それから僕は、何となく翡翠さんに連絡をとるのを躊躇うようになってしまった。現実の彼にどう向き合ったらいいかが分からず、インスタのなかの彼ばかり繰り返し見ていた。
コンビニで翡翠さんと会ってから二週間ほど経ち、その日、僕は学校の友人たちとテスト期間に入る前にいつもとは別の沿線の駅に遊びに来ていた。
明美と別れたばかりのとき、カラオケをセッティングしてくれた友人が、
「ところで麻友ちゃんとはどうなの?」
と訊いてきた。
「うん、現状特に問題なくスムーズに」
「スムーズに、ってことは、えっ?もう……」
僕は笑って誤魔化そうとした。
「なになに何の話?」
「麻友ちゃんとの話」
「マジか、聞かせろ、もう一回、最初から、事細かに」
「うるさいうるさい」
「ねえねえ誰のおかげ?」
「はいはい、ありがとね」
一通りやるべきことをやったあとの僕と麻友の関係は、わりとうまくいっていた。そのほとんどは麻友のおかげだった。というのも、付き合ってみて分かったのだが、彼女は彼女で日々をそれなりに忙しく過ごしていたので、これまで付き合った子たちのように僕にべったりということがなかったのだ。
麻友は幼少期から習い始めたバイオリンと華道を今も続けていてそれぞれ週に一度はレッスンに通っていたし、学校では茶道部の副部長を務めていた。週末は両親とコンサートを聴きに行ったり、親戚の女性たちと歌舞伎や宝塚を観に行ったりと、身内での付き合いも月に何回かあるということで、必然的に彼女は僕にばかり時間を割くことはできなかったのである。従って、一緒に帰ることや週末のデートを義務のように感じさせたり、LINEを連投して僕の時間を拘束したりということはまずなかった。麻友は僕の心に居座ろうとはせず、彼女の持つ世界と僕の世界をうまく調和させようとしてくれていた。
もしかしたらこういう関係性が一番良いのかもしれないな、と僕は考えはじめていた。理性の入る余地のない、心臓を締めつけられるような恋なんてすべきじゃない。馬鹿みたいに聞こえるが、翡翠さんへの恋は命にかかわる、と僕は思っていた。あの人が傍にいると、自分を見失いそうになる。自分がおかしいということは、友人から翡翠さんのモデルの画像を見せられたとき、そしてそのもっと前、翡翠さんと二人で映画を観に出かけたときに、既に自覚していた。僕は多くの人に翡翠さんを好きになってほしくなどなかった。誰にも知ってほしくない。誰にもあの人を見てほしくない。僕のいないところでほかの誰かにその笑顔を向けないでほしい。そう願っていた。独占欲と執着など、自分には無縁だと思っていたのに。
麻友が相手ならこれまでの安定した僕でいられる。
ある店の前を通りかかったとき、僕ははっとして立ち止まった。ある店のウィンドウに翡翠さんが持っていたのと同じショッキングピンクのバッグが置いてあった。よく見ると、その横にあるマネキンは、二人で出かけたときの翡翠さんとほとんど同じ服装をしていた。
「ねえ、ここ、入っていい?」
普段、寄り道の提案などしない僕が急にそんなことを云い出したので、友人たちはちょっと驚いていた。
「えっ、突然だな」
「ここ?かっこいいけど、ちょっと高そうじゃない?」
「じゃあ、その辺でぶらぶらしてて。あとで追いつくから」
僕は友人たちと別れて店に入った。
そこは限りなく装飾を排除した、黒と白とグレーの空間だった。コンクリート打ちっぱなしの壁面に、シンプルな黒いラックと、硝子の商品棚、そして商品もほぼ黒、白、グレーの三色しかない。そこに差し色のように、先ほどのバッグのような色の強い小物が点在していた。すべての商品が余裕を持って陳列され、こういう雰囲気が好きな人だけどうぞ、といったような余裕が感じられる。当然といえば当然だが、ウィンドウのマネキン以外に翡翠さんの気配が感じられるものはなかった。僕は適当に商品を手にして、店内を見て回った。店員は男女一人ずついて、女性の店員は接客中だった。もう一人の男性店員は服の畳直しなどをしているが、高校生など相手にしないつもりなのか、一向に話しかけてくる気配はない。いらっしゃいませぐらい云えるだろうにと思っていると、その男性店員の顔に見覚えがあることに気づいた。咄嗟に僕は傍にあった適当なTシャツを掴んでその店員の前へ行った。
