偽り咲く花神さまの後宮



 澄珠は、赤く大きな鳥居の下に立ち、先にある神殿を見上げていた。
 蒼穹を背にそびえる社殿。幾重にも連なる石段の先に佇むその姿は、神聖な、来る者を拒むような冷ややかさを纏っている。
 そこは花神と、花神の正式な花嫁だけが踏み入ることを許された聖域だ。
 幼い頃から何度も遠目に見て憧れたが、決して中に入ることは許されなかった場所。
 澄珠の胸は激しく脈打っていた。喉がひどく乾いているのに、飲み込む唾はざらりと砂を噛むように重い。

「……澄珠様、本当にやるのですか?」

 澄珠の後ろに立つ朝風の声には、躊躇いが含まれていた。
 澄珠は深く息を吸い込み、前方にそびえ立つ社から目を逸らさずに答える。

「はい。私は、千夜様を、今代花神様が統治する世を――ここで終わらせるつもりはありません」

 後ろで、朝風が微かに苦笑した。諦めの色と、どこか誇らしさの混じった笑みだった。
 境内には、何人もの神官が立ち並び、見張りを行っている。彼らの衣の白が、陽を受けてぎらりと眩しく光り、澄珠の緊張を煽った。

 部外者の神殿への立ち入りは死罪だ。
 見つかってはならない。一度気付かれれば、全てが終わる。

 澄珠は静かに印を結び、息を吐き出した。

「……〝雲隠れの術〟」

 空気がひやりと揺らぎ、澄珠と朝風の輪郭が霞む。次第に影が薄れ、二人の姿は周囲の目から掻き消されていった。鳥の声も、風のざわめきも遠のいて、ただ胸の鼓動だけが耳を打つ。

 刹那、澄珠は地を蹴った。

 参道を駆け抜ける。
 視界の端を、朱塗りの回廊が矢のように流れていく。敷石を踏むたび、下駄の底に硬い衝撃が響いた。
 袖が風に吹かれ、髪が背にばたばたと翻った。朝風の気配が後ろに続くのを感じる。

 神殿の階段が目前に迫る。高く、厳かにそびえ、俗世の者を弾こうとしている。けれど、澄珠の足は止まらない。

 ――行かねばならない。
 千夜様を、ここで消えさせはしない。

 澄珠は唇を固く結び、ひたすら前へと駆け上がった。

 扉に触れた瞬間、澄珠の掌から、冷たい波が全身を撫でていくような感覚が走った。
 ぐっと力を込めて押し開けると、重々しい音を響かせて両の扉が内へと開いていく。

 一歩足を踏み入れる。中はとても静かだった。
 暗く、空気は冷ややかで、まるで自分のみ外界から切り離されたような錯覚に陥る。中はひんやりとしていて、吐く息が白く立ちのぼった。不快な冷気ではない。どこか清浄な気配を孕んでいる。

 澄珠は慎重に歩を進めた。
 石でできた床はわずかに凹凸があり、足音が吸い込まれるように小さく響く。壁は遠くに霞んで見え、どこまで続くのか分からない。暗闇を奥へ奥へと進むにつれ、緊張で背筋に冷たい汗が伝う。

 しばらく経つと、視界の先に、淡い光が現れた。
 最初は霧のように揺れる霞かと思ったが、歩を進めるごとにその正体が明らかになっていく。

 澄珠は息を呑んだ。

 そこに咲いていたのは――――見たこともないほど巨大な、花だった。
 薄く青みがかった透明の花弁が、幾重にも折り重なり、天へと向かって大輪を広げている。花の高さは人の背丈を優に超え、見上げるほどの大きさであった。
 花弁は透き通る硝子のように清らかで、内部を淡い光が流れている。青白い輝きは呼吸するかのように脈動し、花弁の内側を走る光脈が、澄珠の瞳を奪った。

 まるで、水晶でできた花が、月光を取り込んで咲いているようだった。

 中心から伸びる花芯は淡い光柱のように輝き、神殿全体を青白く染め上げている。
 息を吸えば胸の奥まで澄み切った香りが染み渡り、頭がくらりとした。

「これが……花神の本体、〝偽りの花〟……」

 背後で朝風がぽつりと呟く。上位の神官とはいえ初めて目にしたのだろう。その声音には畏怖と感嘆が入り混じっており、普段の落ち着いた彼には似つかわしくない声の震えがあった。
 次の瞬間、朝風がはっと目を見開く。何かに気付いたらしい。彼は澄珠の腕をぐっと引き寄せると、躊躇なく近くの柱の影へと押し込んできた。同時に澄珠の口を強く押さえ、息さえも漏らすなと告げるような眼差しを向けてくる。
 なぜ、と問う暇もなく、澄珠は反射的に耳を澄ませた。

