翌朝、私は月読家の玄関で皓様に見送られていた。

「本当に大丈夫なのか?」

 皓様の声に、僅かな心配が滲んでいる。
 昨日の記憶がはっきりしない私を、学校に行かせることを迷っているのだろう。

「はい。ご心配なさらないでください」
「なら、昨日確認したことをもう一度」
「は、はい。美咲ちゃんと一緒に、一人では行動しません」
「いいだろう。だが少しでも危険を感じたら、すぐに帰ってこい」
「分かりました。……すみません、意地を張ってしまって……」

 私は頭を下げる。だけど、このまま諦めては生徒たちの救出も遅れる可能性が高い。
 それにこのままでは私は、一ヶ月前と何も変わらない。私も、皓様のお役に立ちたいのだ。
 そうしていると、皓様の手が頭に乗せられる。

「まぁ、私としても詩織の成長を見たいという気持ちはある。実戦に身を置かねば、成長するものも成長しないしな」
「あ、ありがとうございます……。皓様も、そうだったのですか?」
「ああ。私も14の頃から大量の札鬼を相手に大立ち回りをさせられたものだ……」
「えぇ……!?」

 皓様はどこか遠い目をしている。た、大変そうだ……。
 でもだからこそ、今の皓様があるのだろう。帝都の守護者と呼ばれる、最強の花札使いの姿が。

「調査のあてはあるのか?」
「はい。少しですが」

 記憶は曖昧だが、昨日美術室で何かがあったのは確かだ。
 そして、それは間違いなく行方不明事件に関わっている。手がかりは掴んでいる、はずだ……。

「それでは、行ってまいります」

 深く一礼して、私は月読家を後にした。



 学校では、美咲ちゃんが心配そうに迎えてくれた。

「詩織、昨日は大丈夫だった?」
「うん、ありがとう。月読家の皆さんに看病してもらって、だいぶ良くなったみたい」

 実際、頭痛も和らぎ、体調は回復していた。ただ、記憶だけがまだ曖昧なままだった。

「良かった。それにしても、月読家ってすごいのね。あんな立派なお屋敷に住んでるなんて。守護者って言われてるのは聞いたことあるけど、何やってる家なんだっけ?」
「えっと……代々、軍人として皆を率いていらっしゃるんだって」

 それは皓様から聞いた、表向きの月読家の職業だった。
 皓様も、花札使いとしてあちこち飛び回る傍ら、軍の大学に通っておられるようだ。
 ……その割に、結構いつも家にいらっしゃる気はするけど……。

「それにしても、あんなところに住んでるなんて。詩織ったらお姫様みたいね!」
「そ、そんなことない……! 私も毎日恐れ多くて……」
「純粋な子だねぇ……悪い大人に捕まらないようにしなよ、ほんとに」
「あ、あはは……」

 美咲ちゃんの明るい笑顔に、少し気分が軽くなる。やはり、友人がいるというのは心強い。

「そういえば……今日は何か新しい情報、入ってる?」
「そうねぇ。それが……また一人、行方不明者が出たって噂があったの」
「えっ……!」

 背筋に冷たいものが走った。
 やはり、事件は続いている。一刻も早く真相を突き止めなければ。

「でも、詳しいことはまだ分からないの。放課後に、もう少し調べてみましょう」
「そう……ね」

 私は頷いた。今度こそ、必ず事件を解決してみせる。



 それから数時間後。放課後の教室で、私は美咲ちゃんを待っていた。

 約束では、今日も一緒に図書室で情報収集をする予定だった。しかし、美咲ちゃんは現れない。

(遅いな……何かあったのかな?)

 教室の時計を見ると、約束の時間から既に三十分が過ぎていた。
 美咲ちゃんは時間を守る子だから、これは少し変だ。

 その時、誰かが教室のドアをノックした。

「失礼します」

 現れたのは、一年生の女子生徒だった。

「如月先輩でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですが」
「美咲先輩からお手紙を預かりました」

 差し出された封筒を受け取る。美咲ちゃんの字で「詩織へ」と書かれていた。

「あ……ありがとうございます」

 一年生が去った後、私は急いで手紙を開いた。

『詩織
 急用ができました。旧校舎の地下室で待っています。
 すぐに来てください。一人で。
 美咲』

 短い文面だったが、何かただならぬ雰囲気があった。
 筆跡は乱れており、美咲ちゃんらしからぬ冷たい文章だ。

(一人で……どうして……?)

