向こうから現れたのは、茶色の髪をした快活そうな青年だった。
月読家の使用人の案内を振り切るように、軽やかな足取りでこちらに向かってくる。
「よう、皓! 忙しいところ悪いな」
(飛燕……というと、この方が)
松平飛燕様――皓様から聞いていた、十二家の一つ『松平家』の当主。
『松に鶴』の異能を持つ花札使いで、今回の誘拐事件でも海上での救出作戦を担当してくれた。
「報告があるなら書面で済むだろう」
皓様の声は、明らかに迷惑そうだった。
でも飛燕様は気にした様子もなく、にこやかに笑っている。
「まあそう言うなよ。大事な話なんだから――って、おお」
飛燕様の視線が、私に向けられた。
その瞳が、興味深そうに輝く。
「これが噂の月読の嫁か」
飛燕様はあっけらかんとそう言うと、私の前に歩み寄った。
「初めまして、如月詩織さん。松平飛燕だ」
「あ、は、初めまして……」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。
飛燕様は私の手を取ると、軽やかにお辞儀をした。
「いやあ、皓の野郎、随分と美人を捕まえたもんだ」
「飛燕……」
皓様の声に、警告の響きが混じる。
でも飛燕様は全く気にしていない。
「なあ、詩織ちゃん。こんな堅物と一緒にいて退屈しないか? 俺なんてどうだ、もっと楽しい男だぞ?」
「は、はあ……」
どう答えていいか分からず、困惑する。
すると皓様が立ち上がり、飛燕様と私の間に割って入った。
「用件を聞こう、飛燕」
その声は、氷のように冷たかった。
さっきまでの優しい皓様とは、まるで別人のよう。
「おおっと、怖い怖い」
飛燕様は両手を上げて苦笑する。
「そんなに睨まなくても、取って食ったりしないよ。ただ、皓の嫁がどんな女性か気になっただけさ」
そして、私を見て悪戯っぽく笑う。
「でも確かに、この美人なら皓が独占したがるのも分かるな」
「……っ」
皓様の拳が、小さく握られた。
その様子を見て、飛燕様がくつくつと笑う。
「冗談だよ、冗談。そんなに嫉妬するなって」
「嫉妬などしていない」
「はいはい、分かったよ」
飛燕様は肩をすくめると、ようやく真面目な顔になった。
「じゃあ、本題に入ろうか。詩織ちゃんもいることだし、一緒に聞いてもらった方がいいかもな」
「わ、私も……ですか?」
その言葉に、私と皓様は顔を見合わせた。
嫌な予感がする。
「何があった?」
皓様の問いに、飛燕の表情が引き締まった。
「影沼の動きがあった。本格的に、な」
■
翌日の昼休み、私は一人で中庭を歩いていた。
昨日の飛燕様の話が、頭から離れない。
影沼家の暗躍。それがおそらく、私たちを狙ってくる……。
(また、戦いが始まるのかしら……)
今は青い葉をつけた桜の木の下で立ち止まり、空を見上げる。
空に白い雲が浮かんでいて、平和そのものに見える。
でも、その裏側では危険な陰謀が渦巻いているのだろうか。
「詩織」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、橘先輩が立っていた。
「橘先輩……?」
久しぶりに見る先輩の顔は、どこか疲れているように見えた。
以前のような爽やかな笑顔はなく、困ったような表情を浮かべている。
「ちょっと、話がしたいんだ。時間はあるか?」
「は、はい」
私は頷いた。
先輩は周りを見回してから、人気のない校舎の陰へと歩いていく。私もその後に続いた。
「詩織、なんで最近剣道部に来ないんだ? その、もしかして俺が……」
開口一番、先輩はそう尋ねた。
その声には、明らかな心配の色が込められている。
「いえ、退部したんです。いろいろと、事情がありまして……橘先輩とは関係ありませんので、ご心配なさらず」
「事情って何だ? 君は剣道が好きだったじゃないか!」
先輩が一歩近づく。
その瞳には、焦りのような感情が宿っていた。
「それに、最近はすぐに帰っているみたいだし……どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、体調は大丈夫です。ただ……」
