1

 学園祭当日。
「おーい、真田! 小道具の置き場所、指示してくれー」
「おー、今行くー」
「真田くん。調理室の鍵、借りてきてくれた?」
「あっ、ここに持ってるわ。ほい、どうぞ」
 ふぇー。まだ開始前なのに、すげぇ忙しいぞ。
 うちのクラスの出し物は『お化け屋敷でスタンプラリー』だ。幽霊や妖怪たちの妨害をくぐり抜けて各所に設置したスタンプを集めてもらう企画。
 で、スタンプマスターには、ドリンクと手作りの焼き菓子をプレゼントする。スタンプ集めに失敗しても焼き菓子は参加者全員にプレゼントだから、我ながら良い企画だと思うんだなぁ。
 正直、やっと当日を迎えられた感、満載っ。なんせ、昨日までの準備段階でトラブル続きだったもんな。あれがない、これが揃わない。当番の交代の件で揉めるヤツまで出て、マジで大変だったぜ。
 まぁ、そのおかげで気が紛れて助かったってのもある。あれから、ずっと芳賀に素っ気なくされてんだよ。さすがに落ち込むから、これぐらい多忙でちょうどいいって感じ?
 昨日なんか、合同授業の体育で同じグループになんの、拒否られたしさー。
 ……ん? あれ?
 待てよ。よく考えたら、これって『素っ気ない』っつーより、『冷たい』って言うほうが近いんじゃね? 距離を置かれてるって言うべきなんじゃね?
 え? まさか俺、芳賀にウザがられて……るわけない! ないない、絶対ない! そんなことないって、誰か断言してくれぇっ!
「真田くん、ちょっといい?」
「……あ? 美村ちゃん、どうした?」
 ショックと絶望を見ないふりして頭を抱えてたら、美村ちゃんが近づいてきた。珍しく神妙な表情だ。
「ちょっとトラブルっていうか、困ったことが起きちゃったの」
「え? またトラブったん? 今度は何?」
 もう、多少のことじゃ驚かねぇぞ。
「あのね、ドリンクを冷やすためのクーラーボックスを担当が手分けして持ってくる手筈になってたでしょ?」
「うん、そうだったよな」
「それがね、揃ってないの。数が全然足りない」
「マジ?」
「うん。大きいボックスを持ってくる子を決めてなかったらしくて、集まったのは小さめのボックスばかり、五つだけなの」
「マジか! それ、やべーじゃん」
「うん、これから家まで取りに戻るには時間がかかるし。真田くん、私、どうしたらいい?」
「だな。時間ねぇし、校内にある物でやりくりするしかないよな。じゃあ俺が代わりになりそうなモン、探してくる。待ってて!」
 即断即決。即、行動。教室を飛び出した。クラス委員として、トラブルは俺が何とかしねぇと!
 けど、こういう時に助けてくれそうな相手なんて一人しか思い浮かばねぇ。そこに向かって猛ダッシュで急いだ。

     2

「……っ、はぁっ……あれ、芳賀は?」
 全速力で走ってやってきたのは、中庭に設置されたバレー部のブース。今年のバレー部の出し物は焼きそばの屋台で、芳賀が初日の当番だと知ってたから、予備のクーラーボックスがあれば貸してもらおうと思ってきたんだけど。
「おーい、本多! 芳賀、いねーの?」
 目当ての姿が見えないから、準備中の後輩に声をかけた。
「芳賀先輩ですか? さっきまでそこに……あれ? いらっしゃいませんね。すみません。僕、わかりません」
「マジ? うーん、困ったな。じゃあ、お前に聞くわ。あのさ、クーラーボックス余ってねぇ? 俺らのクラスのぶんが足んなくて困ってんだよ」
「あー、あったかもしれません。すぐに見てきます」
「おぉ! 頼むよ!」
 やった! ここに来て正解だぜ! 芳賀には会えなかったけど、ラッキ……。
「先輩、すみません。あると思ってたけど、勘違いだったみたいです」
 ええぇ、ぬか喜び? やべぇ。俺、さっきから感情の起伏、めちゃ激しい。
「本当にすみません。空のクーラーボックスを確かに見たような気がしたんですけど、気のせいだったみたいで……」
「や、いいよ。何回も謝んないでくれ」
 確かにがっかりしたけど、それは本多のせいじゃない。
「俺こそ悪かったな。んじゃ、屋台の当番、頑張って」
 ひどく申し訳なさそうにしてくれた本多に明るく声をかけて、ブースから離れた。溜息が思わず出そうになったけど、慌てて飲み込む。
 だめだ。溜息なんか、つくな。こういうことも予想して、予備のクーラーボックスの準備をしとかなかった俺が悪いんだ。
 あー、けど、マジでどうしよう。自分の部活以外で頼れるところなんか、俺、ねぇぞ?
 えーと、他にクーラーボックスを使いそうなところで、貸してくれそうなヤツが居るとこって……どこだ? えーと、えーと……。
「真田先輩っ!」
「ん? 本多?」
「あの! これ、使ってください!」
「えっ?」
 走って追いかけてきてくれた本多が、抱えていた物を俺に押しつけた。反射的に受け取ってしまい、その重みを感じながら質問する。
「クーラーボックス、見つかったのか?」
「いえ、これはバレー部のじゃないんです。テニス部から借りてきました」
「テニス部?」
「はい。兄に聞いたら、余ってるって言うので、借りてきたんです。夕方に返してくれればいいそうです」
「一日、借りててもいいの? しかも、これ、特大サイズじゃん! わざわざ兄ちゃんに聞いてくれて、走って届けてくれて、マジで大感謝だよ! すげぇ、助かった。ありがとう! ありがとう、本多!」
 本多くん、なんて良い子なんだ!