 疑問と同時に警戒心が湧く。何かがおかしい。
 ……だけど、美咲ちゃんが困っているのなら放っておけない。私は急いで旧校舎に向かった。


 旧校舎は既にほとんど使われておらず、薄暗い廊下が続いている。
 地下室への階段を降りながら、嫌な予感が胸を締め付けた。

(皓様に連絡した方が……でも、そうしている間に美咲ちゃんに何かあったら)

 迷ったが、友人の緊急事態を優先することにした。
 地下室のドアの前に立ち、恐る恐るノックする。

「美咲ちゃん? 詩織よ」

 返事はない。しかし、ドアは僅かに開いていた。中を覗くと——

「美咲ちゃん!」

 薄暗い地下室の奥で、美咲ちゃんが椅子に縛り付けられていた。目は閉じられ、意識を失っているようだ。

「やっと来たね、詩織ちゃん」

 その椅子の背後に、田中先生が立っていた。
 しかし、昨日までの優しい表情はどこにもない。冷たく、計算高い笑みを浮かべている。

「田中……先生……?」

 ドアが音を立てて閉まった。地下室に、私と美咲ちゃん、田中先生だけが残される。

「さあ、今度こそゆっくりと話をしようか」

 田中先生の目が、獲物を前にした狩人のように光った。私の記憶が、急激に蘇り始める。

 あの時の恐怖。あの時のいやな感覚。
 そして、この男の正体。

 全てを思い出した私は、震える声で呟いた。

「あなたが……誘拐事件の犯人……!?」
「そうだよ。呪詛花札を使って、女の子たちを拐ったのは私さ。
 私は田中蛭次。影沼家の分家筋の人間だ。影沼美津子がしくじったと聞いて、本家様が混乱してるうちに早めに学校に潜り込んだのさ」

 全ての記憶が蘇った私は、急いで学生鞄から木刀を取り出した。
 月読家での修行以来、万が一に備えて持ち歩くようになったものだ。

「おやおや、武器を持ち歩いてるのかい? 校則違反だな」

 田中先生——いや、田中蛭次が嘲笑うように言った。

「だが、果たしてそれで私に勝てるかな?」

 私は木刀を中段に構える。剣道部で培った基本の構えだ。

「美咲ちゃんを離しなさい……!」
「それは無理な相談だ。彼女は大切な『保険』だからね」

 蛭次がパチンと指を鳴らすと、意識を失っていたはずの美咲ちゃんが目を開けた。
 しかし、その瞳は虚ろで焦点が合っていない。

「美咲ちゃん……?」
「詩織……」

 美咲ちゃんがゆらりと立ち上がる。縛られていた縄は、いつの間にか解かれていた。

「体が……勝手に……っ」

 美咲ちゃんの声が震えている。
 催眠をかけられているのに、何とか意識を保とうとしているようだ。

「頑張るね。でも、無駄なことだ」

 蛭次が再び手を叩くと、美咲ちゃんの目が完全に虚ろになった。

「詩織を……捕まえなさい」

 命令されるまま、美咲ちゃんが私に向かって歩いてくる。

「美咲ちゃん、しっかりして!」

 私は木刀を持ったまま後ずさった。でも、友人に武器を向けることはできない……!

「ああぁっ!」

 美咲ちゃんが私に飛びかかってくる。
 運動部に所属していないとはいえ、必死になった人間の力は侮れない。

「美咲ちゃん、やめて!」

 私は木刀を横に振って、美咲ちゃんを突き飛ばした。
 気絶させるわけにはいかないので、加減した一撃。
 美咲ちゃんはよろめいて壁にもたれかかる。

「あっ、ごめんなさい……!」
「痛そうにねぇ、美咲ちゃん。優しい詩織ちゃんに、これ以上友達を傷つけられるかな?」

 蛭次がほくそ笑む。胸の奥が軋むように痛む……。

「でも、放っておけば彼女も『商品』として売り飛ばすことになるがね」
「させません!」

 私は蛭次に向かって接近し、木刀を振るおうとした。しかし——

「詩織……!」

 背後から美咲ちゃんが抱きついてくる。催眠の力で、痛みも感じていないのだろう。

「あっ……離して!」

 私は美咲ちゃんを振りほどこうとするが、彼女は必死にしがみついてくる。

「離して……お願い、美咲ちゃん……!」

 その隙に、蛭次が私の木刀を蹴り飛ばした。

「あっ……!」

 木刀が手から離れ、地下室の隅に転がっていく。

「さあ、これで武器はなくなったな」

 蛭次が勝ち誇ったように笑う。

「美咲ちゃんを操るなんて……卑怯なことを……!」
「勝てばよかろう。それに、君も同じ目に遭うのだから寂しくないよ」

 私は美咲ちゃんを傷つけないよう、そっと彼女の手を外そうとした。その瞬間——

 パン!

