私はどこかでふらふらとしたまま立っていた。
 意識は、深い霧の中にある。

「さあて、まずはどうしようかな。うまくかかってるし、まずは服でも脱いでもらうか……」
「……っ」

 何を言われているのかよくわからない。
 でも、体が勝手に動きそうになる。その時——

「詩織ー! いるの!?」

 突然響いた大きな声に、霧がかかったような意識がびくりと震えた。
 聞き覚えのある声。誰かの声。

「先生、詩織はどこに……あ! 詩織!」

 美術室のドアが勢いよく開かれた。
 そこに立っていたのは、息を切らせた美咲ちゃんだった。

「おや、美咲さん。詩織さんが急に体調を崩しちゃってね」

 田中先生の声が、慌てたように響く。
 さっきまでの、あの不気味な声とは全く違う。
 まるで別人のような、普通の優しい教師の声だった。

「え? 体調不良?」

 美咲ちゃんが心配そうに駆け寄ってくる。
 その瞬間、私の意識に急激に現実が戻ってきた。

「……美咲……ちゃん?」

 自分の声が、ひどくかすれているのに気づく。
 頭がぼんやりしていて、まるで長い眠りから覚めたような感覚。

「詩織、大丈夫? 顔色悪いよ」

 美咲ちゃんが私の肩を支えてくれる。
 その温かい手に触れて、やっと自分がどこにいるのかを思い出した。

(そうだ……えっと、ここは美術室で……田中先生が……)

 でも、その先の記憶がどうしても曖昧だった。
 何かされたような気がする。何か、とても嫌なことを。
 でも、それが何だったのかが思い出せない。

「ちょっと貧血を起こしただけですよ。久々の登校ですし、無理をしすぎたのでしょう」

 田中先生が、心配そうな顔で説明している。
 でも、その目が一瞬だけ、鋭く光ったような気がした。

「そうなんですか……詩織、立てる?」
「……うん」

 美咲ちゃんに支えられながら、私はふらつく足で歩く。
 体が重い。まるで水の中を歩いているような、不思議な感覚だ。

「田中先生、ありがとうございました。詩織を保健室に連れて行きます」
「ええ、そうしてください。お大事に」

 田中先生が振り返って微笑む。
 普通の、優しい教師の笑顔。
 でも、その笑顔を見た瞬間、背筋に嫌な寒気が走った。

(何か……何かがおかしい……)

 記憶の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。
 でも、それが何なのかがどうしても思い出せない。

「詩織ーっ、しっかりして〜!」

 美咲ちゃんに腕を支えられながら、私は美術室を出た。
 振り返ると、田中先生がこちらを見ていた。



(なんだかすごく眠い……。何があったんだっけ……?)

 廊下を歩きながら、私は必死に記憶を辿ろうとした。

 美術室に入って、田中先生と話をして……それから?
 手を叩く音が聞こえて、それから意識が……。

「詩織、本当に大丈夫? なんか様子が変よ」

 美咲ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。

「ううん、頭がぼんやりして……何か大切なことを忘れてる気がするの」
「忘れてるって?」
「分からない。でも、とても重要なことのような……」

 記憶の断片が、頭の中でちらちらと浮かんでは消える。
 影沼、という言葉。
 不気味な笑顔。
 そして、ぞっとするような冷たい手の感触。

「……もしかして、田中先生に何かされたの?」

 美咲ちゃんの問いかけに、私は立ち止まった。

「……分からない。全然覚えてなくて」

 何をされたのか思い出せない。
 でも、確実に何かがあった。何か、とても恐ろしい……危険なことが。

「詩織、顔真っ青よ。やっぱり保健室じゃなくて、早退した方がいいんじゃない?」
「そう、ね……」

 私は頷いた。
 このまま学校にいるのは、なんとなく危険な気がする。
 理由は分からないけれど、早く月読家に帰りたかった。

「家まで送ってくわ。今の詩織一人で帰るのは心配だもの」
「ありがとう、美咲ちゃん……」

 美咲ちゃんの優しさに、涙が出そうになる。
 もし彼女が来てくれていなかったら、私は一体どうなっていたのだろう。

 私は美咲ちゃんの腕にしがみつくように歩いた。



「え……ここが詩織の家?」

 月読家の門の前で、美咲ちゃんが目を丸くして立ち尽くしていた。

「あ、ええと……」

 私は困ってしまった。そういえば美咲ちゃんには、まだ月読家のことを詳しく話していなかった。
 如月家を出たことは彼女も知っているが、なぜ月読家にいるのかまでは説明していない。

