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朝風という名前には聞き馴染みがあった。
神官たちには階級がある。その中でも朝風は最も高位に位置し、花神の傍らに仕える側近として知られている。けれど、近頃はその姿を外で見かけない。子供の頃は、小さな悪戯をしては、千夜と一緒に彼に怒られていた。しかし、近頃は外で見かけていない。
後宮の奥、神殿の右手には神官たちが寝泊まりする蓮寮がある。白壁と深緑の屋根をいただく厳かな棟で、神官の資格のない者は一歩たりとも踏み入ることを許されない場所だ。軽々しく近付けば、不審がられるのは必定である。
内部の事情を知るはずの花影が朝風を頼れと言うということは、彼も花神に対して澄珠と同じ疑念を抱いているのかもしれない。けれど頼れと言われても、高位の神官である朝風に近付く手段が澄珠にはない。
思案を巡らせながら窓の外を眺めているうちに、空は藍色を帯び、庭の端から影が長く伸びはじめた。
(……そういえば、千夜様は夜、琴の屋敷へは向かわれないのだろうか)
この八日間、澄珠は雲隠れの術を使って千夜の動向を追ってきた。結果はいつも同じで、千夜は昼、琴の側で過ごし、宵になると必ずどこかへ消えていく。恋仲であれば、夜ごとの通いもあって然るべきだが、それがまるでないのは、少し不自然に思える。
(行っていたら行っていたで、すごく嫌だけれど……)
胸の奥に小さな棘のような疑念が刺さり、澄珠は緩やかに立ち上がった。
確かめたい。神殿に踏み入ることはできなくても、琴の屋敷になら行くことができる。
そっと袖口を正し、息を整える。雲隠れの術を用い、音も気配も残さぬまま、琴の屋敷を目指して、闇の中を滑るように進んでいった。
琴の屋敷は、神殿の西側に位置している。庭先には白砂を敷き詰められており、手入れされた松と梅の木が立っていた。
薄暗い。夕闇が濃く、灯りが点々と続くのみだ。澄珠は足音を殺し、霧のごとく気配を薄めて塀沿いを進む。
澄珠は人目を忍んで屋敷の中へ足を踏み入れ、静かに奥へ進む。廊下の先、障子一枚隔てた向こうから、女の笑い混じりの声が漏れてきた。
「はぁ、千夜様ったら、扱いやすいこと」
軽んじる響きが、障子越しでもはっきりと耳に届く。澄珠は息を殺し、障子の前で身を固くした。
「まさかこんなに早く花神様の寵愛を得られるとはな」
もう一人、誰かの声がする。
低く落ち着いた声が、琴の向かいから響く。誰だろうと、澄珠はそっと戸の隙間から覗き込んだ。そこに立っていたのは、栗萌が持ってきた写真に写っていた人物。かつて近所に住んでいた神官、夕映であった。声変わりしているせいで、一瞬気付かなかった。
「本当よ。少し可愛い顔をしてあげればすぐ鼻の下伸ばしちゃって。神様といえど所詮男。わたくしの手にかかればこんなものよねえ」
琴は紅を含んだ唇をゆるめ、くすくすと笑った。
千夜を嘲るような声音。澄珠の拳が自然と固く握られた。しかし、その直後耳に届いた言葉は、予想していたものとはまるで違っていた。
「これで、やっとお姉様をこの後宮から出してあげられるわ。小さい頃からずっと、こんな場所で我慢を強いられてきたお姉様を……」
思わず、その場で動きを止める。
続いたのは、夕映の低く沈んだ声だった。
「……本当にいいのか? お前が犠牲になる必要はないだろ」
「別にいいのよ。……まあ、お姉様はわたくしのことがとっても嫌いなようだけれど」
琴の声には、微かに笑みが混じってはいたが、どこか暗かった。
「お姉様は、きっとわたくしのことをもう……」
「――行くな」
琴の言葉を、夕映の鋭い声が遮った。
次の瞬間、夕映は迷いなく琴を引き寄せ、その小さな体を抱き締める。
澄珠の胸がどきりと鳴った。
神官の立場での恋はご法度だ。その禁を真っ向から破るような光景に、いけないものを見てしまった心地がして、思わず視線をそらす。
「行かないでくれ。花神の花嫁になんてならないでくれ。俺の気持ちを、知っているだろ」
その声は切実で、どこか震えていた。
「お前だって俺のことが好きなんだろ?」
「……だめよ」
琴は静かに夕映の胸を押し返し、悲しげな笑みを浮かべる。
「もう、決めたことなの」
苛立った様子の夕映が、強引に琴に唇を重ねる。これ以上見るものではない気がして、澄珠はその場を飛び出した。
廊下を駆け抜け、琴の屋敷を後にする。
(……どういうこと?)
脳裏で、先程のやりとりが何度もこだまのように響く。
(琴は、千夜様がお好きなのではないの? 夕映が好きということ? なら、自分の恋心を押し殺してまで、千夜様の花嫁になって、私を後宮から出そうとしてる? 何故?)
走り続けても、答えは出ない。
琴は、自分の気持ちを曲げるような人物ではない。相手が神官、恋をしてはいけない相手であろうと、他の人が好きなのであれば、まっすぐその恋に身を投じるような性格だったはずだ。それなのに、今回は違う行動を取っている。
澄珠をいじめる時の、残酷で美しい琴の笑みと、先程見た運命に打ちのめされたような悲しげな笑み。その差の激しさに、澄珠は戸惑うばかりだった。



