偽り咲く花神さまの後宮


 ◇


 風がさらりと吹き込む治療室。薄い布の帳が揺れる中、澄珠はゆっくりと瞼を開いた。
 真っ先に映り込んだのは、板張りの天井。その次に飛び込んできたのは――

「お姉様!」

 泣き笑いのような声と共に、琴が勢いよく抱きついてきた。
 その温もりに包まれながらも、澄珠の頭はまだ状況を飲み込めず、ぼんやりとしていた。だが、記憶が少しずつ蘇ってくると同時に、胸がざわりと震える。

「おい、琴。怪我人を圧迫するなよ」

 苦言を呈する声。寝台の隣に立つ夕映が、呆れたように腕を組んでいた。

「千夜様は……千夜様は、ご無事なの!?」

 焦って口を開いた澄珠に、琴がはっとして身体を離し、言葉を返した。

「花神の神格は、千夜様に戻ったわ。事の次第は神官組織にも既に伝えられているし、あの女は今牢に入れられている。術を使える状態じゃない」

 その一言に、澄珠の胸から大きく息が抜けていった。
 安堵と同時に全身の力がどっと抜け、枕に沈む。

「まったくお姉様ったら。開口一番、自分の体より千夜様の心配だなんて。……そんなにお熱い仲だとは知らなかったのだけれど?」

 琴が揶揄うように口にした瞬間、澄珠の頬がぱっと赤く染まった。

「何よぉ。お姉様が好きでもない男に嫁がされるんじゃないかって、わたくしずっと気を揉んでいたのに。この後宮で、しっかり恋心を育てちゃってたわけね? 心配して損したわ」
「ご、ごめんなさい……。その、私、千夜様が好きなの。いくら琴でも、渡せない……ごめん……」

 俯きがちに告げる澄珠に、琴はふっと唇を緩めた。

「別にそういうことなら、お姉様から千夜様を奪ったりしないわよ。わたくしが後宮に入ったのは、母様の予言を防ぐためだしね。この地の花神が傾く、という予言は、どうやら防げたみたいなの。ならわたくしが、ここでやることはもうないわ」

 言いながら、琴は少し柔らかな表情を浮かべた。

「……それに千夜様は、最初からお姉様しか見ていないご様子だしね」

 横で聞いていた夕映が、組んだ腕を解かずに口を挟む。

「あの時、お前が自ら俺達の屋敷に足を運ばなければ異変に気付けなかった。……疑って悪い。感謝する」

 真摯な声音に、澄珠は胸が温かくなる。
 もう敵意はない。幼い頃のように自然な距離感で言葉をかけてくれている――その事実が、何より嬉しかった。怖くても立ち向かってよかったと、心から思えた。
 だがふと、別の問題が頭を過ぎる。

「……でも、駄目かもしれない。一度花嫁候補になった以上、選ばれなければ後宮から追放されて、巫女の資格も剥奪されるって決まりがあって……」

 澄珠は青ざめて琴を見た。巫女としての誇りを胸に生きてきた琴に、その資格を失わせるわけにはいかない。どうしたものかと頭を悩ませていると。

「それなら心配無用よ。千夜様と話はつけてあるわ。わたくしはお姉様の妹、正室の親族という立場を理由に、特別扱いを認めてもらえるそうよ」

 千夜は、澄珠だけでなく家族まで守ろうとしてくれている。その感謝が胸に広がると同時に、「せ、正室……」と呟く。仰々しい響きに耐えられず、澄珠は顔を赤らめ俯いた。

「何よ今更。千夜様の成人の儀式は半年後、予定通り行われるそうよ。お姉様は花嫁になるのよ。千夜様の同意も取れているのでしょう?」
「こ、細かく言わないで!」

 澄珠は真っ赤な顔で耳を塞ぎ、布団に身を潜めた。

 ふと、琴の目が部屋の入口へと向けられる。

「……ほら、噂をすれば」

 含み笑いを浮かべながら、琴が顎をしゃくった。
 その仕草に澄珠も視線を追い、はっと息を呑む。

 ――そこには、戸口に佇む千夜の姿があった。

「わたくしたちはお暇しましょうか。お邪魔みたいだし」
「そうだな。お熱い二人の間に割り込む趣味はねえ」

 琴と夕映が揃ってからかうように笑い、軽い足取りで部屋を後にした。
 澄珠は慌てて口を開きかけるが、うまく声にならない。止めたいのに、舌がもつれて言葉が出てこなかった。

 千夜が静かに近付いてくる。
 その髪も瞳も、すっかり元の色に戻っている。

――嗚呼、やはり、格好いい。眩しいくらいに素敵……。

 胸の奥からこみ上げる感動に、澄珠は無意識にごくりと喉を鳴らした。
 千夜は寝台の傍らに腰を下ろし、目を細めて澄珠を見つめる。

「どうやら傷は、全て治ったみたいだね。うちの医療班は優秀だ」

 低く、柔らかい声。
 澄珠は恥ずかしさに俯き、布団をぎゅっと握った。

「……ご心配おかけしました……」

 千夜の手が澄珠の頬へ伸び、指先がそっと触れていくる。
 優しい仕草に、頬がじんわりと熱を帯びた。

「澄珠」
「は、はい」
「ねえ、澄珠」
「な、何でしょうか」
「こっちを向いてくれないの?」

 澄珠が目を上げると、すぐ目の前に千夜の顔があった。
 あまりの近さに心臓が跳ねる。

「あの時言っていたことを、もう一度、俺に聞かせてくれない?」
「え……」
「澄珠の口から何度でも聞きたい。澄珠は、どうして俺を助けに来てくれたの? どうして俺に消えてほしくなかったの? その可愛いお口で教えて」