「すっごいお屋敷……。詩織、もしかしてここに住んでるの!?」
「その……色々あって、お世話になってるの」

 曖昧に答えながら、門をくぐる。
 庭園を見た美咲ちゃんが、さらに驚いたように声を上げた。

「わあぁ〜、綺麗な庭! まるで時代劇の世界みたい」
「美咲ちゃん、あのね……このことは、できれば秘密に……」
「だいじょーぶ、心配しないで。詳しいことは聞かないから。でも、良いところに住めるようになって良かったわ!
 前はよく死にそうな顔してたけど、最近は明るいしさ!」

 美咲ちゃんは優しく微笑んでくれた。
 私の複雑な事情を察して、これ以上追及しないでくれているのだろう。

「詩織様、お帰りなさいませ」

 玄関で使用人の方が出迎えてくれる。美咲ちゃんがまた驚いたような顔をした。

「皓様はいらっしゃいますか? 報告があるので……」
「書斎にいらっしゃいます。すぐにお取り次ぎいたします」

 使用人の方が奥へと向かう間、美咲ちゃんは興味深そうに屋敷の内部を見回していた。

「おや。帰ったか、詩織」

 その時、皓様が現れた。
 いつものように黒い着物姿で、静かな威厳を纏っている。美咲ちゃんが息を呑むのが聞こえた。
 同時に皓様は私を見るなり、表情を変える。

「どうした? 顔色が悪いぞ」
「詩織、今日貧血みたいで。私が送ってきました!」
「……君は?」
「あの、こちら友人の美咲ちゃんです」

 皓様に慌てて紹介する。美咲ちゃんは物怖じした様子もなく、軽く頭を下げた。

「初めまして、美咲と申します。詩織がいつもお世話になっております!」
「月読皓だ。詩織の友人なら、いつでも歓迎する」

 皓様は軽く頷いた後、再び私を見つめた。その瞳に、心配の色が浮かんでいる。

「あ、でも私はもう帰らないと! じゃ、また明日ね詩織!」
「うん。本当に、ありがとう」

 私は元気に去っていく美咲ちゃんに手を振った。
 そして、皓様と二人で書斎に向かう。



「何があった?」

 書斎に入るなり、皓様が真剣な表情で尋ねた。

「その……学校で調査をしていて……」

 私は両手の指を合わせ、所在なく胸の前で動かす。記憶がぼんやりしていて、うまく説明できない。

「何か分かったのか?」
「行方不明の生徒たちは、みんな美術の授業を受けていました。それで、美術室、に……?」

 そこまで言って、私は言葉に詰まった。
 美術室で何があったのか、はっきりと思い出せない。
 というか、美術室にいったんだっけ……?

「美術室で……何があった?」
「先生がいて……話をして……それから……」

 頭が痛い。思い出そうとすればするほど、記憶が霧の中に沈んでいく。

「詩織。……無理をするな」

 皓様が私の肩に手を置いた。頭の痛みが、すっと引いていく。

「何か術をかけられたのか?」
「分からないんです。頭がぼんやりしていて……何か大切なことを忘れているような気がするんですが」

 皓様の表情が険しくなった。

「すみません、うまく報告できなくて」
「謝ることはない。君が無事だったことが何より重要だ」

 皓様は私の髪をそっと撫でた。その優しい仕草に、少し安心する。

「明日はもう学校に行かなくていい」
「でも、調査が……」
「危険すぎる。敵は君を狙っているようだからな」

 確かに、皓様の言うとおりだった。
 ……でも、このまま諦めるのも悔しい。何より、呪詛花札を使った事件は解決していないのだ。
 拐われた生徒たちは今も、大変な目にあっているかもしれない……。

「もう少しだけ、時間をください。私、彼女たちを助けたいんです……!」
「詩織……」
「それに、美咲ちゃんもいます。一人じゃないから、大丈夫です」

 皓様はしばらく私を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

「分かった。だが、絶対に一人では行動するな。何かあれば、すぐに連絡しろ」
「はい」

 私は頷いた。
 記憶は曖昧だが、敵の正体に近づいているのは確かだ。
 明日こそは、必ず真相を突き止めてみせる……!



