海晴くんと一緒に、僕が一度家に帰ったのは七月の第一週目の蒸し暑い週末だった。期末テストが始まる直前だったので、勉強に必要なものを取りに行く必要があったのだ。久しぶりに母と会った。玄関で姿を見たとき、一瞬、気のせいか母が今までより少し小さく見えた。食事の用意をしてくれているというので、三人で若干気づまりな夕食を食べていると、海晴くんが休日なのに父がいないことに言及した。母によると今朝早く出張先へ向かったという。だが今回は長期ではなく一週間程度で戻って来るとのことだった。
「あの人は私より、子供に嫌われることの方が怖いみたい」
 僕は、そう、としか云いようがなかった。そのあとで、
「あのさ、慰謝料とか、とるの?その、相手の人から」
 と母に訊いてみた。
「とれないわよ。もう亡くなってるんだもの」
「えっ?」
「亡くなったんだって。一昨日あの人が電話をかけたら、女性の息子が出たらしいの。そしたら今週、病院で亡くなったって云われたらしくて」
 だからこの件はもう終わりなの、と母は云いきった。
 僕は頭が真っ白になった。
 翡翠さんは今、どんな気持ちでいるのだろう。悲しみか、安堵か、あるいは何も感じられないのかもしれない。
 親が死んだとき、子供が悲しみに浸れるほどの余裕などないことを、僕は祖父を亡くしたときの母を見て知っている。父方の祖父は僕が生まれる前に他界していたから、僕にとってのおじいちゃんというのは、僕のために箪笥貯金をしてくれた母方の祖父を指す。そういえば祖父が亡くなったのも夏だったな、と思い出す。
 父はあのとき、母の傍にいた。母は祖父が亡くなったあと、すべての面において気力を失ってしまった時期があり、あのときは家じゅうに粗が目立った。父が運転しなければ買い物にも行けず、料理は手抜きが増え、ちょっとした音に敏感になり掃除機もかけられず、洗濯物を回しても干すのを忘れ、僕の保護者面談の日には予定を忘れて学校へ来なかった。
 初めは仕方ないと思っていた僕も、しょっちゅう家のなかで起こるミスにストレスが溜まり、ある朝ついに母を責めた。その日は、数日間母が洗濯をしていなかったせいで、着ていく制服のシャツがなかったのである。
「じいちゃんが亡くなってつらいのは分かるけど、いい加減にして。自分も親なんだってこと忘れてない?もう少し頑張ってよ」
 とか何とか云ったと思う。それを聞いた父は僕に冠婚葬祭用の白いシャツを着るように云うと、学校まで送ると云って車を出した。
「お前は何も分かっていない。お前はいつか父さんたちが死ぬなんて今は思いもしないんだろうが、そのときは必ずやってくる。そのときどう感じるかお前にはまだ分からないだろう。大人だから、誰かの親だから、何が起きても大丈夫なんてことはないんだ。他人から見れば何てことない、些細なことでも病気になってしまうのが人間なんだよ。母さんは今立ち直ろうと頑張っているんだ。もしもまたあんなふうに母さんを責めたりしたら、父さんはお前を許さない」
 母は一人っ子のお嬢様で、それは大事に育てられ、結婚して僕を生んでからもしょっちゅう連絡を取り合うほど祖父との親子関係は良好だった。体の弱かった祖母が早くに亡くなったため、残された父親のことはまめに気にかけているつもりだったのに、倒れて入院するまで病気に気づかなかった自分を母は責めている。だから、ショックが大きいのも仕方のないことなのだと父は云っていた。
「お前は今、この状況を面倒に思ってるかもしれないが、お前もこの先きっと誰かを好きになるだろう。その人がいつも安定していて完璧だと思ったら大間違いだ。大事な人がつらいときは、たとえ地獄だろうと一緒に見てやるという覚悟を持て」
 あとにも先にもあんなふうに父に叱られたのは、あの一度きりだ。
 父は恐らく、赴任先をほかの誰かに任せて母の傍にいるために、相当無理をしていたと思う。