「お役に立てて良かったです。じゃあ、僕、戻ります」
「おう、ほんと助かったよ。サンキューな! 焼きそばの屋台、頑張ってっ!」
 駆けていく後輩の背中に重ねて御礼を言い、それから猛ダッシュだ。準備中の生徒が行き交う中を特大サイズのクーラーボックスを抱えて走るのは大変だけど、皆がこれを待ってるんだ。急げ、俺!
「おぉーい、お待たせっ! クーラーボックス調達してきたよーん!」
「あっ、真田くん! 今まで何してたの?」
「真田ー! やっと戻ってきたか」
 クーラーボックスを頭上に掲げながら教室に入った途端、皆から声がかかった。けど、何か変だ。あれ? ちょっと怒ってる?
「あ、えーっと俺、クーラーボックスを……」
「慎吾」
「芳賀っ? なんで、ここに居んの?」
「ちょっと、こっち来い」
 え? 何、何? どうなってんの?
 中庭で会えなかった芳賀が、どうして俺らの教室に居るんだろ。そんで、なんで俺の腕、引っ張ってんの?
 やべぇ。いきなりの芳賀の登場と接触で、俺の顔、めっちゃ赤くなってるよー。大赤面だよ、やべーって!
「お前、これを取りに行ってたのか」
「あ、うん」
 芳賀が立ち止まったと同時に、あっさり手が離れた。連れていかれたのは、ベランダ。2組と1組を繋ぐここは、ちょうど真ん中が広く造られていて、荷物の置き場所として最適なスペースになっている。そこで、俺が持ってるクーラーボックスを見て、芳賀が眉間の皺を深めた。
「見ろ。クーラーボックスなら、もう調達済みだぞ」
「えっ? あっ、ほんと! クーラーボックスだ! なんで、あんのっ?」
「俺が持ってきた。バレー部の備品だ」
「あ、ありがと。助かった。あの、ほんとは俺もこれを借りにお前を探し……」
「お前、なんで、誰にも相談せずに教室を飛び出したんだ?」
「え……」
 芳賀が指差した場所に、俺が持ってるのと同じ大きさのクーラーボックスが既に置かれてるのに、びっくり。それを持ってきてくれたのが芳賀だったことに、さらにびっくり。
 けど、助けてくれたことに笑って御礼を言った俺に返ってきたのは、とても厳しい視線だった。
「美村さんが、中庭で泣きそうな顔してうろうろしてた。自分が代わりに行くつもりでお前を追いかけたけど、見失ったって。俺がちょうど、不要になったクーラーボックスを部室に運んでる途中だったから、それを貸したんだ」
「美村ちゃんが俺を……美村ちゃんにも迷惑かけちゃったんだ……そっか」
 そっか。わかった。さっき感じたこと、逆だ。芳賀が眉間に皺を刻んでる理由は、俺が持ってるクーラーボックスにじゃない。『クーラーボックスを探しに行った俺』だ。
 芳賀は、美村ちゃんを泣かせた俺に、怒ってるんだ。
「あー、だめだな、俺。クラス委員だから、俺がやんなきゃって思っちゃって……けど、実行委員は美村ちゃんだから、二人で役割分担してから行動するべきだったんだ」
「目先のトラブルだけを見てるから、そうなる。お前は何でも真摯に受けとめすぎて、視野が狭くなりがちなんだ。この指摘、何回目だ? 勢いだけで行動するな」
「はい。ごもっとも、です。すんません」
 俯くな。顔、上げてろ。芳賀の言葉も視線も厳しいけど、これは俺が悪いんだから。それに、芳賀は他人に厳しいけど、自分にはもっと厳しいヤツなんだ。だから、これは正論で……。
 ——ガタンッ! ガシャーンッ!
 えっ?
「おい、どうしたっ? 今の音は……」
 突然の大きな物音と悲鳴に慌てて教室に駆け戻ってみれば。
「どうすんだよ、これ!」
「あぁ、最悪ー!」
「やだ、信じらんない!」
 水浸しの床の周りでクラスメートたちがパニック状態になっていた。

     3

「ごめんなさい!」
 その真ん中で立ち尽くしてる女子の足元には空のバケツが二つ転がってる。小道具のミスト用の水を派手にぶちまけたんだと、ひと目でわかった。
「うわ、どうしよ」
 ポロッと弱音が漏れ出た。水浸しになった場所。そこには、衣装を入れた紙袋が置いてあったはずだから、だ。
 はっ! だめじゃん、俺! 放心してちゃ、だめじゃん!
「落ち着いて、皆! まずは、床を綺麗に拭こう。雑巾とモップ持ってきてー。大丈夫、大丈夫! だから皆、準備の続きを頼むよー」
 手分けして拭き掃除と準備の続きに取りかかってくれるよう皆に頼んで、青ざめてる女子の傍に駆け寄った。
「あ、真田くん、どうしよう。私……」
「気にしなくていいよ。大丈夫っつったろ? ほら、皆と一緒に拭き掃除してくれよ。これは、俺が何とかするからさ。なっ?」
 濡れた紙袋を手に涙ぐんでる女子の肩をポンと軽く叩く。安心させるように笑い、その手から紙袋を奪った。
「大丈夫、大丈夫。大丈夫だよーんっ……って……マジ、かぁ」
 けど、皆に背を向けて紙袋の中身を確認した俺の顔は、笑顔のまま引きつることになった。その中には幽霊役の着物が入っていて、絞っただけでは着られそうもないほど、ぐっしょりと濡れていたからだ。
 えーと、俺……この前から何回、こんなトラブルに合ってんだろ。男の厄年って何歳だったっけ?
 はっ! 再び放心してた! だめじゃん、俺!
