翡翠という美しい名前をつけたのは、母方の祖父だと彼は云った。
「じいちゃんが趣味で鉱石とか化石とかたくさん集めてて。僕も小さい頃はよく、きれいな石をもらったなあ。だからあの店に石をたくさん置いてるのは、伯母さんにとっては供養みたいなものなんだろうなと思う。でも翡翠なんて名前の人間が天然石売ってるなんて、できすぎだよね」
 水谷さんと呼んでいたのを翡翠さんと呼ぶことにしたのは、傘を届けた翌日のことだ。昨日のうちに僕たちは連絡先を交換し、今夜会うことを決めていた。
 その日、会ってからわりとすぐに翡翠さんの方から、
「今日は苗字じゃなくて名前で呼んでもいい?星の雨って書いて星雨くんでしょ?修理伝票見たときに、すごい素敵な名前じゃんて思ってさあ、ずっと呼びたかったんだ。だから僕のことも、名前で呼んでね」
 と云ってきたのだった。
 そして連れて行かれたのは、店から十分ほど歩いたところにある焼き肉店だった。傘ぐらいでそんな、と恐縮したが、ここなら間違いないから、と翡翠さんは笑顔で先に店へ入ってしまった。
 飲み物を注文する際、翡翠さんがレモンサワーと云ったので年齢を訊いてみると、二十一、という答えが返ってきた。
 翡翠さんがアルバイトをしているあの雑貨と天然石の店は、もともと祖父の持ちものだった。美容系の会社を経営している母親の姉が、現在のように改装したらしい。
「翡翠さんの店のアクセサリー、恋愛運に効くって学校で女友達が噂しているんですよね」
 そう翡翠さんに話したところ、彼はちょっと照れた様子で眼を伏せた。
「あれ、僕がつくったんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「一部ね。ほとんどの商品は既にアクセサリーに加工されたものを仕入れて置いてるんだけど、星雨くんたちが買ったのは僕がつくったやつ」
「へえ、すごい器用」
 そこにカルビが二皿と翡翠さんのレモンサワーが運ばれてきた。僕は率先して肉を焼いた。翡翠さんは食べる順番や肉の焼き加減にあまりこだわりはないらしく、手を出さずに僕が肉を焼くのを嬉しそうに見ていた。童顔で色白でどことなく無垢な感じがして、あまり男っぽさを感じさせない。この人には何かしてあげたいと自然に思ってしまう。僕は天然石の話題には相変わらず何の興味も持てなかったが、翡翠さんとは仲良くなりたいと思った。
「そういえば、あのとき一緒に店に来てくれた彼女は元気?」
 翡翠さんはレモンサワーを呑みながら僕に訊ねた。
「あー……実は別れちゃったんです」
「えっ」
「もともとあんまりうまくいってなくて、ついこのあいだ……」
「そっか、ごめんね」
「いえ、こっちこそせっかくストラップ直してもらったのにすみません」
「それはいいんだけど……恋愛運に効くって聞いたから買いに来てくれたんでしょ?」
「あ、別に効果がなかったとか思ってませんから。お互い、相手に合わせようっていう努力が足りなかったんです。すべきことをしないと石だって力を貸してはくれないですよね」
 僕は良い子ぶって云った。その方が可愛がってもらえる気がしたからだ。僕は年上との縁が薄い。母にはきょうだいがおらず、父の弟は独身のため、歳の近い親戚が僕にはいない。近所にも年上の友達はいない。中学部のときから帰宅部なので部活動での上下関係とは無縁だし、これまで上級生に眼をつけられたこともなければ、構われることもない。だから正直、四歳上の翡翠さんとの会話はさぐりさぐりだったが、とりあえず謙虚な態度でいれば間違いないと思った。
「彼女だけじゃなくて星雨くんも、ああいう石の力を信じてるの?」
「まあ、お守りみたいなものだと思ってます」
 まさか信じていないとは云えるわけがなかった。効き目があるとすればそれはプラシーボ効果のようなものだ。でも実際に商品をつくっている翡翠さんにそんなことを云うべきではないことぐらい分かる。
 そっか、と翡翠さんは相槌を打った。常に微笑んだような表情をしていたのに、その一瞬だけはどうしてか翳りが見えた。何かまずいことを云ってしまっただろうかと内心焦りを覚え、僕は焼けた肉を翡翠さんの皿に取り分けながら明るく訊ねた。
「恋愛運といえば、翡翠さんは、付き合ってる人とかいないんですか?」
「うーん、今はいないよ」
「でも、モテそうですよね」
「えーそう見える?ありがとね」
 どうもこの人は普通とは違う感じがする。そう思ったのはこのときだけではない。昨日、女の子たちにカメラを向けられていたときも、そのあと僕と修理の話をしたときも、そして今も、彼は何一つ変わらないのだ。この人は常にカメラの前に立ったときのように振る舞っている。彼は崩れない。髪の毛一本、爪の先に至るまで隙がない。計算された瞬きと視線。美しい色と形で全身を飾り、他人を躱し、欺いている。
 欺いている?
