「無理やり、部屋に入ってこようとされて……! わたし、怖くて……」
ぎゅっと唇を噛みしめ、俯く栗萌の瞳には、恐怖からの涙が溜まっていた。
「あの人はずっと、わたしに指一本すら触れてこなかったのです。わたしの気持ちをずっと尊重してくださっていたのに、急に別人のようにわたしの苦手なことを躊躇なく……! あんなの、花神様じゃありません!」
息を詰めて聞いていた澄珠は、胸の奥がぞわりと粟立つのを感じた。
千夜は嫌がる女性に無理やり迫ったりなどしない。他所の土地には、契約して花嫁候補となった時点で女を我が物顔で手荒に扱う神もいるそうだが、千夜はそのような神ではない。澄珠のことも、いいように扱っていい自分の物ではなく、尊重すべき幼なじみとして仲良くしてくれていたように思う。
場の空気が一際重く沈んでゆく中、澄珠は栗萌の手を取った。
「そのような怖いことがあったのに、教えてくれてありがとうございます。私も、同じことを感じていました」
栗萌の涙がぽたりと床に落ちる。
「今の千夜様のことを探りましょう。きっと、何かご事情があるに違いありません」
声に出すことで、自分にも言い聞かせる。千夜がただ気まぐれに人が変わったとは、どうしても思えない。
栗萌は強く頷いた。その目にはまだ涙が浮かんでいたが、先ほどまでの怯えは少し和らいでいた。
二人は約束を交わした。
――今の花神の真実を、必ず見つけ出すと。
その後、栗萌の淹れてくれた香ばしい焙じ茶と、小豆の甘いおまんじゅうを口にした。その過程で、澄珠はようやく気を緩めた。栗萌とこうして他愛のない話を交わすのは初めてだったが、気の強い妹とはいい意味で異なる彼女とは、話が合った。
そして、時刻は夜を迎える。
澄珠が栗萌の屋敷を出た頃には、空にまん丸の月がかかっていた。銀の月明かりが、静まり返った後宮の回廊を淡く照らしている。
本来であれば、夜の移動には護衛の神官がつくはずだった。けれど、今はそれもない。屋敷付きの女中たちも、神官も、「澄珠は選ばれない」と噂して距離を置き始めていた。気付けば、澄珠の周囲には人がほとんどなかった。皆、澄珠に回す人手を減らしているのだ。
寂しさが胸に差し込む。
歩きながら、澄珠はそっと息をついた。ふと、視界の隅に、黒く濁った気配が揺れているのを感じる。悪しきものの瘴気だ。後宮全体を包む結界が存在しているはずなのに、夜になるとこうして闇が忍び寄ってくる。
(……こんなこと、以前はなかった)
千夜の力が安定し、神座に定着してからは、この後宮は常に清浄に保たれていた。だからこそ、新しい花嫁候補を迎えることができたのだ。
けれど今は――その結界すら、どこか薄れている気がする。
澄珠は、足を止めることなく、素早く印を結んだ。
「……雲隠れの術」
呟くと同時に、身体が月光に溶けるように揺らめく。気配を消し、足音すら残さず、澄珠は早足で自らの屋敷へと戻っていった。
翌朝。
澄珠は薄い夢の縁から引き戻されるように目を開けた。障子の向こうに朝日が静かに射している。けれど、胸騒ぎがした。静けさが不自然なのだ。女中たちの足音が一つも聞こえない。
身支度を整え、そっと襖を開ける。次の瞬間、つんと鼻を刺す、耐え難い悪臭に思わず息を呑んだ。
「……え……」
廊下には、土混じりの犬の糞と、腐った木の葉、折れた簪、ぐしゃぐしゃにされた書状の切れ端など、ごみとして捨てられていたものをかき集めたかのような汚れ物が、無造作に撒き散らされていた。それらは巧妙に、澄珠の部屋の前だけを狙って配置されている。まるでこの部屋の主を部屋から出られないようにするかのように。
女中たちが少し離れた場所に集まって、口元を手で押さえながら噂しているのが見えた。
「ねえ、もしかしてこれって、花神様のご指示なんじゃない」
