映画を観に行こうと云い出したのは翡翠さんの方だった。僕の学校と翡翠さんの店がある駅は、周辺に繁華街もあってわりに遊べるのだが、映画館だけはない。僕たちは更に二つ先の、複数の路線が乗り入れる駅の改札付近で待ち合わせをした。
 週末の人ごみのなかでも、翡翠さんの存在は一際目立って見えた。今日は全体的に黒とグレーで落ち着いた色合いではあったものの、短めのメンズスカートを履いていて、鮮烈なショッキングピンクのバッグを持っていた。
「お待たせ」
 会ってすぐに、翡翠さんが店にいるときとは違う化粧をしていることに気づいた。今日は一段と透明感がある。グレーのコンタクトの効果もあるが、肌や瞼に時間と手間がかけられているのが分かった。そして何より、唇に印象的な、それでいて自然な赤みが差していて、それが僕をどきどきさせた。
「今日は星雨くんと一緒だから、あんまり派手になんないようにしてきた」
「そういう色も似合ってます。でも、翡翠さんの好きな恰好で来てくれて良かったのに」
「ほんと?良かった。相手によっては嫌がられちゃうこともあるからさ」
「そうなんですか?僕は翡翠さんの服、いつもいいなって思ってますよ」
 それは本音だった。彼の服を、ほかの誰かが着ていたなら分からないが。
 駅構内を抜けて映画館につくまでのなかで、僕はすれ違う人々の視線が翡翠に惹きつけられているのを何度も見た。それに翡翠さんが気づいていたのか、どう感じていたのかは分からない。映画館でポップコーンとドリンクを買うときも、上映案内がかかるまでグッズを見ていたときも、チケットをもぎってもらったときも、周囲にいた人やスタッフが翡翠さんを光る眼で見ていたのが分かった。一方、翡翠さんはその他大勢には無関心で、僕しか見なかった。もしかしたら、翡翠さんは見られることにとても慣れていて、その視線を面白がっているのかもしれないな、と少し思った。
「ここの映画館、来るの初めてなんだ」
「えっ、そうなんですか?近いのに」
「うん、ここの駅降りたことないから。僕、こっちに引っ越してきたの三年前でさ、自分の家の近くと大学周辺は分かるんだけど、まだほかの駅のことってあんまりよく分かってないかも」
 引っ越す前はどこにいたんですか、と訊こうとしたが、まもなく上映前の予告がはじまり、翡翠さんが集中しはじめたので、僕は黙っていた。
 その日、僕たちが観たのは封切りされてすぐのアクション映画だった。
 序盤で、警察官の夫と人気インストラクタ―の妻の冷えきった夫婦関係が仄めかされ、それぞれの家庭外恋愛の様子、そしてそのことをお互いに黙認しているということが描かれる。ある日、二人はそれぞれのセカンドパートナーと街へデートに出かけたが、妙なところで気が合ってしまい、同じ店で鉢合わせてしまう。互いに知らないふりをしつつ買い物を終えようとしたところで運悪くテロに巻き込まれ、たまたまその場にいた国の要人を夫が助けたことをきっかけに国家の一大事に貢献するという話だった。豪快なアクションシーンが畳みかけるように続き、悪の組織は滅ぼされ国の危機は去る。終盤では主人公夫婦のわだかまりや誤解が解け、再び気持ちが近づいていく様が描かれる。そして、やはり自分にはこの相手しかいないのではないかと思い、最後はそれぞれセカンドパートナーに別れを切り出し、夫婦の再出発が示唆されて終わる。
 僕としては全体的には満足できた映画だったが、翡翠さんは夫婦の再出発に納得がいかないようだった。シアタールームを出たあと、近くのごみ箱に飲み物とポップコーンのカップを捨てて行こうと、僕たちは壁際に立って残った飲み物を消化していた。
「映画だからきれいにまとめにかかるのは分かるんだけどさ、両方のセカンドパートナーがあんなあっさり納得して別れるわけないじゃんて思うよ」
 翡翠さんは云った。
「うーん……でも、彼らは彼らで、やっぱり主人公たちについていくのは難しいなって感じてるシーンがあったじゃないですか。だからある程度、最後の別れにも納得してる感じが出てたっていうか」
「映画のなかの登場人物たちってやけに感情の整理が上手だよね」