「これ、試着したいんですけど」
男は僕の持っている商品と、僕の恰好を見てから、はい、ご案内しますね、と接客用の笑顔を浮かべた。その笑顔の圧に僕は一瞬怯んだ。それまで表情をなくしていた横顔との差があまりにもありすぎた。別にTシャツが欲しかったわけではない。眼の前にいるこの店員とは話しておきたいと思ったのだ。いつだったか、翡翠さんの店ですれ違った黒ずくめの男に違いなかった。ネームホルダーに『小賀坂』と書いてある。
僕はその小賀坂という人に試着室の前に連れて行かれ、宜しければ店内にあるボトムスと合わせてみられますか、だの、サイズ違いもございますので必要でしたらお申しつけ下さい、だの、世話を焼かれて入室を見送られた。
「もし宜しければお外の鏡でもご覧ください」
扉越しに再び声をかけられたのはちょうど試着を終えたタイミングだった。云われた通りに出て行くと、お似合いですね、という常套句と共に、小賀坂さんから何やかやとコーディネートのアドバイスをしてきた。僕は適当に相槌を打ちながら、鏡を通してまじまじと彼を見た。彼は翡翠さんとはまったく違うタイプであるものの、イケメンに違いなかった。顔の造形のバランスが良いだけでなく、高身長で筋肉のつき方も理想的で、その上、もし僕にヘアセットの技術があれば、同じようにしてみたいという髪型をしていた。何よりすごいと思ったのは、その笑顔から放たれる圧倒的光量だった。確かこの人はインスタグラマーでモデル活動をしていたはずだが、どうしてこんなところにいるんだろう。彼は、一度僕と顔を合わせていることにはまったく気づいていない様子だった。
「僕、このお店のインスタ見て来たんですけど」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「あの……水谷翡翠さん、よく来るんですか?」
「あ、彼のファンなんですか?」
「ちょっと、知り合いで」
「うんうん、そういう方、たまにいらっしゃるんですよね」
小賀坂さんはそれ以上云わなかった。笑ってはいるが、防御に入ったのが分かった。
「あなたのことも知ってます。一度、翡翠さんのお店ですれ違ってる」
「え、ありがとうございます。憶えててくれて」
彼は一瞬、大袈裟に驚いた表情をつくったあと、心をとろかすような笑みを浮かべてきた。どうしてこんなに顔の筋肉がよく動くのだろう。
「付き合ってたんですよね。翡翠さんからそう聞いてます」
「嬉しい。そうかあ、彼、俺のことそんなふうに云ってくれてたんですか」
小賀坂さんの喋り方に僕はじれったさを感じていた。僕の云ったことに感じよく反応はしているが、質問には答えていない。こういう術は、彼のように多くの人と触れ合う立場の人間には必要なスキルなのかも知れなかった。僕はTシャツを買うことにして、もう少し会話を引き延ばそうと考えた。
「翡翠さんとどこで知り合われたんですか?」
「僕の友達が翡翠くんと同じ大学だったんですよ。学祭に誘われて遊びに来たら、たまたま彼が通りかかって。きれいだったから、僕の方から声をかけてって感じかな。そのときはナンパとかじゃなくて、モデルになってほしかったんです。僕は服飾の専門学校に通ってたから。このブランドを立ち上げたときも友達のよしみでイメージモデルやってくれて。ここ、俺のつくったブランドなんで。とはいっても、今は店、ほかの人に任せてること多いんですけど」
「てっきりインスタグラマーとモデルが本業なんだと思ってました」
「あ、知っててくれてるんですか?そうなんです、そっちの関係でね」
小賀坂さんの声は終始柔らかかった。恐らく、高身長故に他者に威圧感を与えかねないのでそれを少しでも軽減しようと工夫してきたのだろう。
「翡翠さんはもうモデルやらないと思いますよ。就職活動に差し障ると嫌だからって」
「えーそれが本当ならショックだなあ」