「取りあえず、絞ってみるか。でも、シーツの生地だからなぁ。皺がつくのは避けたいけど」
 皆から離れてベランダに出た。失敗を気にしてる女子から見えない位置で絞ろうと思って。
「あっ、そういえば芳賀っ……って、居ねぇし! 当たり前か。アイツだって忙しいんだ。クーラーボックス持ってきてくれただけで充分じゃんか」
 芳賀のことを思い出して慌てて探すも、もうどこにもその姿はなく、さっきまで一緒に居たベランダにはクーラーボックスとドリンク類の箱が置いてあるだけ。
 黙って去っていかれたことを寂しく思ったけど、バレー部の屋台当番があるのに手助けしてくれた。それを喜ばなくちゃ、だ。たとえ、その行動が美村ちゃんのためだったとしても。
「よし。雫が垂れない程度には絞ったけど、次はどうしよう。ひとっ走りして運動部の乾燥機にかける? あ、アイロンはどうだろ。手芸部で借りてこようかな」
「あの、真田くん?」
「何? 美村ちゃん」
 きつく絞ったせいで少し皺がついてしまった衣装をピンッと引っ張ってパンパンしてると、美村ちゃんがベランダに出てきた。
「あのね、その衣装、そのまま私に貰える? 私が代表で幽霊役するから」
「え?」
 俺に向けて両手を差し出してきた女子がその動作とともに発した言葉がすぐに理解できない。幽霊役が、なんだって? 美村ちゃんは実行委員で、幽霊役じゃないよ。
「こういう時こそ、実行委員がフォローしなくちゃ、でしょ? ということで、それ、私が着ます。濡れたままで構わないから、私に頂戴」
「何、言ってんの。だめに決まってんじゃん」
 にこにこ笑顔の美村ちゃんが俺から衣装を奪おうとするもんだから、慌てて手を引っ込めた。濡れた着物を女の子に着せられるわけねーもん! というか、美村ちゃんにそんなことさせたって芳賀にバレたら、お叱りだけで済むはずない!
「だめだよ。実行委員としての責任感からの提案でも、濡れた衣装を着るなんて、だめだ。風邪ひいたら、どうすんだよ。却下です」
「でもでも! 私ね、このハプニングは逆に使えると思うの。着物は濡れたままのほうがリアリティが出るんじゃない? だって、幽霊なんだもん!」
 意外にも美村ちゃんは強情だった。
「なるほど、それも一理あるかぁ」
 その上、俺では気づけない視点を示してくれている。俺の手をぎゅっと掴みながら熱く反論を繰り出してきた美村ちゃんの提案は検討してみてもいいんじゃないか?
「良い案でしょ? じゃあ、私に着物を貸して」
「いやいや、だからって美村ちゃんが着る必要は無いって! 着るなら男の俺が……痛っ!」
 突如、頭の上で固い物がパコンっと音を立てた。あんまり痛くはなかったけど、なぜか反射的に『痛い』と声が出た。
「こんなところで、ちんたら揉めてる場合か。不毛だぞ」
「芳賀っ?」
「揉めてるだけで何か解決するのか? こんな時こそ、いつもお前が言ってる即断即決。尚且つ、即行動だろうが。お前のその頭と口は飾りか? リサイクルに出すか?」
 振り向けば、空のペットボトルを手にした芳賀が手厳しい叱責をぶつけてきた。
 あわわ……この無表情、めちゃ怖ぇ。怒ってる。芳賀、ぜってー怒ってるよな。けど、なんで?
 あと、俺らが困ってることをわかってる感じだ。なんで?
 突然の芳賀の登場の驚きとよくわかんない恐怖で、美村ちゃんと固く繋いでた手が、ぽろんっと解けた。そして、好きな相手の顔をまた見られて嬉しい俺の声は自然と弾んでしまう。
「芳賀。なんで、また居んの? バレー部の屋台当番は?」
「慎吾、質問だ。幽霊役はもともと何人の予定だった?」
「え、三人だよ」
 俺の質問をスルーして質問を返されたけど、笑顔で即答。俺は芳賀限定、素直くんなのだ。
「わかった。美村さん、悪いけど、濡れた衣装、一枚だけでいいから午後から使えるようにしておいてくれる?」
「えっ、一枚だけ? 一人ぶんだけでいいの?」
「構わない。こっちは真田が引き受けるから」
 いつの間にか、俺の前に出た芳賀が美村ちゃんと二人で話す構図になってる。あんなに強情に自分が幽霊役に、と言ってた美村ちゃんだったのに、芳賀から運動部棟の乾燥機の場所の説明を受けて教室を出ていった。
 どうなってんの? わけ、わかんねーっ。俺の説得には全く引く様子がなかったのに。
「なぁ、芳賀?」
 それに、芳賀もわかんない。なんで、うちのクラスの問題に首を突っ込んでんだ? あ、もしかして美村ちゃんが相談した?
「なんで、ここに居んの? 美村ちゃんに渡した衣装が一人ぶんだったのは、なんで……うにゅっ?」
「お前は、こっちだ」
「芳賀? えっ、どっち? つうか、痛い! ほっぺた痛いんだけどっ」
 何、この展開。疑問のモヤモヤと嫉妬のモヤモヤをなんとか堪え、まずは聞くべきことを質問してる途中で芳賀に頬を摘まれ、どっかに移動中。何これ、どういうこと? 急展開すぎて、ついてけねぇ!
「着物を出せ。濡れた衣装だ」
 ほっぺたをやっと解放してくれた芳賀が俺にその手を差し出してきたのは、教室の隅。
「いってぇ……え、着物? あ、そうだよ。なんで衣装のトラブルのこと知っ……」
「いいから、早く出せ。時間がない」
 張っていた暗幕が少し上げられ、血が垂れてるおどろおどろしい井戸が描かれたハリボテが陽射しを浴びてる。その横に立った芳賀は、困惑する俺の手から苛立たしそうに紙袋を奪い、中から濡れた衣装を取り出した。
「あー、これは相当だな。まぁ、仕方ない」
「え、何が仕方な……」
「これ、持っとけ」
 ボソッと呟かれた言葉の意味を尋ねようと口を開きかけた俺は、『持っとけ』と突き出された着物を再び掴んだ次の瞬間、叫び声を上げた。
「えっ、何? ちょ! ぎっ、ぎゃあぁっ!」
「うるさい」
 だって! だって、だって! 俺に着物を持たせて手ぶらになった芳賀が、Tシャツを一気に脱ぎ捨てたんだぜ?