 あのとき車のなかで父が云った言葉を母は知らない。あれが母への愛でなくて何なのだと思う。
 確かに父は間違えたのかもしれない。でももしかしたら父は、僕と同じ年頃の息子を持つ孤独な母親に何かしてやりたいと、初めはただそれだけだったのかもしれない。水谷さつきと出会ったことで、父の僕や母へ対する愛情が損なわれたとは、僕はまったく思えないのだ。
 食事を終えたあと、僕はそのときのことを母に初めて語った。今回の件について母がどんな判断を下すにしても、このことは知らないよりは知っていた方がいいと思った。
 僕もできることなら父が云ったように誰かを愛したい。この人となら世界の果てでも地獄でも、どこへでも行ってやろうと思えるような、そんな人と旅をしたい。ロンドンの冷たい雨がその人に降り注ぐとき、僕は黙って傘を差しかけよう。ローマの花売りやミサンガ売りにつかまらないよう、僕がその手を握っていてあげよう。ミュンヘンでもウィーンでもあの人には好きなだけビールを呑んでほしい。たとえ歩けなくなっても、僕が彼を背負ってちゃんとホテルまで送り届けるから。パリのギャルソンがあの人を見つめるとき、僕は胸を燃やすだろう。バルト海の本物の琥珀をあなたに贈りたい。僕がいないところでも、あなたが幸せであるように。
 そして今夜、翡翠さんの眠りが安らかであるようにと、僕は鞄のなかのアクアマリンに祈った。

 翌週、僕は放課後、【Porte Bonheur】に行ってみた。気温は三十五度を超えていたので店に着く頃には汗だくだった。しかし店の扉には『誠に勝手ながら、都合により本日は休業させて頂きます 店主』という貼り紙がしてあった。翌日も、その翌日もうだるような暑さのなか、放課後に行ってみたが、貼り紙はそのままで相変わらず扉の向こうは静まり返っていた。翡翠さんに連絡をすれば良かったのだが、もし都合が悪いのに気を遣わせてしまったら申し訳ないと考えていた。
 そして四日目でようやく翡翠さんをつかまえた。その日は期末テストの初日で、正午で下校という日程になっていたので、僕は翡翠さんの大学まで足を延ばしてみた。お店はともかく、大学は出席日数に厳しいと聞くから、母親の葬儀当日など、よほどのことがない限り登校しているはずだと思った。
 キャンパスの門の前には警備員がいたので、僕は学生が出入りする門はここだけかと訊ねてみた。制服を着ていたためか特に警戒はされず、裏門もあるけど、基本はみんなここを通るね、と警備員の男性は教えてくれた。
『大学の正門の前に来ています。待っているので来てもらえたら嬉しいです』
 というLINEを送り、僕はしばらくそこにいた。樹の陰に立っていたが、あまりにも暑かったので途中で傍にあった自販機でスポーツドリンクを買い、そのペットボトルを首筋にあてたりしていた。翡翠さんに送ったメッセージはなかなか既読にならなかった。警備員の人が心配して、机などに設置してあったであろうコードレスの卓上扇風機を貸してくれた。もしかして今日、翡翠さんは大学に来ていないのだろうかと不安になりはじめたとき、敷地内でチャイムが鳴るのが聞こえた。
 徐々に敷地内のざわめきが聞こえはじめ、学生たちが門の外へ出てくる。そのなかに、翡翠さんの姿があった。僕のメッセージを読んだのか、周囲を見回している。そしてすぐに僕に気づくと小走りで僕のところへやって来た。
「どうしたの、星雨くん。学校は?」
 その日の僕の学校の予定など知らない翡翠さんは驚いていた。久しぶりに見る翡翠さんの装いはすっかり夏で、白い肌に白いブラウスが眩しかった。僕は一瞬、ニースで見たきらめく海の光を思い出した。
「突然だったから……授業中だったんだよ。暑かったでしょ」
「いいんです。待つつもりで来ましたから」
「どうして来たの?」
「あなたに会いに来たんです」
