re.夢で逢えたらまた君に

小学生にして一人映画を楽しむ趣味というのは中々珍しいんじゃないか、ちなみにうちのクラスには少なくとも僕が予想出来る狭い範囲の情報だけど、そんな趣味を持った生徒は居ない。
 小さな身体で目の前の大きなスクリーンの映画を誰に気を使うでもなく見れるとは贅沢で素敵だ。そう素敵、素敵? そう言えばこれは毎晩見る夢の少女の口癖だけど、夢というのは往々にしてそんなに長く覚えてられるものじゃない。
 でも僕は今、フレーズと共に彼女の姿、声が出てきた。不思議なことだと思う。
 まあ、それもまた素敵だ。僕は思考を止めて暗転するシアターの中、強い光を放つスクリーンに没入した。
「上手くいかないもんだねー物事ってさ」
 その日も夢の世界で満天の星空イメージトレーニングをしていた。これを始めてからもう一年になる。
 進展はなく小学校卒業までに満天の星空を眺めるというのは叶わなかった。僕はうなだれる彼女になぐさめの言葉をかける。
「仕方ないよ星空に選ばれなかったんだ、そう、僕らはこの群青色と結ばれてる。とても強くね」
「・・・・浮気失敗だね」
 彼女はますます落胆していく、この一年イメージの中だけであるとはいえ理想の星空を描いてきて、目の前に広がるのが殺風景な草原から変わらないというギャップは大きいのかもしれない。
「あーあー、ねえごろごろして過ごそうよ」
 彼女らしくないけど、悪い提案ではないから僕も彼女と一緒に仰向けに寝転ぶ。
 仰向けになると、まるで自分まで大地に沈み込んで一体になったような気がする。同時に見える空には吸い込まれるような一体感を感じる。
「気持ちいいね」
 僕は初めて寝転んだ感想を呟いた。
「夢の中だからこのまま寝れないのが惜しいけどね」
 確かに、それは僕も惜しいと思った。絶対気持ちいい眠りにつけそうなロケーションなのに。
「ねえ、中学入っても続き出来るかな?」
 彼女は顔だけこちらに向けて不安そうに言った。
「出来るよ、きっと」
 出来る、この時間と夢がなくならない限りはずっと──。
 中学校に入ると、近い地域の違う小学校から入学してくる生徒が増えるため、小学校とは少しスケールが大きく、環境の変化も激しいものになった。
 普通なら新しい環境で新しい人間関係を築くのが理想的だし、多くの人には容易く出来てしまうのかもしれない。
 でも僕は違った。入学して一か月も経たないうちにまるで自分だけが真っ黒な影色に塗り潰されているかのように孤立し、浮いてすらいた。
 当然、小学校の頃のように平穏な日々を送れるほど甘くはない。中途半端に大人になり始める時期に入った彼らは出る杭は打つし、逆に出なさすぎる杭は埋めてしまうという事をする。
 執拗な陰口という陰湿ながらじわじわと僕の精神を追い詰める方法で沈めようとし、見事に沈みかけていた。
 僕は自分でもこんなに落ち込みやすい性格だとは気が付かなかった。今まで平和ボケしていただけだったんだと思い知らされた。
朝の教室でも雀のさえずりよりも陰口の方がよく聞こえる。廊下に出れば通りすがりに笑われているような感じがする。
 こんな時でも辛うじてまともな精神を保っていられたのは、夢の中での穏やかな時間があったからだと思う。早く夜になって布団に入りたいという願望が僕の頭を支配していたし、なによりそう思い続けることが一種の救いの儀式みたいなものだった。
 そして、今日も僕は夢の世界に行こうと眠りにつく。早く、早くという焦燥感で中々寝付けなかったけど気が付けば夢の中に居た。
 ──目に飛び込んできたそれは、世界が模様替えされた姿だった。空という巨大なキャンバスに青紫色の天の川が堂々と描かれ、全体は夜空にしては明るく、金平糖みたいな星々の光はギラギラと輝き、それぞれが存在感を放っているようだった。
 全てがこちらにぶつかってくるような強い向かい風を片手で遮りながら、僕は彼女の隣に立つ。
「・・・・成功したんだね」
 彼女は僕の問いに何も答えなかった。口を微かに開けてただこの星空に見入っていた。
 彼女のガラス玉のような瞳は銀河に照らされ星を映して輝いている。
 ──綺麗だ。
 思わず、心の声が呟きに変わってないか確認してみるけど、大丈夫みたいだ。
「君に見せたい一心で、そしたら出来ちゃった」
「驚いたよ、本当に、君は魔法使いに昇格したね」