 甘えるような声音に、澄珠はぐっと押し黙る。
 しかし、言わなければならない。伝えたいことは、言える時に言わなければ伝わらないと、学んだのだ。

「……せ……千夜様が、す、好きだからですっ」

 必死に口にすると同時に、千夜が澄珠との距離をさらに詰めてくる。
 頬に触れる手の温もり。視界いっぱいに迫る面差し。千夜の唇が、澄珠の唇にそっと触れた。優しい口付けだった。
 驚きと同時に全身が熱に包まれる。心臓が爆発しそうになりながら、澄珠は目を閉じて必死に受け入れた。
 千夜が額を澄珠の耳に口を寄せ、囁く。

「俺も好きだよ。……止めてもらえて、よかったかも。すべての言動がこんなに可愛い澄珠を他の男に渡すなんて、やっぱり考えられない。澄珠が他の男に触れられていたら、死んだ後に怨霊にでもなって、相手の男を呪い殺していたかもしれないね」

 千夜はそう言って、ふっと冗談っぽく笑った。

「そんな未来に比べたら、今すごく、幸せだ」

 澄珠は頬を赤らめながら、震える声で答えた。

「わ、私も……千夜様が傍にいてくださるだけで、幸せです」

 互いの吐息が混じり合う距離で、もう一度、唇が重なる。
 互いの愛情を確かめ合うような、長くて甘い口付けだった。



 ◇


 数日後。
 栗萌には流刑の判が下された。もう二度と、彼女がこの香霞の地に戻ることはできない。
 通常であれば死罪となるはずだった。けれど澄珠が必死にやめてほしいと願い出て、千夜がそれを受け入れてくれた結果だった。
 大勢の神官に囲まれ、罪人として鎖で拘束されながら、後宮の大門を抜けようとする栗萌の背に、澄珠は咄嗟に声を投げた。

「栗萌様!」

 その名を呼ばれた栗萌が、驚いたように顔を上げる。
 すぐさま傍らの神官が眉をひそめて注意してきた。

「澄珠様、罪人と言葉を交わすのはおやめください」

 しかし、澄珠は構わずに続けた。
 この地を離れる栗萌とは、もう今後の人生で会うことはないだろう。その彼女に、これだけは伝えたいと思った。

「いつか、物語を書いてください」

 栗萌の目が、大きく見開かれる。

「この列島国家全土に広がるくらい、この香霞の地にまで広がるくらい、素晴らしい物語を。いつかそこで、再会しましょう」

 栗萌は唖然とした顔で立ち止まったまま、しばらくの間黙っていた。
 そして、ゆるりと口元に弧を描き、呆れ笑いのように笑った。

「……お人好しなお姫様。きっとあなたみたいな人が、物語の主人公になれるのでしょうね」

 そう言い残し、栗萌は再び歩き出した。
 大門の外へと消えていく背に、花の都を渡る風が吹き抜ける。まるで彼女の更生と、新しい旅立ちを見送るかのように。
 澄珠がその背中を見送っていると、隣の千夜が大きく息を吐いた。

「……本当に流刑だけでよかったの? 俺はまだ、彼女のことを許せそうにないけれど」
「私も……完全に許したわけではありませんよ」

 あの後、栗萌の背負った悲しい過去を、千夜から聞かされた。
 厳しい家柄に生まれたがゆえに歪められた心。彼女がああなったのは、彼女自身が生き方を選べなかったことも要因にあるだろう。
 お茶を出し、楽しげに自分の好きな小説を薦めてくれた彼女の全てが悪だとは、澄珠にはどうしても思えなかった。

「でも、栗萌様の言うことは、一部正論だったと思うのです。私が千夜様の隣に立っているのは、たまたま幼い頃から一緒にいただけというのも、そうだと思います」

 自嘲気味にそう零すと、千夜は一瞬、黙り込んだ。
 澄珠は不思議に思って顔を上げる。

「……どうなさったのですか?」
「いや……俺は、もっと前から澄珠を知ってた」
「え?」

 千夜は少し恥ずかしそうに笑った。

「澄珠が後宮入りできたのは、術の発現が早かったからというだけじゃない。俺が神官に命じて君を後宮に呼び寄せたんだ。権力を悪用してね」

 意味を問う前に、千夜が穏やかに続ける。

「大丈夫。俺は君が思っているよりも、君のことが好きだよ」

 どういうことですか、と聞こうとしたが、その間もなく千夜が歩き出す。
 歩き出す千夜の足元には、淡い花々が次々と咲き誇っていく。神格が戻ったばかりで、まだ力を抑えきれていないのだろう。
 出会った頃のようだ、と澄珠は思った。

 白、桃、紅、紫……花弁の色彩が溶け合い、後宮の地を彩る。
 風が吹けば、無数の花びらが宙を舞う。

 花の後宮。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 澄珠はその美しい花吹雪に包まれながら、まるで千夜に抱き締められているような感覚に陥った。



 千夜の背を追う。
 伸ばした手は、今度こそ千夜に届いた。