 その単純な言葉がほんの少し翡翠さんの心を揺り動かしたのを僕は感じた。
 しかしあとからやって来た学生の男女数人が翡翠さんの背中を見つけるなり、ぞろぞろとこちらへ近づいてきた。
「いたいた、翡翠くん、何で先行っちゃったの?」
 そう声をかけられ、翡翠さんは一度彼らを振り返った。恐らく、大学に勉強をしに来ているのではなく、自分たちの外見がいかに優れているかを見せつけに来ているのだろうと思われる集団だった。
 そのなかの女の一人が、
「なにー、知り合い?」
 などと馴れ馴れしく翡翠さんの肩を触れて僕を見てくる。女がもう片方の手で持っているブランドバッグは、母のクローゼットのなかで見かけたことがある。だがこの女が持つと途端に安っぽく見えた。
 うるさい、このアバズレ。その長い爪で翡翠さんの鎖骨を傷つけたら許さないぞと思っていると、翡翠さんが自ら、ちょっと待っててね、と云ってその手を逃れ、僕を道の端へ誘った。
「どこか行くところだったんですか?」
「うん……ちょっとね」
「急に来たことは謝ります。でも少しだけ話せませんか?」
 男ならみんな、好きな人の前では余裕を保ちたいものだと思う。でも翡翠さんの前に出るとそれがいかに難しいことかよく分かる。僕たちの話し声はまだそこにいた翡翠さんの友人たちに聞こえていた。
「話せませんか、だって。かっわいい」
「あの子、景明学園でしょ?そこそこお坊ちゃんじゃん」
「翡翠くんだめだよ。高校生をどこでたぶらかしたの」
「たぶらかす、とか」
 頭の悪そうな四人の大学生は勝手に笑っている。翡翠さんが通う大学のレベルを悪く云う気はないが、こんな奴らが翡翠さんの周りをうようよしているかと思うとぞっとする。あのなかに翡翠さんがいたら、掃きだめに鶴じゃないかと思う。
「悪いけど、先に行ってて。あとから行くから。連絡する」
 えーそんなぁ、必ず来てよ、という声に、ごめんね、と返すと、翡翠さんは彼らとは逆方面に向かって歩き出した。僕は警備員の男性に、礼を云って扇風機を返し、翡翠さんを追いかけた。
「あの、すみませんでした」
 改めて僕を見た翡翠さんは、少し僕を咎めるような表情を浮かべていた。
「熱中症になっちゃうよ。この先の店で、何か冷たいもの奢るから」
 そう云いながら僕にハンカチを差し出し、汗を拭くように云った。皮膚から甘い香水の匂いが脳髄にしみ込んでいくのが分かる。僕は真夏が訪れるたび、この匂いを思い出すだろうと思った。
「どうして来たの?もう僕とは会わない方がいいよ」
 歩きながら僕の顔を見ずに翡翠さんは云った。
「翡翠さんのお母さんのこと、聞きました。亡くなったって」
「そう」
「一言お悔やみを云いたくて」
「ご両親から何か云われて来たの?」
「いいえ、翡翠さんとのことは両親には話していませんから。今日は僕が勝手に来たんです」
 翡翠さんが向かおうとしている店は、道の反対側らしい。赤信号の前で僕たちは立ち止まった。
「昨日、星雨くんのお父さんから、書留でお花代を頂いたよ。ありがとうございますって伝えておいて。でも、できればお母さんには聞かれない方がいいかも」
「分かりました。でも母は、もうこの件は終わりだって云ってました」
 その言葉に安心したのか、翡翠さんは深い深いため息を吐いた。
「ほんとに馬鹿な人だよ。最後まで人様に迷惑かけて」
 信号が青になり、翡翠さんの方が先に歩き出した。横断歩道を渡ってすぐのところにあったのは、神田神保町にありそうな古風な喫茶店だった。翡翠さんがここはクリームソーダが美味しいよ、と勧めてきたので、二人でそれを注文した。
「学校、まだ叔父さんの家から通ってるの?ごめんね」
「謝らないでください。それは翡翠さんのせいじゃないですよ」
「ほんとにごめんね。でももう僕には会いに来ないでね」
「どうしてですか?僕たち、何の関係もないところで出会ったんです。僕の父と翡翠さんのお母さんに何かあったからって、急にあなたを嫌いになれるわけない」