「そこは神様じゃないのー、別に良いけどさー」
 僕らは目を合わせて笑う、良い夜だと思う。
 僕らを邪魔するものは何もなくて二人だけで世界を貸し切りにして笑い合う──最高の贅沢だ。
「私さ、君が最近元気ないの知ってるんだよね、隠そうと取り繕った笑みで誤魔化す鉄板だよ?」
「なんだ・・・・バレてたんだ」
「何か辛いことあったんでしょ?」
 僕は頷く。でも話すつもりはなかった、こんな景色を前に話せるほど気持の良いものではないと思うから。
 それでも無理に聞いてきたら話すつもりではいた、でもやっぱりそこは彼女、無言で何も聞かずに背中を軽く撫でる。
 聞かない優しさ、語らない優しさそういうのが逆に身に染みる。それを彼女は理解しているんだろう。
 流れ星が一筋、光の軌跡を描いて星空に走る。それが二つ三つになり流星群をように降り注ぐ。
「私の見せたかった全て、感動した?」
「涙が止まらないな」
「嘘つき、一滴も出てないよー」
 また笑う。その夜はそんなことを繰り返した。でもどうしてか僕の直感はこれが最後だと目覚める直前サインを出していた。
おかしい、と思い始めたのはそれから数日後、あれだけ毎晩見れていた夢がピタリと見れなくなった。
 最初は色々な理由を考えて気持ちを落ち着かせていた。きっとストレスのせい、たまたま見れないだけ、もしかしたら彼女の体調が悪いせいかもしれないなど、そうやって脳裏にかすめているとある可能性を避けるようにしていた。
 でも、一ヶ月二ヶ月と過ぎていく過程で僕はいよいよその可能性と向き合う。
 ──彼女との時間はとうに終わったのだ。
 その事実は僕に喪失感と毎日の唯一のうるおいを失ったことによる乾きを与えるものだ。
 あの時間がどれだけ貴重で特別だったのか、皮肉にも全てが終わってから本当に思い知る。彼女の不在はその後一年間、僕を失われた過去に縋りつく者にさせ続けた。 
 そして今、僕は翌年に受験を控えている中学二年生になった。志望校は武蔵野高校という地元ではそこそこの進学校で、選んだ理由は単純に校風が良いと評判なのと、進学校で僕が頑張って届くギリギリのラインが武蔵野高だったから。
「明、塾行こうぜ」
 梅雨入りして雨が連日振り続け、外は薄暗く教室の白い照明の明かりが目立つ放課後、僕は帰り支度をして塾に向かおうとしていたところに秀一がこちらに歩み寄ってきた。
「珍しいね、秀一から塾に行こうなんて」
「んん、まあ、たまにはな」
 秀一は頭をかきながら言った。
「模試、振るわなくて映画見るの禁止寸前とかかな?」
 合っているかは分からないけど、大体そんなところじゃないだろうか。
「え、なにそれ読心術? まんまなんだが」
 図星らしい。いい加減受験生としての自覚を持てという神様からの啓示だろう。
「とりあえず行くか」
 僕が荷物を整えてそう切り出すと秀一は深くため息をつく。
「はあー努力して受かった後の時間にジャンプしないかな」
 そんな都合の良いタイムトラベルがあったら、そもそも努力自体いらないだろうなと思った。
 秀一と本格的に接点を持ち始めたのは、彼女との交流が途絶えた一年後の中二の春のこと、たまたま映画館の同じシアターで鉢合わせたのがきっかけで、どうやら小学生の頃の僕の予想は外れていたみたいで、秀一も一人映画が趣味だったらしい。
 それからお互い学校でも交流するようになった、と言っても最初は僕の方がぎこちなかった。今はそこそこ近い距離感で話せていると思う。
「武蔵野高を目指してる奴、あの塾で俺と明ともう一人居るらしいぞ」
 ほう、武蔵野高はあの小さい塾の中では志望者は僕と秀一だけだと聞いたけど。
 雨が容赦なくアスファルトや傘に当たり、滝のような音が響く街中を僕らは歩く。
「秀一はその人が気になるの?」
「仲間にしようと思ってる」
 ライバルではなく仲間ときたか。皆で団結して乗り切ろうみたいなテンションは受験にはそぐわない気がするけど。
「まあ、応援してるよ、仲間に出来ると良いね」
 仲間、か。僕の中から時間が過ぎるのと同じ速度で彼女との記憶は確実に薄れていった。
 多くの夢と同じようにいつの間にか忘れていく──心の奥では望んでいなくてもそれは止められないようだった。
 それから、数日後のこと、いつものように帰り支度していて、そろそろ秀一が来る頃だろうなと思い始めていた時に教室の扉が開いて現れたのは、秀一とポニーテールの女子生徒だった。二人がこちらに向かって来る。
