琴が社を守ったというあの火災は、花神の支配に反意を抱く勢力の仕業であるという説がある。何らかの理由で反政府組織と関わりを持った琴が、後宮内に入り込むためにこの男と組んで犯行に及んだ、と考えるなら確かに辻褄が合うだろう。
けれど、どうも納得できなかった。その行為は、澄珠の中にある信心深い巫女として育てられた琴の起こしそうな行動とは、真逆だったからである。
「……彼が反政府組織と関わりを持っていた、というのは分かりました。ですが、証拠もないままに決め付けるのは危険です。このことは他の誰にも言わず、秘密裏に調査を進めましょう。私も彼とは旧知の仲ですので、一度近付いてみます」
その冷静な答えが意外だったのか、栗萌は少し驚いたように目を見開いた。
「……まさか、琴様を庇っていらっしゃるのですか?」
心中を言い当てられてはっとする。
実際、琴にこんな疑いをかければ、琴がどうなるか分からないというのも気がかりだった。他の犯罪ならいざ知らず、社に火を放ったなど、死罪になりかねない。
栗萌は澄珠の消極的な態度に戸惑っている様子だった。
「ど、どうしてですか。澄珠様は、琴様に花神様を奪われてしまったはずなのに……て、てっきり、恨んでいるもの、かと」
「……琴があんな風になってしまったのは、私の責任でもありますので……」
琴は、今でこそ澄珠を手酷くいじめてくるが、昔はあのような子供ではなかった。目立ちたがりで、一番になりたがるのは昔からだったが、彼女は花神の花嫁という地位よりも、巫女としての誇りを重視していたように思う。
それに、澄珠が後宮へ行くとなった時、最も泣いていたのは琴だ。
拗ねて口を利いてくれなくなったし、結局澄珠が後宮へ向かう日の最後まで、別れの言葉を交わすこともなかった。
澄珠にべったりだった幼い琴にとって、姉である澄珠が突然家からいなくなってしまうというのは、恨みにすら変貌するほどの悲しみだっただろう。
「そうですか……分かりました。でしたら、確固たる証拠を掴むまで、琴様に関する妙な噂が回らないよう、わたしも黙っておきます」
栗萌は、気遣うように頷いた。
そこで澄珠はふと、部屋の隅に置かれた文机に目を奪われる。そこには筆が置きっぱなしになっており、その下に、書きかけの原稿のようなものが広げられていた。
「……あちらは一体?」
「えっ、あっ、いやっ、あのっ」
栗萌はみるみる頬を染め、慌てて立ち上がったかと思うと、原稿用紙を両手で覆い隠した。
「……見ましたか?」
俯き加減に、恥ずかしそうな目でこちらを窺う。
「いえ、中身までは見えておりません。そこまで目がよいわけでもありませんので……」
「よかったぁぁあ」
栗萌が、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。彼女は原稿を手早く束ねると、引き出しにしまい込み、何事もなかったかのように澄珠の前へ戻ってきた。
「……引かないでくださいね?」
おずおずと栗萌が切り出す。その頬はうっすら紅潮し、指先は膝の上でそわそわと動いている。
「は、はい」
思わず姿勢を正して返事をすると、栗萌は声を潜めて続けた。
「わたし、自作の恋愛小説を書いていて……」
その告白に、澄珠は感心する。
「これだけ沢山の本を読んでいらっしゃるだけでなく、ご自身でも筆を取っておられるのですね」
「あっ、いやでも、そんなうまくなくてっ! 全然、名だたる作家様たちみたいな文章は書けてなくて……っ」
「けれど、文字を書いて物語を作り上げるということ自体がすごいことですよ。自信を持ってください」
