花神の神座におわすのは、初恋の人と全く同じ顔をした軽薄な何かだ。
白砂が敷き詰められた庭の向こう、淡く霞む藤棚の下で、二人の人影が笑っていた。
花の神千夜は、柔らかな微笑みを湛え、琴の肩をそっと抱き寄せている。琴は肩をすくめて上品に小さく笑っている。琴の着物は薄紅色の華やかなもので、千夜と並ぶと、まるで一枚の絵のように美しかった。
琴の姉である澄珠は、その光景を柱の陰からじっと見つめていた。
――澄珠の初恋の相手である千夜は、変わってしまった。
誰もその事実に気付いていない。しかし、一番最初に後宮に招き入れられた花嫁候補であり、花神と幼なじみとして幼少期を過ごした澄珠には分かる。
あれは、千夜ではない。まるで偽物のようだ。
琴が見せる優しげな顔も、澄珠の知るそれとはまるで違う。姉の前では、あの妹は棘のような言葉しか吐かない。
白い花が咲く庭の奥で、澄珠はひとり影に沈んでいた。
千夜の声がふと、風に乗って届く。
「琴、あの時、社を救ってくれてありがとう」
その一言に、琴が嬉しそうに顔をほころばせる。
咲き誇る花々の香りが、ひどく胸に重かった。
◇
神と人が共に生きる列島国家である、常世国。
この国では、神と自然への信仰が政治と深く結びついている。
中央に天照神殿と呼ばれる神殿があり、国家の頂点に立つのはそこに住む最高神格者だ。常世国の各地には、最高神格者から派生した、花の神、風の神、雪の神、土の神など複数の自然を司る神々が存在し、国の各地を統治している。
神々は実体を持ち、人間の姿を取り神殿の中に後宮を持つ。
澄珠はそのうちの一つ、花の神の後宮の、三つあるうちの一つの屋敷に、五歳の頃から住んでいる。
幼少期、術の開花が最も早かった澄珠は、強力な花嫁候補として最も早く花神と契約を交わした。その十年後にもう一人、花嫁候補が後宮に入ってきた。
そして――最後の花嫁候補である澄珠の妹、琴が後宮入りしたのは、つい三ヶ月前のことだった。
「澄珠様のお屋敷には、琴様がやってきてから一度も花神様のお通いがないそうよ」
「やっぱり正室に選ばれるのは琴様かしら」
「澄珠様の方が後宮入りが早かったのにねえ……」
屋敷の女中たちの声が聞こえてくる。
各地の神殿の周辺には神官組織が存在し、神に仕える巫女や神官が常駐している。その下に、巫女や神官に使える女中がいる。彼女たちは本来澄花の身の回りの世話をしてくれる立場なのだが、琴が入ってきてからは、目に見えてやる気を失っているようだった。
「澄珠様、後から入ってきた琴様に嫉妬して嫌がらせをしていたそうよ」
「気持ちは分かるけれど、そんなことをしたら花神様に嫌われて当然よ」
「はあ、わたしも、澄珠様でなくて琴様にお仕えしたかったわ」
事実無根だ。おそらく琴が広めた噂だろう。
澄珠は小さく溜め息を吐いた。
各地の神々は、巫女の家系の女性と契りを結び、花嫁候補とすることで力を安定させる。
契りの相手の数は神によっても違うが、花の神は代々成人する前に三人の女性を花嫁候補として後宮に招き入れる。
後宮内では三人が花の神からの寵愛の大きさを競い合う。花の神が成人する際、中でも特に愛された女性は正式な妻である正室となり、婚姻の儀を経て国の地方統治に強い影響力を持つこととなる。
ただし正室に選ばれなかった他の二人は契約を解かれ、後宮を追い出され巫女としての籍を失い、ただの人間に戻る。
澄珠もいずれそうなるだろう。
歴代の神の中には、後宮入りした三人の女性を成人後もそのまま平等に扱い、後宮の屋敷から追い出さなかった慈悲深い神もいるそうだが、大抵は正室の指示に従って他の女性を追い出すことになる。
それに――と考えていた時、すり硝子の戸が、からんと涼やかに鳴った。
振り返れば、今日は薄桃の着物に身を包んだ琴が薄笑いを浮かべて立っている。日輪を映したような髪飾りがきらりと揺れる。あの花神には、相当な数の贈り物を受けているらしい。
