ふ、と視界の前に顔が突然現れ、ぎょっとして体をのけ反らせた。辛うじて声は上げずに済んだけれど、多分上げてたとしたら「うおっ」。助かった。
「なんだよ、松隆」
一生懸命平静を装い、本に栞を挟み、横髪を耳にかける。松隆が私の反応を笑う気配はなくて安堵した。
「月曜の図書委員の話なんだけどさ。新刊購入の検討なんだって、聞いてる?」
「なんだそれ。聞いてない」
「だよね。俺も聞いてなくて」
ぺらりと、松隆は紙を一枚取り出した。B5サイズのそこには、松隆が言った通りの表題がポップな字体で並んでいる。
「朝、教卓にさりげなく置いてあった。多分、図書委員長が配り忘れてたんだろうな」
「ああ、そういう……」
来週の月曜日は委員会の日で、その議題が新刊購入の検討。きっと本来は、二週間くらい前に、今松隆の手にある紙が各教室に配布されて、図書委員がそれに基づいて説明をして、クラス内で新刊希望のアンケートを募る手筈になっていたんだろう。要は、図書委員長の手違いだ。
「……今更希望があるとも思えないよな。うちのクラス、本好きな人いないじゃん」
「だよね。それこそ俺と姫城さんくらいなんじゃない?」
ごく自然に、松隆は私の前の空席に座った。横向きに座って、少し体をこちらへ捻って、私の机の上で頬杖をつく。
「じゃあ、もう私達で適当に書けばいいんじゃないか」
「まー、それが妥当だよね。一応、そんなのうちのクラスだけされてないって苦情出ても嫌だから、告知だけはしようかと思ったんだけど、それでもいい?」
「いいよ、別に」
「了解。それで、姫城さんは気になってる新刊あるの?」
「んー、成葉菖子の新刊が出たから、それとか」
「めちゃくちゃ私欲だね」
はは、と松隆は明るく笑った。頬杖を外して、私に顔を向けて、笑う。
「『Everlasting Last Words』でしょ?」
やっぱり、松隆もしっかりチェックしてる。そのことに、内心少し喜びを噛みしめた。松隆と同じものを気になっていると言えた、自分に。
「それ。気になってるけど、まだハードカバーだから買えない」
「躊躇うよねー、ハードは。でも待ってたらいつ読めるか分からない」
「だから新刊で希望。あわよくば学校に買ってもらいたい」
「でもなぁ、うちの学校が成葉なんて買ってくれるのかなあ。ラノベじゃん、あれは」
「まあ、出版社と表紙はな。イラストがついてるから漫画アニメと同類でくだらないみたいに言われるのは納得がいかない」
「それはそうなんだけどね。今の図書委員長も、ただの推薦狙いだし、難しいんじゃないかな」
「じゃ、松隆が入れたい本は?」
委員長に上げる前に松隆に却下されてしまったとしても、大した問題ではなかった。松隆が、私の気になる作家の新刊を、知ったかぶりでもなんでもなく、ごく当然のように答えたことが、嬉しかったから。
「俺は……紙屋栞の『コバルト・ブルー』かな」
「……ふうん」
でも、松隆の挙げた作家とその著作を知らないことが、心に翳りをもたらす。
「好きなんだ、紙屋栞。心理描写がすごく丁寧で、なんていうんだろう、文章とか、ストーリーが優しい」
そのくせ、私が知ってるかどうかはさしたる問題ではないかのように、自然に話を続けてくれる優しさが、そのセリフには滲む。
「……どういう話なんだ、その『コバルト・ブルー』は」
「んー、青春もの。まだ携帯電話がなくてさ、手紙とかポケベルでやりとりしてるような時代で、文通してる友達同士の話」
「恋人じゃないのかよ」
「ま、そこは、ね。面白い──コメディ系の面白いとは違うんだけど、ちょっとほっこりするようなシーンもあって。久しぶりに会う約束して、ハチ公前で集合したら、お互い時計見ながら『来ねーなアイツ』って三メートル離れたところで一時間くらい待ってるとか」
