僕が次に【Porte Bonheur】を訪れたのは木曜の放課後だった。翡翠さんからは火曜の朝の時点で返信が遅れたことを詫びるLINEが届いていて、木曜なら大丈夫だと云われたのだった。その日は朝から雨だった。店に着くと、翡翠さんの髪型が少し変わっていた。毛先をカットし、ゆるめのパーマをかけたようだ。
「この前はごめんね。ちょっと用事があって返事が遅くなっちゃって」
「いいんです。僕の方こそ連日すみませんでした」
「今日は寒いねえ。あったかい紅茶なんかどう?」
 この人にこんなふうに笑いかけられて拒める人間などいるのだろうか。僕ははっきりしない返事をしたが、翡翠さんはそれをイエスととったようで、じゃあ座ってて、と云った。
「髪、似合ってますね」
「ほんと?ありがとう。昨日、ヘアサロンに行って来たんだ」
「それってお店の情報に載るんですか?」
「え?」
「昨日、友達から翡翠さんの写真を見せられたんです」
 僕はホットペッパービューティーの例のヘアサロンのページを開いて、翡翠さんに見せた。
「友達の行きつけのヘアサロンが新宿の〇〇ってところなんですけど。日曜に僕たちと会ったとき、何となく翡翠さんの顔に見覚えがあると思ったらしいんです」
「そっか……うん、そう。確かに店長さんから何回か頼まれて写真は撮ってる。今回も前から頼まれてて……星雨くんの友達もここに行ってたんだ。世間は狭いね」
「写真は僕も見ましたよ。どれも素敵でした。翡翠さん、SNSやらないなんて云ってたけど、ちゃんとアカウント持ってるじゃないですか」
「あれは撮ってもらった写真がどんなふうに使われてるか確認してって云われたからで……それ以外で開くことなんかないよ。アカウントの登録だって、やってもらったんだもん」
「ちゃんとやってみたらいいのに。翡翠さんだったら人気出ますよ。そしたら稼げるし」
 翡翠さんはちょっと困ったような顔をした。
「ありがとう。でも、別に僕はインスタグラマーとかインフルエンサ―になりたいわけじゃないから……広告はスタッフの人に頼まれたからバイト代もらってやっただけで」
「もったいないですよ。前にここに来て写真撮ってた女の子たちだって翡翠さんのファンなんじゃないですか?」
「あれは大学の子たち。知らないうちにここまでついて来られちゃって」
「ほら、そういうことなんですよ」
 僕は嫌な笑い方をしたと思う。
「コメント読んだんですか?この人誰なの、ってみんな噂してるんですよ」
「別にどうでもいいもん」
 翡翠さんは手を伸ばして僕の携帯の画面を消した。
「僕は大学を卒業したら普通の会社に入って、普通に社会人やるんだもの。今は学生だから好きな恰好してるけど、あんまり顔を出すと就職活動に差し障るから、もうやめようと思ってるところ」
「そんなふうに半端に応じるぐらいなら最初からやらなければ良かったんです。女の子たちに対してだって中途半端に優しくしたから、お店までついて来られたりしたんじゃないんですか?」
「何でそんな意地悪云うの?」
 翡翠さんのその声を聞いて僕は自分がひどく嫌なものの云い方をしたことに気づいた。
「僕はちょっと人の役に立ちたかっただけだよ」
 翡翠さんがどうして積極的に自分の外見を利用したがらないのか、そこのところが僕には分からなかった。多少風変わりではあったが彼にはファッションセンスがあり、恐らく自分の美しさにも気づいているはずだった。彼の声には、単に謙遜しているというよりも頑なな態度が表れていた。
「すみません、余計なことでした。今日は別の話をしに来たんです」
「なあに」
 視線を窓の外に逸らしたまま翡翠さんはそう云った。
「翡翠さんのお母さんの名前が知りたいんです」
「何……突然だね」
「それともう一つ。翡翠さんて、ここに来るまでお母さんとどこに住んでたんですか?」
 翡翠さんの顔にこれまで見たことのない表情が浮かんだ。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「日曜の夕方に水谷さつきという人がうちへ父を訊ねて来たそうです」