 いつも部活ん時に『綺麗だなぁ』って思って、こっそりじっくり眺めてた芳賀の上半身ヌードが! 肩とか、鎖骨とか、上腕二頭筋とか! 鍛えた綺麗な身体がいきなり目の前に晒されたらさ! そりゃ、叫ぶっつーの!
「ぬぬっ、脱い……な、なんで脱い……ででででっ?」
 念のためにキツく鼻押さえて鼻血対策しながら、挙動不審にもなるっつーのっ! 
「ほんと、うるさい……あ? お前、何してる」
 鼻を押さえながら叫び、最悪の場合に備えてズボンのポケットからティッシュを素早く取り出してスタンバイした俺に、眉をひそめた芳賀が硬質な視線を寄越した。
 うん、きっと気持ち悪いんだよな。俺の行動が。
 でもさ! この体勢には、ぴゅあっぴゅあな恋心っつー、チャレンジャー海淵よりも深ーい理由があるんだよっ。だから多少の気持ち悪さはスルーしてほしい。
「さて、慎吾。お前、俺の言うことが聞けるか?」
 なっ、なんということでしょう! 腕! 芳賀の腕が、俺の肩に回されています! イコール、何も纏ってない素肌がぁ! 俺の胸に押しつけられてます! アンド、俺の大好きな綺麗な黒瞳が至近距離から覗き込んできてますぅ! ありがとう! ご褒美ありがとう!
「うん、何でも聞くっ」
 ブンブンと勢いよく首を縦に振って応えた。
「よし。なら、お前も脱げ」
「へっ? ちょ、何っ?」
 俺が頷くなり、シャツのボタンが外され始めた。そのまま、俺があわあわしてる間に全部の前ボタンが外され、芳賀の指がかかったシャツが肩からずり下げられていく。
 あっという間に、上半身を露わにした姿を好きな相手の眼前に晒していた。
 この感想、二度目だけど。何、この展開! 二人揃って上半身ヌードって、何これ、どういうことっ?
 というか、着替えしてるわけじゃなくての、この状態って。しかも向かい合って触れられてるとか、俺、普通に興奮するんですけどっ?
 この距離ヤベーよ。心臓、めちゃヤベぇ!
 俺たち、同じ身長なのに、芳賀に見つめられると何だか見おろされてるような気分になるんだ。これも好きすぎるから、なのかな?
 おまけに、なんか頭ん中がふわふわしてきた。それに、きっと顔も赤いよ? どうしよう。どうし……。
「おい、慎吾。聞いてるのか?」
「は、はい! 何? なんか言った?」
「さっきから何度も呼んでるぞ。何、ぼうっとしてるんだ。そんな場合じゃないだろう。ほら、向こう向け」
「あ、はい……ひぇっ! 冷たっ!」
 背中にぴっとりと張りついた布地の冷たさに飛び上がった。
「うおぉぅ、つめてぇーっ!」
「大きな声をあげるな。こうなった原因の女子に聞こえたら気にするぞ。手はここだ」
 飛び上がった後、身体を縮めて声をあげた俺は、手を誘導される前に、芳賀にされてることを確実に理解していた。幽霊役の濡れた着物を着せられてるんだ。
 そうだ。こんな酷い状態の衣装、女子たちには着せられない。美村ちゃんにやらせずに済んで良かった。
「ありがとな、芳賀。着付け、助かるよ……って! うえぇっ? なんで芳賀がそれ着てんのっ?」
 御礼を言いながら振り向くと、そこには白い襟を合わせて着物を身につけてる途中の芳賀の姿が!
「クラス違うのに、なんで着てんのっ?」
「お前、ほんとうるさい。何度も言わせるな。もっと声を落とせ」
「でもっ、お前は1組じゃん」
「クラスが違うと、助けたらいけないのか?」
「え……」
 着物を身につけ終わった芳賀が、うるさい俺に鬱陶しそうに向けた視線がチクリと胸を刺した。それでも質問を重ねると、思ってもみない言葉が返ってきた。
 助ける?
 誰を? なんてことはわかりきってるから、わざわざ聞き返さない。むしろ、聞きたくない。美村ちゃんに濡れた着物を着せたくないから、だから自分が代わりに着ることにしたんだろ?
 わかってるけど、それをお前の口から聞きたくないよ。俺、こんなこと考えるなんて、すげぇ嫌なヤツだけど、美村ちゃんが妬ましいよ。堪らなく妬ましくて、羨ましい。
「幼馴染を助けたいって思っただけなんだけど」
 え?
「おさな……」
 幼馴染って言った? 転校生の美村ちゃんが幼馴染のわけないから、つまり……芳賀は俺を助けるために来てくれたってこと?
「おおお、俺の、ため?」
「バレー部の屋台当番、このために他のヤツに代わってもらったから、お前、明日は俺と一緒に焼きそば担当だぞ。頑張って働けよ」
「わかった! めっちゃ焼く! 『コテの魔術師』として、絶品焼きそばを量産するぜ! 任せて!」
 俺のためだった! 嬉しい! その可能性は全く考えてなかったから、マジで嬉しい! 萎んでたテンションが一気に急上昇だ。
「じゃあ、バレー部コンビってことだな。ここは、いっちょ、いつものチームワークで頑張りマスカット!」
「ふっ。だから静かにしろって言ってるのに。ばかめ」
 あ、笑った。
 ほんとなら、どんな理由があっても俺たちのクラスを手伝うことに何かしら文句が出たはず。それでも来てくれた幼馴染の友情が嬉しいから明るくガッツポーズしてみせると、芳賀が表情を緩めた。
 無表情がテンプレの芳賀には珍しい、ふわっと温かい笑みだ。穏やかに俺に笑いかけてくれるなんて貴重だよ。嬉しいなっ。
「慎吾」
 次いで、俺の肩にその手が乗ってくる。
「頑張るのはいいが、張り切りすぎて風邪ひくなよ」
 あぁ……こういうとこ、あるんだよなぁ。芳賀って。
 ずりぃな。ここで、こんな優しい言葉をかけてくるなんて。マジ、ずるい。
 厳しくて、仲間思いで、たまに優しい芳賀。ほんと、大好きだ。
「……ふっ。そういえば……」
「え、何? どしたん?」
「あの子、面白いな」
「え? あの子、って……」
 まさか、美村ちゃん?
