父に対する嫌悪感と不信感はしばらく消えなかった。ただ、これは両親の問題で、恐らく僕にはどうにもならないことだと考えた。僕に云えることなど何もない。
翌朝は体が鉛のように重く、疲れが抜けきれていないのが分かった。海晴くんは一日ぐらい休んでもいいと云ってくれたが、僕は学校に行くと云った。くだらないかもしれないが、なるべくいつも通り過ごすことで、父にまつわるトラブルは何ら自分に影響を与えられないと思い込みたかった。母からは、
【しばらく海晴さんのお世話になってください。折を見て連絡します】
と連絡がきていた。返信はしなかった。
海晴くんは校門の前で僕を降ろし、帰りは電車でマンションまで帰ってほしいと鍵を渡してきた。教室に着いてから、やはり昨日の疲れが出てぼんやり座っていると、友人の一人が携帯を片手に声をかけてきた。
「なあ、お前が昨日一緒だったのって、この人じゃね?」
彼が見せてきたのは、驚いたことに翡翠さんの写真だった。それはホットペッパービューティーに掲載されたあるヘアサロンのフォトページで、今よりももっと髪が長く、金髪でもなかった頃の翡翠さんの写真が載っていた。僕は寸でのところで友人の手からその携帯を引ったくるところだった。
何とかそれを堪え、
「あっ、ほんとだ。それどこの店?」
と平静を装って訊ねると、友人は新宿にあるというそのヘアサロンの店名を教えてくれた。
「日曜に会ったとき、何か見たことあるな、って思ったんだよ。この人の写真、何枚かあるからサロンモデルなのかもな」
この友人は仲間内で一番外見を気にかけるタイプで、まめにこのヘアサロンを利用していた。流行の髪型をチェックするため、ヘアカタログやこういったヘアサロンのフォトページもよく見ているという。
サロンモデルが何なのかは僕にはよく分からなかったが、まず間違いなかったのは、どんな髪色や髪型にしても翡翠さんは美しいということと、彼の表情には撮られることに対する慣れがはっきりと滲み出ているということだった。僕はそれから午前中の授業が終わるまで、ずっと携帯の画面に集中していた。友人から教えてもらったそのサロンのフォトページをすべて確認したあと、翡翠さんのカットを担当した美容師のインスタへ飛んだ。その人の投稿に『hisui3848』というユーザー名がタグ付けされていたので、次に僕はそのプロフィールに飛んでみた。そのページには投稿は一件もなく、第三者が撮影、タグ付けした投稿だけが確認できた。翡翠さんが云っていたSNSの類はやっていないという言葉は、自分は投稿をしていないという意味だったのだろう。それでも僕は裏切られた気がした。タグ付けされた投稿の一覧を順に見ていくと、投稿はヘアサロン以外にもあって、一度も聞いたことのない新進気鋭ファッションブランドや個人の古着店の服を身につけた翡翠さんの写真があった。そのなかには、以前店ですれ違った黒ずくめの男と一緒に写っている写真もあり、彼はモデルとインスタグラマーのようなことを半々でやっている人物のようだった。
昼食の時間が近づいてくると視神経が疲れてきて、僕は携帯を置き、少し離れたところを見るために、窓の外を見た。たくさんの人が撮った翡翠さんのいろいろな写真を見ている最中、僕のなかにはあらゆる感情が生まれ、その灼けるような狂熱に痛みを覚えた。思慕、嫉妬、焦燥。それらが誰に、あるいは何に対して向かっているものなのかも定かではなかった。僕は何だか自分が粘着質でストーカー気質な人間に思えてきて、しばらく自己嫌悪に苛まれた。
『放課後に店に行ってもいいですか』
昼食の前にそんなLINEを送ってみたが、返事はこなかった。それでも、そのことに妙に納得した。美しい写真の数々を眼にしたせいで、僕のなかで、翡翠さんは別の世界の人になりつつあった。
その日、僕は麻友と一緒に駅までの道を歩いていた。五時間目のあと、彼女は僕のクラスに現れ相談があるので一緒に帰れないかと訊ねてきた。海晴くんのマンションには七時頃までに帰っていればいいので、僕は了承して放課後に待ち合わせた。
「何か天気良くないね」
「降るのは今日の深夜からって明日にかけてみたいよ。あ、あそこ。あのベンチ空いてるからあそこでちょっと話さない?」