 ――蛭次の手が大きく鳴った。

「……!」

 またあの音。意識がふわりと浮いたような感覚が襲ってくる。

(今度は……負け、ない……っ!)

 必死に抵抗しようとするが、その気持ちが少しずつ薄れていく。視界が、チカチカする……。

「今度は逃がさないよ、詩織ちゃん」

 蛭次の声が、だんだん遠くなっていく。
 意識が、深い霧の中に沈んでいく。
 またあの、恐ろしい無力感に支配されていく……。

「いい子だ……とってもいい子だよ、詩織ちゃん」

 蛭次の声が、妙に心地よく響く。
 でも、その声に従ってはいけない。それだけは分かっている。

「い、嫌……」

 かすれた声で抵抗する私を見て、蛭次が満足そうに笑った。

「昨日は邪魔が入ったが、今度はゆっくりと『楽しめる』からな」

 蛭次が私の顎を掴む。冷たくて気持ち悪い手。でも、催眠の力で体が思うように動かない。

「やめ……て」
「何を嫌がることがある? 君はこれから、もっと『価値ある』人生を歩むのだ」

 蛭次の指が、私の頬を撫でる。ぞっとするような感触に、全身が震える。

「影沼本家の皆様が、どれほど君を欲しがるか……まぁ煮るのか焼くのか知らないが、それで私の地位も一気に上がるだろうな」

 その言葉に、意識の奥で警鐘が鳴る。
 でも、思考を奪う霧が深すぎて、まともに考えることができない。

「もちろん、本家にお渡しする前に……私も少し『味見』をさせてもらうが」

 蛭次の手が、私の髪を乱暴に撫でる。まるで物を扱うような、雑な仕草。

「まぁ心配するな。すぐに慣れる」

 蛭次の顔が、私に近づいてくる。その目に宿った欲望と悪意に、心が凍りつく。

「君の友人も、同じ運命を辿ることになる。離れ離れだけどね」

 美咲ちゃん……。
 その名前を思い出した瞬間、胸の奥で何かが燃え上がった。

「……美咲ちゃん、に」
「ん?」

「美咲ちゃんに……手を出したら……」
「ほう、まだ抵抗する気力があるのか」

 蛭次が面白そうに笑う。

「だが無駄だ。君はもう、私の思うがままだ」

 確かに、体は思うように動かない。でも——

 心は、まだ屈服していない。
 美咲ちゃんを守らなければ。この男から、大切な友人を守らなければ。
 その想いが、催眠の霧を少しずつ晴らし始めた。

「美咲ちゃんを……守るんだ……」

 私の呟きに、蛭次が眉をひそめた。

「まだそんなことを言っているのか。君には、もう何もできないというのに」
「……ちがう……」

 その時、私の髪に結ばれたリボンが、突然強い光を放った。

「何……?」

 蛭次が驚いて後ずさる。リボンから溢れ出す光は、温かく優しい桜色をしていた。
 そして、胸の奥から力が湧き上がってくる。

「なっ……なんだ、この光は!?」

 蛭次の顔が青ざめた。でも、もう遅い。
 リボンの光がさらに強くなり、私の全身を包み込む。そして、光の中から現れたのは——

 美しい、紅と紺の幕だった。

 まるで宮中の御簾のような、上品で雅やかな幕が、私の周りにふわりと現れる。
 幕には薄っすらと桜の花びらの文様が浮かび、神秘的な光を放っていた。

「き、聞いていた話と違うぞ! なんの能力だ!?」

 蛭次の声が震えている。
 光の幕に包まれた瞬間、催眠の霧が一瞬で晴れた。
 頭がはっきりし、体にも力が戻ってくる……!

「今度は……私の番です」

 私はゆっくりと立ち上がった。
 光の幕が優雅に舞い、私のセーラー服を包んでくれる。

「そんな……なぜだ、なぜ発動しない!? 呪詛花札の力が……っ」

 蛭次が後ずさった。その顔には、初めて恐怖の色が浮かんでいる。
 そのまま何度も手を叩く。しかし、いずれも意味はない。催眠の力は、もはや私には通じない。

「あなたは……私や美咲ちゃんや、他の女の子たちに、ひどいことをした」

 私は木刀を拾い上げる。その木刀もまた、美しい桜色の光を纏う。

「もう、許しはしません」