 翡翠さんは皮肉っぽく笑った。
「現実ではあんなきれいに別れられないよ。それに主人公たちだってさ、一回だめになったのに、もう一度お互いを信用できるようになると思う?」
 随分、恋愛描写について厳しいんだな、と僕は思った。現実の恋愛がそんなに都合良くいかないことを知っているからなのだろうか。そう思うと翡翠さんの過去の恋愛に興味が芽生えてきた。けれどそれと同時に、一ミリも知りたくないという抵抗も生まれる。
 翡翠さんの口ぶりは、どちらかというとセカンドパートナーの側に理解を示しているように聞こえた。
 僕は一足先にカップを分別して捨て、翡翠さんが最後のポップコーンを口に放り込み、コーラを飲みきるのを隣で見ていた。
「翡翠さん」
「ん?」
「もしかして、不倫の経験があるんですか?」
 それを聞いた翡翠さんはストローから口を離し、とても面白い冗談を聞いたという風に笑い出した。翡翠さんが声を出して笑うのを聞いたのはこれが初めてだった。
「内緒」
 そう云ったあとで翡翠さんが顔の周りの髪を耳にかけると、色鮮やかなビーズがいくつもついた美しいピアスが現れた。翡翠さんの二つの瞳は、そのピアスにも負けないぐらい鮮やかな光輝を放っていた。
 翡翠さんの距離感は、男友達より近く、彼女よりも少し遠かった。そういう微妙な距離間を使いこなせるのは遊び慣れていたからだと今なら分かる。僕はといえば、そのたびに緊張してのぼせ上って自制して、と完全に振り回されていた。このままこの人の傍にいたら、恋の鼓動が生む甘い毒が少しずつ少しずつ体の隅々に行きわたり、僕が僕でなくなっていくような予感がする。
「翡翠さんは普段、大学の友達とどういうところで遊ぶんですか?」
「遊ばないよ。だって友達なんかいないもん」
「えっ、本当に?一人もですか?」
「うん、一人も。普通に仲良くしようとは思ってるんだよ?でも、友達になりたいだけなのに、どうしてかいつも、気づいたら友情じゃない方向にいっちゃってるんだよね」
 友情じゃない方向、という言葉一つからあれこれ妄想をしようとする自らの想像力を何とか押しとどめ、なるほど、と僕は反応した。
「まあそれはそれで別にいいんだけどね。友達も恋人もセフレも大して変わんない気がするし」
「全然違いますよ。危険です、そんな考え方は」
「そうだね。星雨くんとは本当の友達になれそう」
 路地の片隅に鮮烈な紅い立葵が咲いていて、じきにやってくる猛暑と、次第に苛烈になっていくであろう僕の恋心を予言しているかのようだった。
「あ、かわいい」
 心奪われたという様子で翡翠さんが足を止めたのは、主にフランスやイタリアの古着や雑貨を扱う、ちょっと個性的なショップだった。店先にある商品を広げ、店内を見たそうにうずうずしているので、ちょっと見ましょうかと僕は声をかけた。
 中へ入るや否や、翡翠さんは水を得た魚のように店内のあちこちを見て回った。彼が手に取る商品のなかには、ファッションショーから抜け出してきたようなどうやって着るのか理解しがたい服や、恐らく僕は一生身に着けることのないであろう形状のバッグやアクセサリーもあったが、翡翠さんが眼を輝かせているのを見るだけで僕は満足だった。
「こういうお店好きなんだ。ねえ、試着してもいい?」
 店の決まりで試着できるのは四着までということだったので、翡翠さんは悩みに悩んで試着する商品を選び抜いた。女の子の買い物にはたびたびうんざりさせられてきた僕だったが、次々と着替えていく翡翠さんを見ているのは楽しいことだった。彼にはほかの人とはちょっと違う、カリスマ性のようなものがあったと思う。単に顔が整っているとか体が細いという事実だけではなく、身につけた服を確実に自分の魅力に変えてしまう力が翡翠さんにはあった。柄ものに別の柄ものを合わせても、まったくおかしく見えないどころかそれをスタイルとして確立させられるのは、誰にでもできることではないはずだと僕は感心していた。
 最終的に翡翠さんは黒地に油絵で描いたような花柄をあしらったストールと、眼が覚めるようなオレンジのTシャツを購入することにした。