「澄珠様が琴様に嫌がらせをしていたから、その報復なのよ」
「やだわ、汚い。私こんなところ片付けたくない」
澄珠は何も言わず、ただ静かに箒と塵取りを取りに戻った。
澄珠の起床に気付いても、女中たちは誰一人手を貸さない。ただ顔をしかめ、距離を取るだけだった。
澄珠は袂をまくり、震える手で一つ一つ、汚れたものを片付けていく。心まで汚れていくような感覚が指先にまとわりついた。
(……これもきっと、琴の仕業だよね)
こんな卑劣で陰湿なことを思いつくのは、あの優雅で残酷な美しき妹しかいない。琴が女中たちに命じたか、あるいは、千夜にあらぬことを吹き込んで、報復を促したか。どちらにせよ、こんなことがずっと続くのならば、恐ろしいことに変わりはない。
廊下を全て掃き終えた頃には、すでに陽が高く昇っていた。手を洗っても、袖を替えても、自分に染みついた悪臭が落ちないような気がしてならなかった。
気が付けば、足はまた花庵へ向かっていた。
誰にも会いたくなかった。誰かの目に映る、こんな惨めな自分を想像するだけで、全身が冷たくなる。
火事で崩れたままだったはずの花庵へと続く細道を、草をかき分けながら進む。焼け跡の焦げた匂いも、煤けた柱も、記憶の中ではまだ生々しかった。
ところが。
「……嘘……」
思わず足が止まった。
そこにあったのは、かつての建物ではなかった。いつの間にか建て替えられた様子の花庵が、そこに佇んでいる。
真新しい木の香りが風に乗って鼻をかすめる。繊細な彫刻が施された、澄珠の体重で崩れていたはずの屋根。
昨日訪れた時には、確かに焦げ跡がそのまま残されていたはずだったのに。誰がいつ、こんな立派なものを?
嫌な予感が脳裏を過ぎる。まさか、誰かがここを何かに使おうとしているのだろうか。そうしたら、澄珠の唯一の居場所はなくなってしまう。
戸惑いながら足を踏み入れると、花庵の周りに色とりどりの花が咲いていた。まるで、失われたはずの季節が戻ってきたかのようだ。
唖然としていると、ふと、背後から柔らかな声がした。
「おはよう。また来てくれたんだね」
驚いて振り返ると、昨日澄珠の体を受け止めたあの美男子が、煙管をふかせながら立っていた。
相変わらず、千夜と瓜二つの顔立ち。見る者にどこか夢の中にいるような錯覚を感じさせる、美しい人。
前回と違う衣を纏っている。今の彼は、渋い藍色の着物に黒の帯を締め、肩口には控えめな秋草の文様が織り込まれていた。優雅な所作で煙管を持ち、ゆっくりと煙をくゆらせている。
「……あっ、あの、ここに建っていた建物は……」
澄珠が思い切って問いかけると、男はちらりとこちらに目を向けて、口元を緩めた。
「片付けておくと言っただろう?」
その飄々とした物言いに、澄珠は目を見開いた。
「……あなたが建て直したのですか?」
男はふふ、と短く笑った。煙の向こうから覗く横顔は相変わらず美しく、瞳の奥にどこか寂しげな光を宿していた。
「大切な花嫁様のお望みだからね」
その言葉に、澄珠の胸の奥がきゅっと締めつけられた。思いがけず俯いてしまう。
この後宮でまだ自分のことを花嫁候補扱いしてくれる人がいるとは思いもしなかった。もうすぐ成人の儀式。千夜が花嫁を選ぶ日も近い。誰もが、選ばれないであろう澄珠からは興味を失い、雑に扱ってくる。まともに目を合わせてもくれない人すらいるのに。
そんな中で、随分と変わった人だ、と思った。
「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか……?」
男は煙管を唇から離し、少しだけ目を細めて、空を見上げて間を置いた。
「んー……」
考えるように小さく唸りながら、煙をふっと吐く。そして、くすっと笑いながら続ける。