 女子生徒の方はなんだか陽の雰囲気を纏っていて僕とは相性が悪そうだ。
「明、こちらが前に話した同志の東雲京香さん」
 秀一がそう言って僕に紹介すると、京香という女子は『同志の』というワードでピクリと眉を上げて、秀一を睨み上げる。
「秀一、勝手に同志にしないでくれる? 私にとっては同じ志望校の人なんて敵なんだけど」
 以降、しばらくの間、秀一と京香の言い合いを切りが良さそうなところまで聞いていた。
「あの、そろそろ塾に行きたいんだけど・・・・」
「ああ、すまん明」
 秀一が我に返ったように謝る。
「ごめんなさい明くん?」
「秀一が呼び捨てなら僕も呼び捨てでいいよ」
 京香は「分かった」と言って頷いた。何だかんだ仲間になる気はあるらしい。
そのまま塾に行っていがみ合う二人を尻目に僕は勉学に勤しんだ。
 実を言えば僕は京香派寄りの考え方を支持したい、秀一には悪いけど僕は受験が皆仲良くゴールイン出来るものではなく誰かが受かれば、誰かが落ちるという当たり前だけどある種の戦いなのだと思っている。
 まあ、だからといって『全てが倒すべき敵』というほど極端ではなく、あくまでその中間の姿勢だ。
 ガタ、ガタン・・・・うん、隣でいがみ合われるのは、ちょっと鬱陶しい。
「二人共いい加減にしてくれるかな、他の塾生にも迷惑でしょ?」
「ああ、ごめん」
 ごめんのタイミングが二人同時だったのがなんか面白い、喧嘩ばかりの双子みたいだ。
 息がぴったりな二人、か。僕の中にしばらく表に出ていなかった感覚が浮上する。
 それは、どう言葉にすればいいか分からない種類の感覚・・・・懐かしさ、いや違う、どこか欠落しているような、パズルのピースが一つだけ足りなくてそのピースが重要な絵の根幹のような・・・・。
「明、大丈夫か? ぼーっとして糖分足りてないならチョコあるぞ」
「ああ、いや大丈夫。少しぼんやりしてただけ」
 秀一が「そっか、ならいいか」と言ってチョコをバックに入れようとした。
「チョコは、頂くよ」
「なんだ、糖分足りてるんだろ?」
「ぼんやりとしてたとは言ったけど、糖分には触れてないな」
 秀一の顔がうっとひきつらせて「揚げ足取りは好きじゃない」と言いながらチョコを渡してきた。京香が秀一の顔を見て満足気な表情を浮かべていた。
 その後は三人黙って勉強した。二人も一度スイッチが入れば集中できるみたいだ。
 でも、あの違和感はなんだろうか──いやまだこのテンポ感に慣れてないからかもしれない。欠落感は僕が元々過ごしていた静かで平坦な日々がなくなったせいもある。
 ──平坦な日々か・・・・。
「明、塾閉めるってよ、帰るぞ」
「あ、ああ今行く」
 気が付いた時には京香は帰っていて秀一が塾の入り口で待っていた。
 まあ、考えすぎも良くないか。多分思い出せるタイミングが来たら思い出す、記憶なんてそんなものだろう。
 その日の夜は、ベッドに入るといつもより眠気が早くやってきた。きっと慣れない騒々しい日々に僕の心身は想像以上のエネルギーを消費しているに違いない。燃費の悪い毎日だ。
 しかし、燃費の悪い毎日だと思うということは──いや考えても仕方ない大人しく眠ってしまえばスッキリするだろう。僕は布団を肩までしっかり上げて横向きになり、意識を手放した。
 ──風の音が聞こえる、それと同時に大気の塊が僕の全身に対して叩きつけるようにぶつかってくる。目の前を埋め尽くすのは痛いほどに青々とした草と少し明るさを含んだ夜空に夜の象徴みたいに大きな輪郭のぼやけた濃いブルーの月、その世界で草が揺れ、風が吹く音はまるでオーケストラのように壮大で立っている僕は一瞬で飲み込まれてしまう。
 この意識がはっきりとした夢と景色に僕は懐かしさを感じている。それは疑う余地もなく僕が前に、いつかは分からないけどこういう夢を見たからだろう。
 僕が今感じている【これは夢の世界だ】という直感も真新しい感覚ではない。
 でも、この景色に僕の胸が叫んでいる。
 ──存在していなきゃおかしい何かが欠けている。
 それが何なのか、モヤがかかったように思い出せない。でも確かにそれは忘れてはいけない記憶で、この景色になくてはならない存在ということだけは確信を持って言える。
 あの冷めた月はそれを無くしてしまった証なのかもしれないと思った。