「じゃあこっちは僕がプレゼントします」
 そう云ってTシャツを取ると、翡翠さんは、だめ、と云ってそれを僕の手から取り返した。
「気持ちは嬉しいけど服は自分で買う。高校生にお金を遣わせられないよ」
 そんなのいいのにと思ったが、自分より四つ下の子に同じことを云われたらたぶん僕も断るだろうと思った。
 支払いについて行くと、レジ横に低価格のアクセサリーを並べたコーナーがあり、店員が品物を包んでいるあいだに翡翠さんはそこから掘り出し物はないかと熱心に探していた。
「ねえ、これ、形おもしろくない?」
 見せられたのは大きな花のリングだった。中心に透明感のある琥珀のような色の飾りが嵌め込まれている。
「翡翠さんになら似合うと思います」
「いいな。これも買っちゃおうかな」
 ちらりと価格を見ると八百円程度だったので、
「じゃあこれは僕が。ストラップを作り直してくれたお礼ってことで」
 と申し出た。翡翠さんも値札を確認し、うーん、と悩んだ。
「でも……」
「これだけ。友達になった記念てことで」
 そう云うと翡翠さんは指輪を外したりつけたりしたあとで、おずおずと、
「でも、僕だけ記念になるものを持っててもさ……」
 と僕を見上げた。
「僕には翡翠さんにつくり直してもらったストラップがありますから。だから翡翠さんにも何か持っていてほしいんです。ね」
「いいの?……ありがとう。大事にする」
「いいえ」
 大事にしなくてもいい。その指輪が翡翠さんがため込んでいる数あるアクセサリーのなかに紛れてしまっても、今このとき喜んでくれるだけでも充分嬉しい。見返りなどいらないから何かしたい。
 僕は翡翠さんのあとで、指輪の精算をした。
「この中心の黄色いの、琥珀みたいな色じゃない?」
「そうですね」
 一応僕はレジを担当している店員に指輪の飾りの正体を確認したが、自分はバイトなので分からないがたぶん琥珀ではないと思う、という答えが返ってきた。まあそうだろうなと思った。琥珀であればもっと値段は上がるはずだ。
「全然いいよ、かわいいもん、それ」
 僕たちはその店を出ると、駅ビルの中にあるレストランで食事をしようと駅へ向かった。まだ六時前だったので、待つことなく席へと案内され、向かい合って座った。水をもらい、注文を済ませてから、僕は先ほど買ったジャンク品の指輪が入った紙袋を差し出した。
「じゃあ、これ」
 それに対し、翡翠さんは左手を掌を下に向けた状態で僕に向かって差し出した。
「はい」
「えっ」
「つけてほしいな」
 僕はもたもたと紙袋を開封し、指輪を取り出した。
「えーと、どこに……」
 指輪を持ちながら迷う僕の手を掴み、翡翠さんは自分の薬指に導いた。
「こういうときは迷ったらだめ」
 そのとき僕はどれほどときめいただろう。急激に上がった心拍数を何とか悟られまいと、僕は息を詰めて動揺を隠した。翡翠さんの手首からは甘くて寂しい香水の香りがした。とても柔らかいのに、皮膚の下にひどく冷たいものを隠しているようなその手に、僕の心臓は掴まれてしまった。
「うん、やっぱり可愛い。本物の琥珀みたいな色だし。ありがとね」
 そう云って翡翠さんは指輪を見つめ、屈託のない笑顔を浮かべた。やっぱりこの笑顔にが好きだ。僕が誰かを本気で好きになるとしたら、この人しかいない。
「琥珀を贈ることは幸せを贈ること。ヨーロッパではそう云われてる」
「そうなんですか」
「うん、星雨くんが幸せを贈ってくれたから生きる気力が湧いてきたよ」
 こういうことをするから、この人は友達ができないんだろうなあ、と思いながら、僕はしばらく有頂天になっていた。しかし、生きる気力、という言葉の重みがあとから僕のなかでいやに増してきた。意味深な発言だった。それでは気力次第で真逆の方へもいってしまう可能性があるということではないのか。偽物の琥珀もどきに縋らなければならないほどの何が、この人にあるのだろう。
「翡翠さんてどこに住んでるんでしたっけ?」