「星雨くん、学校の友達いっぱいいるじゃん。彼女だっているんでしょ?わざわざ僕と無理に友達続けなくていいよ」
「それなら翡翠さんだって、さっきの人たち何なんですか?友達なんか一人もいないって云ってたのに」
「あんなの友達じゃない。ただ、授業でグループワークがあって……教授が勝手にメンバー割り振ったんだもん。そしたら帰りに呑みに誘われて、そこで話し合いしようって云われたから断れなくて」
「そうだったんですね。でも云っておきますけど、僕は無理をして誰かと仲良くできるほどできた人間じゃありません。あなたのことが好きで、傍にいたいと云ったら迷惑ですか?」
 何かに耐えるような硝子の瞳が僕を見上げる。僕の思考は一瞬停止する。ああ、この瞳のなかで死にたい。この人に二度と会えないのなら、命なんかいらないと僕は本心から強く思う。
「……僕ね、もし星雨くんの方から云われなかったら、ずっと母親のことは隠してたと思う。星雨くんと友達になれたこと、ほんとに嬉しかったんだ。初めて見たときから、仲良くなれそうな気がしてた」
「初めて、って」
「前の彼女と一緒に来たでしょ?眼を見たときに、あ、この子嘘吐いてるな、ってすぐに分かったんだ。彼女は星雨くんとの記念になるものをあれこれ一生懸命探してたんだろうに、きみは全然集中してないの。何てひどい彼氏だろうって思ったんだよ。でもひどいのは僕の方も同じだったけどね」
「ひどい?何がですか」
「ローズクォーツが割れて、修理に持って来たでしょ?あれ、初期不良だったの。傷ついた石は当然避けてつくってるんだけど、僕が見逃したか、もしかしたら、僕の知らないうちにお客さんか誰かが落としたりして傷ついたのかもしれない。分かりにくいけど、ひびが入ってた。まさかあんなふうに真っ二つ割れるなんて思わなかったけど。ラッピングしたときにほんのかすかにちりっとした感覚があって。でも気づいてて云わなかったんだ」
 翡翠さんはアイスクリームの裏側のしゃりしゃりとした部分だけをスプーンですくって食べた。
「恵まれた高校生のカップルに吝嗇をつけてやろうと思ったの。最低でしょ。でも星雨くんが二度目にうちの店に来たとき、瞬間的に、ああまた会えたって思ったんだよ。嬉しかった。自分が惚れっぽいのは自覚してたけど、明らかに年下だって分かってる相手にそんなことを感じたのは初めてだったから、自分でも不思議だった。でもまさか緒乃瀬さんの息子だったなんて。血は争えないって感じで嫌になっちゃう」
 翡翠さんが僕のストラップを無償でつくり直してくれたのは罪悪感からだったのだな、と僕は今気づいた。
 もしも翡翠さんが母親の過ちを思い出すから友達をやめたい、会いたくないと云うのなら、僕に打つ手はない。僕たちの責任ではなくとも、それはどうしようもないことだ。この世には奇跡よりも宿命の方が圧倒的に多く転がっているのだろう。僕たちはそういう宿命だった。こうして僕と顔を合わせていることすら、翡翠さんにとってはつらいことなのかもしれない。ごく最初のうち、好意を抱いてくれたというだけでも満足すべきなのかもしれない。
「小賀坂くんのお店行ったんだって?連絡きたよ」
 翡翠さんは僕の方を見た。
「あ……」
「だめだよ、彼だって仕事中なんだから。忙しいから店舗をチェックできる時間は限られてるんだよ」
「すみません」
 僕はあれからいろいろ反省した。今のご時世に実店舗を持つなんて、あの人は相当苦労したに違いないのだ。
「でも会えるなんて普通に考えたらラッキーだったと思うよ。あの人、悔しがってたよ。星雨くんを自分のファンにしたかったなって」
「えっ」
「ねえ、好きってどういう意味?」
 僕は、はっとして翡翠さんを見た。
「小賀坂くんから聞いた。それに、さっきも云ってくれてたけど」
「それは……」