「花影とでも名乗っておこうかな」
「花影……?」
男は澄珠の方へと目を戻し、どこか冗談めいた調子で続けた。
「俺は、後宮で華々しく咲く花の影だから」
澄珠がその言葉の意味をはかりかねていると、花影と名乗った彼はふっと顔を近づけ、鼻をすんと鳴らした。
「……ところで君、今日は何だか妙な匂いがするね」
「えっ……く、臭いでしょうか」
澄珠は真っ赤になり、思わず手のひらを嗅いだ。思い当たるのは、あの嫌がらせの残り香だ。彼に嗅ぎ取られてしまったのだと思い、恥ずかしかった。
「申し訳ありません。さっきまで廊下で、汚れた場所の片付けをしていて……」
声がだんだん小さくなって、ごにょごにょと消えていく。
すると、花影が首を傾げる。
「屋敷の清掃は、女中の仕事なのではないの?」
その問いかけに澄珠は目を伏せ、何と説明しようかと思い悩んだ。
後宮に入った身で掃除や後始末を自ら行うなど、あってはならない。だが現実には、誰もが澄珠を見限っていた。けれど、花嫁候補なのにそのような扱いを受けていることを、美しい男――千夜に似た男に知られるのも何だか情けなくて、恥ずかしくて、伝えることができない。
その沈黙を察したのか、花影はふっと視線をそらし、縁側に腰をかけた。
「……言いたくないのであれば言わなくてもいいよ」
そして、ゆるやかに言葉を継いだ。
「沢山動いて、汗もかいただろう。この花庵の奥には、山から引いた湯が湧いている。温泉だ。使えるようにしたから入浴してくるといい」
「えっ……」
思わず顔を上げると、花影は煙管の先を指で軽く叩きながらこちらを見ていた。驚きっぱなしの澄珠の反応を楽しむような、いたずらっ子のような眼差しだった。
「遠慮することはない。君のために整えておいた場所だから」
一瞬、言葉が喉でつかえる。
――こんなに優しくされるなんて、いつぶりだろう。
最初はみんな優しかった。
後宮に入った頃は、幼くして術の才のある優秀な巫女、花神の一人目の花嫁候補としてちやほやされたし、大事にもされた。
自分はみんなから大切にされているのだと思い込んでいた。
でも違った。彼女たちが見ていたのはあくまでも〝花神の次期花嫁〟としての澄珠であり、その価値や見込みがなくなれば離れていく。そんな簡単なことも理解していなかった、自分は周囲の女中たちと本当の意味で親しくしていたのだと勘違いしていた自分のことが、ずっと恥ずかしくてたまらない。
「……ありがとうございます」
人に優しくしてもらえたことが嬉しくて、澄珠は涙ぐみながらお礼を言った。
花影は少し驚いたように目を見開き、ふいと顔を逸らす。
「手拭いや替えの衣も用意してある。ゆっくりしておいで」
澄珠は花影の言葉に後押しされ、新しくなった花庵の戸を開けた。
放置され、崩れかけだったはずの花庵は、まるで生まれ変わったように中まで広く綺麗になっている。
湯殿へ向かうまでの渡り廊下では、風に揺れる簾越しに庭のわずかな緑がのぞいていた。
服を脱ぎ、露天へと続く扉を静かに開ける。
足先からそっと湯に沈み込んだ。疲れが体から抜けていくような感覚を覚える。
仰ぎみれば、青空が広がっていた。
どうせまたあの屋敷には戻らなくてはならない。けれど、今この一時だけでも、現実から逃れられる場所があることが少しの救いだった。
湯から上がり、湯殿を出て縁側へ戻ると、昼下がりの陽射しが床に斑模様を落としていた。木陰に花影が腰を下ろしている。その指先には、先ほどと同じ、細長い煙管があった。銀色の軸に花模様の彫りが入っていて、淡い煙が、陽光の中にゆらゆらと漂っている。
「……お湯、ありがとうございました」
澄珠は静かに頭を下げた。
花影はこちらを振り向くと、煙管を口元から外し、少し目を細めた。
「湯加減はどうだった?」