 メイン料理の前に運ばれてきたサラダとアイスティーを口に運びながら、さりげなく僕は訊ねた。そんな質問をしたのはこの人の個人的なことをもっと知りたいという欲求からだった。大学生で英語を学んでいる。恋人はいない。バイト先では鉱石を扱っている。でも、それ以上のことが知りたかった。
「店の近くだよ。云わなかったっけ?歩いて十分くらい」
「それなら、今日は僕が翡翠さんを送って行きます。家の前まで行ってもいいですか?」
「だめ」
 断るというよりは危ないものから身を守るときのような必死さがその声にはあった。
「あの、ありがとね。でもごめん、伯母さんに云われてるんだ」
「あ……伯母さんとも一緒に住んでるんですか?」
「そう。伯母さんと母親と僕の三人で住んでる」
 翡翠さんはアイスティーを一口飲んだ。少しぼんやりしたような、それまでとは違う表情をしていた。
「本当は一人暮らししたいんだけど、学費の上に家賃やら生活費やらかかるからね。それにうちの母親のことを、働いてる伯母さん一人に任せきりにもできないから」
「お母さん、そんなに具合が良くないんですか」
「精神的なものだからね。どういうふうに別れたか知らないけど、僕の実の父親が僕を連れてっちゃうって未だに思い込んでる。睡眠薬がないと寝てくれないし。僕、大学入りたてのときは夜のバイトとかもしてたんだけど、母親が薬を飲み忘れて僕が帰って来ないって大騒ぎしたことがあって」
「え、だってもう……」
「子供じゃないのにって思うでしょ?でも別に、息子の年齢を忘れてるわけじゃないんだよ。あれはもう強迫観念だね。特に僕が男と話してるのを嫌がるんだよ。一度、玄関口で宅配の人と話してたときに半狂乱で二階から降りてきたことあって。父親が僕を連れ戻しにきたと思ったらしい。それ以来、うちは全部荷物は置き配。あの人自身は昔、何度も家に男を連れ込んでたのにおかしな話だよ」
 翡翠さんは唇の端を歪めて無理に笑う。僕の胸は軽く締めつけられる。
「だからうちには誰も呼べないし、家の前にも来てもらえないんだ。来てくれた人に嫌な思いさせたくないから。だからごめんね」
「いえ、話してくれてありがとうございます」
 とはいえ、僕は話の内容に衝撃を受けて、少しのあいだ食事の手が止まってしまった。翡翠さんの美しさの裏にそんな苦労があるなんて思いもしなかった。
「何でこんなこと話しちゃったんだろう。星雨くんて不思議な人だね」
 少し不安定な様子を状態の翡翠さんを見ていることは、僕のなかに妙な充足感を芽生えさせた。翡翠さんの笑顔に胸を焦がしながらも、ほんの少し寂しくあってくれと願う自分がいた。その寂しい部分に寄り添うことができたら、自分にもこの人を手に入れるチャンスが巡ってくるような気がした。
「ねえ、星雨くんに一つお願いしてもいい?」
 翡翠さんが僕に訊ねてきた。
「はい」
「変だと思われるかもしれないけど……嫌だったら云ってね」
「えー何ですか?」
「家族写真って持ってる?星雨くんのお父さんとお母さんが見たい」
「えっ、どうしたんですか急に」
「僕、星雨くんのこと好きなんだよね」
 突然そう云われて、僕は固まってしまった。翡翠さんはまたあの完璧な表情で、その眼を僕に注いでいた。誰かにこんなに熱心に見つめられたのは初めてのような気がした。
「星雨くんみたいな年下の友達って初めてだもん。優しいし、話しやすいし。きっと素敵な家族に恵まれてるんだろうなと思って」
 その言葉に僕は何の疑いも持たなかった。何かしらあったはずだと携帯電話のフォルダーを漁ってみた。この歳になると親とスナップ写真を撮ることなどない。そのため、高校入学の記念に写真館で撮影したデータが一番最近のものだった。写真館からもらった写真データをわざわざ母が転送してきたのだ。あのときは別にいいのにと思ったが、一応保存しておいてよかった。
 うちは祖父の代から贔屓にしている写真館があって、入園、入学のたびにそこで記念写真を撮影してもらってきた。きちんとデジタル化に適応しているから、今では紙の写真とデータの両方を今ではくれる。赴任先にいる父も、そのときだけは帰ってくる。親と行動することなどもう滅多にないのと、写真館への義理があるのも理解できるので、たまの記念写真ぐらいはと僕も付き合う。