「あの子だよ。美村さん」
 当たってた! 嫌な予感、的中!
「『着物は濡れてるほうが幽霊としてリアリティあっていい』って力説してたけど、本当にこの濡れた衣装を自分で着るつもりだったのか? こんなに、ぐっしょりと冷たいのに? 全く、とんでもないこと言い出す子だよな。おまけに、本人は至って真剣なところが面白すぎる。ふふっ」
 くくくっと肩を震わせ、いかにも楽しそうに思い出し笑いをしてる芳賀の表情に胸が締めつけられる。そんな顔、普段は見せないのに、なんで今、俺に見せるんだ?
 酷いな、お前。
 好きな女の子を思い浮かべて、楽しそうに柔らかく笑う横顔。それを残像のように見せて、俺にはあっさりと背中を向ける、酷いヤツ。
 自分の持ち場でスタンバイするべく移動を始めたその背中に、思わず伸ばしかけた手を、ぐっと握りしめて脇におろす。
 なぁ、芳賀? いくら手を伸ばしても、届かないのかな? お前の背中には届かないのかな?
 うん、わかってる。俺じゃ、だめ、だもんな。
 お前に向けて伸ばしてるこの手も、俺の長年の想いも。見てもらえることすら、ないんだもんなぁ。

     4

 午後4時。
 臨時のチャイムとともに、文化祭初日終了のアナウンスが流れる。最後のお客様をお見送りすると、教室内の空気が一気に緩んだ。
「おおおおお、終わったぁー! 皆ぁ、おっ疲れさぁーんっ!」
 両手を突き上げ、達成感に浸りながら大声でクラスメートへのねぎらいを口にした。
 クラスの皆も、傍にいる者同士、笑顔で互いの頑張りをねぎらい合ってる。まだ明日もあるけど、ひとまず、やれやれだ。
「真田くん、お疲れ様」
「おう、美村ちゃんもお疲れー」
「お化け屋敷、大好評だったね。好評すぎて景品の駄菓子が足りなくなるかと心配しちゃった」
「美村ちゃんの本格的メイクのおかげじゃね? とにかく無事に終われて良かった。明日も頼むよ」
「はーい。明日は、女子の幽霊さんたちが満を持しての恐怖満載のおもてなし、頑張るからね!」
「期待してる」
 ピンチヒッターの俺は、これでお役御免だ。
 1組からの助っ人、芳賀は午前中ずっと手伝ってくれてたけど、午後は自分のクラスに戻っていった。そのために、一着だけ、急いで乾燥させるよう美村ちゃんに頼んでいたんだ。自分がいなくなる午後に衣装を着る幽霊役が寒い思いをしないように。
 予め、そこまで考えてたんだ。あの短時間でその判断と準備。アイツ、すげぇよ。俺の大好きなヤツは、マジでかっこいい。
 だから、冷たい衣装に何の文句も言わず、手助けしてくれた恩人に、感謝の気持ちを伝えたい。
 既にしつこいくらい『ありがとう』を言ったけど、アイツの好きなドリンクを渡すついでにちょっとお喋りする感謝コースを設定するくらいは許されると思うんだ。
「なぁ、ここに芳賀が来なかったか?」
「芳賀? いや、見てねぇな」
「そっかぁ。サンキューな」
 ここにも居ない。芳賀ぁ、どこに行ったんだぁ?
 明日のための準備を終えて隣のクラスに駆け込んだら、やっぱりというか当然というか、そこには芳賀は居なかった。こうして、アイツが居そうな場所を探して回ってるけど、見つからない。
『どこに居んの?』
 思い切って送信したメッセージも既読スルーされてるから、自分の足で探してるんだ。
「あー、もうすぐ始まっちゃうじゃん。中夜祭。マジで、どこに居んだよ。芳賀ってば」
 うちの学園祭は、外部からのお客様を迎える日中の祭りももちろん盛り上がるけど、初日の夜に行われる中夜祭と二日目の後夜祭は、生徒だけで盛り上がれる最高に楽しいものだ。
 一緒に、過ごしたかったのになぁ。
 芳賀は、学園祭だからって大騒ぎしたり羽目を外すようなタイプじゃないし、大声で笑ったりすることもないヤツだ。俺ににっこり笑いかけてくれることなんて本当にないけど。
 それでも一緒に、アイツの隣に居たかったなぁ。
 俺が芳賀のぶんも大騒ぎして、ゲラゲラ笑ってさ。そんで、アイツに『祭りとは言え、騒ぎすぎだ。少しは静かにしろ』なんつって注意されんだよ。
 それで、丸めた指の甲で頭をコツンっとかされちゃってさっ。
 そしたら、俺、ぜってぇ赤面しちゃう自信があるからさ。『ごめん!』って頭下げて、赤くなった顔を隠すんだぁ。
 ……やべぇ。俺の妄想と病み加減、マジでやべぇ。
 100%願望の妄想で身体くねらせてる暇があったら本人を探さなきゃ! 赤面しようにも、本人が居なきゃ、ただのやべぇヤツじゃんっ!
 本人が居たら、別の意味でやべぇけどなっ!

     5

「……居た」
 居たよ、芳賀が。
 探しても探しても見つからなくて、ほんとはもう帰っちゃったんじゃね? なんて諦めつつ、今度はグラウンドを探そうと外に出てきたら一発で見つかった。けどさー。なんで、そんなとこに居んの?