「ちょうどよかったです……」
「それはよかった」
花影はふっと笑みを漏らし、再び煙管を咥える。
「……あ、あの、差し出がましいようで恐縮ですが、神域でお煙草は使用禁止なのではないでしょうかっ」
澄珠はどうしても気になって、おそるおそる声をかけた。ここは一応、中心から外れているとはいえ後宮の一画。そこで煙管を吸うなど、巡回の神官に見つかれば注意では済まないだろう。澄珠はじっと花影の手元を見つめた。
しかし花影はまるで気にも留めぬ様子で、ゆったりと煙を吐き出す。陽に透けるその煙は、まるで薄紫の花びらのようだった。
「これは通常の煙管ではないよ」
澄珠は目を瞬かせる。煙管は一見すると美しい装飾が施された、普通の品に見える。
何か違うのだろうか。他の煙管を見たことがないから、分からない。
「吸ってみる?」
花影が試すような視線を澄珠に向けた。
澄珠は勢いよく首を横に振る。手をぱたぱたと振って否定の意を示すと、花影はすぐに肩を揺らして笑った。
「冗談だよ。君の嫌がることはさせない」
花影の笑い声は昼下がりの静けさの中で心地よく響いた。穏やかな日差しの下で、澄珠は少しだけ緊張の力を抜く。
ふと、花影が澄珠の方へ体を近付けた。澄珠が「?」と瞬きをするより早く、すっと花影の手が伸びる。指先が澄珠の頬の近くに触れそうな位置まできたかと思うと、花影はそのまま、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「……!」
思わず息を呑んだその瞬間、花影は澄珠の髪の傍に顔を寄せ、くんと音を立てるように香りを嗅ぐ。
「うん。いい匂い」
低く、愉快そうに漏らされた声が、すぐ耳の横で囁かれる。あまりに急接近した距離に、澄珠の心臓はどくどくと音を立て、頬が燃えるように熱くなる。
「は、花影さま、近いです」
澄珠は戸惑いながらも、精一杯落ち着いた声を出そうと努めた。花影はそんな澄珠の反応を楽しむように、少しだけ身体を引いて、微笑を浮かべる。
「花影でいいよ。花嫁様に様付けをされるのは落ち着かない」
「……は……花影、ち、ちか、ちかいです」
「うん、そうだね。髪が乾いたら食事にしよう。どうせ、屋敷では用意されていないのだろう?」
見透かすような言葉に、澄珠は気まずくなって俯いた。
屋敷の女中たちは、最近ではもう、澄珠の部屋に食事を運んでこない。澄珠が自分で炊事場に立ち、余った材料で朝食や夕食を作っている。
なのでここで食事をもらっても問題はないのだが、とはいえ長居をするのも図々しい気がする。
「そこまでしていただくのは申し訳ないので、そろそろ帰――」
言いかけた澄珠の唇の前に、すっと人指し指が立てられる。
「ここで遠慮はいらない。それに、食材をもう用意しているんだ。君が食べてくれないと困るよ」
食事のことを想像すると、ぐううう……と、澄珠の腹の虫が主張した。
澄珠は羞恥心から、お腹を押さえて花影から顔をそらす。そういえば、朝からずっと汚れた廊下の掃除をしていて、何も口にしていなかった。
花影はふふ、と唇の端を上げて微笑む。
「ほら。やはりお腹が空いてるじゃないか。分かりやすくてかわいいね」
言いながら、彼はくるりと踵を返し、花庵の奥へと歩き出す。その背に、澄珠は一瞬戸惑ったが、やがて後を追った。
案内されたのは二階の一室。立派な掛け軸のある、広い和室だ。
そこで澄珠の前に並べられた膳は、思わず息をのむほどに華やかだった。
重箱の蓋を開ければ、まるで花が咲いたような彩りが目に飛び込んでくる。鯛の姿造りに、艶やかな海老と帆立の焼き物、柚子の香りを閉じ込めた蒸し鮑。旬の山菜の天ぷらは、揚げたての衣がまだかすかに音を立てている。
