それから数分後、地下室のドアが勢いよく開かれた。

「詩織!」

 皓様が駆け込んでくる。その後ろには、月読家の使用人の方たちも続いていた。

「皓様……!」

 皓様の姿を見た瞬間、安堵で力が抜けそうになる。
 光の幕も、心の緊張と共に少しずつ薄くなり始めていた。

「無事だったか。怪我は?」
「大丈夫です。美咲ちゃんも無事で……」

 皓様は私たちの様子を確認すると、床に座り込んでいる蛭次を見下ろした。

「こいつが犯人か」
「はい。田中蛭次……先生。影沼の分家の人、らしいです」

 皓様の瞳が、氷のように冷たくなった。

「影沼の残党か。どこまでも腐った一族だ」
「月読皓……っ」

 蛭次が皓様を見上げる。その目には、まだ諦めきれない光があった。

「お、俺を捕まえても無駄だぞ。影沼本家はまだ健在だ。お前たちへの復讐は続く」
「ほう。まだ虚勢を張るか」

 皓様の声には、強い侮蔑が込められていた。

「それに、俺が売った女どもはもう手遅れだ。今頃は船の上だぞ、月読……! お前は彼女たちを守れん!」

 蛭次が下卑た笑いを浮かべる。

「特に音楽ができる娘は高値がついた。『特別な客』に気に入られるだろうよ!」

 その言葉に、私の心がざわめいた。
 行方不明になった生徒が、今どんな目に遭っているのか……。

(どうして、こんなひどいこと……)

 動揺で、光の幕がさらに薄くなっていく。

「詩織ちゃんも、本家に献上すればきっと『可愛がってもらえた』のにな。惜しいことをした」

 蛭次の、ざらついた視線が私に向けられる。

 ――その瞬間、光の幕に隙間ができた。

「……!?」
「詩織、防御を解くな!」

 蛭次はその隙を見逃さず、懐に隠していたと思われる呪詛花札を取り出す。

「死ね!」

 芒のカス札。それは蛭次の手から黒い光となって私に向かって飛んできた。
 動揺で反応が遅れる。避けられない——

「下劣な」

 銀色の光が閃いた。
 蛭次の呪詛は、皓様の一太刀によって跡形もなく消し飛ばされる。
 そして、その本身の刃は蛭次の首筋に静かに当てられていた。

「……っ」

 蛭次の顔から、血の気が引いた。皓様の殺気に、完全に萎縮している。

「残念だな。詩織に手を出した時点で、貴様の命運は完全に尽きた」
「ま、待ってくれ……俺は影沼の一族だぞ。殺せば、殺せば本家が黙っていない……ッ」
「上等だ。せいぜい仇討ちにでも来るといい。隠れ潜む虫どもを炙り出さずにすむ」