「さてさて、イベントのラストを飾るのはバレー部代表! 芳賀克人と本多涼介だっ!」
 なんでお前、生徒会のイベントブースで本多と肩組んでライト浴びてんの?
「バレー部のテーマは、『ストイックなお兄さんに甘えていいのは僕だけ。小悪魔わんこの独占欲劇場(特大ハート)』だそうでーす! みんなは、この設定、好きかなー?」
「大好きぃぃぃーっ!」
 なんで……すげぇ甘い雰囲気で本多と見つめ合っちゃったりして、女子の皆さんからめっっっちゃキャーキャー言われてんの?  『激甘設定で戦え! 男子オンリー妄想実現コンテスト』なんつー、いかがわしさしか感じられない派手なイベントに、なんで部の代表で出場してんの?
「わけ、わかんねぇ」
 芳賀ぁ。
「なんで? なんもわかんねぇよ、俺」
 お前のこと、何ひとつ理解できない。
「だからかな。足が動かない」
 ステージに近づけねぇよ。いつでも、お前の傍に近づきたい俺なのに。地面に足が縫い止められたみたいに一歩も動けない。ただ、ステージ上で本多と並び立つ芳賀の、すらりと姿勢の良い姿を食い入るように見つめるだけ。
「それにしても、かっけーなぁ」
 自前の服だろうか。紺青色のジャケットと細身のパンツがめちゃ似合ってる。
「すげぇ、かっこいいよ」
 さすが、俺の芳賀だぜ。
「ふっ。なぁにが、『俺の』だよ。図々しいな、全く。俺、マジでアホ」
 メッセージ送っても既読スルーされる程度の扱われようなのに、何言ってんだか。
 自嘲の笑みで、口元がひどく歪んだ。
「投票結果が出ましたー! 優勝は、バレー部! 二位に大差をつけての圧勝です! さぁ、芳賀くん、本多くん! ステージ中央へどうぞーっ!」
「……優勝、おめでとさん」
 くるりと振り返り、ステージに背を向ける。おかしなことに、芳賀に背を向けて歩き出すためになら足はサクサクと動いた。近づくことはできなかったくせに。
 逃げるように顔を背けたのには、理由がある。短いインタビューを終え、ステージからおりた芳賀の傍に駆け寄る美村ちゃんの姿が目に入ったから。
 その後、二人で親密に話す様子なんて見たくなかったし。見たくないのに見てしまって、うっかり記憶に刻み込むようなことは避けたかったからだ。

     6

「おーっ、すげぇ! よく燃えてんなぁ。上から見おろしてるからな? いや、でも小規模のわりには本格的じゃん」
 中夜祭の締めを飾る、生徒会主催のミニキャンプファイヤー。校舎の上階から見てるけど、結構、見応えがある。昔はもっと派手にやってたらしいけど、なんかの規制で、数年前から規模を縮小することになったって話だ。
「綺麗だなぁ」
 ミニサイズでも充分。迫力あるし、綺麗だ。
「芳賀も、これ見てんのかな。どの辺に居るんだろ。美村ちゃんと……居るんだよな。一緒に……たぶん」
 美村ちゃん、さっきステージに駆け寄ってた。芳賀とキャンプファイヤーを見る約束してたんだ。きっと。
 あー、付き合うんかなぁ、あの二人。
 まぁ、そうなるよな。今までそうならなかったことのほうが不思議なくらい、芳賀はあの子に優しかったもん。
「……やだな」
 芳賀が、特定の誰かといつも一緒に居る姿なんて、やだ。見ていたくない。
 嫌なんだ。『俺の芳賀』じゃなくてもいいから、誰のものでもいてほしくない。
 俺のものにならなくてもいいから、芳賀の隣には俺が居たい。
「はっ、ばかか、俺。何、言ってんだか」
 今まで、そんなこと思ってる俺こそが、芳賀の背中ばかり見てきたのに。
 もう、やめたほうがいいのかな? あの背中に手を伸ばすのは。どうせ、届かな……。
「慎吾」
「うえっ? ははっ、芳賀っ?」
 えっ、なんで? なんで、ここに居んの?
 驚きのあまり、窓枠にかけてた手を滑らせてガクッと床に片膝をついた。その俺に向かって近づいてくる姿は、紛れもなく片想いの相手。
「芳賀、なんで?」
 目前まで近づき、俺を見おろしてくるソイツは、いつもの無表情。
「探したぞ」
 けれど、少し息が上がってる。
「『探した』って、俺を? なんで? だってお前、キャンプファイヤーは?」
 美村ちゃんと一緒に居るはずじゃねぇの?
「お前、いつから演劇部になったんだ?」
「へ?」
「ここ、演劇部の部室だろう。なぜ、こんなとこに居る?」
 唐突な質問だったけど、ぐるりと周囲を見回してから俺を見据える訝しげな視線の意味に納得がいった。
「あぁ、お化け屋敷のための小道具を演劇部が貸してくれたんだけど、もう使う予定がなさそうな物を返却に来たんだ。そしたら窓からキャンプファイヤーがすげぇ綺麗に見えるから、思いがけず特等席ゲットで眺めてたとこ」
 片膝をついた状態から立ち上がりつつ、この部室に居る説明をする。まぁ、ほんとはキャンプファイヤーよりもお前がどこに居るのかなって、ソッチのほうを気にして見てたわけだけど。
「そういうことか。それなら、俺も特等席の仲間に入れてくれ」
「え? うひゃっ、冷たっ!」
 立ち上がった途端に腕を引かれ、ぐっと近づいた顔に驚いてのけぞった俺の首筋に、すかさず冷たい感触が押しつけられた。
「何、これ! ひゃう!」
 驚きの連続で、おかしな叫び声を連発だ。
「差し入れもある。お前の大好物だ」
 面白そうに口元を引き上げた芳賀の右手が、俺のシャツの襟元から差し込んだ物をさらに押しつけてくる。これは、よく知ってる感触。ペットボトル飲料だ。
「ひゃ、ぁっ」
 冷たい容器を鎖骨の上でぐりっと回され、身震いとともに変な声が出た。
 やべっ。俺、めっちゃ変な声、出しちまってた! どん引きしてねぇ? 大丈夫?