 翡翠さんの眼が硬直した。声も出ないといった様子だった。
「僕は詳しいことは何も聞かされてません。あの日、僕が帰宅したときには叔父がいて、両親と話す機会がないまま、叔父の家に連れて行かれたので。今週に入ってからは叔父の家から通学しています。でも、こんなことになるからには、その人と父とのあいだに何かあったはずなんです」
「そう。ごめんね、迷惑かけて」
 翡翠さんは僕から顔を逸らした。
「やっぱりその人が、翡翠さんのお母さんだったんですか」
「たぶんそうだと思う。あの人が翡翠くんの家の住所を知ってたことには驚きだし、会いに行ってたことも今初めて知ったけど。たまに変な時間に出かけるなと思ってたんだよ。あれこれ訊くとヒステリー起こされるから好きにさせてたんだけど」
 やはりと思った。眼の前にいるこの人は、かつて父に僕や母を裏切らせた女性の息子なのだ。
「翡翠さん自身は、うちの父親のこと、知ってたんですか?」
「うん。うちの母親が連絡取り合ってたから。うちに連れて来たこともあるよ。僕も二、三回顔を見てる。まあ、そういうとき、僕はすぐ出かけるようにしてたから話したことはないんだけど。まさか星雨くんがあの人の息子だとは思わなかったけどね。最初は修理伝票に書かれた苗字が同じだったから、あれって思っただけ。でも話を聞いていくうちに、もしかして、って思いはじめて、この前写真を見せてもらって確信した。星雨くんはどっちかっていうとお母さん似なんだね」
 翡翠さんは髪を耳にかけた。その手首にはアクアマリンのブレスレットが光っていた。
「あの頃も、母親には緒乃瀬さんのこと、いろいろ注意はしたんだよ。家庭がある人だったら洒落にならないからって。でも僕が何云ったって聞かないし、あの人」
「そんな、親子なのに」
「だからだよ。星雨くんには分からないと思うけど。星雨くんは親に感情を無視されたり、親のせいで何かを諦めなきゃいけなかったことなんかないんだろうね」
 翡翠さんは僕から視線を逸らしていたが、そのときの眼は恐ろしく冷たかった。以前、レストランで家族写真を見せたときのあの眼だった。
 そのあとで翡翠さんは僕の前では一度も吸ったことのない紙煙草を取り出した。小窓を開け、火を点け、最初の煙を吐くのを僕はじっと見ていた。
「うちの母親、何不自由ない家庭に生まれたくせに、あっちこっちで問題起こして、学歴は高校中退。しばらくは水商売で働いてたみたいだけど、二十歳になる前に客だった男に引っかかって、僕を妊娠したんだって」
 雨の冷気のなかで煙草を吸う翡翠さんは、絵になった。彼の正体が判明し、彼が話す内容に衝撃を受けながらも、僕はその美しさに見惚れていた。
「じいちゃんばあちゃんが生きてるうちは面倒見てもらえたけど、僕が中学を卒業する前に二人とも亡くなっちゃってね、伯母さんはその頃、まだ起業する前で余裕なかったし。そんなときにうちの母親が、子連れで地方に移住すれば助成金がもらえるっていう広告をどっかで見たか聞いたかしたらしくて。それでド田舎に引っ越す羽目になったんだけど、結局、土地には馴染めないわ仕事は続かないわ助成金も使い果たすわで精神的にぼろぼろになって今に至るって感じ。まあ馴染めないのは僕も同じだったんだけど。あの頃は本当に金がなくて高校辞めて働こうかと思ったけど、それじゃ母親の二の舞になると思ってバイトして切り詰めてた。伯母さんが面倒見るって云ってこっちに呼び戻してくれなかったら、ほんとにやばかったよ」
 翡翠さんは煙を吐き出し、立ち上がってレジ台の下から灰皿を取り出してきた。
「緒乃瀬さんと付き合ってた一年半だけうちの母親はまともだった。それについては僕も感謝してる」
 それはうちの父が精神科医だったことが大きいのかもしれないな、と僕は考えた。
「でも……どうして今になって」