 どうしてそんなふうに感じたのだろう。いけないなと思う。見た目が美しい人間には裏があると考えようとする、そんな心が僕にもあったということだろうか。
「どういう人と付き合うことが多いんですか?」
「そのときそのときだよ。恋愛って洋服とおんなじで、こういう系統が好きって決めちゃうとつまんないと思うな」
 それはとても翡翠さんらしい答えだと思った。
「僕、彼女とあんまり長続きしないんです。どんな子と付き合ってもだんだん疲れてきちゃうというか……ちゃんと好きになれてないなって自分で分かるんで」
「何だ、モテるのは星雨くんの方なんじゃん」
「翡翠さんなら年上だし、何か恋愛のコツみたいなものを知ってるかなって」
「そんなのないよ。そういうテクニックってあるのかもしれないけど、僕は知らない。ていうか、長続きしないのは僕も同じ」
「そうなんですか?」
「うん、本気になってくれない人ばっかり選んじゃうんだよね。年上が好きだからさ、すぐ騙されちゃう」
 後半の言葉を聞いて僕のなかの何かが急激にしぼんでいく感覚があった。そんな自分に途惑う。一体何を期待していたのだと自分に質す。
「そう、なんですか」
「あ、もちろん、年下の子と話すのも楽しいよ」
 すぐさま翡翠さんがそうフォローしたのを聞いて、自分はそんなに分かりやすく落ち込んだ顔をしていたのかと恥ずかしくなった。
 それからお互いの家や学校のことなどを少し話した。意外にも翡翠さんは普通の大学の三年生で英語を専攻していた。それなら将来役に立つだろうから、というのがその理由だった。
「てっきり服とか……デザインとか?そういう感じの学校行ってるんだと思ってました」
「僕の恰好、変だと思わない?」
「全然、全然。すっごい可愛い……」
 そう口にしかけてから僕はすぐさま言葉を選び直した。
「素敵です。すごく似合ってるし、あのお店の雰囲気にも合ってるし」
「そっか、良かった。あの店で働けって伯母さんに云われたときはマジかよって僕も思ったけど、まあ好きな恰好できるし、暇だから業務中に少し勉強できるのが救いかな。基本、伯母さんには逆らえないわけ。生活面も学費もずっと世話になってるからさ。うちは母親が病気でね、父親はもともといないし」
「そうなんですか……」
 話し方からして、翡翠さんはこの話を何度か他人にしているようだ。年上の人にあまり同情を示すのは失礼だと思い、
「お母さん、早く良くなってほしいですね」
 とだけ云った。
「ありがと。星雨くんて優しいんだね」
 夜八時を過ぎ、そろそろお開きかなというとき、翡翠さんは思いついたように、
「ねえ、星雨くんはアクアマリンのストラップ、まだ持ってる?彼女と別れて外しちゃった?」
 と訊いてきた。
「ああ、まだ鞄の内側につけっぱなしですね」
 僕は隣の席に置いていたリュックのファスナーを開けて、ストラップがくくりつけてある内ポケットを見せた。
「ねえ、それ、もし良かったらつくり直そうか?」
「えっ」
「元カノとお揃いのままじゃ気まずいでしょ。ほかの石とかと組み合わせて、デザインを変えちゃうよ。あ、お金はとらないから」
「そんな、悪いですよ。忙しいのに」
「大丈夫。二、三日もらうけど。少し新しい石を足してもいい?」
 また無料でそんなことをしてもらうのは悪いと思いながらも、店にストラップを取りに行くことで翡翠さんとまた会えると思うとちょっと嬉しかった。ストラップはどうでもいいが、翡翠さんとはまた会いたい。
「あの、翡翠さん、インスタか何かやってますか?」
 僕は同級生ほどSNSの類を駆使しないが、相手の人となりを知るには便利だと思っている。ところが翡翠さんはSNSの類は一切やっていないと云った。どうして、と訊くと、
「投稿するほどのことなんかないんだもん」
 という答えが返ってきた。