 皓様の一言で、蛭次の最後の希望も打ち砕かれた。
 彼が、刀を振り上げる。そして――

「ひ――ひいいいぃぃぃッ!!」

 ……振り下ろされた刃は、蛭次の鼻先を掠めた。
 彼は意識を失い、その場に倒れる。
 皓様が、刀を鞘に収める。殺すまでもないと判断したようだ。

 ああは言っていたが、彼はきっと影沼本家からも見捨てられるだろう。
 分家として認められたかった野望も、金への執着も、これで全て水泡に帰した。

「詩織……よくやった」

 皓様が私に振り返る。その瞳には、確かな賞賛があった。

「いえ……不甲斐ないです。途中で動揺してしまって、結局……」
「あのような下劣な言葉を聞けば、動揺するのが普通だ。君は悪くない」

 皓様の優しい言葉に、胸が温かくなる。

「それより、君は立派に戦い抜いた。花札使いとしての一歩を、踏み出したわけだ」
「……はい。ありがとう、ございます」

 その言葉が、何より嬉しかった。
 ――一方で、喜んでばかりもいられない。

「っ、そうだ! 皓様、誘拐された皆さんを……!」
「ああ。それについては、すでに手を打った。今頃、奴が動いているはずだ」
「や、やつ……?」



 同刻。帝都沖の海上。

 夜の海を切り裂いて進む一隻の貨物船があった。
 船内には、縄で縛られた三人の女学生が監禁されている。
 田村、佐藤、山田——泰平高等學校の生徒たちだった。

「もうすぐ外洋に出る。そうすれば、もう帝都の法は届かない」

 船長らしき男が部下に指示を出している。

「『商品』の様子はどうだ?」
「問題ありません。大人しくしてやがります」
「よし。お客もきっと喜んでくださるだろうな。ハハハ!」

 男たちの下卑た笑い声が、夜の海に響く。

 ――その時だった。


「おやおや、こんな夜更けに随分と楽しそうじゃないか」


 突然、船の上空から声が聞こえた。
 見上げると、月を背にして、夜空に人影が浮かんでいる。

「な、何だあれは!?」
「人が……空を飛んでいる!?」

 人身売買業者たちが騒然となる中、空中の人影がゆっくりと降下してきた。

 現れたのは、二十代半ばの男性だった。
 癖のある茶髪に、軽やかな笑みを浮かべた端正な顔立ち。
 そして背中には、まるで鶴の翼のような光の羽根が広がっている。

「初めまして、諸君。俺は松平飛燕(ひえん)。今夜は美しいお嬢さん方のお迎えに参った」

 飛燕と名乗った男が、軽やかに船のデッキに降り立つ。

「何者だ貴様! こ、ここは海だぞ、どうやって……!?」

 船長が拳銃を抜いて威嚇する。しかし飛燕は全く動じない。

「海? ああ、確かにそうだな。だが俺にとってはこの程度ひとっ飛びよ。
 ――帝都を守護する十二の礎、十二家が一人。松平家の名において、お前たちを捕縛する」

 飛燕の手に、美しい和弓が現れた。
 それは異能、『松に鶴』の力で具現化された霊弓だった。

「美しいお嬢さんは国の宝だ。それを持ち出す行為は決して許さん」

 飛燕が弓に矢をつがえる。
 その矢じりが、松の緑と鶴の白を混ぜたような美しい光を放った。

「う、撃て! 撃ち殺せ!」

 船長の命令で、部下たちが一斉に発砲する。しかし——

「遅いな」

 飛燕の姿が瞬時に消えた。
 次の瞬間には空中を縦横無尽に駆け回り、幾多の光の矢が夜の海に翻る!

「ぐああぁっ!」
「化け物か、あいつは!」

 飛燕の矢は正確に人身売買業者たちの急所を狙い、次々と無力化していく。
 殺すほどではないが、完全に戦闘不能にする絶妙な技術だった。

「ぐはっ……」
「はい、お疲れさん!」

 飛燕が最後の業者を気絶させると、船内は静寂に包まれた。
 それから、ゆっくりと船内へと入っていく。

「さて、お嬢さんたち。もう安心だ。お迎えに上がりましたよ」

 飛燕が船室に入ると、三人の女学生が怯えた目で見上げていた。
 それぞれが皆、ひどく怯えている。洗脳の効果も薄れ、ただ恐怖や飢えと戦っていたのだろう。

 その姿を見た飛燕が、目を一層細める。内なる怒りが溢れそうになった。
 ――が、すぐに軽薄な笑みを貼り付ける。

「大丈夫、俺は味方だ。もう怖がる必要はない」

 飛燕は優しい笑顔で縄を解きながら言った。

「不安だったろう? さあ、俺の胸に飛び込んでおいで!」
「…………」
「……なんだか、軟派な方ですね」
「お断りですわ!」

 縄を解かれた女生徒たちが、両腕を大きく広げた飛燕を無視して船室を去っていく。

「…………」

 ……後には、笑顔のまま硬直する飛燕だけが残された。

「……この流れでこんな冷たくされることある?」