「なんだそれ。携帯電話がある今、そんなの考えられないだろ」
なんて言いつつ、私は携帯電話を持っていない。中学生の間は要らないと親が言うし、私もメールだの電話だのに必要性を感じないからだ。ただ、東京で待ち合わせをするのなら大人だから携帯電話くらい持っているだろうし、そうでないにしても、さすがに親の携帯電話を借りるくらいはすると思う。
「それが昔は普通だったんだって。そういうところもだけどさ、すごい、当時の情景が目に浮かぶような文章とストーリーになってるんだ。それでもって、地方と東京で離れ離れの友達同士が、たまに相手のことを思い出して懐かしくなる気持ちの描写とか、自分の感情として噛みしめたくなるくらい優しいんだ」
セリフ通り、松隆の顔は優しかった。「実写化しやすそうな話だからさあ、映画にならないか期待してるんだよね、実はそういう話があるみたいで」と熱く語るその姿に、私の顔が熱くなるのを感じて、慌てて本を手に取った。
「じゃ、それでいいんじゃないか」
「いいの? 俺の希望じゃん」
「別に、いいだろ。いま聞いてて面白そうだったし」
これで話は終わりだ、と言わんばかりに本を開くけば、「そっか、分かった。また放課後にね」という柔らかい声が聞こえた。当然、それに添えられた柔らかい──私の感じの悪い態度に欠片も気を悪くする素振りも見せない──笑みも、しっかりと眼前に映っていた。
松隆がいなくなってから、誰にも気づかれないように溜息を吐き、眉にかかる前髪をくしゃりと握りつぶした。額は汗ばんでいた。
あれをイケメンと言わずしてなんという──松隆は、そういわれるレベルのイケメンだ。生徒手帳の証明写真すらイケメン。私が半目の残念な写真になっているのに、松隆は誰も文句をつけようのないイケメン写真。
柔らかい物腰、誰にでも丁寧で、優しく笑う。そのくせ友達と馬鹿騒ぎする少年らしさもある。頭も良いから試験のたびに周りに頼りにされて、運動神経も良いから体育も体育祭も球技大会も全部スター。文化祭だって、一般開放されてたら暴動が起きているだろう。そんな完璧超人は、おまけのように財閥のご子息というステータスまで持っている。
松隆のことは、さえと同じく、一年生の時から噂で知っていた。物凄いイケメンがいる、と女子が騒いでいて、興味のない私の耳にも必然的に耳に入った。というか、廊下ですれ違った瞬間に分かった。ありえない顔の整い方に、あれが噂にならないはずがないから、噂の松隆はあれだと分かった。
そして、私は、私が見下すキャピキャピ女子と全く同じく、一目惚れした。しいて言い訳をするなら同じクラスになって喋ってから好きになったけど、喋る前から目で追ってたし、喋って二分で好きになったんだから、一目惚れと同義だ。
正直、恥ずかしかった。私は、松隆のことをよく知りもしないのに好きだのなんだの騒ぐ女子を、正直見下している節があった。松隆の顔だけで全部判断して、取り囲んでキャッキャとこぞって可愛い子ぶるなんて、馬鹿馬鹿しいという気持ちで見ていた。馬鹿な子達だな、という気持ちで蔑んでいた。それなのに私も例外なく松隆を好きになるなんて、自分が恥ずかしかった。
それだけじゃない。男勝りな自分が、男の子を好きになるなんて、とても口には出せない恥ずかしいことだった。
同じ図書委員になったときに、ドキリと心臓が跳ねたこととか、松隆と話すときに、いつもより一層ぶっきらぼうな受け答えしかできなくなることとか、松隆に気づかれないように目で追ってみることとか、そんな自分の反射的な行為が、恥ずかしかった。