 まさか翡翠さんにそれを見せることになるとは思わなかった。僕が携帯を渡すと、翡翠さんは数秒間それをじっと見て、
「いい写真だね」
 と、ぽつりと云った。
「いい家族」
「別に、普通ですよ」
 照れながら何気なく云った言葉だった。その刹那、翡翠さんの眼が氷のように冷たくなり、その視線が僕を刺し貫いた。その表情には僕の読み取ることのできない感情があった。
 直後に、お待たせしましたぁ、という明るい店員の声と共にメイン料理が僕たちの眼の前に置かれた。お熱いのでどうのこうのという説明に対し、翡翠さんはにこやかに、はーい、と答えていた。
「さあ食べよ。携帯返すね。ありがとう」
 僕がようやっと動けるようになったとき、眼の前にいたのはいつもの穏やかな翡翠さんだった。
 さっきのは何かの間違いだったのだと、僕は自分に云い聞かせた。けれど、あの眼を僕はどこかで見たことがある。
あれはまだ明美と付き合いはじめの頃、初めて彼女を家まで送って行ったときのことだ。門の前で明美と別れたあと、帰ろうとすると少し離れたところからこちらを見ている誰かがいた。ジャージを着て、運動靴を履いた部活帰りの中学生だった。そのときは随分目力の強い子だなと思って特に気にも留めなかったが、今になってあの子こそが明美を自宅に呼び出して、唇を奪ったというヨシヒトくんだったのではないかと気づいた。

 食事を終えたあと、僕たちは下の階にある本屋に立ち寄った。翡翠さんも僕も初めにファッション誌を立ち読みし、僕だけがコミックのコーナーに移った。気になるコミックの新刊が出ていないかを一通りチェックし、翡翠さんのところへ戻ってみると彼は写真集のコーナーに移動していた。翡翠さんが『ヨーロッパの街並み』や『南仏の絶景』、『イタリアの宿』といったような写真集をぱらぱらと眺めているのを見て、僕は後ろから、
「ヨーロッパ好きなんですか?」
 と訊ねた。
「うん、いつか行ってみたい。海外旅行行ったことないからさ、夢なんだよね。星雨くんはある?」
「うーん、フランスだったら確か小学生になるかならないかのときにニースに行ったことがありますよ。もうあんまり憶えてないですけど」
「えっ、いいな。ニースかあ。ちょっとでも何か憶えてない?」
 そう云われても、参考になるような記憶はもう僕には残っていない。憶えているのは光と青。太陽が降り注ぐ街。海。マティスの青。そして母のサングラスと父のポロシャツ姿ぐらいだろうか。
「眩しかった。それが第一印象でした」
「そっか、いいな。いつか行けたらなあ。海が好きなんだよね」
 翡翠さんは本を戻した。時刻は七時になるところだったが、このあとは何の予定も立っておらず、本屋を出たらお開きになりそうだった。帰ろうと云われるのが嫌で、僕は翡翠さんが読んでいた写真集を一冊掴んで、レジへ持っていった。
「どうしたの?」
「これ、そこで一緒に読みましょう」
 本屋を出たところには休憩用のベンチがあった。翡翠さんは昼間、僕がTシャツを買うと云ったときと同じ表情をして、小さくため息を吐いた。
「僕のために買ったの?」
「僕が読みたくなったんです。一緒に見てくれたら嬉しいんですけど」
 それを聞くと翡翠さんは、しょうがないな、という感じで笑みを浮かべ、僕たちは横並びで写真集を眺めはじめた。映画館のときよりも翡翠さんとの距離が近かったために、ときどき僕が注意散漫になるというミスはあったが、この写真集は指輪の次に有意義な買い物だと思った。僕たちはの旅はロンドンから始まった。夜のエリザベスタワーとタワーブリッジを眺め、パリのシャンゼリゼ通りを歩き、マルセイユの港町でブイヤベースを食べ、デザートにローマのスペイン広場でジェラート食べた。オーストリアの真珠と呼ばれるハルシュタットのクリスマスマーケットを歩き、イーストサイドギャラリーで世界の平和を願い、またパリに戻ってきてホテルの窓からエッフェル塔のシャンパンフラッシュを眺めた。世界は広く美しく、驚くべきもの、感嘆すべきものに満ち溢れていて、それらをたった一人の愛する人と分かち合うことができたなら、これほど素晴らしいことはないだろうと思った。柄にもないことだと自分で自分がおかしかった。でもその感情に嘘はなかった。
