「詩織、ごめん。……俺と別れてくれ」

 橘先輩の声が、静かな剣道場の空気を切り裂いた。

 私は、手にしていた雑巾を膝の上で握りしめる。
 二ヶ月。たった二ヶ月だった。
 初めて告白されて、初めて付き合って、初めて手を繋いだ相手。
 そんな彼が今、私に別れを告げている……。

「え、と……。どうして、ですか?」
「俺、撫子ちゃんのことが好きになってしまったみたいなんだ」
「……そう、ですか」

 なんとか声を絞り出す。
 顔を上げられない。上げてしまったら、きっと泣いてしまう。

「ごめん。本当ごめんな」

 先輩の声が苦しそうだ。でも、何を言えばいいのだろう。
 『いいですよ』なんて言えるはずがない。
 だからといって『ひどい』と責めることもできない。

「撫子ちゃんから告白されたんだ。お姉さんと付き合ってるんだぞって、最初は断ったんだけど……」

 ああ、知っている。義妹の撫子は、欲しいものは必ず手に入れる子だ。
 美しくて、明るくて、誰からも愛される。私とは正反対に。

「俺、お前といる時は落ち着くけど……撫子といる時の方が、なんていうか、楽しいんだ。明るくて、可愛くて。みんなも『橘先輩と撫子ちゃん、お似合い』って言ってくれて……」

 周りの目を気にする先輩らしい言い訳だと思った。
 でも、それも先輩の一部なのだろう。そういう所を、支えていきたいと願っていたけど……。

「…………っ」

 沈黙が落ちる。遠くから、帰っていく他の部員たちの声が聞こえる。
 きっと、もうすぐみんな知るのだろう。
 剣道部の主将が、地味な如月詩織を捨てて、華やかな妹の撫子を選んだことを。

「詩織――」
「おめでとうございます、先輩」

 私は顔を上げて、精一杯の笑顔を作る。
 涙は堪えられた。よかった。
 先輩は安堵したような、でもどこか気まずそうな表情を浮かべていた。

「じゃ、じゃあ……俺はこれで」

 逃げるように道場を出ていく背中を、私はただ見送ることしかできなかった。
 道場の戸が閉まる音が、やけに大きく響く。

 一人きりになった道場で、私はようやく膝から力を抜いた。
 雑巾を握りしめていた手が、じんわりと痛い。

(……こんなことなら、最初から期待なんてしなければよかったのかな)

 道場の隅で正座したまま、私は天井を見上げる。
 古い木造の梁が、夕日に照らされて赤く染まっている。

(誰だって撫子を選ぶわ。私の取り柄なんて……少し剣道が強いくらいで、女らしくもなんともないものね……)


 ――如月詩織。それが私の名前だ。
 でも、家では「前妻の子」「出来損ない」「お荷物」などと呼ばれることの方が多い。

 義母の美津子さんは、私を見る度に眉をひそめる。実の娘の撫子とは、まるで扱いが違う。

『お前のお母さんは、お前を産んで亡くなった』

 父は私にそう説明したことがある。
 だから父は私を見ると、亡くなった母を思い出すのだろう。
 申し訳なさそうな、でもどこか怯えたような目で私を見る。

 撫子は、そんな家族の中で蝶のように舞い、花のように咲く。
 誰もが撫子を愛し、撫子の望みは全て叶えられる。

『お姉様、一緒に剣道? っていうのやりましょう! お姉様と一緒ならやれる気がします!』

 ……あの時の撫子の無邪気な笑顔を、今でも覚えている。
 結果、私は彼女とともに剣道を習い始めたが、撫子はすぐに飽きて華道に転向した。
 美津子さんはそんな撫子を女子の鑑だと褒め、未だに竹刀を振る私を野蛮だと非難する。

(……帰ろう)

 立ち上がると、膝が痺れていた。防具を片付け、道場を後にする。
 もう、ここにも居場所はないのかもしれない。
 橘先輩がいたから、かろうじて保っていた最後の場所も。


 帰り道、私は髪を結んでいる組紐のリボンに触れる。これは亡くなった母の形見だと聞いている。
 落ち着かないときや不安なとき、つい触ってしまう癖がある。少しだけ安心できるのだ。

 如月家の門が見えてきた。
 重い足取りで、私は「家」と呼ぶには冷たすぎる場所へと向かう。

 きっと今頃、撫子は撫子で、橘先輩との交際を家族に報告して喜んでいるのだろう。
 そして明日からは、学校でも堂々と先輩と一緒にいるのだ。

(それを私は、ただ笑って祝福するしかない)