小鍋では、山の幸と海の幸を丁寧に炊き合わせた寄せ鍋が、ふつふつと湯気を立てている。汁物には、白味噌仕立ての椀に三つ葉が色を添えていた。
「……こ、こんなに……」
澄珠は目を丸くして呟いた。
普段食べているものとは違い、あまりにも豪華すぎる。
しかし、卓の向かいに花影の膳はない。彼は部屋の片隅に立ち、窓の外を眺めている様子だった。
不思議に思った澄珠は、そっと問いかけた。
「……あの、花影は食べないのですか?」
すると、花影は煙管を片手に、こちらに視線を移す。
そして、口元の笑みをそっと消した。やがて寂しさを滲ませた目で、ぽつりと答える。
「俺は食事ができないんだ。君だけで食べるといい」
淡々とした声の奥に、何か深い事情があるように思えた。澄珠は驚きつつも、それ以上は聞けなかった。
「……では、いただきます」
体調でも悪いのだろうか、と疑問に思いながら小さく頭を下げ、箸を手に取った。
その場にはしばらく、澄珠の食事の音だけがしていた。
食事を終え、食器を片付けた後もしばらく、澄珠は花影と談笑していた。が、窓の外に夕日が見えたので、会話を終わらせることにした。
澄珠は膝の上に手を置き、息を整えてから口を開く。
「今日はありがとうございました。そろそろ帰ります」
その言葉に、向かいに座っていた花影が少し拗ねたように視線を落とした。
「もう少しいればいいのに」
澄珠は首を横に振る。
「……あまり長く屋敷にいないと、不審に思われてしまいますので。それに」
そこで言葉を切った。
胸の奥に浮かんだ理由は、軽々しく口にすべきではない気がして。
花影が、畳の上でわずかに身を乗り出す。
「それに、何?」
促す声は優しいのに、拒めない圧があった。
澄珠は一瞬躊躇ったが、後宮の中心部から離れた花庵なら、壁の向こうに誰の耳もないと感じ、おずおずと口を開く。
「千夜様のことを探りたくて……」
花影の瞳がわずかに細められる。
「探る? 君は、元々彼と随分と仲が良かったと聞くけれど」
「……笑わないで聞いてくれますか?」
荒唐無稽な話であるため、澄珠はそう前置きし、背筋を伸ばす。
「私は、あの方と親しくさせてもらっていたからこそ、今の千夜様が、偽物に見えてならないのです」
花影の表情は動かなかったが、空気がわずかに張り詰めた。
やはりこのようなことを言うべきではなかったように思い、澄珠は畳の上に手を付き、慌てて立ち上がる。
「……こんな話をして申し訳ございません。選ばれなかった花嫁の負け惜しみ、戯言だと思ってください」
足早に襖へ向かおうとしたとき、不意に手首を掴まれた。
驚いて振り返ると、花影の指が確かにそこにあり、しかしその顔は感情を読み取りづらい陰影の中にあった。
一拍の沈黙の後、花影はぱっと手を離す。
「あまり、危険なことはしないようにね。辛くなったら、またおいで」
外へ出ると、夕暮れの光はもう赤みを帯び、花庵の大きな屋根を染めている。
遠くでカラスが二声鳴き、山裾へと沈む日を追うように飛んでいった。
◇
花神の後宮内にある三つの屋敷は、渡殿と呼ばれる長い渡り廊下でそれぞれ繋がっている。
琴の屋敷の方へ歩いていると、またもや千夜と琴の姿が目に入った。あの二人は、いつ見ても一緒にいるように思う。
今日も二人は互いの仲を確かめ合うように親しく寄り添っていた。けれど、その距離はいつもより少し遠い。
(もう少し近くへ……会話が聞こえるところまで、行けないかな)
澄珠はそっと足を向けかけた。けれど、途端に護衛の神官たちが視線を鋭くし、怪訝そうにこちらを見やる。
その不審者を見つめるような目に、胸の奥がぎゅっと縮む。あの視線の中を歩いて琴たちに近付く勇気はない。澄珠はすぐに踵を返し、来た道を戻った。
薄暗い自分の部屋に戻った澄珠は、手慰みに花冠を作った。