先ほど栗萌からもらった励ましを、今度は自分の言葉で返す。栗萌は視線を落としながらも、少し恥ずかしそうに己の夢を口にした。
「……いつか作家になりたいんです。後宮内で起こった出来事を書き記して、千年先にも残るような物語小説を書きたくて」
以前聞いた話では、栗萌は花神の花嫁になることにさほど熱心ではないように思えた。歴史上では稀な例だが、千夜に頼めば後宮を自主的に出る道もあるはずだ。それでも彼女がここに留まる理由――それが別にあるのではないかと澄珠は感じていた。
「……ひょっとして栗萌様は、そのために後宮にいるのですか?」
栗萌は澄珠の問いに小さく頷き、視線を本棚へ移す。
「はい。わたしがここにいるのは、素晴らしい物語を書くためです」
明確な夢を持つ栗萌が、いじめられて俯いてばかりの澄珠の目には、きらきらと輝いて見えた。
屋敷を出ると、陽の光が容赦なく降り注いできた。
澄珠は栗萌のように壮大な夢を抱えて努力しているわけでも、琴のように誰に対してもはっきりと物を言える度胸があるわけでもない。
他の花嫁候補たちと比べれば、自分は見劣りする、と澄珠は思った。同時に、千夜が何の取り柄もない自分を選ばなくても当然だと感じ、きゅっと胸が痛んだ。
――あの場所に逃げたい。
胸の奥に湧き上がったその衝動に突き動かされ、澄珠は劣等感に押し潰されそうな心を抱えたまま、足早でその場を後にした。裾が風に煽られ、小さくはためく。
向かう先は、花庵だ。
花庵の前に立った澄珠は、息を潜めて雲隠れの術を解いた。
これまでいつも来ていた場所だというのに、新しくなった花庵は本当に立派で、勝手に踏み込んでいいものかと一瞬躊躇う。緊張しながら戸に手をかけ、軋む音を忍ばせてゆっくりと開いた。
中はしんと静まり返っている。折角建て直したのに、以前と同じく誰も使っていないらしい。
足音を殺して廊下を進むと、やがて縁側にたどり着く。
そこでは、花影が眠っていた。
できるだけ音を立てずに近付き、その寝顔をじっと見つめる。
実のところ澄珠は、初対面の時以外では、花影の顔をあまり見ないようにしていた。千夜に似ているせいで、見つめ続けるのが恥ずかしく、目が合ってもすぐに目をそらすことが多かった。
(本当に、よく似ている)
髪の色こそまるで異なり、千夜よりは少し華奢で痩せているようにも思うが、眉の形も輪郭も、目元の線も、唇の形までもが千夜と瓜二つだ。双子なのではないかと疑うほどである。けれど、神が双子ならその事実はとっくに土地の民に知られているはず。結局は、ただの他人の空似に過ぎないのだろう。
そう考えながらも澄珠は、その顔から目を離せなかった。まじまじと見続けていると、長い睫毛が持ち上がり、花影が目を開いた。
「そんなに見つめられたら、顔に穴が開いてしまうよ」
からかうような声音で言われ、澄珠の頬が熱を帯びる。
「も、申し訳ございません」
「別に君になら、どれだけ見つめられても怒らないけれど」
冗談か本音か分からない発言に、澄珠の鼓動はなお速まった。
ふと、花影の笑みが途切れる。花影がわずかに眉を寄せ、澄珠の顔へと手を伸ばした。その指先が頬に触れ、思わず肩が跳ねる。
「……怪我をしてる?」
花影の視線は、昨夜付いた澄珠の傷に向けられている。
「誰にやられたの」
その声色が、急に低くなる。背筋をひやりとした感覚が走り、澄珠は小さく身を縮めた。
「君に傷を付けたのは、誰?」
澄珠は初めて、花影を恐ろしいと感じた。
「香水瓶が落ちてきて、少しだけ擦ってしまって……私の不注意で、香水もだめにしてしまいました。もう手当てしてもらったので、大丈夫です」