 それが、如月詩織という存在に許された、唯一の役割なのだから。



 玄関の扉を開けると、すぐに義母様の声が飛んできた。

「遅い! どこをほっつき歩いていたの!」
「も、申し訳ございません」

 慌てて靴を脱ぎ、頭を下げる。
 それから顔を上げると、居間から撫子の楽しげな笑い声が聞こえてきた。

「詩織、すぐに居間に来なさい」
「はい……」

 いったい何の用なのだろうか。普段義母様が私に用事なんてないはずなのに。
 彼女の命令に従い、居間へ向かう。襖を開けると、上座に父と義母様、その対面に撫子が座っていた。
 撫子の頬は上気して、瞳がきらきらと輝いている。……いつもの通り、綺麗で可愛らしい。

「あら、お姉様。今日も剣道のお稽古だったの? 汗臭いから、離れて座ってくださる?」
「……ご、ごめんね」

 撫子が鼻を押さえる仕草をする。私は彼女から少し離れた場所に正座した。

「実は今日、月読家から使者が来てね」
(……月読家、というと……。『帝都の守護者』。帝都でも指折りの名家よね)
「我が如月家のご令嬢との縁談を申し入れたいと。一週間後の茶会で、お顔合わせをしたいそうよ」

 彼女の言葉に、撫子や父も表情を綻ばせる。
 名家との縁談。それはこの家にとって、非常に重要なことだ。父も珍しく口を開く。

「撫子、これは大変名誉なことだ。月読家といえば、我が家など足元にも及ばない名門だからな」
「お父様! 月読様って、あの月読(こう)様ですよね? 帝都大学に通われている軍人で、それはもう美しい方だって評判の!」
「そうよ、撫子。だからこの一週間、しっかり準備をしなさい。着物も新調しましょうか」

 義母様と撫子が、もう決まったことのように話を進めていく。
 ……当然だ。誰が考えても、月読家が選ぶのは美しく華やかな撫子に決まっている。
 同じ令嬢であっても、そもそも私は茶会に呼ばれることすらないだろう――。

「それから、詩織。あなたも同席しなさい」
「えっ……?」

 義母様が私を見た。その目は、いつもより一層冷たい。

「わ、私もですか……?」
「一応はあなたも如月家の令嬢。連れてこいと言われたのだから仕方がないでしょう?」
「お姉様、大丈夫よ? あなたが選ばれることなんて絶対ないんだから♪」
「撫子……」

 父が軽くたしなめるが、撫子は構わず続ける。

「だって、お父様。月読様がこんな地味で暗くて、剣道なんて野蛮なことをしている女を選ぶはずないじゃないですか。
 『如月家のご令嬢』といえば、私のことに決まってます!」
「当然でしょう。でも、一応同席はさせるわ。撫子の引き立て役くらいにはなるでしょうから」
「……分かりました」

 私は静かに答えた。

 ……撫子の着物はきっとすぐにでも新調されるのだろう。
 華やかで高級な、おそらく数回しか着ない着物。

 私が持っているのは、箪笥の奥にある古い紺色の着物だけ。
 何度も繕った、不格好なもの……。あれを茶会に着ていくのかと思うと、惨めな気持ちになる。いっそ制服で行ったほうがいいかもしれない……。

「あ、そうそう」

 それから、撫子が思い出したように言った。

「お姉様、橘先輩から聞きました? 私たち、付き合うことになったんです」

 にっこりと、無邪気な笑顔。でも、その瞳は私の反応を値踏みしているのがわかる。
 私は無理やり目を閉じて、口角を上げる。笑えているだろうか。

「おめでとう、撫子」
「あら、意外と素直なのね? 先輩も『撫子の方が一緒にいて楽しい』っておっしゃってましたよ。うふふっ♪」

 ……胸の奥がずきりと痛む。
 でも、表情は変えない。変えてはいけない。

「あらまぁ、撫子も隅に置けないわね。月読様との縁談の前に、彼氏まで作って」
「お母さま、仕方がないんです……。だって私、モテますから」

 撫子がくすくすと笑う。父も、初めて顔を上げて撫子を見た。その顔には少しの困惑と、実の娘への慈愛が浮かんでいる。

 楽しそうな三人の笑顔。
 楽しそうな三人の家族。
 そこに舞い込んだ、名家「月読家」からの縁談の話――。

 その楽しさの中に、私はいない。
 もうずっと前から。あるいは最初から、私は家族ではないのかもしれない。
 この家での異物は私なのだ。改めて、そう思い知らされてしまう。

(だけど、私も――)