編みながら考える。そもそも花神は、これまで聞いていた限り、琴といる時は甘い言葉を吐くばかりだった。何か怪しいことを言っていた覚えはない。
そうなると、花神よりも、花神の周りの人――たとえばお付きの神官に、話を聞いてみる方が確実かもしれない。しかし、花神お付きの神官なんて、忙しすぎてこちらの話を聞く暇もないだろう。約束を取り付けるのが大変だ。
そんな思索の途中で、部屋の襖が音もなく開いた。
澄珠が顔を上げると、そこに立っていたのは琴だった。薄桃色の着物はいつも通り整っているが、その視線は針のように鋭く、唇の端には冷たい微笑がある。
「お姉様、今日、わたくしたちのこと、盗み見していたでしょう」
琴の声は柔らかいが、含まれる言葉は毒を帯びていた。
「一体何のつもり? いつもいつも、気持ちの悪い視線を向けてきて。わたくしが千夜様に愛されているのが、そんなに気に入らないの?」
「ち、違……」
そこで、澄珠はふと考えを巡らせた。
――そうだ、琴なら。最近、最も千夜の傍にいるのは、他でもない琴だ。不審な様子を目にしていないか、一言尋ねてみれば何か分かるかもしれない。
「琴、ねえ、千夜様といて何か……」
「……は?」
琴が低い声を出し、一歩踏み込んで澄珠の頬を平手で打つ。
「千夜様のお名前をその口で出さないでくださる? お姉様ごときが呼んでいい方ではないわ」
澄珠は打たれた頬を押さえ、唇を震わせながらもしばらく黙り込む。頬の熱がじりじりと痛んだ。
「……琴……どうしてしまったの?」
震える声で違和感を訴える。
「おかしいのは、花神様だけじゃない。琴もよ。昔はそんな子じゃなかったでしょう。多少口が悪くても、我が儘でも、遠回りな嫌がらせなんてしなかったし、家族に暴力なんて振るわなかった……」
その言葉が火に油を注いだのか、刹那、乾いた音とともに、琴の掌が再び澄珠の頬を打ち抜く。
ぱしんっ――と響いた音と共に、頬に痛みが広がった。
澄珠は息を詰まらせ、わずかによろめく。
目の前の琴の表情は、甘えたで、姉である澄珠にべったりだった幼い頃の面影など欠片もない。
「黙りなさい! 千夜様のことも、わたくしのことも、そうやってみっともなく昔の思い出にばかりしがみついて、恥ずかしくないの?」
琴の手が突き飛ばすように澄珠の肩を押し、澄珠の背は後ろの鏡台にぶつかった。
がたりと大きく揺れた鏡台から、硝子細工の香水瓶が滑り落ちる。冷たく硬い瓶が頬にぶつかり、その蓋の部分が澄珠の皮膚をわずかに切った。転がった瓶の中の香水が床に散らばる。それはかつて、千夜からもらったものだった。
「お姉様がここから出て行かない限り、死ぬまで苦しめてあげる」
琴は鼻を鳴らし、袖を払うような仕草で踵を返した。襖が閉まる音とともに、足音が遠ざかっていく。
澄珠は床に片手をつき、頬の痛みを感じながらも、鏡台の前で立ち上がる。鏡に映り込む自分の顔は、痛みに歪んでいるというよりは、全てを諦めたような無だった。
◇
翌朝、澄珠は栗萌の屋敷へ向かった。花神の件で新たに判明したことがあると、栗萌から文が届いたのだ。
澄珠が玄関先に姿を現すや否や、栗萌は息を呑んで近付いてきた。
「澄珠様……け、け、怪我をされていますか!?」
驚きと心配が入り混じった声。栗萌の視線は、澄珠の右頬に留まっている。
そこには昨夜できた紅い擦り傷がまだ生々しく浮かんでいた。
「こんなの、掠り傷ですから……」
澄珠は無理やり笑顔を作る。
「い、い、いけません。傷を放っておくと、残るかも……。それに、顔ですし、尚更大事にした方がよいです」
栗萌は、心配そうに澄珠を屋敷の中に招き入れると、薬棚の前へ歩み寄った。
引き戸を開け、棚の奥から小瓶と白布、さらに薄茶色の紙片を取り出す。紙には油と薬草を練り合わせた膏薬が薄く塗られている。