そのとき後ろから自転車が走ってきて、公園の方へ踏み出しかけていた彼女の前方すれすれを無理矢理通り過ぎていった。麻友も不注意だったが、自転車の方は明らかに人通りが多い道で出す速度ではなく、ぶつかっていたら怪我は免れなかっただろう。こういう道では注意して走行すべきだろうに、あろうことかその自転車に乗っていた男は、麻友を睨むように振り返り走り去って行った。そのまま前方不注意で電柱にでもぶつかればいいのにと僕は思念を送っていたが、麻友は、すみません、と謝っていた。
「大丈夫?ぶつからなかった?」
「平気。びっくりしたー。横見てなかった」
僕の関わりのある女友達のなかで、容姿は明美が断トツだが、性格の良さでは麻友が一番かもしれない。運動神経はあまり良いとはいえないし、人並みにあざといところはあるものの、本質が真面目で穏やかで、誰かの悪口を云っているところを見たことがない。彼女が有名な音響機器メーカーの社長の孫だということを僕は最近知った。
自販機で二人分の紅茶を買ったあと、僕たちはベンチに座った。寝転び防止の仕切りがついたベンチは僕たちの距離をごく自然に開けてくれた。
「相談があるって云ってたけど、今訊いていいのかな」
「うん……あのね、日曜に本屋さんの前で会ったときのことなんだけど」
麻友はペットボトルの栓を開けながら、話し出した。
「あのとき、緒乃瀬くんと一緒だった人って誰なのかなと思って」
「えー友達だよ。あのとき云わなかったっけ?」
「うん……でもさ、ただの友達のわりには結構距離感近くなかった?」
何なんだよ。今日はどいつもこいつも翡翠さんのことばっかり。
「そうかなあ?」
「だってさ……ふざけてだったかもしれないけど、私、見ちゃってさ、あの人が緒乃瀬くんにキスしてるところ。その、おでこにだったけど」
「えっ」
しばらく麻友は紅茶のボトルを持った自分の手元に視線を注いでいたが、やがて恐る恐るといった感じで僕の方を見上げた。女の子のこういう眼を甘く見てはいけない。興味がないことは何一つ知ろうとしないくせに、自分が気になったことだけは全集中して見抜こうとする彼女たちの力は侮れない。
「それって麻友ちゃんのほかにも気づいてる奴いた?」
「誰も気づいてないと思う。私が云い出すまで誰も緒乃瀬くんたちがいる方は見てなかったから」
僕は答えを焦った。妙な間があれば、すべてを肯定することになる。そのあとで説明しようとしても誤魔化しにしか聞こえなくなる。
「そうかぁ、えーと、何て云ったらいいかな」
「あの、私はただ本当のところが知りたいだけなんだ。からかったり、興味本位であれこれ訊くつもりなんか全然なくて。ただ、私は前から緒乃瀬くんと付き合いたいなって思ってたから、だから本当はどうなのかが知りたいの」
本当はどうなのかというのなら、ただの片思いにほかならない。僕はあの人にどうしようもなく惹かれていて、そしてたぶん自分がからかわれているだけなのだということも、あの人の気が変わればあっという間に縁が切れてしまうことも、分かりすぎるほど分かっている。
僕はこれまで、自分を好きになってくれる人としか付き合ったことがない。それは向けられた好意には逆らえないという性格のせいもあったけれど、もっと奥底には、与えられたものを受け取るだけなら楽だからという気持ちがあった。自分からは好きにならない。期待はしない。好きにならなければ、寂しくもならない。自分が好きになった人が、僕のことなど見もせず背中を向けて去って行ってしまうなんて耐えられない。
僕は何故か、幼い頃に玄関で見送った父の後ろ姿を思い出していた。小さいときから出張のたび、何度も見送った背中。また何日も何週間も会えないのだと思うと、寂しかった。そして同じ寂しさを抱えているくせに、自分だけ仕事をはじめて忙しくして、わざと明るく振る舞う母が憎かった。だから僕は行き場のない心細さを未だに腹の奥に抱えている。帰って来た父とうまく話せないのは、心が期待しないように防御しているからだ。母を嫌いになれないのは、寂しさから身を守る術をこの人から学んだからだ。母のように笑っていればいい。そうすれば躱せる。欺ける。他人も自分も。
「ちょっと待って、誤解しないでほしいんだけど、あれ、全然特別な意味はないんだよ。あの人にとってはコミュニケーションの一環だから」