「たとえば今、こうやって星雨くんと一緒にいるでしょ?この時間にできた思い出は、僕と星雨くんだけのものだもん。ほかの人に見せて、コメントなんかされたくないな」
 でも、これは自分の考えだから気にしないでね、と翡翠さんはそのあとに付け加えた。
「写真や動画が嫌いなわけじゃないよ。むしろ好き。一緒に撮ったのを星雨くんがSNSに上げるのは全然いいよ。気にしない。そこは星雨くんの世界だから、好きにして」
 たぶん、それは本音なのだろうが、僕は自分の判断で翡翠さんとの思い出をSNSには上げまいと思った。この人とのことを、学校の友達なんかに知ってほしいとはまったく思えなかった。
 帰り、翡翠さんは駅まで僕を見送ってくれた。改札で手を振る彼の姿を振り返ったとき、僕の方が翡翠さんを送るべきだったのではと後悔した。あの見た目で、女性と間違われて夜道で嫌な目に遭ったりしないのだろうかと心配になる。
 ホームで電車を待っていると、友人の一人からLINEが入った。
『水曜に去年、委員会で一緒だった美咲(みさき)麻友(まゆ)と遊びに行こうってなったけど来れる?』
 この友人は明美と別れたということを気にして、僕を一番に誘ってくれたに違いない。正直、乗り気はしなかったが、ここは友人のために参加しておくかと考えて返信を打った。

 家に入る前の習慣でポストのなかを確認していると、道路を挟んで向かいにある家の前からこちらを見つめている髪の長い女性がいた。暗くてよく見えなかったので、何だろうとは思ったが、向かいのお宅の関係者だろうと思い、僕は特に気にせず家へと入っていった。
 それより時刻が夜九時を少し過ぎていたので、食事をするとは連絡してあったものの、帰宅が遅くなったことを両親に咎められないかということと、あとで改めて翡翠さんに食事の礼をLINEで伝えなければということばかり考えていた。
「ただいま」
 リビングには両親がいて母は洗い物をしていた。父はビールを呑みながらテレビを観ている。
「おかえりー。夕飯食べてきたのよね?」
「うん」
「お風呂できてるから入っちゃって」
 んー、とは返事したものの、僕は帰宅してすぐに次の行動に移れるほど切り替えが早くない。喉も渇いていたので、僕は荷物を下ろし、冷蔵庫に麦茶を取りに行った。
「デートだったの?」
「いや、先輩と。おごってもらっちゃった」
 翡翠さんに関する説明が面倒なので、僕は適当にそう答えた。デートであるか否かについては、母の詮索がそれ以上のことに及ばないのを分かっているので、特に嫌だとは思わない。
「あらあ、ちゃんとお礼云った?」
「云ったよ。気にしなくていいって云われた」
 返事をしながら椅子に座ると、向かいにいた父が、
「上級生と付き合うのも大事だからな」
 と声をかけてきた。僕は、うん、と云いながら再びテレビ画面を見つめる父の背中を見つめた。
 今年の三月半ばに父は数か月間の単身赴任を終え、家へ戻って来たが、僕はまだ父がいる家に慣れないでいる。
 父は僕が小学生のときから数か月単位で家をあけることがざらにあった。一つの仕事を終えて帰ってきても、二か月家にいればいい方で、また新しい赴任先へと旅立ってしまう。父は精神科医で医療人類学だが臨床人類学だかの研究の一環で、大学のチームの一員として行政機関と連携し、都心から地方へ移住した人たちのメンタルヘルスの調査のため、地方を転々としているのだと母から聞いた。
 小学生の頃はたまに会う父とも、もっと気軽に話ができていたと思うのだけれど、その感覚がなかなか思い出せない。
 母は父のいないあいだに、友人がやっているブティックの仕事を手伝うようになった。僕が高校生になってからは帰りが遅くなることも多く、父が戻ってきたからといって特に仕事をセーブするつもりはないようだ。