「あ、芳賀。それ、冷てぇよ」
 けど、なんで俺、ペットボトルを首に押しつけられてんだろ。
「ん? 買ってからだいぶ時間経ってるから、そんなに冷たいはずはないんだが。水滴が垂れたせいじゃないか? ほら、ミルクティー。お前、好きだろ?」
「あ、うん。サンキュ」
 声に出して『冷たい』って言ったら襟元からペットボトルが引き抜かれて、何でもなかったみたいに手渡された。
 あ、ほんとだ。実際に手に持ってみたら、確かにそこまで冷たくない。
 芳賀の言う通り、水滴が垂れた感触で冷たいって感じたのは、ほんとみたいだ。というか、買ってから時間経ってるっつーことは、そんなに長く俺のこと探し……。
「濡れてる」
「……っ、ひゃっ!」
 指? いつの間にっ? 芳賀の指が! 襟元からシャツん中に入ってきてるっ! なんでだっ?
 でさ、でさ! おまけに、ペットボトルの水滴がまだ残ってる部分を指の腹ですりすりと撫でられてるんだけど? これも、なんでだあぁっ?
「は、芳賀っ? あの、あののっ……」
「あぁ。この辺、シャツも濡れてる。悪かったな。少しだけ驚かせてやろうって思っただけなんだ。けど、思ってたよりも水滴の量が多かったみたいだ。——ほら」
「んっ」
 低く変わった、『ほら』と言う声とともに鎖骨から耳の下までを濡れた指でなぞり上げられ、また変な声が漏れた。うおーっ、やべぇ! 今度こそ、どん引きされる!
 恐る恐る様子を窺うと、俺を見てる芳賀と視線がぶつかった。
「あ……」
 何だろ、この表情。こんな芳賀、初めて見る。
 疑問はまだある。俺の大好きな土岐の黒い瞳が、僅かに目を細めた目元の印象が、いつもとは違う気がする。俺をじっと見つめる深い黒瞳に、何とも言えない〝色〟が浮かんでるように感じるんだ。
 なぜかなぁ。なんで俺、そんな印象を受けてるんだろ。
 キャンプファイヤーを堪能するために、部室の照明はつけてない。グラウンドを照らす炎と、中庭のライトの光がぼんやりと射し込んできてるだけの部屋なのに。なんで俺、芳賀の瞳の色合いの差について感じてるんだろう。
 わけがわからないまま、それでも視線は外せない。
 目の前で色めいて揺れている、黄昏時の暗い黒。いつもの見慣れた黒瞳とは何かが違うそれが、じーっと俺を見つめてきてるから。
 芳賀が、俺を見つめてる。
 その事実がどうにも落ち着かなくて、ばかな俺は、なぜか鼓動までをも速めていくんだ。
 おかしい。おかしいぞ、俺。
 芳賀が、万が一にも俺が『もしかして』って期待するような理由で俺のことを見るはずがないのに。それなのに、こんなにドキドキするとか、おかしいよ。
 あー、やべぇ。心臓の音、聞こえてねぇかな? そんなの聞こえるわけねーかもだけど、もしも気づかれて変に思われたら、困る。
 な、なんとかしなくちゃ。なんとか……。
「飲まないのか? それ」
「へっ?」
「お前、ここ数日ずっと頑張ってたから、ねぎらいのつもりの差し入れなんだが」
「あっ! 飲むよ、飲む! サンキューっ」
 芳賀の視線が、俺から外れた。至極あっさりと。
 俺の隣に音もなく移動し、グラウンドを見おろす横顔はキャンプファイヤーの炎の反射を受けていても涼やかで、さっきまでの息苦しい昏さは欠片も見当たらない。
 あれ? 勘違い? 俺の思い込み?
 緊張してた身体から、ガクッと力が抜けた。
 うん、だよなー。この俺に『万一の、もしかして!』が起こりうる可能性なんて、ねぇよな。
「慎吾、早く飲めよ。そのミルクティー、二人で一本なんだぞ」
 ガコンッと音が響いた。俺の手からペットボトルが滑り落ちたからだ。コロコロと床を転がる音が聞こえたけど、どこで止まったか、わからない。見る余裕がない。
 うっ、うわっ! うわああぁぁっ!
 肩を組んできた芳賀の唇が、俺の耳に触れながら声を発したからだ。
「あ……」
 耳殻に熱い感触を与えてきた芳賀の唇は、すぐに離れていった。
 けど、たった今、鼓膜を震わせてきた言葉は聞き間違いじゃないはず。
 ふっ、ふふっ、『二人で』って言った。言ってたぞ。『二人で一本』てことは、まさか口移しっ?
 てなわけは、なくて! 俺ら二人で交代で飲むってことで! つまり、間接キス決定じゃん!
 おおおぉ、マジか。俺相手に、それはアリなんですか? 冗談ではなく?
 いや、ストイックでお堅い芳賀が冗談なんて言うわけねぇから、マジなんだよ。そうなんだよ。アリなのですよ!
 でも、一応、念のための確認は、しとく?
 驚きでピシッと固まった首筋をギシギシと音がしそうな動きで横にひねり、いまだ俺の肩に手を回してる相手の目を見るため、目線を動かす。
「……は、芳賀?」
 どくどくと大きく跳ねる鼓動をそのままに、沈黙してる相手を見やる。すると、俺と同じ高さの目線も俺を捕らえていた。真っ直ぐに。
「慎吾」
 視線が合ったと思った瞬間、その目が緩んだ。
「驚いたか? 悪い、ほんの冗談だ。これは頑張ったお前へのねぎらいだから、お前が飲め」
 肩に乗っていた芳賀の手が俺の髪をくしゃっとかき混ぜ、そこでポンポンとした後、ペットボトルを拾い上げて手渡してくれた。
 ほんの、冗談?