「あら、お姉様。今日もみすぼらしい格好」
血の繋がった妹である琴は、自分が一番大事にされなければ気が済まない性格だ。
姉に慈悲を与えて後宮に居座らせるなど有り得ない。
澄珠は畳の上に膝をついたまま、手にしていた花冠をさっと後ろに隠した。薄紫の藤と白百合を編んだ、小さな慰めの品。後宮の隅に咲いた野花を集めて、誰にも見られぬよう、ひっそりと仕上げたものだった。
琴は目を細め、嘲るように笑った。
「花冠なんて作っているの? 子供みたいね。千夜様のお通いがなくて暇だからって。……それとも、そんな野草で、千夜様の気を引くおつもり?」
琴はついと歩み寄ると、澄珠の手から花冠を奪い取る。
ぐしゃりと乾いた音がして、琴の掌の中で藤の房がばらばらに崩れる。
薄紫が畳に散った。それはまるで、微かな夢の終わりのように儚く。
「今更こんなことをして足掻いたって、千夜様が愛しているのはこのわたくしよ? 身の程知らずって本当に見苦しいわ」
足袋で花冠を踏みつけ、口元を綻ばせながら、琴は楽しげに笑う。
その笑みは甘やかで、残酷なまでに冷たい。
澄珠は何も言わず、ただ壊れた花冠を静かに拾い集めた。
幼い千夜と共に花冠を作った思い出が蘇ってきて涙が零れそうになったが、必死に耐えた。
泣いてたまるものか。泣いたところで、誰が味方してくれるだろう。
この後宮にはもう、澄珠の味方はいない。
澄珠が花神の後宮にやってきたのは、わずか八つの頃だった。
数ある巫女の家系の中でも、澄珠の術の開花は群を抜いて早かった。術というのは、巫女それぞれが持つ特殊能力である。
この国では、術の発現が早ければ早いほど、才ある巫女として扱われる。そのため澄珠は、花神の代替わりが行われるのと同時に、生まれ育った家を離れ、花神の寝殿と繋がる屋敷に通された。
予知の術を持つ澄珠の母は、このことを事前に予言していた。――いつか澄珠は、花神様の花嫁になるんだよ、と。
最初は不安だった。
澄珠の暮らす、香霞の地と呼ばれる地方全体を統治する存在である花の神。その花嫁候補の一人として呼ばれるなど、身に余ることのように思えた。
実家を離れる不安もあった。
両親が喜び、華々しく送り出してくれた手前、本当は心細いなどとは言えなかった。当時はまだ仲が良かった妹の琴が離れたくないと大泣きしたので、それを宥めるため、姉として気をしっかり保たねばならなかった。胸の奥にある不安を隠し、後宮入りが楽しみであると強がることしかできなかった。
しかし、そんな澄珠の不安は、花神である千夜を一目見た瞬間に、春風のように吹き飛んでしまった。
初めて後宮の中心にある庭で会った日。
神官に連れられてやってきたのは、一人の美しい少年だった。
神はその神力によって成長する。花神の神位を継いだばかりの千夜は、八つの澄珠とほとんど同じような背丈をしていた。
けれど、その姿には澄珠にはない神々しさがあった。
長い睫毛が影を落とす琥珀の瞳、夜明け前の空を思わせる淡い髪色。白磁のような肌に、たおやかな身のこなし。
美しい、という言葉では足りないほどに、彼の姿は澄珠を魅了した。
また、澄珠の目を釘付けにしたのは、その美貌だけではない。
千夜の足元。ひと足踏み出すごとに、淡い花が咲いていく。
「申し訳ありません、澄珠様。花神様はまだ安定しておらず、力を上手に制御できないのです。どうかお気になさらず」
千夜の横にいる神官が謝ってきたが、澄珠はそちらよりも花の方を見ていた。
白、薄紅、淡紫――春先の霞のように、透き通る花びらが、少年の足跡をなぞるようにぽつり、ぽつりと咲きひらく。季節外れの花もある。人知を超えた力だ。
「……すごい……きれい……」
思わず澄珠が呟くと、そっぽを向いていた千夜が初めて顔を上げ、こちらを見た。
「君は、この力を不気味がらないんだね」
千夜が、少しおかしそうに笑った。
その時、澄珠の胸に密やかに、初めての花が咲いた。恋が宿った瞬間だった。