 翡翠さんは写真集をゆっくりと閉じた。僕が買ったものだからと丁寧に扱ってくれたのだと思う。
「世界は一冊の本である。旅をしない人はその本を一ページしか読めない」
「そういう言葉があるんですか?」
「大昔の神学者の名言らしいよ。別に僕は神様なんて信じてないけどね」
「そうなんですか?意外。石をお守りにして願いごとをするのと、そんなに変わらないと思いますけど」
「そうだね。両方とも信じてないよ。僕はずーっとじいちゃんがくれた石にいろんな願いごとをしてきたけど、一つも叶わなかったから。自分で何とかしなきゃね、旅行に行くのだって」
 ああ、この人は本当に諦めている。何も信用していない。半分、いやもしかしたら半分以上、希望を捨てている。初めから裏切られないよう損なわれないよう、何にも期待せず心の奥を固くしている。それは油断せず、絶望すれすれに毎日を生きることだ。僕たちはまだ若い。世界を変えられると本気で信じてもいいぐらい、傲慢でひたむきで希望に満ち溢れていていいはずの年齢なのに。何とかしてあげたいと思った。この人に何か美しいものを見せて、世界にはまだ希望があると思わせてあげたいと思った。
「一緒に行きましょうか」
「えー?」
「旅行資金なら大丈夫です。亡くなった祖父が僕に遺してくれたお金があるんです」
 それは本当だった。母方の祖父は僕が中学生のときに亡くなってしまったのだが、入院したその日、僕に箪笥の小さな抽斗の鍵をこっそりくれて、
『なかにあるものを有意義に遣いなさい。秘密にしておくんだよ』
 と囁いたのだ。箪笥のなかには僕の名前が書いた茶封筒があり、旧紙幣の一万円札が束になって入っていた。僕はそれを家に持ち帰り、ずっと机の抽斗の奥にしまっていた。祖父が僕のためにこつこつ溜めてくれていたことを考えると、とても下らないことに遣う気にはなれず、なるべく眼に入れないようにしていた。
「現地での食事とか、お土産とか、諸々入れても、大丈夫なぐらいはありますよ」
「冗談でしょ。第一、僕、パスポート持ってないよ」
「じゃあ国内でもいいですよ。翡翠さんの好きな海が見られるところならどこへでも」
「待って待って。もし本当だとしても、お祖父(じい)さんからせっかくもらったお金をそんなふうに遣っちゃいけないよ。それに、ご両親にも怒られるよ」
「親は僕がお金を持っていることを知らないんです。祖父がこっそり現金で僕にくれたものなので。それに祖父は有意義に遣えと云っていたんです。これ以上に有意義な遣い方はないと思いますけど」
 翡翠さんはまだ本気にはしていなかった。そして写真集を、ありがとね、と云って僕の膝の上に返した。
「星雨くんのお祖父さんは正しいね。孫が可愛いなら石なんかより、お金を残すべきだよ」
「僕、わりと本気ですよ。もし夏休み、翡翠さんの大学とかお店の都合がついたら、一週間ぐらい」
 そのとき、翡翠さんの唇が僕の額に触れた。
「ありがと。星雨くんの気持ちは嬉しいよ」
 その甘美な感触に僕は固まってしまった。一瞬あとになって、翡翠さんが僕を傷つけないように窘めたのだと分かった。
「お店は僕一人しか店員がいないから伯母さんに怒られちゃう。それに、母親を一週間も放置できないよ。たぶん、もう長くないからさ、うちの母親」
「えっ」
「さっきは云えなかった、ごめんね。鬱っぽいのはもともとなんだけど、実は三年前に癌が見つかっててね。今は抗がん剤治療中。伯母さんが僕たちを呼び寄せたのは大きな理由は、本当はそれなんだ。病気が見つかったとき、ちょうど売りに出されてた今の家を買ってくれて、三人で暮らそうって云ってくれて……もう、ほんとにごめん、せっかく楽しかったのにこんな話、台無しだよね。星雨くんは優しいから心配させると思って」
「そんな、話してくれて良かったのに。え、今日とか、お母さん一人でいるんですか?」