小賀坂さんは笑った。たぶん、僕の云ったことを本気で受け止めていないのだろうと思った。
「翡翠くんも僕と同じような仕事すればいいのにって何度も誘ってるんですよ。あんなきれいな子、なかなかいないから。そう思いません?」
「そうですね。でもあの人は堅実に生きたいんだと思います」
「俺も堅実に生きてるよ?」
僕は口を噤んだ。途端に後悔が襲ってきた。自分は無意識にこの人を小馬鹿にしていたのだろうか。浮ついたことをしていると、舐めてかかっていたのだろうか。じゃあ自分は?そんなに偉いのかと思う。
「これ、新商品の香水のサンプル。良かったら使ってみて」
小賀坂さんは香水のミニボトルをおまけとしてTシャツと一緒に包んでくれた。レジにあるポップを見て気づいたが、その香水のミニボトルは決まった金額以上の買い物をした客に期間限定でつけているもので、僕の買ったTシャツはその金額を満たしていなかった。
ああこんな自分は嫌だ。早く大人になりたい。こんなふうに許されたくない。もっと多くのことを理解したい。ついこのあいだまで僕は自分自身にそこそこ満足しているはずだった。それが今では、どうして、自分に足りていないものばかりに眼がいく。
ありがとうございます、と小賀坂さんは云って、Tシャツが入った紙袋を持って店の外まで見送ってくれた。
「僕、翡翠さんが好きなんです」
「うん、俺も。みんなそう云うよね」
「教えてください。あの人に好きになってもらうにはどうしたらいいんですか?」
「それは俺にも分からないよ。好きな人に好きになってもらうのなんて、誰にとっても奇跡じゃないかな」
小賀坂さんの声は最後まで優しかった。鉄壁の笑顔を前に、僕は手も足も出なかった。
「翡翠くんはあの見た目だからね。好かれることには慣れてると思うよ。ライバル多いと思うけど、頑張ってね」
あなたのような人が翡翠さんの周りにたくさんいるのなら、僕はどう立ち向かえばいいのかまったく分からない。奇跡というなら、翡翠さんに出会ったことも、仲良くなれたことも、あの人の寂しさに触れたこともすべてそうなのかもしれない。これ以上の奇跡を望むことなど僕には分不相応なのかもしれない。
コンビニで翡翠さんと会ってから二週間ほど経ち、その日、僕は学校の友人たちとテスト期間に入る前にいつもとは別の沿線の駅に遊びに来ていた。
明美と別れたばかりのとき、カラオケをセッティングしてくれた友人が、
「ところで麻友ちゃんとはどうなの?」
と訊いてきた。
「うん、現状特に問題なくスムーズに」
「スムーズに、ってことは、えっ?もう……」
僕は笑って誤魔化そうとした。
「なになに何の話?」
「麻友ちゃんとの話」
「マジか、聞かせろ、もう一回、最初から、事細かに」
「うるさいうるさい」
「ねえねえ誰のおかげ?」
「はいはい、ありがとね」
一通りやるべきことをやったあとの僕と麻友の関係は、わりとうまくいっていた。そのほとんどは麻友のおかげだった。というのも、付き合ってみて分かったのだが、彼女は彼女で日々をそれなりに忙しく過ごしていたので、これまで付き合った子たちのように僕にべったりということがなかったのだ。
麻友は幼少期から習い始めたバイオリンと華道を今も続けていてそれぞれ週に一度はレッスンに通っていたし、学校では茶道部の副部長を務めていた。週末は両親とコンサートを聴きに行ったり、親戚の女性たちと歌舞伎や宝塚を観に行ったりと、身内での付き合いも月に何回かあるということで、必然的に彼女は僕にばかり時間を割くことはできなかったのである。従って、一緒に帰ることや週末のデートを義務のように感じさせたり、LINEを連投して僕の時間を拘束したりということはまずなかった。麻友は僕の心に居座ろうとはせず、彼女の持つ世界と僕の世界をうまく調和させようとしてくれていた。