 微かに、声が聞こえる。

「ご機嫌はいかがですか? 花神様」

 澄珠の全身が硬直した。間違いない、栗萌だ。甘ったるい響きを持ちながら、冷たくも感じられる声だった。
 澄珠は柱の陰から、そっと視線を送る。

 そこにあった光景を目にした瞬間、息が詰まった。

 薄青く透き通る巨大な花。その花弁の奥に、千夜の姿があった。
 上半身だけがまだ外に残り、腰から下はすでに花の中に呑み込まれている。花弁が脈動するたび、千夜の身体も引き寄せられるようにわずかに揺れ、花に絡め取られていくのが見えた。
 喉から声が飛び出しそうになった。だが、朝風の掌が口を覆っているおかげで辛うじて堪えられた。

 千夜の正面に、栗萌が立っていた。
 真っ白な衣をまとい、仄暗い光の中にいるその姿は、まるで花嫁のように美しく見える。
 澄珠の胸の内で、焦りが生じた。
 叫びたい。千夜の名を呼びたい。千夜が花に吸収されるのを止めに行きたい。柱の陰に押しとどめる朝風の手がなければ、きっともう声を上げていただろう。

 栗萌が千夜に向かって、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべた。

「お辛いでしょう。偽りの花に取り込まれるのは、激痛なのではないですか?」

 その声音は慈悲深さを装っていながら、どこか楽しんでいるようでもあった。
 澄珠の心臓が早鐘を打つ。けれど千夜は一言も返さなかった。ただ、花に呑まれつつある身体を微動だにさせず、栗萌を冷たい目で見据えている。

「最後の機会を与えます」

 栗萌はゆっくりと歩み寄り、偽りの花に近い場所で立ち止まった。その声は甘やかだが、揺るぎない圧を孕んでいる。

「わたしを花嫁にしてくださるなら、今すぐ術を解きましょう」

 澄珠ははっと息を呑んだ。
 栗萌が術を解けば、千夜は死なずに済むかもしれない。
 胸の奥がかき乱される。千夜を渡したくない。他の女の人のものになるなんて耐えられない。でも、それ以上に千夜が死んでしまうことの方が、ずっと、ずっと恐ろしい。

 だから、それで千夜が助かるのなら。
 どうか、どうか。
 澄珠はぎゅっと目を瞑り、祈るように願った。千夜の命が助かるのなら、たとえこの恋が叶わずともよい。
 しかし。

「俺は澄珠以外を花嫁にする気はない」

 ばっさりと断ち切るような声が、澄珠の耳に届いた。
 はっと目を開ける。千夜は、今も痛みに苛まれているだろうに、栗萌に毅然たる態度を取っていた。

「へえ。一途なことですねえ」

 栗萌の唇が冷たく歪む。

「わたしを花嫁にするくらいなら、自分が死んでもいいとおっしゃるのですか? 自分が死ねば、その大好きなお姫様にも二度と会えなくなるのですよ?」

 千夜は、余裕ありげな笑みを見せた。

「俺は澄珠が、他の人の隣で笑っていたって構わない。……本当は少しだけ、あの子が他の男のものになるのは嫌だけれど。この地で彼女が幸せに生きるためなら、俺はどんな努力も惜しまない。君には悪いけれどね」

 栗萌の眉が、ぴくりと動いた。
 澄珠は柱の陰で唇を噛んだ。涙が込み上げてきそうになる。
 ――千夜は、自分のためにここまで言ってくれる。命を削りながら、なお。
 そう思うと、痛いほど胸が締め付けられた。

「……そうですか。なら、あなたはもう用済みです」

 次に出てきた栗萌の声は、氷よりも冷たかった。心底落胆したような声だった。

「わたしは次に生まれてくる花神様と幸せになります。さようなら」

 吐き捨てるように言い放ち、彼女は踵を返した。衣の裾が床に擦れる音が、広い神殿にやけに響く。

 その態度に、澄珠は心底驚いた。
 ――次に生まれてくる花神と幸せになる? こんなにもあっさりと、千夜のことを諦めるのか。
 そう知った途端、怒りにも似た感情が、いや、それよりも、はっきりとした嫌悪が湧いてきた。
 こんなことをするほど千夜のことが好きなのだと思っていたのに。栗萌のそれは、千夜への恋情とは全く別のものだ。それが今、確定した。