「たぶん、あの人が人生のなかで唯一本気で好きになれたのが、きみのお父さんだったんだと思う。僕の本当の父親よりも、僕よりもね。云い訳するつもりはないけど、もううちの母親、余命がそんなにないんだよ。ホルモン治療が効かなくなってきて、二か月前に抗がん剤に切り替えたら一気に体力が落ちて。頭ははっきりしてるけど、とにかく体が動かない。タクシーの乗り降りすら大変な状態なんだ。そういう状況でも、何とかしてきみのお父さんには会いたかったんだと思う。でも、もう行くことはないから安心して」
 ごめんね、今日はもう閉めるから、と云われ、僕は帰り支度を整えた。冷めた紅茶を飲み干し、自分で自分を呪いながら、海晴くんのマンションへ帰った。

 翌日、僕は学校帰りに麻友とデートをした。その日は教師たちの職員研修のため、正午で授業が終わる日程になっていたのだ。付き合うことになったその日の夜、麻友からは金曜に遊びに行こうと誘いが来ていた。
 麻友はいい子であるが故にかえって僕を疲れさせた。自分から誘った以上、僕に最大限楽しんでもらおうといろいろ考えてスケジュールを立ててくれたのが分かった。待ち合わせ場所の昇降口には彼女の方が先に着いていたし、どこに行くかを先に明確にして、途中、一切余計な休憩は挟まなかった。携帯電話は鞄にしまい込んでいるようで、常に僕との会話に全身で集中していた。そんなふうに隣で緊張した状態でいられると、僕の方も落ち着かず、デートは若干ぎくしゃくした状態が続いた。僕は何とか麻友にリラックスしてもらおうと冗談を云ったりしてみたが、麻友は大袈裟に笑うばかりで余計に気を遣わせるだけだと分かった。そして、正直云うと僕の方もこのデートに集中しきれていなかった。
 翡翠さんと話した直後、僕は強烈な自己嫌悪に陥っていて、その晩は碌に食事が喉を通らなかった。何故あんなことを話しに行ってしまったのだろう、訊いてしまったのだろう、何も訊かなければ良かったのに、知らないふりをしていれば良かったのに、と何度も思った。僕が両親のことで悩んでいると思った海晴くんが、あれこれ見当違いな慰めの言葉をかけてきたので、悪いと思いつつも、お願いだから一人にしてくれと云って寝室にこもった。
 午後四時を過ぎてそれまで遊んでいたボウリング場を出たとき、麻友が何か云いたげにそわそわしているのに気づいた。まだ帰りたくないのかなと感じた僕は、カラオケにでも行くか、買い物でも行こうかと提案した。麻友はどっちもいいね、と一度考え込んだ。そして、今日は親がいないからうちに来ないかと云われたとき、ようやく彼女の落ち着きのなさの意味が理解できた。
「何でそんなに急いでるのか知りたいんだけど」
「急いでるっていうのは?」
「今日一日で全部済ませようとしてる感がすごいから」
 麻友は特別気まずさも見せず、うんそうだね、と云った。
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど、もう少しもったいぶってもいいと思うよ」
 僕は曲がりなりにも六人の女の子と付き合ってきたので、それなりの経験はあったが、これは流石に性急すぎやしないかと少し驚いていた。
「もったいぶってても、緒乃瀬くんには効果ないでしょ」
「そんなことないよ」
「別にいいの。今は私のこと、大して好きじゃないってことも分かってるよ」
 僕は肯定も否定もできなかった。
「そういうことをしたからって私のことを好きになってくれるなんて思ってないけど、それでも何かしないといられないんだよね。もしかしたら何か変わるんじゃないかって思っちゃうんだよ」

 麻友の家にはバスで向かう必要があったが、その前にコンビニで飲み物やちょっとした食べ物を買って行こうということになった。麻友は家と学校が近いことをつまらないと云っていて、できれば大学は内部受験ではなく、ほかの学校に行ってみたいとぼやいていた。僕は毎朝混雑した電車に乗るのが嫌なので、家との距離が近いなんて贅沢なのにと思っていた。