神の代替わりの後の数年は結界が弱まり、神の御座所に悪霊が入り込んでくる。神域と俗世の境が緩むのだ。
澄珠が後宮入りした年も、屋敷の廊下や御簾の奥に、おどろおどろしい形の影を見ることがよくあった。不意に灯りが消え、周囲の物が墨に変わり、誰かの呻きが耳元で囁くこともあった。
夜になると、悪霊が澄珠の部屋に入り込んできた。襖の隙間から差し込む視線。引き戸の外を擦り歩く足音。闇の中で微かに鳴る赤子の泣き声。
そのたび澄珠は、己の術を使って悪霊から隠れていた。
澄珠が持つのは、雲隠れの術という、自分や他人を隠す術だ。煙のように姿を消すことができる。
澄珠は何度も、雲隠れの術で幽霊から隠れてやり過ごした。己の存在を掻き消し、部屋の隅で息をひそめた。
夜明けまで、ずっと動けずにうずくまっていた。
(怖い……助けて……)
心の中でいくら唱えても声にはならなかった。
けれど、そんな澄珠を、千夜は何故かすぐに見つけてしまった。
「ここにいたんだ」
ふと、穏やかな声がする。
ひんやりとした澄珠の肩に、そっと誰かの手が触れた。
「大丈夫だよ。悪い霊たちは、俺が祓っておいたから」
見上げると、そこには千夜の姿があった。
「千夜さま……どうしていつも、私の居場所が分かるのですか」
澄珠の術は完璧だった。父も母も、里の者も、一度姿を消した澄珠を見つけたことはない。けれど千夜だけは、いつも迷わず真っ直ぐに、澄珠の元へやってきた。
そして、まるで当たり前だとでも言うように囁くのだ。
「俺が澄珠を見つけられないわけがないだろう?」
そう言われるたびに、澄珠は胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
神様は、すごい。
必ず迎えに来てくれる。見つけてくれる。何の迷いもなく。
震える澄珠を、千夜は優しく抱きしめた。
「大丈夫だよ。ほら、朝が来た」
御簾の向こう、空がうっすらと朱に染まりはじめていた。闇は消え、鳥が囀り、光が差し込む。
「千夜さま、今日はいっしょに遊べますか?」
「遊ぶ?」
「私、千夜さまと、また遊びたいです。お花を見せてほしいです」
澄珠が少し緊張しながら、ずいっと顔を近付けて申し出ると、千夜は一瞬きょとんとした。そして、ふふっとおかしげに笑う。
「澄珠は、悪霊が怖いくせに俺のことは恐ろしくないんだね」
「……どうして千夜さまを怖がる必要があるのですか?」
「神というのは、本来畏れの対象だよ」
その言葉に、澄珠は小さく首を横に振った。
「千夜さまは、悪霊とは違います。悪さをしません。私のことを、守ってくれる、やさしくて、よい神さまです」
千夜の睫毛がわずかに揺れた。
夜明けの光を映した瞳が、澄珠を見つめ返す。
「……そっか」
千夜は、少し照れたように頬を染め、俯いたままそっと手を差し伸べた。
「いいよ。澄珠はかわいいから、一緒に遊んであげる」
差し出された手のひら。澄珠は、小さな手をそこにそっと重ねた。
冷えた指が千夜の温かな掌に包まれる。
夜が明ければ、二人は花の庭で、毎日のように遊んでいた。
神である千夜と、巫女とはいえ人の娘である自分。最初は不相応だと思っていた恋心が、澄珠の中でどんどんと膨らんでいった。
澄珠は間違いなく、千夜と最も仲の良い花嫁候補だった。けれどそれは、千夜が子供の頃の話だ。
千夜が大きくなり、真に花神として人々を統べるようになると、澄珠の名は彼の日々の中から次第に薄れていった。
祭祀、政。季節の巡りに応じた結界の調整。神務は容赦なく重なり、かつて無邪気に手を引いてくれた千夜は、澄珠の元にほとんど姿を現さなくなった。
ふとした折に顔を合わせても、ほんの数言を交わすのみで、すぐに神官たちの呼び声に連れられて消えてゆく。
――そして、事件が起きた。
ある夜、花神の社が放火されたのだ。怨霊の仕業とも、花神の支配に反意を抱く勢力の仕業とも囁かれた。