そのとき僕は必要以上の笑顔を浮かべて、事態を誤魔化しにかかった。麻友は誰彼構わず噂話を振りまくような子ではないと思うが、それもここでの僕の対応次第だろうという危機感を持ってもいた。人の口に戸は立てられない。学校の友人たちにこんなことが知れ渡って良いことなど一つもない。人は自分が理解できない存在を許せるほど、寛容な生き物ではない。
「っていうか、別にあれが初めてじゃないしね。もう慣れた。初めの頃はちょっとびっくりしたけど、今じゃああいう人がいてもいいんじゃないかなって思ってるよ。恋愛とか関係なく親愛の気持ちを示してくれてるだけだから。外国人のハグみたいな感じだと思ってる。あのぐらいならまだ個性の範疇じゃないかな?」
麻友は持ち前の素直さで、そっか、と納得してくれた。
「あの人、なんかちょっと普通と違うっていうか、すごいきれいだし、恰好も個性的で、独自の感覚があるのかなーって感じの人だもんね」
「うん、そういう感性の人と話すのも面白いよ。何かちょっとモデルっぽいこともしてるみたいで」
僕は携帯を取り出し、今日知ったばかりの翡翠さんの写真や動画を麻友に見せた。これらは僕が思っていたよりも効果があった。そういう活動をしている人間というのは、自分たちの感覚からは若干外れたものを持っていても不思議ではないと思わせるらしい。僕は終始、懐が広く鷹揚な人物が云いそうなことを語り、最後にだめ押しとして麻友の告白も受け入れた。
帰宅してからも僕は翡翠さんのものと思われるインスタグラムのプロフィールを開いて、昼間に見た写真やタグ付けされたリール動画を見ていた。写真を一枚見終えるたび、馬鹿みたいだと自分に悪態をついた。危機を回避するためとはいえ、翡翠さんのことをあんなふうに話した自分が嫌だった。
動画のなかで、写真撮影前の翡翠さんの様子を映しているものがあった。自分の着ている服を見て、かわいい、と直前まで普段と変わらぬ笑顔を浮かべていたのに、カメラを向けられるとすぐにモデルの顔になった。それは実に見事なもので、雰囲気をつくる早さはとても素人技には見えなかった。これは訓練の賜物というより、才能ではないかと僕は感じた。その姿に僕は改めて惚れ惚れとし、また軽く絶望してもいた。
知らないことがあって当然じゃないかと思う。僕らは出会ってまだひと月ちょっとしか経っていないのだ。
それなのにあの人の眼や、声や、匂いが、どうしてこんなにも僕の内側にしみ込んで胸を苦しくさせるのか。あの人の全部を僕のものにしたいと突き上げるように強く願うのか。どうかしている、どうかしている。
雑念を振り払うために宿題でもやるかと思っていたところで、海晴くんが帰宅した。デパ地下で惣菜を買ってきてくれたというので、僕は海晴くんが着替えているあいだにそれらを皿にあけ、電子レンジで温めていた。海晴くんは料理がほとんどできない。僕が云うのも何だが、それでよく二十年近く一人暮らしをしているものだと思う。
「由紀子さんが元気なのかって心配してたけど、LINE返信してないのか?」
「うん、別にいいかなって」
「良くはないだろう」
「本当に心配してるなら早く帰れるようにしてほしいんだけど」
「そうだよな。早く帰りたいよな。あんまり構えなくて悪いなとは思ってるんだ」
海晴くんがややしゅんとした表情を見せたので、僕は慌てて、ごめん、と云った。
「別に海晴くんといるのはいいよ。ちょっと通学が遠いけど。でも家の方どうなってるの?ぶっちゃけ離婚とかになりそうな感じ?」
「離婚については分からない。ただ、相手側から手紙がきたそうだよ。何でも、自分は治る見込みのない病気でもう長くないから体が動くうちに最後と思って兄貴に会いに来たんだって」
「病気?」
どこかで聞いたことのある話だと思った。そしてこれまでに聞いた、その女性の情報を海晴くんに一つ一つ確認した。移住。成人した子供。病気。
「海晴くんさ、その女の人の名前って聞いてる?」
「水谷さつきっていってたよ。手紙に書いてあった」
その苗字を聞いて翡翠さんのことが真っ先に浮かんだ。そのときは、まさか、とすぐに打ち消したけれど、一人になっていろいろ考えてみると、その可能性を否定できないことに気づいた。