 僕たちはあのあと買い物をしてカラオケに行っていたので、もう時刻は七時近かった。遅くなるという連絡は海晴くんへ送ってある。分かった気をつけて、というメッセージに対し、スタンプを返そうとしていたところ、避妊だけはちゃんとしろよ、という忠告が続けて入った。そういうことは僕の両親が云わないことだ。そういえば、父や母のこともそうだが、海晴くんのことも、僕は大人ではなく一人の人間としてとらえたことがなかった。海晴くんがこれまでどういう恋愛をしてきて、どうして未だに結婚しないのか、本当は恋人がいるのか、今でも忘れられない人がいるのか、僕は何も知らない。答えてくれるかは分からないが、今度、訊いてみてもいいかもしれないと思った。
 目的地であるコンビニの敷地に入ったとき、僕ははっとした。そこは数台の駐車スペースを有しているコンビニで、店の外には喫煙スペースがあった。
 その姿を見つけたとき、僕はすぐに彼だと分かった。一瞬眼を疑ったが、間違いなく翡翠さんだった。翡翠さんは烟を吐きながらぼんやり空を見上げていた。一瞬、胸の奥が強い力で押されたような感覚になり、呼吸が乱れた。
 僕が思わず足を止めると、その気配を感じ取ったのか、翡翠さんも顔を上げてこちらを見た。煙草を持つ手には、あの偽の琥珀が入った指輪を嵌めていた。
「翡翠さん」
 少し離れたところから僕は声をかけた。翡翠さんの方もそれで相手が僕だと確信したらしく、驚いた表情をを浮かべた。その顔は何だかいつもと印象が違った。翡翠さんはいつもきれいだったが、今日はきれいというよりは何だか色っぽかった。夕闇のせいではない。前回遊びに行ったときも帰りは夜だったが、今みたいな雰囲気ではなかった。麻友の手を放し、もう少し近づいて行くと、コンビニからの灯りに照らされた翡翠さんが僕と遊びに出たときよりももっと派手な化粧をしているのが分かった。星雨くん、と潤んだ唇が動いた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれた気がした。翡翠さんはちょっと強張った微笑みをを浮かべ、
「偶然だね」
 と云った。翡翠さんの鎖骨を僕はその日初めて見た。胸周りのあいた黒いTシャツのせいで、肌の白さが際立っている。しなやかでなめらかで美しいけもののようだった。
 途端に僕は麻友といることも忘れて、翡翠さんと二人きりになりたいと思った。どこかで話がしたい。
でも何を?僕の父と翡翠さんの母親のあいだにあったことが変わるわけではない。僕のせいでも翡翠さんのせいでもないけれど、こんな関係性の二人が友情を育んでいくのはとても難しい気がした。それに、翡翠さんが純粋な同性の友人を求めているのなら、もう僕は相応しい相手とは云えなかった。とっくに恋情の方が勝りすぎていた。だからこそ、諦められなかった。
「麻友ちゃん、先に店の中に入っててくれる?」
「……分かった」
 麻友は一瞬翡翠さんを強い眼で見つめると、店のなかに入って行った。
「可愛い子だね。彼女?」
「学校の友達です」
「たぶん、彼女はそう思ってないと思うよ」
 痛みにでも耐えているかのようにつらそうに翡翠さんは笑った。どうしてそんな笑い方をするのかと不思議に思いながらも、
「あの、この前のことなんですけど」
 と、口にしたときだった。すぐ後ろの自動ドアが開く音が聞こえた。三十代半ばぐらいのスーツを着た男がコンビニから出てきて、こちらへ歩いてくる。彼は僕の横を通り過ぎ、お待たせ、と云うと翡翠さんの背中に触れ、そのまま歩き出した。男は僕のことなど眼に入っていないようだった。立ち去る寸前、翡翠さんは男の向こう側から申し訳なさそうに僕を見て、小さく手を振った。そして駐車場の端に停めてあった車に乗り込んで行ってしまった。
 翡翠さんの背中に触れた男の手に、僕はものすごく嫌なものを感じた。薄汚い、という普段遣わないような言葉が浮かんでくる。
 どうすることもできなかった。僕は店のなかに入って行き、麻友と合流して、彼女の家へ向かった。