ごにょごにょと搾り出すように告げると、花影の瞳から次第に険しさが消え、いつもの柔らかな表情へと戻っていった。
「なあんだ。そんなこと。また嫌なことがあったのかと思ったよ」
「え……」
心の内を見透かされたようで、澄珠は驚く。
「言っていただろう。ここへは、辛い時に来るって」
澄珠が言い淀んでいると、花影はゆるやかに上体を起こし、ぐい、と澄珠の腕を引いた。そして、耳元で囁く。
「大丈夫だよ。俺には遠慮しなくていい。何かあったら頼ってくれ。俺が君のことを、何を犠牲にしても守ってあげる」
澄珠は近すぎる距離に動揺して、思わず花影の手を振り解いた。あまりに近くに来られると、思考が乱れてしまう。
彼はこの後宮に仕える神官。花嫁候補には誰にでも、分け隔てなく丁寧に接する立場の人だ。だからこそ、こんな言葉も特別な意味などない。そう自分に言い聞かせ、熱を帯びた頬を指先で押さえる。
「……あ、あの、以前からお聞きしたかったのですが」
言葉を探すように一拍置き、澄珠は視線を彼へ向けた。
「花影様は神官ですよね? いつもここで何をなさっているのですか?」
神の後宮に務める神官の役割は、多岐にわたる。
神を祀る儀式の執行や、政務の手伝い、香霞の地の民への知らせ、後宮の防護、後宮における重要人物の護衛、外部からの来客対応などがあり、決して暇ではないはずだ。
それなのに、花影は縁側で昼寝をしていた。
澄珠の疑問に、花影は一瞬だけきょとんとした後、口元をゆるめた。そして、「ああ、そうか。後宮にいるのだから、そう解釈するよね」と納得したように呟く。
それからあっけらかんと言った。
「勤めを抜け出してここにいるんだよ、俺は」
「えっ……」
予想外の答えに、澄珠は言葉を失う。
「俺は他の神官たちみたいに、真面目ではないからね。折を見て、こっそり抜け出してここで隠れているんだ」
「だ、だめじゃないですか! 戻ってください」
慌てて促す澄珠に、花影はふっと笑みを浮かべた。
「昔はこうじゃなかったんだけどね。今はどうも、体が弱ってしまっていて」
彼はそう付け加えると、帯に挟んでいた煙管入れをゆるりと取り出す。
「俺はこうして休まないと、自分を保っていられないんだ」
花影の受け答えに、澄珠はやはり、ご病気なのだろうかと思った。食事も満足に取れていなかったし、療養中なのかもしれない。
「申し訳ありません。ご事情がおありだったのですね……」
それなのに戻れなどと、無神経なことを言ってしまったように感じて、澄珠は目を伏せる。
その横で、花影は煙草葉を軽く丸めるようにして火皿に収め、マッチで火を与える。ゆっくりと口に咥え、軽く息を吸い込む。薄い煙が一本、頬の傍を通り過ぎ、澄珠の前にも優しく広がった。
煙管を日常的に嗜む人など、これまで澄珠の周りにはいなかった。澄珠は悪いものに惹かれるように、思わずその所作に見惚れてしまう。
胸の奥に渦巻く思いを押し殺すように、花影からそっと視線を逸らした。
(この方が千夜様に似ているから、時々目を奪われてしまう)
顔が似ているからと言って、別の男に見惚れている自分に嫌気がさした。
たとえ千夜に選ばれずとも、千夜が琴と正式に結婚して後宮を追い出されようとも、澄珠はずっと、千夜のことを一途に想い続けようと思っている。叶わぬ恋だとしても、あの幼き日の思い出を、死ぬまでずっと心に刻みつけていたい。
だから、他の男性と新しい恋を、などとは考えていない。そもそも神官は神に仕える身であるため、恋をすることは原則ご法度だ。だから花影に対して格好いいなんて一瞬でも思うのはいけないことのような気がして、澄珠の中に少しの罪悪感が生まれた。
「今日も食事を用意しようか」