燃え盛る火柱が御神木を呑み込もうとしたそのとき、傍に居合わせた巫女である琴が立ち上がった。
琴は、水の術を操る巫女だ。琴は迷うことなく手印を切り、社に降る火の粉を水の霧で包み込んだ。琴によって、炎によって包まれかけていた社は奇跡のように守られた。
千夜は琴に深く感謝し、やがて、琴を自らの後宮に迎え入れた。
今や千夜の傍にあるのは、澄珠ではない。
神としての仕事を放棄して、彼は日々の時のほとんどを、琴と共に過ごしている。
かつての澄珠が見た光景は、今では全て琴のものとなっていた。
「失礼いたします」
襖が静かに開き、さっきまで丸聞こえの噂話をしていた澄珠付きの女中たちが、水菓子の盆を手にして入ってきた。
その瞬間、踏みつけた花冠の潰れた音などなかったかのように、琴はぱっと表情を変える。
「まあまあ、皆さん。暑い中ご苦労さまですわね。いつもお姉様がお世話になってます」
微笑みを浮かべながら琴はくるりと身を翻し、懐から菓子包みを取り出した。
「こちら、お菓子の詰め合わせです。ささやかですが、差し入れでございますの」
色とりどりの紙に包まれた菓子が、銀の盆に広げられる。淡い桃色の寒天玉、檸檬の形をした干菓子、金平糖の小包。愛らしく華やかな品ばかりだった。
「まあ、なんとお優しいのかしら」
「さすが琴様、千夜様の寵姫は気配りまでお上手ですわね」
澄珠の女中たちは手を取り合って感嘆し、目を輝かせる。
琴は、社を放火から救ったことから、ここに住む人々からもとても大事にされている。命の恩人であるのだから当然だ。
加えて琴は、猫を被るのが上手だ。澄珠の周りの女中にまで取り入ろうとしている。
「それでは皆さん、また今度、もっと珍しい菓子を持ってまいりますわね」
涼風のような笑みを残し、琴はさらりと身を引いた。
女中たちは彼女が去ったあとも、きゃあきゃあと華やいだ声で盛り上がりながら、盆を囲んで菓子を選び始める。
澄珠はその様子を静かに見つめていた。誰も、澄珠の手の中の、くしゃくしゃになった花冠には気づかない。
澄珠はそっと雲隠れの術を使い、音もなく後宮の回廊を抜け、人の目を避けながら歩みを進めた。
どこにもぶつけられない思いを抱えた時の行き先は決まっていた。
火事の夜に焼け落ち、今や跡形もなくなってしまった、思い出の庭の跡地だ。
後宮の広大な敷地内には、整然と建物が配置されている。
中心には、威厳ある神殿がそびえている。花神が普段おわす場所だ。花神とその正式な花嫁以外、立ち入りは禁じられている。
神殿の右手には蓮寮と呼ばれる建物があり、神官たちの寝泊まりの場となっている。
神殿の北側には澄珠の屋敷が建っており、西と南にそれぞれ他の花嫁候補たちの屋敷がある。
その花嫁候補の屋敷のさらに向こう、さらに南へ足を伸ばすと、澄珠のお気に入りの場所が出てくる。
そこは、かつて小さな庭だった。
澄珠と千夜が、まだ幼かった頃。花咲く低木の間を駆けまわり、神官に叱られながらも笑い合った記憶が眠る場所。
かつて花々が咲いていた一角には、焼け焦げた柱の根だけが土の中に残り、雑草さえまばらにしか生えていない。
庭の端にぽつんと建っている花庵という建物だけが、唯一昔と同じ姿をとどめていた。花庵は、大昔、後宮の花嫁候補たちが詩歌や琴を嗜む場所だったらしい。今は使われなくなり、物置と化してひっそりと佇んでいる。
澄珠は裾を摘んで、静かにその屋根によじ登った。年頃の女性にしてははしたない行いだが、千夜の花嫁になれないのであれば、女性としての価値を磨く意味ももうない。
昔は、千夜とこっそりここに登っては、神官から「危のうございます」と怒られていた。
昔は、ここから見下ろせば、庭一面に花が咲いていた。
昔は、風が吹けば、藤の香が髪に絡んだ。
昔は、千夜の声が、耳元で笑っていた。
今は、何もない。
焼け跡の土と、微かに焦げた香りが残るばかりだ。
それでも澄珠の心はこの場所に戻ってきてしまう。