 私だって、愛されたい。
 封じ込めてきたそんな思いが、時折溢れ出しそうになる。

(……そんなこと考えたって、無駄なのに)

 私は大きく、静かに息を吸い込んで席を立った。

■(撫子視点)

 三日後の午後、撫子は自室の姿見の前で、茶会用の振袖を体に当てていた。
 鮮やかな朱色に金糸で桜の刺繍が施された豪華な一枚。これで三着目だった。

「やっぱり、こっちの方がいいかしら」

 独り言を呟きながら、撫子の表情は浮かない。
 鏡に映る自分の姿は完璧だ。誰が見ても、如月家の美しい令嬢。
 それなのに、胸の奥に小さな不安が渦巻いている。

 彼女はふと、昨日の蓮とのデートを思い出す。


 ——学校近くの喫茶店で、向かい合って座る二人。
 撫子は可愛らしく首を傾げながら、蓮の好きな野球の話に相槌を打っていた。

「へえ、そうなんだ。蓮先輩、本当に野球がお好きなのね」
「ああ。詩織も、よく俺の野球の話を聞いてくれたんだ」

 蓮の口から、不意に詩織の名前が出た。撫子の笑顔が、一瞬固まる。

「お姉様が?」
「うん。あいつ、野球のルールなんて全然知らないくせに、一生懸命聞いてくれてさ。分からないなりに、質問とかしてくれて……」

 蓮の目が、どこか遠くを見ている。
 まるで目の前にいる撫子ではなく、別の誰かさんを見ているような。

「今は、私が聞いてあげてるじゃない」

 撫子の声に、微かに棘が混じる。蓮は慌てたように撫子を見た。

「あ、ああ。そうだな。悪い――」


 ……そんな様子を思い出し、撫子は苛立たしげに振袖を放り投げた。

(何よあの態度! 私を選んだくせに、なんでまだお姉様のことなんか考えてるの?)

 そもそも蓮を奪ったのは、詩織が持っているものを取り上げたかっただけだ。
 手に入れてしまえば、大して興味もない。
 むしろ、未練がましい男など鬱陶しいだけだった。

 しかし、今手放すのは少しばかり惜しい。あんな男に興味はないが、せめてもう少し骨抜きにしてから捨ててやりたい……。

 そんなことを考えていると、コンコンとノックの音がして、美津子が入ってきた。

「どうしたの、撫子。浮かない顔して」

 娘の様子を見て、美津子はすぐに何かを察した。
 床に投げ出された振袖を拾い上げ、丁寧に畳み直す。

「お母様……な、なんでもないの。ただ……」

 撫子が不安そうに母を見上げた。

「……もし万が一、月読様が間違ってお姉様を選んだりしたらどうする?」

 美津子の手が、一瞬止まった。

「そんなことはありえないわ」
「でも、お母様。お姉様ってなんていうか……地味で暗いくせに、時々……」

 撫子は言葉を探す。
 うまく表現できない何かが、詩織にはある。男を引き寄せる何か。
 それが何なのか分からないが、彼女を苛立たせていた。
 美津子が娘の肩に手を置く。

「心配なら、念には念を入れましょう」
「え?」

 美津子は立ち上がり、部屋の隅にある古い箪笥に向かった。鍵を開け、奥から小さな箱を取り出す。

「撫子、ここに来なさい」

 母の真剣な声に、撫子は素直に従った。
 美津子は箱を開ける。中には、古めかしい札が一枚、大切に保管されていた。
 柳と燕が描かれた、どこか不気味な絵柄。

「花札……?」
「ええ。これは、我が家に伝わる特別なお守りよ。これを使えば、相手を少し……懲らしめることができる」
「懲らしめる?」
「そう。例えば、茶会に出られなくなるくらいに、体調を崩させるとか」

 撫子の目が輝く。その相手が誰のことを指しているのかは、すぐにわかった。

「本当に?」
「ええ。でも、使い方を間違えると危険だから、よく聞きなさい」

 美津子は、古い呪文のような言葉を撫子に教え始めた。
 撫子は真剣にそれを暗記する。母の言うことなら間違いない。いつもそうだった。

「いい、撫子。もし本当に必要だと思った時は、それを使うのよ。それも人目のつかない場所で」
「分かったわ、お母様」

 撫子はどこか不気味な花札を大切に受け取った。

「でも、使うときは遠慮なく使いなさい。あなたの幸せのためよ」
「うん!」

 撫子は嬉しそうに頷いた。
 これで安心だ。月読様も、蓮先輩も、全部自分のものになる。邪魔者さえいなくなれば。

 窓の外では、夕暮れが迫っていた。