花影の穏やかな声が耳に届き、思考に耽っていた澄珠の意識が現実に引き戻された。
自分は食べないのに、そんなに毎度食材を用意しているのだろうか、と不思議に思う。
「今日はもう、友人と茶菓子を食べてきましたので……」
「友人?」
問いと同時に、花影の視線が澄珠の横顔を捕らえる。
「君に、友人がいるの?」
花影は、意外なことを耳にしたかのような声音で言った。そんなに友達がいなそうに見えるのだろうか……と、澄珠は胸の奥が少し沈むのを感じた。
間を置かず、今度は別の問いが飛んでくる。
「男の人?」
澄珠は慌てて首を横に振る。
「い、いえ。他の花嫁候補様で……最近よく、屋敷にお邪魔させていただいているんです。この怪我の手当てをしてくださったのも、その方で」
澄珠の答えを聞くと、花影はふっと表情を緩めた。まるで子を見守る親のような、柔らかな笑みだった。
「友人ができたんだ。よかったね」
不思議と安心感がして、澄珠は花影の隣、縁側にそっと腰をおろした。他と違って厳格な神官ではない分、この人になら、花神への疑いを話しても責められない気がした。
「その人とは、一緒に千夜様のことを探ろうとしているのです」
「……花神様のことを? 何故?」
「私、千夜様が突然ひどく変わってしまったように感じていて。まるで、外側は同じで、中身だけ入れ替わってしまったようだと、そう思うのです」
花影は澄珠の言葉に黙って耳を傾けていた。
「……おかしな話だと思いますか?」
「いや。要人が身を守るために影武者を立てるというのは、昔からよくある話だよ。入れ替わっているというのも、あながち非現実的とも言い切れない」
「でも」と花影は付け足す。
「本当に、〝中身が変わってしまった〟とするならば、君がそこまでする必要もないだろう」
「……え?」
優しく突き放すような言い方だった。
「変わってしまったということは、君が求めているその人はもう戻らないんだ。戻らないもののために、君が君の人生の大切な時間を使って尽くし続けるのは好ましくない。彼のことはもう、忘れた方がいいんじゃないかな。君の、幸せのために」
澄珠は口をつぐんだ。
胸の奥に、昨日琴から浴びせられた言葉が蘇る。みっともなく過去の思い出にしがみついて――と、彼女は澄珠を的確な言葉で罵った。
生き物は必ずしも、姿も心も、ずっと同じであるわけではない。琴が暴力を振るうようになったように、人もいつかは変わってしまう。千夜も琴のように、何かの理由で心変わりがあり、変わってしまったのかもしれない。だとしたら、戻らない死者をいつまでも探しているのと同じだ。
でも。
「私は、卑屈で陰気で、子供の頃から何に対してもあまり執着がありませんでした。諦めることに慣れていました」
「……うん?」
「でも私は、この世で唯一、千夜様のことだけは簡単に諦めたくないんです。過去にすがってみっともないかもしれませんが、千夜様と毎日のように一緒に過ごした日々は、私にとっては宝物のような思い出です」
「…………」
「あの日の千夜様が本当にいなくなってしまったかどうかは、まだ分かりません。諦めるとしても、自分にできることを全て行ったうえで諦めたいのです」
花影に向かって言葉を重ねるうち、澄珠の中で絡まっていた糸がほどけていくように、気持ちが形を成していった。
澄珠はやがて立ち上がり、まっすぐに彼を見据える。
「聞いてくださってありがとうございました。おかげで、一人でうじうじしていた心を整理できました。……それでは」
深く一礼し、雲隠れの術を使って、ふっと花庵から姿を消す。
残された花影は、煙管の先に静かに火を移しながら、唇に苦笑を浮かべた。