傷ついた時、泣くことさえできない時。雲隠れの術に頼って、世界からそっと消えて、澄珠はいつもここへ来る。
屋根の上で独り空を見上げて、幸せだった過去の思い出に浸る。
青がどこまでも静かで冷たい。
――あの頃と、空の色だけは変わらないのに。
ぼんやりと空を眺めていた澄珠の背後で、微かな軋みが聞こえた。
次の瞬間、花庵の屋根が、ずるりと音を立てて崩れる。
「……っ!」
澄珠は声もなく、ぎゅっと目を瞑る。足元が抜け落ちる感覚。体が宙に落とされた。
あの火事の夜以来、この花庵は誰にも顧みられることなく、修繕もされずに放置されていた。脆くなった屋根が、澄珠の軽い体重すら耐えきれなかったのだ。
落下しながら、澄珠はどこか諦めるような心地でいた。
もうあの頃には戻れない。
ならば、このまま終わってもいいのではないだろうか。
ここで待っていても、後宮を追い出され、巫女の資格すら失う未来しか訪れない。
地面が近付いてくる気配を感じた。
澄珠は全て諦めていた。
けれど、落下の衝撃は来なかった。
ふわりと、どこか懐かしい、柔らかな花の香りが澄珠を包んだ。
「危ないよ、君」
優しい声が耳元で囁く。
驚いて目を開けると、そこには眩いほどの美男子がいた。
白い袖に包まれた腕が、しっかりと澄珠を受け止めている。その胸元に抱き留められ、澄珠は呆気にとられていた。
顔の造形は、千夜によく似ている。しかし、髪と目の色が全く違う。
この男の髪は、光を含んだような淡い菖蒲色だ。長く揺れる髪の先が、陽の下で淡く艶めいている。同じく、目の色も菖蒲を閉じ込めたように美しく、吸い込まれそうな深い紫をしていた。
まるで、千夜の輪郭だけを借りて、全く別の優美さを吹き込んだかのようだ。
澄珠はその姿に、思わず息を呑んで見惚れてしまう。
ぼうっと視線を向けたまま瞬きも忘れていると、彼はふっと口元を緩めた。
「……俺の顔、何か付いてる?」
くっと喉の奥で笑うような声音。
それが耳に届いた瞬間、澄珠はようやく我に返り、頬をほんのり紅く染めた。
「も……申し訳ございませんっ……! 受け止めていただいて、ありがとうございました」
澄珠は慌ててその腕の中から身を離し、丁寧に立ち直ると、深々とお辞儀をした。自分の体が落ちずに済んだのは、この人のおかげだ。失礼をしてはならないと、胸の内が焦る。
男は少し驚いたように澄珠の動作を見つめた後、すっと真顔に戻った。そして、澄珠の顔をじっと見つめる。
「君、花神の後宮にいる子だよね。こんなところで何をしているの?」
その問いに、ぎくりとした。
そうだ。この場所は本来、関係者以外の立ち入りを禁じられている区域。ここにいるということは、彼もおそらくは神官――それも、千夜のすぐ近くで仕えている立場の者に違いない。澄珠の顔を知っていて当然だ。
咎められるのではと身構えつつ、澄珠はそっと視線を落とし、静かに口を開いた。
「……ここは思い出の場所なんです。例の火事で燃えてしまいましたが……ここには、かつて美しい花が咲き誇る庭がありました。花神様と、昔はよく、ここで遊んでいて……」
言葉の先が、自然と霞んでいく。
澄珠の声がかすかに震えるのに気づいたのか、男はふっと表情を和らげた。
「と、とにかく、辛い時は自分を励ますために、こっそりここへ来るんです。あの……このことは……」
言いかけた澄珠の声を、男が穏やかに遮った。
「内緒にしておくよ。人に知られたら困るんだろう?」
その口調は、まるで以前から澄珠の事情を知っていたかのように自然だった。澄珠は控えめに頷いた。
「花庵は俺が片付けておく。今度来る時は、屋根の上でなく、中に入るといい」
ぱちり、と澄珠は瞬きをした。そこまでしてもらうのは気が引けたが、彼はまるで既に決まったことのように言う。やんわりと断る隙すら与えない、柔らかな強引さがあった。
澄珠はただ、「……ありがとうございます」と小さく頭を下げて礼を述べるしかなかった。