もしかしたらこういう関係性が一番良いのかもしれないな、と僕は考えはじめていた。理性の入る余地のない、心臓を締めつけられるような恋なんてすべきじゃない。馬鹿みたいに聞こえるが、翡翠さんへの恋は命にかかわる、と僕は思っていた。あの人が傍にいると、自分を見失いそうになる。自分がおかしいということは、友人から翡翠さんのモデルの画像を見せられたとき、そしてそのもっと前、翡翠さんと二人で映画を観に出かけたときに、既に自覚していた。僕は多くの人に翡翠さんを好きになってほしくなどなかった。誰にも知ってほしくない。誰にもあの人を見てほしくない。僕のいないところでほかの誰かにその笑顔を向けないでほしい。そう願っていた。独占欲と執着など、自分には無縁だと思っていたのに。
麻友が相手ならこれまでの安定した僕でいられる。
ある店の前を通りかかったとき、僕ははっとして立ち止まった。ある店のウィンドウに翡翠さんが持っていたのと同じショッキングピンクのバッグが置いてあった。よく見ると、その横にあるマネキンは、二人で出かけたときの翡翠さんとほとんど同じ服装をしていた。
「ねえ、ここ、入っていい?」
普段、寄り道の提案などしない僕が急にそんなことを云い出したので、友人たちはちょっと驚いていた。
「えっ、突然だな」
「ここ?かっこいいけど、ちょっと高そうじゃない?」
「じゃあ、その辺でぶらぶらしてて。あとで追いつくから」
僕は友人たちと別れて店に入った。
そこは限りなく装飾を排除した、黒と白とグレーの空間だった。コンクリート打ちっぱなしの壁面に、シンプルな黒いラックと、硝子の商品棚、そして商品もほぼ黒、白、グレーの三色しかない。そこに差し色のように、先ほどのバッグのような色の強い小物が点在していた。すべての商品が余裕を持って陳列され、こういう雰囲気が好きな人だけどうぞ、といったような余裕が感じられる。当然といえば当然だが、ウィンドウのマネキン以外に翡翠さんの気配が感じられるものはなかった。僕は適当に商品を手にして、店内を見て回った。店員は男女一人ずついて、女性の店員は接客中だった。もう一人の男性店員は服の畳直しなどをしているが、高校生など相手にしないつもりなのか、一向に話しかけてくる気配はない。いらっしゃいませぐらい云えるだろうにと思っていると、その男性店員の顔に見覚えがあることに気づいた。咄嗟に僕は傍にあった適当なTシャツを掴んでその店員の前へ行った。
「これ、試着したいんですけど」
男は僕の持っている商品と、僕の恰好を見てから、はい、ご案内しますね、と接客用の笑顔を浮かべた。その笑顔の圧に僕は一瞬怯んだ。それまで表情をなくしていた横顔との差があまりにもありすぎた。別にTシャツが欲しかったわけではない。眼の前にいるこの店員とは話しておきたいと思ったのだ。いつだったか、翡翠さんの店ですれ違った黒ずくめの男に違いなかった。ネームホルダーに『小賀坂』と書いてある。
僕はその小賀坂という人に試着室の前に連れて行かれ、宜しければ店内にあるボトムスと合わせてみられますか、だの、サイズ違いもございますので必要でしたらお申しつけ下さい、だの、世話を焼かれて入室を見送られた。
「もし宜しければお外の鏡でもご覧ください」
扉越しに再び声をかけられたのはちょうど試着を終えたタイミングだった。云われた通りに出て行くと、お似合いですね、という常套句と共に、小賀坂さんから何やかやとコーディネートのアドバイスをしてきた。僕は適当に相槌を打ちながら、鏡を通してまじまじと彼を見た。彼は翡翠さんとはまったく違うタイプであるものの、イケメンに違いなかった。顔の造形のバランスが良いだけでなく、高身長で筋肉のつき方も理想的で、その上、もし僕にヘアセットの技術があれば、同じようにしてみたいという髪型をしていた。何よりすごいと思ったのは、その笑顔から放たれる圧倒的光量だった。確かこの人はインスタグラマーでモデル活動をしていたはずだが、どうしてこんなところにいるんだろう。彼は、一度僕と顔を合わせていることにはまったく気づいていない様子だった。
「僕、このお店のインスタ見て来たんですけど」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「あの……水谷翡翠さん、よく来るんですか?」
「あ、彼のファンなんですか?」
「ちょっと、知り合いで」