「……まいったなあ」
紫煙が細くたなびき、夕暮れの空に溶けていった。
◇
澄珠が屋敷へ戻ると、思わぬ変化があった。
玄関先で待ち構えていた女中たちが一斉に頭を下げたのだ。その顔色は一様に青白く、何かに怯えているようだった。
「おかえりなさいませ、澄珠様……」
皆の声は何故か小さく、震えていた。
案内されるまま自室へ入ると、卓上には見たこともないほど豪奢な料理がずらりと並んでいた。香り立つ蒸し物、彩り鮮やかな和え物、湯気を立てる汁物……まるで祝宴の席のようだ。
「お疲れではございませんか。どうぞ、こちらをお召し上がりくださいませ」
「湯殿もすぐにご用意しますので……」
「着物も新しいものを揃えてございます」
女中たちは恭しく身をかがめ、まるで大切な来客をもてなすかのように気遣いの言葉をかけてくる。
(……こんなにかしこまられたのは、いつぶりだろう)
まるで後宮にやってきた、最初の頃のようだ。
胸の奥に戸惑いが広がり、澄珠は卓の料理に手を伸ばすこともできない。女中たちの態度が不審すぎて、毒でも盛られるのでは、今夜殺されるのでは、などと被害妄想を募らせてしまう。
恐る恐る口にした蒸し物は、警戒したわりには、頬が落ちるほどにおいしかった。
結局、翌日になっても、その次の日になっても、女中たちの態度は変わらなかった。これまで澄珠に任せっぱなしにしていた炊事や洗濯、掃除まで、自分たちで率先してやるようになった。まるで何かの罰を恐れるように、澄珠がやる前にせっせと片付けてしまうのだ。澄珠が手伝おうとすると、有無を言わせぬ調子で制される始末である。澄珠は首を傾げるばかりだった。
屋敷のことを全て女中たちがやってくれるので、自然と自由な時間が増えた。澄珠はその空いた時間を、千夜の様子を探ることに費やすようになった。
雲隠れの術は、他の人に気付かれずに千夜に近付くために役立った。
観察を続けて分かったことがある。
昼間の千夜は、ほとんど琴の傍を離れない。他の神官たちが言うように、琴にべったりだ。中庭を散歩すれば腕を取って笑い合い、縁側では肩を寄せて囁き合う。
まるで周囲の者たちに、琴こそが唯一無二の存在だと見せつけているようだった。
けれど、彼は夜になるとどこかへ消える。
おそらく神殿に戻っているのだろうが、中に入っていくところまでは見ることができていない。
神殿は、たとえ花嫁候補であっても、正式な妻でない限り足を踏み入れることを許されない神域である。澄珠は昔からいつも、千夜と遊んだ後、その白い石段の下で立ち止まり、扉が閉ざされるのを見送るしかなかった。
何かあるのなら、神殿の中。千夜の変化、その答えは神殿の奥にあるのかもしれない。――でもそこに立ち入ることはできない。手詰まりだった。
どうしたものかと日々思案を巡らせていたある午後、澄珠の屋敷に、大きな桐箱が届けられた。
蓋を開けると、淡い桃色の絹にくるまれた小箱が幾重にも収められており、その隅に、さらりとした筆跡で『花影』と書かれている。そういえば最近、花庵に行っておらず、彼と会っていない。
小箱を一つ手に取って紐を解くと、現れたのは手の平にすっぽり収まる香水の瓶だった。瓶はカットガラスで、宝石のようにきらめいている。銀細工の蓋には細やかな唐草模様が彫り込まれ、蓋を捻れば、ふわりと柔らかな香りが立ちのぼった。
あるものは甘やかな白檀を基調に金木犀の蜜を思わせる香気を帯び、あるものは伽羅の深い薫りに、わずかに薔薇油を混ぜた異国めいた芳香を放っていた。
瓶ごとに香りの趣は異なり、それが何十個も並んでいる。
(……もしかして、香水瓶を駄目にしてしまったと言ったから?)