「今日は伯母さんが早く帰ってるはずだから大丈夫。それに、常に誰かがいなきゃいけないってわけじゃないんだよ。動くのに時間はかかるけど、家のなかは歩けるし、近くのコンビニぐらいなら頑張って行くときもあるし」
「でもそれって……大変、ですよね」
 大変なのは当たり前で、わざわざそんなことを口にすべきではないのに、僕はほかに何と云ったらいいか分からなかったのだ。
 そのとき後ろから肩を叩かれて、僕はぎょっとした。誰かと思って振り返ると学校の友人たちがそこにいた。
「やっぱり、緒乃瀬だ」
「それっぽいのがいるなぁと思ったんだよ」
 突然のことに僕はうろたえた。
「え、びっくりした……何でいるの?」
 男が三人、女子三人。そのなかにはこの前、カラオケに行った麻友と美咲もいた。麻友とはあのあと何通かLINEをやりとりしていたが、最後の会話が何だったか思い出せない。
「日中、連絡したんだよ。みんなで遊びに出ないかって。でもお前、返信なかったから」
「え、気づいてなかった……」
「緒乃瀬、ちょっと」
 別の友達の一人が僕をさほど離れていない場所に引っ張り、声をひそめるふりをして、
「誰?彼女?」
 と、翡翠さんのことを訊いてきた。小声なのは形だけで明らかに翡翠さんに聞こえている。
「男友達だよ」
「まじか。何界隈?」
 ついてないと思った。学校の連中とはうまくやらなければならないが、彼らに翡翠さんを紹介する気など毛頭ないし、会話もしてほしくもない。目敏い女子たちは早くも翡翠さんと関わりたがって、眼で互いに牽制し合っている。
「うちらこれから、ラウンドワン行くけど一緒しない?あの美人の友達も一緒にさ」
「あー……ごめん、今日は」
「じゃあ、緒乃瀬くん、僕はここで」
 翡翠さんは、ぱっと立ち上がった。
「えっ」
「今日はありがとう。またね」
 そう云ってにこっと最後に笑うと、下りのエスカレーターがある方へさっさと歩いて行ってしまった。今日一日一緒にいたから分かるが、あれはよそ行きの笑顔だ。今まで僕を名前で呼んでいたのに、いきなり苗字に切り替えられたのも引っかかった。
 だが、友達を振り切ってどんな言葉で翡翠さんを引き留めていいのか、僕には分からなかった。

 その日は何だかおかしな日だった。夜九時過ぎに家に帰ると、父の弟の海晴(みはる)くんがいた。叔父さんと呼ぶべきだが本人が嫌だと云うので、僕は小さい頃から海晴くんと呼んでいる。海晴くんは真っ先に玄関先へ現れて、遅かったじゃないか、とちょっと怒った調子で云った。時々電話をもらうが、会うのは正月以来だ。久しぶりに会ったのに何だよと思っていると、
「今日はこれからうちに来てほしい」
 と云われた。
「えっ、何で?」
「事情はあとで話すから。とりあえず、明日明後日の学校の準備と寝間着、それから何か必要なものがあれば持って来なさい。なるべく急いで」
 海晴くんは優しい人で、普段はこんな強引ではない。子供好きで忍耐強く、いつも何でも分かるようにものを説明してくれた。じきに四十になるはずだが、結婚せず、都心で一人暮らしをしている。持て余した父性を唯一の甥っ子である僕に思いきりつぎ込んで可愛がってくれた人だ。だからそんな叔父がこんな物云いをするからには、よっぽどのことが起きたのだと思われた。
 僕が準備を終えて二階から降りてくるまで海晴くんはリビングの前の扉に立っていて、僕をそこから先へは通すまいとしているようだった。自分の車の後部座席に僕と荷物を乗せると、一旦家へ戻り、自分の荷物を持って戻ってきた。僕は両親に声もかけずに出て来てしまったことになる。
「明日は学校まで送って行ってやるからな」
「ねえ、どうしたの?何があったの?」
 もしや両親のどちらかが突然の病気で倒れたか、事故に遭ったのではという想像が、僕の頭のなかを駆け巡っていた。
 海晴くんは車を発進させたあとで、
「食事は済ませてきたのか?」
 と訊ねてきた。
「平気だよ。それより……」
「俺は腹が減ったからちょっと食べ物を買うから。何か欲しくなったら云えよ。何か食わないと話す気にもならない」