 澄珠は、自分の口を塞ぐ朝風の腕を軽く叩いた。合図に応じて朝風が静かに手を離す。同時に、朝風に小声で伝える。

「私の術が効いているうちは、栗萌様に私と朝風様のお姿は見えません。気付かれないように近付いて、取り押さえてください。私は、千夜様をあそこから引きずり出します」
「しかし、今花神となっている栗萌様に手を上げれば、偽りの花が黙っておりません」
「手を上げる必要はありません。拘束だけしてください。一度千夜様を引きずり出せれば、後のことは……後で考えます」

 言い切るや否や、澄珠は迷わず駆け出した。

「ちょっ、澄珠様……!」

 後ろから慌てた声が追う。朝風もすぐに足音を立て、後を追ってきた。
 澄珠は真っ直ぐに偽りの花へ走った。巨大な花の透明な花弁が、淡い光を反射しながら迫ってくる。

 栗萌は気付いていない。
 花に取り込まれた千夜が、先に澄珠の方を見た。
 まるでこちらが見えているかのように。

 澄珠は駆け寄り、その冷たい腕に手を伸ばす。次の瞬間、背後で「ぐっ……!」と低い呻きが響いた。振り返れば、朝風が栗萌を後ろから羽交い締めにしている。栗萌の美しい顔が怒りに歪み、もがいていた。

 朝風が彼女の動きを封じてくれている。――今しかない。
 澄珠は両手で千夜の腕をつかみ、全身の力を込めて引いた。
 だが、びくともしない。まるで花に鎖で繋がれているかのようだった。
 それでも澄珠は諦めず、必死に何度も何度も引っ張る。

「澄珠……?」

 千夜が信じられないという表情で、こちらを見下ろしていた。

「どうしてここに……」

 千夜の声はかすれて、苦痛と驚愕が入り混じっていた。

「好きな人のことを助けに来るのは、おかしいですか!」

 澄珠は叫ぶと同時に、術を解いた。霧が晴れるように姿が露わになり、澄珠の姿が千夜の目に映る。
 千夜が驚愕したように目を見開いた。透明の花弁に映る光が、琥珀の瞳を揺らしている。

「好きな人、って」
「千夜様のことです。ずっと、ずっと好きでした。私だって、あなた以外の人の花嫁になる気はありません!」

 胸の奥に溜め込んでいた想いが、堰を切ったようにあふれ出す。
 涙が頬を伝い、握り締めた手に力がこもる。

 幼い頃から勇気がなくて、秘めていた恋心。でも、もう隠さない。
 澄珠は必死に力を込めるが、巨大な花に呑み込まれた千夜の身体は、石像のように動かなかった。冷たい花弁の縁が千夜の肌に食い込んでいる。
 背後で、栗萌の甲高い笑い声が洞窟のような神殿に響きわたった。

「これまでその方が他の女の隣で笑っていたのをただ眺めてただけのくせに、今更足掻いてどうしたんですかぁ~? お姫様なのに、みっともなく王子様にしがみついて、はしたないのでは?」

 確かに、これまで澄珠は、琴の横で笑っている千夜を柱の影からただ見ているだけだった。自信がなかったからだ。自分などよりも琴の方が、花神の花嫁にふさわしいのではないかという思いが常にどこかにあった。
 けれど、相手が栗萌なら話は別だ。