翡翠さんの母親が僕の父の恋人だったのかもしれない、という可能性だ。
翌朝は体が鉛のように重く、疲れが抜けきれていないのが分かった。海晴くんは一日ぐらい休んでもいいと云ってくれたが、僕は学校に行くと云った。くだらないかもしれないが、なるべくいつも通り過ごすことで、父にまつわるトラブルは何ら自分に影響を与えられないと思い込みたかった。母からは、
【しばらく海晴さんのお世話になってください。折を見て連絡します】
と連絡がきていた。返信はしなかった。
海晴くんは校門の前で僕を降ろし、帰りは電車でマンションまで帰ってほしいと鍵を渡してきた。教室に着いてから、やはり昨日の疲れが出てぼんやり座っていると、友人の一人が携帯を片手に声をかけてきた。
「なあ、お前が昨日一緒だったのって、この人じゃね?」
彼が見せてきたのは、驚いたことに翡翠さんの写真だった。それはホットペッパービューティーに掲載されたあるヘアサロンのフォトページで、今よりももっと髪が長く、金髪でもなかった頃の翡翠さんの写真が載っていた。僕は寸でのところで友人の手からその携帯を引ったくるところだった。
何とかそれを堪え、
「あっ、ほんとだ。それどこの店?」
と平静を装って訊ねると、友人は新宿にあるというそのヘアサロンの店名を教えてくれた。
「日曜に会ったとき、何か見たことあるな、って思ったんだよ。この人の写真、何枚かあるからサロンモデルなのかもな」
この友人は仲間内で一番外見を気にかけるタイプで、まめにこのヘアサロンを利用していた。流行の髪型をチェックするため、ヘアカタログやこういったヘアサロンのフォトページもよく見ているという。
サロンモデルが何なのかは僕にはよく分からなかったが、まず間違いなかったのは、どんな髪色や髪型にしても翡翠さんは美しいということと、彼の表情には撮られることに対する慣れがはっきりと滲み出ているということだった。僕はそれから午前中の授業が終わるまで、ずっと携帯の画面に集中していた。友人から教えてもらったそのサロンのフォトページをすべて確認したあと、翡翠さんのカットを担当した美容師のインスタへ飛んだ。その人の投稿に『hisui3848』というユーザー名がタグ付けされていたので、次に僕はそのプロフィールに飛んでみた。そのページには投稿は一件もなく、第三者が撮影、タグ付けした投稿だけが確認できた。翡翠さんが云っていたSNSの類はやっていないという言葉は、自分は投稿をしていないという意味だったのだろう。それでも僕は裏切られた気がした。タグ付けされた投稿の一覧を順に見ていくと、投稿はヘアサロン以外にもあって、一度も聞いたことのない新進気鋭ファッションブランドや個人の古着店の服を身につけた翡翠さんの写真があった。そのなかには、以前店ですれ違った黒ずくめの男と一緒に写っている写真もあり、彼はモデルとインスタグラマーのようなことを半々でやっている人物のようだった。
昼食の時間が近づいてくると視神経が疲れてきて、僕は携帯を置き、少し離れたところを見るために、窓の外を見た。たくさんの人が撮った翡翠さんのいろいろな写真を見ている最中、僕のなかにはあらゆる感情が生まれ、その灼けるような狂熱に痛みを覚えた。思慕、嫉妬、焦燥。それらが誰に、あるいは何に対して向かっているものなのかも定かではなかった。僕は何だか自分が粘着質でストーカー気質な人間に思えてきて、しばらく自己嫌悪に苛まれた。
『放課後に店に行ってもいいですか』
昼食の前にそんなLINEを送ってみたが、返事はこなかった。それでも、そのことに妙に納得した。美しい写真の数々を眼にしたせいで、僕のなかで、翡翠さんは別の世界の人になりつつあった。
その日、僕は麻友と一緒に駅までの道を歩いていた。五時間目のあと、彼女は僕のクラスに現れ相談があるので一緒に帰れないかと訊ねてきた。海晴くんのマンションには七時頃までに帰っていればいいので、僕は了承して放課後に待ち合わせた。
「何か天気良くないね」
「降るのは今日の深夜からって明日にかけてみたいよ。あ、あそこ。あのベンチ空いてるからあそこでちょっと話さない?」