「うんうん、そういう方、たまにいらっしゃるんですよね」
小賀坂さんはそれ以上云わなかった。笑ってはいるが、防御に入ったのが分かった。
「あなたのことも知ってます。一度、翡翠さんのお店ですれ違ってる」
「え、ありがとうございます。憶えててくれて」
彼は一瞬、大袈裟に驚いた表情をつくったあと、心をとろかすような笑みを浮かべてきた。どうしてこんなに顔の筋肉がよく動くのだろう。
「付き合ってたんですよね。翡翠さんからそう聞いてます」
「嬉しい。そうかあ、彼、俺のことそんなふうに云ってくれてたんですか」
小賀坂さんの喋り方に僕はじれったさを感じていた。僕の云ったことに感じよく反応はしているが、質問には答えていない。こういう術は、彼のように多くの人と触れ合う立場の人間には必要なスキルなのかも知れなかった。僕はTシャツを買うことにして、もう少し会話を引き延ばそうと考えた。
「翡翠さんとどこで知り合われたんですか?」
「僕の友達が翡翠くんと同じ大学だったんですよ。学祭に誘われて遊びに来たら、たまたま彼が通りかかって。きれいだったから、僕の方から声をかけてって感じかな。そのときはナンパとかじゃなくて、モデルになってほしかったんです。僕は服飾の専門学校に通ってたから。このブランドを立ち上げたときも友達のよしみでイメージモデルやってくれて。ここ、俺のつくったブランドなんで。とはいっても、今は店、ほかの人に任せてること多いんですけど」
「てっきりインスタグラマーとモデルが本業なんだと思ってました」
「あ、知っててくれてるんですか?そうなんです、そっちの関係でね」
小賀坂さんの声は終始柔らかかった。恐らく、高身長故に他者に威圧感を与えかねないのでそれを少しでも軽減しようと工夫してきたのだろう。
「翡翠さんはもうモデルやらないと思いますよ。就職活動に差し障ると嫌だからって」
「えーそれが本当ならショックだなあ」
小賀坂さんは笑った。たぶん、僕の云ったことを本気で受け止めていないのだろうと思った。
「翡翠くんも僕と同じような仕事すればいいのにって何度も誘ってるんですよ。あんなきれいな子、なかなかいないから。そう思いません?」
「そうですね。でもあの人は堅実に生きたいんだと思います」
「俺も堅実に生きてるよ?」
僕は口を噤んだ。途端に後悔が襲ってきた。自分は無意識にこの人を小馬鹿にしていたのだろうか。浮ついたことをしていると、舐めてかかっていたのだろうか。じゃあ自分は?そんなに偉いのかと思う。
「これ、新商品の香水のサンプル。良かったら使ってみて」
小賀坂さんは香水のミニボトルをおまけとしてTシャツと一緒に包んでくれた。レジにあるポップを見て気づいたが、その香水のミニボトルは決まった金額以上の買い物をした客に期間限定でつけているもので、僕の買ったTシャツはその金額を満たしていなかった。
ああこんな自分は嫌だ。早く大人になりたい。こんなふうに許されたくない。もっと多くのことを理解したい。ついこのあいだまで僕は自分自身にそこそこ満足しているはずだった。それが今では、どうして、自分に足りていないものばかりに眼がいく。
ありがとうございます、と小賀坂さんは云って、Tシャツが入った紙袋を持って店の外まで見送ってくれた。
「僕、翡翠さんが好きなんです」
「うん、俺も。みんなそう云うよね」
「教えてください。あの人に好きになってもらうにはどうしたらいいんですか?」
「それは俺にも分からないよ。好きな人に好きになってもらうのなんて、誰にとっても奇跡じゃないかな」
小賀坂さんの声は最後まで優しかった。鉄壁の笑顔を前に、僕は手も足も出なかった。
「翡翠くんはあの見た目だからね。好かれることには慣れてると思うよ。ライバル多いと思うけど、頑張ってね」
あなたのような人が翡翠さんの周りにたくさんいるのなら、僕はどう立ち向かえばいいのかまったく分からない。奇跡というなら、翡翠さんに出会ったことも、仲良くなれたことも、あの人の寂しさに触れたこともすべてそうなのかもしれない。これ以上の奇跡を望むことなど僕には分不相応なのかもしれない。