 父の単身赴任について母が寂しさを漏らしたことはないし、母が仕事で遅くなることについて父が愚痴をこぼすこともない。お互いを理解し合っているのだといえばそうなのかもしれないが、僕にしてみれば二人のあいだには若干ドライな空気を感じることがある。両親に恋愛期間があったことが僕には想像できない。

『ストラップが完成したよ☆いつでも取りに来てね』
 焼肉店で食事をしてから五日目の夕方、翡翠さんからLINEが届いた。
 ちょうどそのとき、僕は友人と例の委員会が一緒だった女子二人とカラオケで遊んでいる真っ最中だった。既に時刻は六時を過ぎていたので、恐らく翡翠さんは翌日以降の来店を見越して連絡をくれたのだろうと思う。だが僕は即座に急用が入ったと友人たちに告げて、その場をあとにした。
「緒乃瀬くん帰っちゃったらつまんないよう」
 帰り際、そう甘えかかってくる麻友を若干疎ましく思っていると、後ろで友人が必死で、もったいないぞ、と目配せしているのが眼に入った。仕方なく僕は一刻も早く立ち去りたい気持ちを抑えて、
「ほんとにごめんね。もっと遊びたいんだけど。あ、そうだ、麻友ちゃんあとでLINEちょうだい。そしたらめちゃくちゃ嬉しい」
 とぬるく躱した。
 店の前まで来たとき、既に閉じられているカーテンを見て、店舗案内で今日の閉店時刻を意識していなかったことに気づいた。今日はもう無理かと思ったが、扉の内側に掛かったボードには、本日七時までという手書きの表記があり、携帯の時計は六時五十三分を示していた。よく見ると店の奥の照明が灯っているのがカーテン越しに確認できる。もう閉めようとしているときに迷惑だろうか、というのと、少しでも話せたらという思いで扉を押した。鍵がかかっていれば帰るつもりだったが、扉はいつも通り開いた。
「こんにちはあ」
 そう云いながら店内へ入ってすぐ右手にある商品棚の角を曲がった瞬間、目に飛び込んできたのはたった今、唇を離したばかりと思われるカップルだった。一人は翡翠さんで、もう一人は黒ずくめの長身の男だった。
 瞬時に入って来てはいけないタイミングだったと察知したものの、すぐに踵を返さなかったのは驚きと迷いのせいだけではなかった。わずか二秒で、僕は顔も知らないその男を敵と判断した。一体こいつは誰なのかという疑問と、強い反感が火のよう体のなかを駆け巡った。
 翡翠さんの眼が男の肩越しに僕を認めた。彼はすぐに男から体を離し、無言のまま相手をじっと見上げた。男の方はそれで察したらしく、あっさりと翡翠さんから離れ、傍に置いてあった荷物を手に取るとこちらに向かって歩いてきた。
 その男は翡翠さんよりも、そして僕よりも背が高かった。黒ずくめではあったが、そのシルエットやアクセサリー遣い、程よく抜け感のある髪型から、決して外見に無頓着ではないことが分かる。すれ違うとき、少し甘みのある香水の香りが鼻先に届いた。彼は僕のことを見もしなかった。
「星雨くん、いらっしゃい。こんなに早く来てくれるとは思わなかったよ」
「あ……はい」
 翡翠さんの表情には微塵も動揺した感じはなかった。一瞬、さっき見た光景は僕の勘違いだったのではないかと思うほどだった。
「待ってね。今、つくり直したストラップ出すからね。あ、もし良かったら麦茶飲まない?今日ちょっと暑いよねえ」
「いいんですか」
「うん、そこの椅子座ってて」
 翡翠さんの笑顔を見ると、酸のように僕の腹のなかを焼いていた嫉妬の熱が、みるみるうちに落ち着いていくのが分かった。そうだ、僕はストラップを受け取りに来たのだ。
 麦茶を出してくれた翡翠さんの手首には、水色の石がついたシンプルなブレスレットがあった。
「あ、その石」
「そう、星雨くんのストラップと同じアクアマリンだよ。修理してたら僕も欲しくなっちゃって。おそろだね」