言葉を濁す。
月読家での訓練や花札使いとしての活動のことは、到底説明できない。
「詩織」
先輩が私の肩に手を置いた。
その手は温かかったけれど、私にはどこか重く感じられた。
「俺、撫子と別れたんだ」
「……え?」
予想外の言葉に、目を見張る。
「どうして……」
「あいつ、変わってしまったんだ。いつもイライラしてて、人の悪口ばかり言うようになって」
先輩の表情が暗くなる。嫌なことを思い出しているようだ。
「特に、君のことになると異常だった。『お姉様が』『あの女が』って、聞いていて気分が悪くなるくらいだ」
「……」
撫子の心の傷は、まだ癒えていないのだろう。
あの事件で受けた恐怖と屈辱が、憎しみとなって私に向けられている……。
……情けない。それを聞いて未だに、心の奥で……怖いと、思ってしまう。
「それで、気づいたんだ」
先輩が私を真っ直ぐ見つめた。
「俺が本当に好きだったのは、君だったんだって」
「橘先輩……?」
「詩織、もう一度付き合ってくれないか? 今度は、絶対に君を大切にする!」
真剣な眼差しで、先輩は私を見つめている。
以前の私なら、きっと心が揺れただろう。初恋の相手からの、二度目のアプローチ。
でも今は、違った。
「申し訳ありません。私には、もう婚約者がいるんです」
「婚約者……!?」
先輩の顔が青ざめた。
まるで、信じられないものを見るような表情。
「嘘だろう? 詩織が、そんな……俺たち、別れて一月ほどじゃないか!」
「本当です。月読皓という方と、婚約させていただいています」
「月読……」
先輩が眉をひそめる。
「聞いたことがある名前だな。確か、帝都の守護者とか呼ばれている名家の……」
「はい。とても立派な方です」
「でも、おかしいじゃないか」
先輩の声に、苛立ちが混じり始める。
「そんな名家の跡取りが、どうして詩織なんかと……」
「……なんか、ですか?」
私の声が、少し冷たくなった。同時に、自分自身がその声に驚く。
以前はこんなふうに軽んじられたって、胸の痛みを無視するだけだったのに。
先輩は慌てたように手を振る。
「い、いや、そういう意味じゃない。詩織は素晴らしい女性だ。でも、身分が違いすぎるだろう?」
「身分……」
「考えてもみろよ。帝都の名門中の名門と、如月家じゃ格が違う。そんな男が、本気で詩織を愛するわけがないじゃないか」
先輩の言葉が、胸に突き刺さる。
……その通りだ。月読家と如月家では、確かに身分が違う。
「きっと何か下心があるんだ。詩織の見た目に目をつけて、愛人にでもするつもりなんじゃないのか?」
「そんな、ことは……」
「詩織は純粋だから、そういう男の本性が見抜けないんだよ」
先輩が一歩近づく。
その瞳に宿る光は、もはや心配を通り越して何か別のものになっていた。
「その男、詩織に手を出したりしてないだろうな? 名家の跡取りなんて、どうせ女遊びが激しいに決まってる」
「……やめてください」
私の声が震えた。
皓様への侮辱を、これ以上聞いていられない。
「皓様は、そんな方ではありません」
「皓様だって? もう随分と懐いてるじゃないか」
先輩が嘲笑うように言った。
「詩織、君は騙されてるんだ。そんな男に本気になっちゃダメだ」
「……違います!」
私は声を上げた。
周りにいた生徒たちが、こちらを振り返る。
「皓様は、私を……愛してくださっています。こんな私を守ってくださる、素晴らしい方なんです」
「大げさだな。まあ、大人の口先だけなら何とでも言えるだろ?」
先輩の言葉に、怒りが込み上げてくる。
皓様がどれだけ私のために戦ってくださったか、この人は何も知らない。
「俺が、君をその男から守ってやるから……」
「お断りします」
私は踵を返した。ざわざわする胸の内を、なんとか鎮めようとする。
「皓様を侮辱する方とは、お話しすることはありません」
「詩織、待つんだ!」
先輩が私の腕を掴もうとする。
でも私は振り返らずに、そのまま歩き続けた。
「俺は諦めないからな……! 絶対に、その怪しい男の正体を暴いてやる!」
