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辛い時、苦しい時、わたしを救うのはいつも物語だった。
わたしは教育の厳しい巫女の家系で育った。わたしの家は先代花神の正妻を過去何人も輩出したという家柄だ。ゆえに常に誇り高く、傲慢ですらあった。わたしの親や親戚は、今代も一族の唯一の年頃の娘であるわたしを花嫁候補にしようと躍起になっていた。
だから、常に〝花神様の花嫁の自分〟を想像しながら生きる人生になった。わたしは自分がいつか花神様の花嫁になるのだと疑わなかったし、そうならなければ自分に価値はないと知っていた。
しかし、わたしの術は早期には発現しなかった。術の発現の早さは、巫女としての優劣を分かりやすく示すもの。そしてそれは、花神様の後宮に招かれるかどうかに直結する。
母は成長の遅いわたしに術を発現させるため、あらゆる方法を試そうとした。そして、巷で噂の、極限の危機に陥ると術が開花するなどという、真偽が定かでない情報に踊らされた。だから母は、わたしの部屋に複数人の男を寄越し、襲わせた。
噂が本当だったのか、偶然だったのかは分からない。その日を境に、実際にわたしは幻術を扱えるようになった。母は満足し、上機嫌に笑っていた。心がずたずたに切り刻まれたわたしを横に置いて。
辛い時、苦しい時、わたしを救うのはいつも物語だった。
特に、この地に伝わる最古の長編小説の、第三章が好きだった。過酷な家庭環境で育った可哀想な花嫁候補が、花神に見初められて救われ、幸せになるという物語。
その話を読むたびに、わたしが今不幸なのは、未来で幸せになるためなのだと思えた。
何度も何度もその三章を読んだ。擦り切れるまで読んだ。
わたしが幻術を扱えるようになると、味を占めたらしい母が、またわたしの部屋に男を寄越した。わたしは己の身を守るために術を強化した。自分の姿を醜男に変貌させれば、やってきた男は気味悪がって帰っていく。そうするしか、わたしには方法がなかった。
わたしを害し、わたしの術が強化されるたびに、母は満足げに微笑んだ。その母の笑顔が、いつまでも頭に焼き付いて消えなかった。
わたしが十歳の時、異国との交流を断絶していた我が国が開国した。
開国と同時に、異国の文化が流入してきた。わたしは異国の本を多く仕入れた。
わたしが手にする異国の物語の中には、王子様とお姫様がいて、二人は必ず結ばれる運命にあった。
自分もこんな風に、花神様と結ばれる運命なのだと疑わなかった。
そして後宮入りする日。絢爛に着飾られ、華やかに見送られたわたしは、ついに自分は花神の花嫁になったのだと錯覚した。
だが与えられた屋敷は、地味で簡素だった。夢見たお姫様の城のような場所ではない。ほんの少し、幻滅した。
でも、そんなわたしの失望は、花神様を実際に一目見た瞬間に、春風のように吹き飛んでしまった。
挨拶をしにわたしの屋敷に初めてやってきた彼は、後宮の外で夢見た以上の美男子だった。
長い睫毛が影を落とす琥珀の瞳、夜明け前の空を思わせる淡い髪色。白磁のような肌に、たおやかな身のこなし。
美しい、という言葉では足りないほどに、花神様の姿はわたしを魅了した。
「本が好きなの?」
分厚い本を抱えているわたしに、花神様はそう聞いてきた。
こくりと頷くと、花神様が微笑んだ。
「欲しい本があれば言うといい。取り寄せて、ここへ持ってこさせるよ」
花神様は、それだけ言って去っていった。
わたしの知るどの男とも違って、無理やりわたしに触れることもなかった。
男なんて嫌いだった。男なんて、汚物だと思っていた。
でも花神様は違う。花神様だけは、違う。
この人がわたしの王子様に違いない、と思った。
その後も花神様は、わたしの元に通ってくれた。
まず、王子様には、自分が可哀想であることを知ってもらわなければならない。ただ可哀想なだけでは意味がない。それを知らせて、同情を誘って、愛されなければいけない。
だからわたしは、花神様に自分の不幸な身の上話を、涙ぐみながら吐露した。
花神様は狙い通りわたしのことを可哀想に思ってくれて、沢山の本を贈ってくれた。
わたしは、花神様がわたしに本を贈ってくださるのは、わたしのことを愛しているからだと思っていた。
だから、お礼を言いに外へ出かけた。後宮入りしてから、慣れない環境が怖くてずっと引きこもっていたけれど、勇気を出して一歩踏み出した。
花神様は、笑ってわたしのことを抱き締めてくれるだろうと思った。
でも、わたしが出かけた先で待っていたのは、予想外の光景だった。
白砂が敷き詰められた庭の向こう、淡く霞む藤棚の下で、二人の人影が笑っていた。
花神様は、一人の少女に向けて柔らかな微笑みを向けていた。それはわたしを相手している時には見せたことのない、心からの笑みだった。
花神様の隣で、恋敵が肩をすくめて上品に小さく笑っている。
わたしは、その光景を柱の陰からじっと見つめていた。
この人がわたしの王子様に違いない、と確かに思っていた。なのにその人は、別の女の王子様のようだった。
おかしい。おかしい。おかしい。
わたしは不幸なのに。可哀想なのに。十分苦しんだのに。
悲劇のお姫様には、素敵な王子様が現れて救われるものじゃないの?