怪我について聞かれた時に、確かに澄珠はそう答えた。彼なりの励ましなのかもしれない。
香霞の地で香水は高級品だ。嬉しい反面、このようなものをいただいてよいのだろうかという不安が頭を過ぎる。
何かお礼をしなければ、と思った。
花影の顔が脳裏に浮かび、煙管を持つその姿を思い出す。彼の腰帯に挟まれていた煙管入れの布地は、少しくたびれていたような気がする。
――そうだ、煙管入れを作ろう。
澄珠は裁縫道具を取り寄せ、押し入れの奥から以前買い置きしておいた上質な縮緬を取り出した。
色は深い藍。花影の着物によく映えるだろうと思ったからだ。
布地を裁ち、手縫いで細かな返し縫いを進めながら、喜んでもらえるだろうかと想像した。針の進みと共に、思い悩んでいた心が少し軽やかになっていく。誰かへの贈り物を考えるのは久しぶりだった。
◇
数日後、澄珠は完成した煙管入れを持ち、花庵へ向かった。
入口で一度立ち止まり、自分の作った煙管入れを見つめる。今更ながら、こんなものを与えて迷惑がられたらどうしようと緊張が走った。
勇気を出して中へ入り、しばらく歩けば、やがて見慣れた縁側が見えてくる。そこには、予想通り花影がいた。背もたれにもたれかかり、静かに目を閉じている。
長い睫毛が頬に影を落とし、吐息が微かに胸を上下させていた。
また、眠っている。
澄珠は足音を殺し、そっと近付く。縁側の板が軋む音さえ立てまいと、つま先で慎重に進んだ。間近に腰を下ろし、じっとその顔を見つめる。
「久しぶりだね」
花影の目はまだ閉じられたままなのに、口が動いた。
澄珠の心臓が跳ねる。
(起きてたの……!?)
思わず手の中の煙管入れを握りしめて後退る。
目を開いた花影の口元が、悪戯っぽく弧を描いていた。
「……八日」
「え?」
「君がここへ来なかった日数だよ。寂しいじゃないか」
縁側に手をつき、ゆったりと上体を起こす。その動きは、水面に映る月がゆらりと揺れるように緩やかだった。
「君は心が傷付いた時にここへ来る。だから、君の幸せを望むなら、君がここに来ることを望まないことが正しい。でも君に会えない日々は、少し退屈に感じてしまうね」
縁側を渡る風が花影の髪をさらりと揺らしていく。
澄珠は、背の後ろに隠していた包みを、指先でぎゅっと握り締めた。
本当に渡してよいのだろうかという迷いが、少し溶ける。
「……あの、今日は、辛いから来たんじゃないんです」
小さく息を整え、一歩、花影に近づく。
「香水を送ってくださいましたよね。それのお礼にしては粗末なものかもしれませんが……」
唇がわずかに震える。
「……お、贈り物です」
差し出したのは、睡眠時間を削って丁寧に仕立てた煙管入れだ。淡い色の絹地に、細やかな刺繍を一針ずつ、縫い込んでいる。
花影は一瞬、瞠目した。しばらく互いの間に沈黙が流れる。やがて花影は無言で煙管入れを受け取ると、ふいと顔を背けた。
(……気に入らなかった?)
胸の奥で不安が膨らみ、それは徐々に羞恥へ、そして後悔へと変わった。
――やはり、あげるべきではなかった。
「いらなければ、自分で使いますので、返してください」
気を遣って、消え入りそうな声で呟くと、「いやだ」と即答される。よく見れば、花影の耳がほんのり紅に染まっていた。
「君は煙管を使わないでしょう。すなわち、これは本当に俺のためだけに作ったものだ」
「そ、そうですが……勝手に作ったものですので、いらなければこちらで処分を……」
「いらないなんて言ってない。その、嬉しい、よ」
花影は短く遮り、手で口元を隠して視線を落とす。
照れているのだと、澄珠はようやく気付いた。
嬉しくなって、口角が上がるのを堪えながら俯く。またしばらく沈黙の時間が流れた。けれどそれは、気まずさを感じさせる沈黙ではなかった。むしろ、不思議と居心地が良かった。
「今日はゆっくりしていったらどうかな」と、花影が柔らかに沈黙を破る。