 麦茶を飲みながら僕も少し笑って反応する。そうしていると、冷静さが戻ってきた。僕はついさっきまで、あの黒ずくめの男が誰なのか、折を見て翡翠さんに問いただそうと考えていた。何故そんなことができると思ったのだろう。そんなことを詮索できる立場でもないのに。
 つくり直したストラップが乗ったトレイをレジ台の上に置いたあとで、翡翠さんは、
「あれ、前に付き合ってた人。たまに来るの」
 と何でもないことのように云った。
「えっ?」
「見ちゃったでしょ?気まずかったよね。ごめんね」
 僕は本当のところ、決定的な瞬間を目の当たりにしたわけではないのだが、こう云われたことでやはりあれはキスをした直後だったのだと確信した。
「でも……あの人、男の人ですよね?」
「そだよ」
 軽い調子で返され、僕はそんな質問をした自分を恥じた。
「あの、前付き合ってた、ってことは今は違うんですか?」
「うん、向こうはもう新しく付き合ってる人いるし」
「じゃあ何でさっき」
「うーん、やっぱりだめだよね」
 翡翠さんは眼にかかっていた前髪に触れ、唇を軽く咬んで悪さが見つかった子供のような顔で僕を見上げた。自分が許されることを分かってるときの女の子の表情と同じだった。僕は一瞬その魅力に負けて、笑いながら、そうですよ何やってるんですか、と云おうかとも考えた。でもそれでは本気で受け取ってもらえない。また同じことをするのは許せないと思った。不思議だが、かつて付き合っていた女の子が元カレと遊んでいたと知ったときでも、こんなふうに思ったことはない。
「だめですよ。別れた相手とあんなことしてたら、別れてないことになっちゃいますよ」
 自分で思っていたよりも余裕のない声を出していた。
「でもさ、星雨くんだって別れた彼女たちと顔を合わせることあるでしょ?そしたら、雰囲気とか流れ次第で今みたいなことになったりしない?」
 僕はない。しかし、学校の友人たちを見ていると翡翠さんの云っていることも理解できた。別に友人たちを責めたりはしない。そういうこともあるよね、と同調する。僕自身はただ、戻りたくなるような恋愛をしたことがないだけだ。
「僕はしないです」
「寂しくならないの?」
「そういうときは、友達と遊びに行くんです」
「そっか、星雨くんは友達いっぱいいそうだもんね。いいなあ」
 翡翠さんの大きな瞳が寂しそうに曇るのを見て、もしかしたらこの人には誰もいないのかもしれない、信用できる友達が誰もいないのかもしれないと感じた。
 この人は他人を躱している。欺いている。それは見逃されたいから、許されたいからだろうか。違う、この人は何かを隠したがっている。いや、守りたがっている、だろうか。でも同時にそれを見つけられることを密かに望んでいるような気配を感じる。
「寂しいと思うなら、僕がいます」
 云ってから、決して変な意味ではないと釈明するために僕は更に続けた。
「その、僕で良ければ、友達に」
「友達?」
 翡翠さんは信じられないというような眼をした。
「年下じゃ、つまんないかもですけど」
「うそ、ほんと?」
 感激した瞳が眼の前にある、と思った次の瞬間、僕は翡翠さんに抱きつかれていた。僕は呼吸ができなくなった。
「嬉しい。友達になってくれるの?ありがとう」
「いいえ……」
「ほんとにいいの?僕、かなり気分屋だから、星雨くんに嫌われちゃうかもしれない」
「大丈夫ですよ」
 緊張のために僕の体は強張っていたかもしれない。男に抱きつかれているという不愉快さからなどではなく、むしろその反対で、喜びを必死でかみ殺していた。呼吸がうまくできない。随分長いあいだ忘れていた恋心の疼きを、僕はそのときはっきりと感じていた。やわらかく冷たく甘い絹糸で徐々に心臓を搦めとられていくようだった。
 両腕を翡翠さんの背中に回しても嫌がられないだろうかなどと考えていると、
「それじゃあ今度、どこか一緒に遊びに行かない?」
 と肩のあたりで囁かれた。