「貴女は〝花神に愛される自分〟に執着しているだけで、千夜様がお好きなのではないわ! そんな人に、千夜様のことは渡さない!」

 澄珠は栗萌に聞こえるように声を張り上げた。
 直後、栗萌が澄珠を、おかしそうに嘲る。

「負け惜しみを。――術を解いたのは得策ではなかったですね。あなたがたは、偽りの花に見つかりましたよ」

 刹那、偽りの花の花弁がざわめき、無数のつるが生き物のように蠢き始めた。大地を割るような音とともに、それらは一斉に澄珠と朝風へ襲いかかる。

「……っ!」

 鋭いつるの一本が澄珠の肩を掠め、着物の布を裂き、鮮血が飛ぶ。痛みと同時に体勢を崩した澄珠は床へと叩きつけられ、息を詰まらせた。

「お忘れですか? ここは神殿。花神とその正式な花嫁以外は立ち入ることを許されぬ場所です。お二人とも、偽りの花のお怒りに触れましたよ。生きては帰れないでしょうね」

 栗萌がくすくすと喉を鳴らして笑う。
 耳元でつるが風を切る音が響き、冷や汗が背筋をじわりと濡らした。しかも、激痛で術の発動に集中できない。

「澄珠様!」

 栗萌を取り押さえていた朝風が、そこから手を離し、澄珠のもとへと駆け寄ってきた。その影が澄珠の前に躍り出る。朝風は即座に刀を抜き、迫り来る無数のつるへと身を挺して立ちはだかった。
 次々と襲いかかるつるを弾き返す音が激しく響き、火花のように水滴や花粉が散った。

 視界の端で、栗萌が冷笑を浮かべながら悠然と立ち去っていくのが見えた。その背筋はひどく優雅で、振り返ることすらしない。

「精々、惨めに野垂れ死んでくださいね」

 ――まずい。このままでは取り逃す。
 ここで栗萌を逃がせば、後で何を仕掛けられるか分からない。ぞっとする未来が脳裏を掠める。
 澄珠は痛む腕を押さえ込みながら、必死に呼吸を整え、再び術を発動しようと集中する。しかし、それよりも早く、朝風の動きが目に見えて鈍っていった。つるは一本二本ではない。数えきれないほどの蔦が一斉に襲い掛かり、刀の動きの隙間を縫っては彼の体勢を崩していく。
 このままでは全員死ぬ。澄珠は直感でそう悟った。胸の奥に凍りつくような焦りが広がる。
 その瞬間だった。


「――――わたくしのお姉様に、何をなさっているのかしら」


 偽りの花を威圧するような、鋭い声が空気を裂く。
 直後、神殿の空間全体を揺らすほどの水の奔流が放たれ、荒れ狂うつるたちを一掃した。飛沫が雨のように降り注ぎ、澄珠の頬を濡らす。

 立ち去りかけていた栗萌が、驚いたような顔で振り返る。
 神殿の入口、その影に立っていたのは――琴と、その護衛である夕映だった。神殿の内に射し込む外光を背負い、佇んでいる。

「神殿の扉が誰もいないのに勝手に開いたと、外で騒ぎになっているわ。やはりお姉様だったのね」

 琴は長く艶やかな黒髪に白い指を通し、緩やかに払った。
 偽りの花のつるたちが、次の獲物を見定めたかのように琴へと一斉に襲いかかる。しかし琴は眉一つ動かさず、涼やかな顔で手を掲げると、鋭い水の光線を放った。奔流は青白くきらめきながら空気を切り裂き、つるを絡め取り、その動きを一瞬で封じ込める。
 水滴が飛沫となって辺りに散り、澄珠の頬や千夜を絡める花びらに再び降り注いだ。
 琴は歩みを進め、神殿の中央へと近付いてくる。その視線はまず、花に半ば飲み込まれつつある千夜に注がれた。動揺からか、瞳が淡く揺れる。しかし琴はすぐに表情を引き締め、今度は冷ややかな光を宿して栗萌へと向き直った。

「で、これは一体どういうこと? 説明していただけるかしら?」

 琴の厳しい声音に、栗萌の肩がわずかに震える。それでも必死に虚勢を張るかのように、彼女は言葉を返す。

「あなたこそどういうことですか? 神殿への立ち入りは死罪ですよ?」

 声は上ずっていたが、なおも食い下がろうとする。
 琴の唇がふっと弧を描いた。笑みはあまりに冷ややかで、氷よりも冷たかった。

「そんなことよりも大罪を犯している側が何を言っているの? 貴女には元々疑いをかけていたけれど、お姉様の夕映への発言のおかげで確信が持てたわ。か弱そうな面をして、まさかこんなことまでするとはね」

 言葉に合わせるように、琴は後ろ、夕映の方へと視線を流す。
 夕映が静かに頷き、神殿の扉の影から一人の男を引きずり出した。

 その姿を見た澄珠は、思わず息を呑む。
 男の顔は――千夜と瓜二つ。ただし、その顔は相当殴られたのか腫れ上がり、原形をとどめぬほど歪んでいる。


「こいつ――千夜様の偽物が、全て吐いたわよ。貴女が偽りの花を騙してるってね」