「君のために甘味を用意しているんだ」
そう告げて立ち上がった瞬間――彼の身体がぐらりと揺れた。
「花影様!」
ふらつく花影に思わず駆け寄った澄珠は、その腕を支える。互いの体が重なり合い、まるで抱きしめ合うような姿勢になった。
予想外の急接近に、澄珠の鼓動が耳鳴りのようにうるさく響く。
(……ち、近い……)
慌てて花影から身を離し、澄珠は声を上ずらせる。
「だ、大丈夫ですか」
花影はすぐには答えず、しばし自身の足元に視線を落としていた。そして、何かを諦めたような掠れ声で呟く。「……もう、長くないな」と。
その発言が嫌なことを意味しているように感じて、澄珠は思わず無言で花影を見つめた。しかし花影はいつもの柔らかな笑みを浮かべ、すっと背筋を伸ばす。
「寄りかかってごめんね。嫌じゃなかった?」
「嫌なんてそんな――」
とんでもない、と言いかけた時、花影の腕がするりと伸びてくる。
「そこは、〝嫌〟と言わないと」
次の瞬間、澄珠は温かな腕の中にいた。
「男を勘違いさせてしまうよ」
耳のすぐそばで低い声が響き、澄珠は慌てて花影の胸を押し返す。
「い、いいいいっ、嫌ですっ!」
ぷっ、と花影がふき出し、あっさりと澄珠から腕を離した。
「ごめんごめん。調子に乗ったね。もうしない」
軽く肩をすくめると、花影はくるりと向きを変える。
「さて、甘味だ。おいで」
案内するように先を歩く背中を追いながら、澄珠の胸の鼓動は、先ほどよりもさらに騒がしくなっていた。
以前食事をいただいたのと同じ座敷に、桜餅が置かれていた。甘い香りと、煎れたての茶の匂いがする。
花影は、部屋の隅に立ち、窓の外に視線を向けながら煙管をふかしていた。細く白い煙が、午後の空気に溶けていく。
「……あの、何故いつもそちらにいらっしゃるのですか?」
おそるおそる問いかけると、花影はゆっくりとこちらへ視線を返す。
「食事中に煙たくなるのは嫌だろう。窓の外へ煙を逃がしているんだ」
気遣いは有り難いが、一人で食事を続けるのも気まずく、澄珠は遠慮がちに言った。
「よろしければ、こちらに座りませんか? 煙は気にしませんので……。ずっとあなたを立たせているのは、申し訳ないです」
花影はその言葉に目を細め、煙管を持ったまま静かに歩み寄ってくる。そして向かい合う席に腰を下ろした。
澄珠は匙を手に取り、少し緊張しながら切り出す。
「先程長くないとおっしゃっていたのは、どういう意味なのでしょうか」
花影は澄珠を一瞥した後、ゆっくりとした口調で答えた。
「最近、足が弱ってきている。立って歩けるのも、あと少しかもしれない、という意味だよ」
その声音は軽く笑うようで、しかし口元は笑ってはいなかった。
澄珠は気の毒に思った。神官は、心身ともに健やかであることが必須だ。神官であり続けるための基準も厳しく、目が少し悪くなるだけでもその資格は失われると聞く。歩けなくなれば、花影は神官ではいられないだろう。そうなれば、この後宮からも、必ず去らねばならない。
「薬などはないのですか?」
「薬で治る類のものではないからね」
物悲しそうに言う花影に、澄珠はそれ以上、言葉を継げなかった。
「そんな顔をしないでくれ」
花影は、煙管の火皿を指先で軽く叩き、灰を払う。
「緩やかに朽ちていく。生きとし生けるものそうなる。俺は少し、それが早いだけだ」
なだめるように言った花影は、場を明るくするためか話題を変えた。
「花神のことを探っているの?」
澄珠は姿勢を正し、こくりと頷く。
「はい。と言っても、大したことは分かっておりませんが……」
「そう」
短く答えた花影は、また煙を細く吐き出す。その横顔には、何かを思案している影があった。そして、その口がゆっくりと開く。
「朝風という名の神官がいる。困ったらその人物を頼るといい。彼はおそらく、君の味方となってくれるだろう」