そのとき後ろから自転車が走ってきて、公園の方へ踏み出しかけていた彼女の前方すれすれを無理矢理通り過ぎていった。麻友も不注意だったが、自転車の方は明らかに人通りが多い道で出す速度ではなく、ぶつかっていたら怪我は免れなかっただろう。こういう道では注意して走行すべきだろうに、あろうことかその自転車に乗っていた男は、麻友を睨むように振り返り走り去って行った。そのまま前方不注意で電柱にでもぶつかればいいのにと僕は思念を送っていたが、麻友は、すみません、と謝っていた。
「大丈夫?ぶつからなかった?」
「平気。びっくりしたー。横見てなかった」
僕の関わりのある女友達のなかで、容姿は明美が断トツだが、性格の良さでは麻友が一番かもしれない。運動神経はあまり良いとはいえないし、人並みにあざといところはあるものの、本質が真面目で穏やかで、誰かの悪口を云っているところを見たことがない。彼女が有名な音響機器メーカーの社長の孫だということを僕は最近知った。
自販機で二人分の紅茶を買ったあと、僕たちはベンチに座った。寝転び防止の仕切りがついたベンチは僕たちの距離をごく自然に開けてくれた。
「相談があるって云ってたけど、今訊いていいのかな」
「うん……あのね、日曜に本屋さんの前で会ったときのことなんだけど」
麻友はペットボトルの栓を開けながら、話し出した。
「あのとき、緒乃瀬くんと一緒だった人って誰なのかなと思って」
「えー友達だよ。あのとき云わなかったっけ?」
「うん……でもさ、ただの友達のわりには結構距離感近くなかった?」
何なんだよ。今日はどいつもこいつも翡翠さんのことばっかり。
「そうかなあ?」
「だってさ……ふざけてだったかもしれないけど、私、見ちゃってさ、あの人が緒乃瀬くんにキスしてるところ。その、おでこにだったけど」
「えっ」
しばらく麻友は紅茶のボトルを持った自分の手元に視線を注いでいたが、やがて恐る恐るといった感じで僕の方を見上げた。女の子のこういう眼を甘く見てはいけない。興味がないことは何一つ知ろうとしないくせに、自分が気になったことだけは全集中して見抜こうとする彼女たちの力は侮れない。
「それって麻友ちゃんのほかにも気づいてる奴いた?」
「誰も気づいてないと思う。私が云い出すまで誰も緒乃瀬くんたちがいる方は見てなかったから」
僕は答えを焦った。妙な間があれば、すべてを肯定することになる。そのあとで説明しようとしても誤魔化しにしか聞こえなくなる。
「そうかぁ、えーと、何て云ったらいいかな」
「あの、私はただ本当のところが知りたいだけなんだ。からかったり、興味本位であれこれ訊くつもりなんか全然なくて。ただ、私は前から緒乃瀬くんと付き合いたいなって思ってたから、だから本当はどうなのかが知りたいの」
本当はどうなのかというのなら、ただの片思いにほかならない。僕はあの人にどうしようもなく惹かれていて、そしてたぶん自分がからかわれているだけなのだということも、あの人の気が変わればあっという間に縁が切れてしまうことも、分かりすぎるほど分かっている。
僕はこれまで、自分を好きになってくれる人としか付き合ったことがない。それは向けられた好意には逆らえないという性格のせいもあったけれど、もっと奥底には、与えられたものを受け取るだけなら楽だからという気持ちがあった。自分からは好きにならない。期待はしない。好きにならなければ、寂しくもならない。自分が好きになった人が、僕のことなど見もせず背中を向けて去って行ってしまうなんて耐えられない。
僕は何故か、幼い頃に玄関で見送った父の後ろ姿を思い出していた。小さいときから出張のたび、何度も見送った背中。また何日も何週間も会えないのだと思うと、寂しかった。そして同じ寂しさを抱えているくせに、自分だけ仕事をはじめて忙しくして、わざと明るく振る舞う母が憎かった。だから僕は行き場のない心細さを未だに腹の奥に抱えている。帰って来た父とうまく話せないのは、心が期待しないように防御しているからだ。母を嫌いになれないのは、寂しさから身を守る術をこの人から学んだからだ。母のように笑っていればいい。そうすれば躱せる。欺ける。他人も自分も。
「ちょっと待って、誤解しないでほしいんだけど、あれ、全然特別な意味はないんだよ。あの人にとってはコミュニケーションの一環だから」