「またおいで」
そう言うと、彼は澄珠の額にそっと手を伸ばし、前髪を指先で払う。そしてそのまま、ゆっくりと澄珠の額に唇を落とした。
「……!」
澄珠が驚いて目を見開いた、その刹那。ざあっと風が吹き抜けた。思いがけず強い風だった。
枯れかけていたはずの草花が舞い上がり、どこからか花びらがひとひら、ふたひら、風に運ばれて空を漂う。
次に瞬きをしたときには、もうそこに彼の姿はなかった。
「……不思議な人……」
狐につままれたような感覚だ。
澄珠はただ、春の幻を見たかのようなその余韻の中に、一人立ち尽くしていた。
◇
屋敷へ戻る頃には、空が淡い茜色に染まっていた。暮れゆく陽の光が、道の石畳に長い影を落としている。
その帰り道、澄珠は見てしまった。
風にそよぐ花の回廊を歩く、千夜と琴の姿。
二人は肩を寄せ合い、小さな声で何かを囁き合っていた。千夜が微笑むと、琴もくすくすと笑い声を漏らす。その様子は、まるで恋に落ちたばかりの若い夫婦のようだった。
「うふふ、千夜様。髪に花びらがついておりますわ」
「ああ、本当だ。君のせいで花まで妬いたかな」
「また、そうやって……すぐに甘いことを仰る」
「琴がこの世で一番美しい花だからだよ。だから、どんな花も君には嫉妬してしまう」
澄珠の胸がずきりと痛んだ。
昔、澄珠に「かわいい」と言ったその顔で、彼は今、他の女性に美しいと言っている。
まっすぐ顔を上げて歩こうとしても、視界の端に焼きついた千夜の横顔が、どうしても離れてくれない。
その時、背後で神官たちの話し声が風に乗って届いた。
「千夜様も困りものだよな。新しく入ってきた巫女にすっかり首ったけらしい」
「ここ数ヶ月、政務も随分と滞っているんだろう。有名な古典に、初代花神が美貌の女に溺れて財の全てを女に捧げ、ついには国を滅ぼしたっていう話があるが、今代の神様も、そんなことにならなきゃいいけどなあ……」
澄珠は足を止め、着物の袖をぎゅっと握った。
――千夜様は、そんなお方じゃない。
幼い頃から神としての責務を背負い、誰よりもこの香霞の地の民を大切にしてきた。無理をしてでも勉強し、政務に身を投じてきた。澄珠は、誰よりもその努力を近くで見てきたのだ。
けれど、今の千夜の背には、あの頃の気配が感じられない。
まるでそこにいるのは、別の誰か――千夜の姿を借りた、何か別の存在であるように感じられる。
――あの人は、本当に千夜様なの?
胸の奥でさざ波のように広がっていく不安を抱えながら、澄珠は再び歩き出した。
その時、廊下の奥、太い柱の陰から、小さな声が漏れ聞こえた。
「お、お、おかしい……絶対におかしい……あんなの花神様じゃない……頭を打ってしまわれたとしか思えない……」
何者かの独り言のようだった。澄珠は思わず足を止め、柱の方に目を向ける。
ふわりと広がる桃色の袖と、栗色の柔らかな髪。柱の影に隠れていたのは、二番目に後宮入りした花嫁候補――栗萌《くりも》である。背丈は澄珠より低く、澄珠と同年代ながら小柄だ。
澄珠はおそるおそる近づき、声をかける。
「……あの、今なんと仰いました?」
澄珠の静かな問いかけに、栗萌がびくりと肩を震わせた。
「きゃあっ!」
栗萌は澄珠の姿に気づいていなかったらしく、まるで幽霊でも見たかのようにひっくり返った。そして、小動物のように慌てふためいた様子で否定する。
「ち、ち、違いますっ、今のはその、ちょっとした独り言というか、たとえ話というか……! 決して、花神様の悪口ではありません!」
花神への侮辱とも取られかねない発言をしていたために焦っているのだろう。
澄珠は動揺で肩を震わせている栗萌に近付き、そっと膝を折った。できるだけ柔らかく、包み込むような声音で言葉をかける。
「だ、大丈夫です。責めたいわけではなくて、私も、千夜様のご様子がどこかおかしいと感じているのです」