「恋愛って意味で?」
 僕はもうそれを認めてしまいたかったが、それでは最初と話が違う。翡翠さんはこれまで、せっかく仲良くなれると思った相手に、最終的には体を求められるというような経験を、うんざりするほどしているはずだった。
「翡翠さんと恋愛ができたら、それは何よりも嬉しいことだろうなって思います。でもあなたが友達として僕を受け入れてくれたことは分かってますから」
「つまり、我慢してくれてるってこと?」
「それは否定しません。でも友情の方がいいのかもしれないって思うのも本心なんです。恋愛はいつか終わるものだから。友達ならずっと傍にいられます。僕は翡翠さんの傍にいたいんです。もしあなたとずっといられるのなら、あなたを抱けなくたって構わない」
 かなり真剣に云ったのだが、翡翠さんはちょっと笑ってクリームソーダを飲んだ。
「何それ」
「できますよ。あなたが僕をいつでも一番に信頼してくれれば」
「もし僕がほかの誰かと付き合うって云ったらどうするの?」
「それで翡翠さんが幸せなら、僕は……」
「星雨くんは僕がほかの人と寝ても平気なの?」
「それは、嫌ですけど」
「もし僕がきみをベッドに誘ったとしても断るの?」
「……無理かもしれません」
 悪魔のような熱が体に入り込みそうになる。
 僕は自分でも何を云っているのか分からなくなってきた。自分で自分の考えていることがうまく言語化できない。
「でも僕は、自分がどうしたいかよりも、ほかの何よりも、あなたの心が大事なんです」
 これだけは本当だった。この感情が恋愛か友情かなんて今の僕には分からない。そのどちらでもあって、どちらでもないところに僕はいたい。簡単には割りきれない、抜き差しならない、圧倒的な、説明不可能な、強い感情。
 自分よりも大切に思える人に、出会えることも間違いなく奇跡だ。
 翡翠さんはまたほんの少し笑って、クリームソーダに視線を落とした。泣きそうな笑顔に見えたのは、僕の気のせいだろうか。
 少しの沈黙を挟んだあとで、
「星雨くんの云ってることは変だけど、でも嬉しい」
 と翡翠さんは呟いた。
「僕がほしいのはね、僕の中身を無視しないでいいところも悪いところも全部受け入れてくれる人。大抵の人は僕の外側にしか用がないし、母親は昔から自分の心だけでいっぱいいっぱいだったし。仕方ないって諦めてたけど……でも本当はずっと、誰かに僕の心を見つけてほしかったんだ。安心してしがみつけるものがほしかった」
 僕は手を伸ばして、テーブルの上にあった翡翠さんの手に触れた。
 あなたのほしかったものはここにある、と云いたかった。千の愛の言葉を喉の奥に隠して、幸福な眩暈を堪えて、体の奥深くから湧き出る狂熱で身を焦がして、僕はただ、翡翠さんの白い手を握りしめた。
 僕はあなたの傍にいる。あなたが悲しみに暮れるとき、声にならない叫びを呑み込むとき、わけも分からず泣きたくなったとき、遠くに置いてきたはずの寂しさが戻ってきてしまったとき、眼に見えない大きな不安に胸が潰れそうになったとき、どうか僕がいることを思い出して。
 あなたのその二つの瞳。この世のどんな宝石よりも美しいもの。僕はその光を曇らせないためなら何でもする。
 その決意が愛のはじまりだったということを、僕は随分あとになってから気づいた。
「旅に出ましょう、翡翠さん」
「えっ」
「僕と一緒に来てください。もうすぐ夏休みでしょう。海を見に行きましょうよ」
 クリームソーダの下で氷の溶ける音がして、それと同時に翡翠さんの命が揺れ動いた。僕は掌でそれを感じた。
 やがて翡翠さんの双眸に涙が満ちて、静かに零れ落ちていった。
「あなたが望むなら、僕はどこにだって行けるんです」
 僕はあなたの心をずっと見ている。あなたの手を決して放さない。そしてあなたの眼に希望が戻ってくるのを誰よりも近くで見ていたい。 
 奇跡はあると思う。