 あー、そっか。俺、からかわれたのか。芳賀でも冗談とか言うんだ、ふーん。
 というか、ちょっと舞い上がってたぶん、堪える。こういうのって、すげぇきっついよ。
「ミルクティーはお前が飲めばいい。その代わり、俺は別のものが欲しい。それをくれ」
「へっ?」
「今日、午前中だけとはいえ、俺もお前と一緒にかなり頑張ったはずだけど?」
 あっ、そっか。やっべ! 俺ってば、幽霊役で助けてもらってたのに、御礼してない。全然、気が利かないじゃん。
「うんっ。幽霊役のヘルプ、めっちゃ助かったよ。おかげで女子たちに冷たい思いさせなくて済んだしさ。ほんと助かった! えーと、いつも飲んでるカフェオレでいいかな? すぐに買ってくるからっ」
 芳賀は美村ちゃんのためだけにやってくれたんだってわかってるけど、御礼はきちんとしなきゃだ。
「待て」
 なのに、ドリンクを買うべく踵を返した途端、腕を掴まれた。
「あ、今日はカフェオレの気分じゃなかった? じゃあ、何がいい? 何でも言ってくれよ」
「はあぁ……マジでニブいな、お前。俺が頑張ったのは、お前のためなんだけど」
「え?」
 オマエノタメ? おまえって……まさか、俺っ?
「頑張ったから、褒美、もらってもいいよな?」
「……っ! ははっ、芳賀ぁっ?」
 え? 何、これ。この体勢、何?
 芳賀の両腕がさ、俺の背中に回ってるんだよ。これって、抱きしめられてる図! じゃね? 芳賀にっ!

     7

 芳賀が、俺を抱きしめてる。
 これ、夢じゃないよな?
 だって、ちゃんと感じるもん。俺の腰と後頭部に、芳賀の手の感触を。
 最初、ふわっと背中に回されたその手はすぐに腰と後頭部に移動して、そのまま強めの密着が持続してる。でも、それはどうして?
「……芳、賀?」
 今、自分が置かれてる状況について尋ねたい。けど、突然与えられた好きな相手の温もりに全身が硬直してる。上手く口が動かせない。相手の名前を呼ぶのが、精いっぱいだ。
 わけ、わかんない。『褒美』って、何? 『俺のため』って、どういうこと?
 よく考えろ、俺。まずは、この体勢についてだ。
 これは、間違いなく抱きしめられてる図。芳賀が、俺を。男が男を、だ。
 けどさ、俺は芳賀のことが大好きだけど、芳賀にとっての俺は単なる幼馴染。バレー部のチームメイト。同級生の友人でしかない。
 てことは……あ、そっか。なんだ。これ、ただの『友だちのハグ』か。
 そっか。そうだよ。俺に、ねぎらいのハグをしてんだよ。ねぎらいだから、御礼に欲しい物を今から教えてくれるってことなんじゃね?
 それしか考えらんないよな。なーんだ。あっさり解決したわ。すっげぇ、紛らわしいけど!
 ほんと、紛らわしいよ。俺、めっちゃテンパっちゃって、恥ずかしいじゃん。
「あははっ。芳賀ってば、いつからアメリカナイズされちゃってたんだ? フレンド的ハグ、いきなり食らっちゃったから、びっくりしちゃったぜ……あ、あれ?」
「慎吾っ?」
 心臓に悪いこの体勢の理由が判明して極度の緊張が解けた俺の身体は、カクンっと膝を折って脱力し、へなへなと床にくずおれてしまった。
「おい、大丈夫か?」
 ありゃ? 変だな。俺がぺたんと床に座り込んでも、芳賀の手が離れてない。
 俺の身体を支えながら、同じように屈んだからだ。そして、覗き込んでくる顔は変わらずに近い。どういうわけか。
 というさ、俺、もうだめだ。
 さっきハグの謎解きでめちゃ高速で頭使ったし、今も密着が続いてドキドキしてるし。ほんと、色々限界。『友情のハグ』とか、マジ勘弁。
 こういうのさ、すげぇつらいんだよ。もう、この触れ合いから解放してほしい。
 よし。もう、言う。はっきり言う!
「慎吾。もしかしてお前、まだ気づいてないのか?」
「あー、芳賀さぁ。俺ってば、ピュアピュアなジャパニーズ男子だからさ。こういうボディータッチ風の友情表現には慣れてないんだよ。だからさ、この手……そろそろ離して、くんね……かな?」
 はっきり言うはずが、ちょっと声が震えた。
 けど、床を見ながら頑張って伝えた。俺の背に腕を回し、身体を支えてくれてる相手に。
 これ以上ドキドキして、お前に俺の気持ちを感づかれる前に、離れたいんだ。
「慎吾、俺を見ろ。今すぐに」
「え……」
 真上から落とされた命令。大好きな甘いテノールに言われてしまえば、離れたいと思っているのに、つい素直に従ってしまう。
 そうして見上げた芳賀の瞳には、さっきと同じ〝色〟が浮かんでいた。昏くて、とても綺麗な漆黒が。
「芳賀?」
「もう、黙れ」
 そして、言葉を封じるように、相手の親指が俺の上唇に乗った。
「今、お前が喋っていい言葉は一つもない。余計なことも何一つ考えなくていい」
 密やかな声と、上唇をつうっと横に滑っていく指の感覚に、身体が再び固まっていく。
「ただ黙って俺の言葉を聞き、一度、頷くだけでいい」
 ぼうっと暗い闇の中で芳賀の薄い唇が綺麗につり上がり、妖艶な笑みを俺に落としてきた。
「俺に褒美、くれるだろ?」