 ――その夜、帝都郊外の古い倉庫。

 薄暗い電球の下で、三人の女学生が縄で縛られ、口を布で塞がれていた。
 田村、佐藤、山田――泰平學園にて拉致された少女たちだ。
 制服は汚れ、髪は乱れ、皆恐怖で目を見開いている。

「ほほう、今回の『商品』はなかなか上等じゃないか」

 薄汚れたスーツを着た中年男が、品定めするように生徒たちを見回していた。
 その目には、人を見る温かさなど微塵もない。人をただの金に換算する、冷たい視線だけがあった。

「やはり女学生は需要が高い。特に、こういう『清楚』な娘たちはな」

 男が田村の顎を無造作に掴む。田村が涙を流しながら首を振った。

「南洋の貿易商が、こういうタイプを欲しがっている。一人当たり、かなりの値がつくだろう」
「それは良かった。約束の金額は?」

 そして田中蛭次が、倉庫の隅から声をかけた。
 その顔には、以前の優しい教師の面影はない。卑しい笑みを浮かべ、睨むような目を商人に向けている。

「一人三千円だ。三人で九千円になる」
「上々だな」

 蛭次は満足そうに頷いた。
 その金額は、当時の一般家庭の年収に匹敵する大金だった。

「ただし、次からはもう少し『手なずけて』から連れてきてもらいたい。暴れられると、運ぶのに手間がかかる」
「ああ。今度から気をつけるよ」

 蛭次は表面上謝ったが、内心では別のことを考えていた。

(これだから芸術を理解しない男は。ある程度意識を残して、苦しませるのが面白いんじゃないか)

 下衆な考えを巡らせながら、彼の思考はさらに移る。

(次は如月詩織だ。桜花の血を引く美少女か……)

 今日の失敗で、計画が狂った。
 予定では詩織も一緒にここにいるつもりだったが、友人の邪魔が入った。

(だが、次は確実に……)

 田中蛭次――それは世を忍ぶための仮の名。
 彼の本当の名は、「影沼蛭次」。

 とはいっても、本家の人間ではない。
 彼は分家として、本家の人間に常々見下されながら育った。

(本家様が血眼になって狙ってる如月詩織。彼女を献上すれば、家での俺の地位は一気に上がるだろうな)

 分家の身分から脱却し、本家の一員として認められるかもしれない。そして何より、大金を手にできる。
 そのためにわざわざ教員を洗脳して、詩織がいるという學園に潜り込んだのだ。

「それにしてもよォ」

 人身売買業者が、佐藤の髪を乱暴に掴んだ。

「音楽ができるのか、この娘は。それなら、『特別な客』も喜ぶだろうな」
「んん……んんーッ」

 その言葉の意味を理解した佐藤が、恐怖に震えながら激しく首を振る。
 しかし口は塞がれており、助けを求めることもできない。

「明日には船で南洋に向かう。二度と故郷の土は踏めないと思え」

 業者の男が冷たく笑った。
 三人の生徒たちの目から、絶望の涙が流れ落ちる。
 彼女たちに待っているのは、想像を絶する苦痛の日々。
 そして二度と戻ることのない、暗い未来だった。

「では、金をもらおうか」
「あぁ。ほら、確かめてくれ」

(あと一人……詩織さえ手に入れば、私の計画は完成する)

 金を受け取りながら、蛭次は明日の算段を立てていた。
 今度は確実に。誰にも邪魔されないように。

 桜花の血を引く女を影沼本家に献上し、自らの野望を果たすのだ。

「そのためには……あのお友達を使うか……」

 詩織の確保を邪魔した少女、美咲。
 蛭次は脳裏にその姿を描いていた――。