可哀想なだけで救われるお姫様とわたし、何が違うの?
わたしはずっと自分の事ばかり考えていた。けれど、一度周囲に意識を向けると、これまで目にも映らなかったことがどんどん気になってきた。
その花嫁候補は澄珠という名前で、わたしより一足先に後宮入りし、花神様とは幼なじみのように育ったらしい。彼女に与えられた屋敷は神殿の北、歴史的に花神様の正室が住むことが多かったとされる場所に位置し、わたしの屋敷よりも広くて大きくて立派だった。屋敷にいる女中の数も、わたしの屋敷とは桁違いだった。
――わたしと彼女の間には、最初から優劣があった。
わたしはそれでも諦めなかった。
今は花神様が悪い女に騙されているだけで、本物のお姫様はわたしだ。いつか花神様も目が覚める、と。
わたしは花神様が来るたびに、母に打たれた話や、母が仕向けた男に集団で襲われた話、親族がわたしを花神様の花嫁とするために厳しく育てた話、そこに愛情など微塵もなかった話を繰り返し聞かせた。
すると、ある日を境に、花神様はわたしの屋敷へ訪れなくなった。
代わりに、医者がやってきた。その医者は、花神様に頼まれたという本を何冊か持ってきて、こう言った。
「花神様に、貴女様の心理的援助を頼まれました。よろしければ、今後も定期的に会って、貴女様が今困っていることなどを聞かせていただけませんか? 大丈夫、ゆっくりでいいですよ」
男だった。男の、医者だった。
花神様が来るたびに泣くわたしは、花神様に、手に余ると思われたらしい。他の誰かに投げたくなるほどに。
知らない男に屋敷に入られたわたしの動揺は激しく、癇癪を起こして本棚を全て倒し、泣き叫びながら暴れたそうだ。この時のことは後から聞いただけで、ほとんど記憶には残っていない。ただ、激しい怒りを抱いたことだけ覚えている。
ふざけるな。わたしが会いたいのはお前じゃない。花神様だ。
わたしは、治療をしてもらいたいんじゃない。花神様に可哀想なわたしを幸せにしてほしいのだ。
目が覚めて数日、放心していた。
医者を追い払ってからも、花神様はわたしの屋敷に訪れなかった。
わたしはようやく理解した。
――現実は物語とは違う。世界は思い通りにならない。
〝可哀想である〟というだけでは、王子様の気を引けないのだ。
そう知った途端、あんなに好きだった物語の中のお姫様たちが、どんどん邪悪なものに見えてきた。
何の努力もせずに、ただ可哀想というだけで王子様の横に立っている女には虫唾が走る。
物語は嘘吐きだ。わたしがいくら可哀想でも、こんな風にはならない。
わたしは、子供の頃から擦り切れるくらい読んだ古典の、三章を墨で塗り潰した。
そして、三章ばかり読んでいたその物語を久しぶりに、一章から読み返した。
子供の頃は一章が苦手だった。花神様が、愚かにも女狐に騙されるからだ。しかし、不思議とその物語の方が、今の自分の中にすっと入ってきた。
女狐に騙されている王子様。傾きかける香霞の地。傷心の花神様を献身的に支える真のお姫様。
――これだ、と思った。
三章のように結ばれるのが難しいなら、一章のように結ばれてしまえばいい。
初代の国が滅びかけた時、まず最初に起こったのは社の放火であるという記録がある。
女にうつつを抜かした初代の悪政により、花神の支配に反意を抱く勢力が謀反を行ったのだ。
わたしはその歴史を、一章をなぞるため、反政府組織に手を伸ばし、唆して放火を促した。
しかし、ここでも誤算が起こった。
放火は成功しなかった。間諜として反政府組織に忍び込んでいた神官により、放火計画の日付などの情報が全て漏れていた。同時に数カ所を襲ったので多少の被害はあったものの、放火は阻止され、結局のところ、社まで火は広がらなかった。
放火を止めたのは、水の術を扱う、琴という美しい巫女だった。後に調べれば、彼女は女狐の妹のようだった。
わたしはよいことを思い付いた。
あの女狐に、わたしと同じ思いを味わわせてやろうと。
だからわざと、女狐役を増やした。
偽りの花にわたしが花神であると認識させた後、醜男を後宮に呼んで、彼に関する後宮の人々全員の認識をすり替えた。その男は、子供の頃に母の命令でわたしを襲った気持ちの悪い醜男の一人だった。大きくなってからきつい仕返しをしたので、彼はわたしの命令なら何でも聞く。
精々他の花嫁候補も、こんな醜い男のことを花神様と勘違いして、必死になればいいと思った。その滑稽な姿を想像すると、よい気分だった。
花神様の姿をした醜男に、琴を後宮に招かせた。そして、できるだけ琴に寵愛を向けるよう指示した。女好きの醜男は、鼻の下を伸ばして琴と仲良くし始めた。
その姿を見て、最初の女狐は泣きそうな顔をしていた。よい気味だった。
しかしこれは、長い物語の前段階に過ぎない。
わたしがあの古典よりも――現実と乖離したあんなくだらない物語よりも、素晴らしい物語を描いてみせる。現実という紙のうえで物語を作り、それを記録する。百年、千年残るような物語を。
わたしは紙を広げなから心を踊らせた。
この作戦が成功し、この地が傾けば、きっと素晴らしい物語が書ける。
全てが終わる時、真に愛されるのは、きっとこのわたしだ。
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