 十分後、辿り着いたスターバックスのドライブスルーで海晴くんはサラダラップとマンゴーのフラペチーノを注文した。そして僕にも同じサラダラップとドリップ珈琲を買ってくれた。それを口にすると、僕にも少し余裕と冷静さが戻ってきた。
 翡翠さんと別れてからすぐ、僕はLINEで、
【一緒に帰れなくてすみません、無事に家に到着したら教えてください】
 という文章を送っていたが、それに対する返事が今になってきていた。
【気にしてくれてありがとう。今日はとても楽しかったよ】
 それを読んで僕は安心した。そしてどうやら、表情が緩むのを海晴くんに見られてしまったようだった。
「彼女から?」
「違うよ」
 僕は携帯をしまった。
「で、何が起きたの?早く教えてくれないと不安なんだけど」
 海晴くんは赤信号で停車すると少し窓を開けて、煙草に火を点けた。
「お前最近さ、家の前で四十ぐらいの髪の長い女がうろうろしてるの見かけなかったか?もしかしたらもっと上に見えたかもしれないけど」
「女?いや……分からないけど」
 すぐには思い当たらず、少し考え込んだあとで、僕は翡翠さんと焼肉に行った日の帰りのことを思い出した。
「いや、でも一回あったかも。先月の終わり。このぐらいの時間に帰ったとき、向かいの家の塀に寄りかかってる女の人がいて……」
「その一回きりか?」
「と、思うけど」
「でも、たぶんそれだ」
「それだ、って何が?」
「その女、何回かお前の家の前に来てたらしいんだよ」
「え……何?不審者?」
 海晴くんは煙草の灰を落とした。何かを云い淀む感じがあった。
「それ、兄貴の元恋人だったんだよ」

 海晴くんの話では、父とその女性は四年ほど前に父の赴任先で出会ったらしい。都内から子供と共に地方へ移住してきたその女性は、父の研究の調査協力者だった。調査対象は二百人以上いて、そのなかで対面での調査を受け入れてくれたのは三十人ほどだった。そしてその三十人のなかに彼女がいた。カウンセリングではなくあくまで調査で、移住後の生活や自分と家族の変化、助成金は充分だと思うか、その地域に馴染めそうかどうかなどについて話を聞くという目的だった。どのタイミングで、また、どんな話を聞いて、父が立場を忘れ、その女性に惹かれていったのかは分からない。だが意気投合のきっかけは、はっきりしていた。女性の生まれ故郷が僕たちの自宅にほど近かったことから、父は話のとっかかりとして、自分の自宅もそのあたりにあると打ち明けた。対面調査は二度行われた。だがそれ以降も個人的に会っていたそうだ。
「この四年間、ずっと付き合ってたの?」
「いや、一年ちょっとかな。最後の数か月は兄貴の赴任先が変わってたこともあって、会うのはひと月に一回ぐらいになってたらしい。そのあと、別れ話をして彼女も納得したはずなんだと。なのにどうしてか今になってお前の父親に会いに来ちゃったんだよ」
「何それ?今、どういう状況なの?いつ海晴くんは呼ばれたの?」
「その女が今日も家の前をうろうろしてたらしいんだよ。由紀子(ゆきこ)さんもああいう性格だから、警察に通報するんじゃなくて、うちに何の用ですか、って直接その女に訊きに行ったんだ。そしたらその女、ひるみもせず、緒乃瀬和也(かずや)さんにお会いしたいんですって云ったって。用件を訊いても、本人に会わないと話せないって。ちょっとおかしいよな。そこに運悪く兄貴が帰って来ちゃってさ。俺のことは由紀子さんが呼んだんだ。お前のことを頼みたいって」
「その女の人、移住したんだよね?何でこっちにいるの?」
「いろいろあって、兄貴と別れてからすぐ、実家に帰ってきたらしいよ」
「子供がいたんじゃなかったっけ?その子も振り回されて可哀相だね」
「今はもう大人だよ、その子は。移住したときは、十八歳未満だったから助成金が出たんだ」
 話を聞いていくうちに嫌悪感が募り、海晴くんのマンションに着く頃には吐き気がするほど気分が悪くなっていた。乗り物酔いだろうと云われ、僕は海晴くんに勧められるまま、先にシャワーを浴びた。出てくると日付が変わっていた。疲れていたので着替えるとすぐに海晴くんのベッドに倒れ込んでそのまま寝てしまった。