その一言に、栗萌の動きがぴたりと止まる。息を飲むように顔を上げ、澄珠を見つめた。くりくりと丸い瞳が揺れている。長い睫毛に覆われた目元は、年齢よりも幼く見え、あどけなさすら感じさせた。
澄珠は微笑を浮かべながら、言葉を続けた。
「どういうところが変だと思っているのか、もしよければ、一緒にお話したいなって……」
栗萌はしばらく迷っている様子だった。視線が泳ぎ、唇を何度か噛んでは離す。そして、小さく頷いた。
「……あ、あの、ここだと、誰かに聞かれるかもしれませんし……」
そう言って、そっと立ち上がり、袖で口元を覆いながら周囲を確かめるように見回す。行き交う神官や女中たちの気配がまだ近くにある。栗萌は少し身を寄せ、澄珠の耳元で囁いた。
「……よければ、わたしの屋敷にいらっしゃいませんか? お菓子も、お茶もご用意できますから……そこでゆっくり、お話したいです」
その声は小さくとも真剣で、どこか頼るような響きを帯びていた。
澄珠は静かに頷いた。
「……はい。ぜひ、伺わせてください」
◇
栗萌の屋敷は後宮の一角、神殿から離れた南側にあり、澄珠に与えられた屋敷よりも小ぢんまりとしていた。外観は他の屋敷と大差ない造りだが、玄関先には可愛らしい風車が吊るされ、季節の花が籠に活けられている。
栗萌とは、廊下ですれ違うことはあっても、このように直接話す機会はあまりなかった。
初めての訪問に緊張しながらも、奥の居間に足を踏み入れる。その瞬間、澄珠は思わず目を見張った。
「……すごい……」
壁際には高く積まれた本棚が並び、どの棚にも書物がぎっしりと収まっている。古びた巻物から絵入りの物語本、難しそうな哲学書のようなものまで混在しており、すべて丁寧に手入れされているようだった。
床にはいくつもの文箱が置かれ、その蓋の上にも本が山のように積まれている。
「このような数の本、外から取り寄せたのですか?」
澄珠が目を丸くして尋ねると、栗萌は小さく首を横に振った。桃色の髪飾りが、揺れて優しく光を受ける。
「……いえ。二年前わたしが後宮入りした時から、花神様が定期的に差し入れてくださっていたのです。わたしが、読み物が好きだと言ったから……」
声は、どこか懐かしさを帯びて震えていた。栗萌は視線を落とし、小さく膝の上で拳を握る。
「わたし、本当は、後宮入りなんてしたくなかったんです。幼い頃から本の虫で、ほとんど外にも出なかったし、男の人も苦手だし、結婚なんて考えたこともありませんでした。でも、家のために契約させられて……」
その小さな肩が、わずかに震える。
「そんなわたしの心情を、花神様はお見通しだったのだと思います。初めて会った時、開口一番、申し訳無さそうに、〝実家の方が楽しいだろうに、こんなところに来させてしまってごめんね〟って言われました」
澄珠は思わず息を呑んだ。それは、澄珠の想像する、気遣い上手な千夜らしい発言だった。
「花神様は、男の人が苦手なわたしに、無理やり近付くこともなくて。後宮入りしてから今まで、ただの一度も口付けを交わしたことすらありません。あの方はただ、わたしの好きな本を送ってくださったのです」
言いながら、栗萌の瞳が潤む。
「わたしに恥をかかせないようにするためか、定期的にお屋敷に来てくださって、毎度、本だけを置いていかれて……家を離れて寂しいわたしに、必ず優しい言葉をかけてくれました。あの方は、本当に……お優しい方なんです」
その声には、花神への確かな信頼がこもっていた。
「――だからこそっ、今の花神様が、別人のように思えてならないのですっ!」
栗萌は顔を上げ、涙をこらえるように澄珠に訴えかけた。小柄な体が震えている。
「昨夜あの方は、わたしの部屋に突然いらっしゃったのです。最初はいつものように本を届けてくださるのかと思いました。でも、違いました。言葉もなく、いきなり……簡単に、わたしに触れて……」
栗萌の細い指が、そっと自らの肩を抱くように胸元へ寄せられる。桃色の着物の襟がわずかに揺れた。