そのとき僕は必要以上の笑顔を浮かべて、事態を誤魔化しにかかった。麻友は誰彼構わず噂話を振りまくような子ではないと思うが、それもここでの僕の対応次第だろうという危機感を持ってもいた。人の口に戸は立てられない。学校の友人たちにこんなことが知れ渡って良いことなど一つもない。人は自分が理解できない存在を許せるほど、寛容な生き物ではない。
「っていうか、別にあれが初めてじゃないしね。もう慣れた。初めの頃はちょっとびっくりしたけど、今じゃああいう人がいてもいいんじゃないかなって思ってるよ。恋愛とか関係なく親愛の気持ちを示してくれてるだけだから。外国人のハグみたいな感じだと思ってる。あのぐらいならまだ個性の範疇じゃないかな?」
麻友は持ち前の素直さで、そっか、と納得してくれた。
「あの人、なんかちょっと普通と違うっていうか、すごいきれいだし、恰好も個性的で、独自の感覚があるのかなーって感じの人だもんね」
「うん、そういう感性の人と話すのも面白いよ。何かちょっとモデルっぽいこともしてるみたいで」
僕は携帯を取り出し、今日知ったばかりの翡翠さんの写真や動画を麻友に見せた。これらは僕が思っていたよりも効果があった。そういう活動をしている人間というのは、自分たちの感覚からは若干外れたものを持っていても不思議ではないと思わせるらしい。僕は終始、懐が広く鷹揚な人物が云いそうなことを語り、最後にだめ押しとして麻友の告白も受け入れた。
帰宅してからも僕は翡翠さんのものと思われるインスタグラムのプロフィールを開いて、昼間に見た写真やタグ付けされたリール動画を見ていた。写真を一枚見終えるたび、馬鹿みたいだと自分に悪態をついた。危機を回避するためとはいえ、翡翠さんのことをあんなふうに話した自分が嫌だった。
動画のなかで、写真撮影前の翡翠さんの様子を映しているものがあった。自分の着ている服を見て、かわいい、と直前まで普段と変わらぬ笑顔を浮かべていたのに、カメラを向けられるとすぐにモデルの顔になった。それは実に見事なもので、雰囲気をつくる早さはとても素人技には見えなかった。これは訓練の賜物というより、才能ではないかと僕は感じた。その姿に僕は改めて惚れ惚れとし、また軽く絶望してもいた。
知らないことがあって当然じゃないかと思う。僕らは出会ってまだひと月ちょっとしか経っていないのだ。
それなのにあの人の眼や、声や、匂いが、どうしてこんなにも僕の内側にしみ込んで胸を苦しくさせるのか。あの人の全部を僕のものにしたいと突き上げるように強く願うのか。どうかしている、どうかしている。
雑念を振り払うために宿題でもやるかと思っていたところで、海晴くんが帰宅した。デパ地下で惣菜を買ってきてくれたというので、僕は海晴くんが着替えているあいだにそれらを皿にあけ、電子レンジで温めていた。海晴くんは料理がほとんどできない。僕が云うのも何だが、それでよく二十年近く一人暮らしをしているものだと思う。
「由紀子さんが元気なのかって心配してたけど、LINE返信してないのか?」
「うん、別にいいかなって」
「良くはないだろう」
「本当に心配してるなら早く帰れるようにしてほしいんだけど」
「そうだよな。早く帰りたいよな。あんまり構えなくて悪いなとは思ってるんだ」
海晴くんがややしゅんとした表情を見せたので、僕は慌てて、ごめん、と云った。
「別に海晴くんといるのはいいよ。ちょっと通学が遠いけど。でも家の方どうなってるの?ぶっちゃけ離婚とかになりそうな感じ?」
「離婚については分からない。ただ、相手側から手紙がきたそうだよ。何でも、自分は治る見込みのない病気でもう長くないから体が動くうちに最後と思って兄貴に会いに来たんだって」
「病気?」
どこかで聞いたことのある話だと思った。そしてこれまでに聞いた、その女性の情報を海晴くんに一つ一つ確認した。移住。成人した子供。病気。
「海晴くんさ、その女の人の名前って聞いてる?」
「水谷さつきっていってたよ。手紙に書いてあった」
その苗字を聞いて翡翠さんのことが真っ先に浮かんだ。そのときは、まさか、とすぐに打ち消したけれど、一人になっていろいろ考えてみると、その可能性を否定できないことに気づいた。
翡翠さんの母親が僕の父の恋人だったのかもしれない、という可能性だ。