「少し沁みますよ」
そう言って栗萌は小瓶の栓を抜き、綿に染み込ませ、澄珠の頬をそっと拭う。ひやりとした感触がした。
栗萌は薬棚に出したものをしまいながら、ちらちらと心配そうに澄珠に視線を向けてくる。
「あの、もしかして、な……何かあったのですか? 頬も、少し腫れておりますが……」
栗萌の声は不安そうだ。
というのも、本来花嫁候補の顔に傷が付くなどあってはならないことである。そうならないよう、護衛の神官や女中が花嫁候補を守る役割がある。そのため、栗萌の目には、澄珠の様子が不可解に映ったのだろう。
「……いえ。大したことはありませんので、気になさらないでください」
澄珠は抑揚のない声で返した。
栗萌に現状を伝えたところで、何かできることがあるわけではない。傷の手当てをしてくれた時の様子から、栗萌がいかに心優しい人なのかが見えてきた。そんな彼女に、琴にいじめられているなどと伝えて、余計な心配を煽りたくなかった。
栗萌は少し納得のいかないような顔をしたが、やがて澄珠を元気付けるような明るい声で、「おいしいお菓子があるんです。一緒に食べませんか?」と促した。
澄珠が頷くと琴は廊下へ向き直り、襖の外に控えていた女中へ声を掛ける。女中は静かに応じ、ほどなくして漆塗りの盆に和菓子と湯気の立つお茶を載せて戻ってきた。女中は、品を並べ、澄珠にぺこりと頭を下げると、また音も立てずに去っていく。
栗萌の屋敷はひどく静かで、他に人の気配は感じられない。外庭には一人の護衛の神官が立っているが、目に入るのはその人影と、先程の女中だけだ。
「……使用人は、お一人だけですか?」
と澄珠は恐る恐る尋ねた。
栗萌も琴が後宮に来てから女中に敬遠されているのではないか、という同情が胸を過ぎったのだ。思えば栗萌も澄珠も、今の状況は似ているはずだ。突然現れた、最も愛されている花嫁候補の存在に、周囲からの期待を奪われている。栗萌は澄珠と違って琴をいじめたなどという噂は立てられていないから、澄珠よりも扱いが幾分良いかもしれないが。
栗萌は上品にお菓子を口に運びながら答える。
「この屋敷には、元より一人だけですよ」
澄珠は意外に思った。自分の屋敷には二十人を超える女中が住み込みで働いているし、それが当たり前だと思っていたからだ。
栗萌はそんな澄珠の表情を見て、穏やかに笑む。
「……澄珠様は、花神様の特別です。ですから自信をお持ちください。与えられた屋敷の大きさだって、一番大きいのですから」
確かに、栗萌の屋敷と澄珠の屋敷では、大きさで言えばかなりの差がある。琴の屋敷だって、澄珠の住む場所よりは小さい。しかしそれは、自分がたまたま一番最初に後宮入りしたからであって、特別な思いなどきっとそこにはない――と、澄珠は悲観している。
「それで、本題なのですが……」
湯呑の中の茶が半分ほど減ったころ、栗萌はそっと懐から一枚の写真を取り出した。
「この方は今、琴様の護衛として後宮内で仕えております」
厚手の紙に焼き付けられたのは、写真師の手によるものらしい、やや硬い表情の青年の姿だった。
澄珠はそこに映った顔を見た瞬間、覚えがある、と思った。背丈も肩幅も大きくなってはいるが、琴が幼かった頃、近所でよく一緒に遊んでいた少年だ。かつて彼は神官学校へ進むという夢を語っていたので、今では立派な神官になっていることだろう。
澄珠が写真に目を落としていると、正面の栗萌が衝撃の事実を口にした。
「調べを進めたところ、彼にはかつて反政府組織との往来があったことが判明いたしました。それに、彼のこの後宮への登用も、琴様の強い推薦によるもの、のようなのです」
栗萌は一拍置き、澄珠の瞳をまっすぐに見据える。
「――わたしは、例の放火は、琴様の自作自演ではないかと疑っております」



