あなたがしあわせでありますように

 ストラップを修理に持って行った日は水曜日で、修理完了日は翌週の火曜日ということになっていた。だが僕はそのあいだに二度、例の【Porte Bonheur】の水谷という店員と顔を合わせた。
 一度目は土曜日の午前中で、僕は友人たちと学校の最寄り駅で待ち合わせの約束をしていた。その日は五月だというのに気温三十度を超えていて、喉が渇いた僕は改札を抜ける前にキオスクで飲み物を買おうと思った。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し扉を閉めたとき、ちょうど支払いを済ませた水谷さんと鉢合わせたのだ。
 僕はあっと思い、一瞬動きを止めた。気づいたのはほぼ同時で、水谷さんは表情を和らげて軽く会釈をしてきた。僕も同じように返し、レジで支払いをしつつ、すれ違ったあとの彼の後ろ姿を見送った。彼が肩にかけている、爽やかな水色のバッグが涼しげで、すぐそこに夏が迫ってきているのを感じさせた。
 あの人はこの駅の周辺に住んでいるんだな、と思っていたとき、後ろからやってきた友人の一人に声をかけられ、僕は改札の向こうに集まっている仲間の輪に加わった。

 二度目は月曜日で、その日は前の晩から降り出した雨が昼頃まで続いていた。放課後、僕は明美と別れ話をするために、駅の改札とホームのあいだにある、普段はあまり利用しない地味なカフェに向かっていた。そこはメニューに彩りがなく品数が少ないわりにそこそこ値段が高いので、高校生はほとんど利用しない。そのため、学校の知り合いに出くわす危険性が低いのだった。その頃にはすっかり外は晴れていて、僕たちは無用の長物と化した傘を片手に歩いていた。
「つまり……中学生に手を出したってこと?」
 僕は明美に訊ねた。
「違うって。しかも云い方悪い。手出してきたのは向こうだよ」
 別れ話は学校を出た矢先、明美の方から持ち出された。分かったと即座に引き下がっても良かったが、そういうわけにもいかないかと、一応理由を聞いたところ、突然泣き出し、同じ小・中学校に通っていた二歳年下の後輩にキスをされたことをわざわざ打ち明けてきたのだ。
「何だっけ、その……ヨシヒトくんだっけ?その子のこと好きだったの?」
「好きは好きだけど、よく遊ぶ近所の仲間の一人ってだけで、別にそういう意味で好きとかじゃなかったんだって。だって二つも年下なんて、考えもしないじゃん。そうじゃなかったら二人きりにはならなかったよ」
 そのヨシヒトくんという中学生は、勉強を教えてくれと云って明美を誰もいない自宅に呼び出したらしい。あるタイミングで突然キスをされ、更に、彼氏がいるのは分かってるけど諦めきれない、こんなことをして悪かったけどいつか必ず明美ちゃんに男として見てもらえるよう頑張るから、と熱烈な告白をされたのだという。
 思わず感心してしまった。幼馴染というからには明美の性格を熟知しているだろうに、それを踏まえた上でそんな告白をしてくるなんて。
 率直に云うと、僕はもう明美といつ別れてもいいと思っていた。彼女との付き合いは我慢の連続で、彼女の性格に改善の見込みはなさそうだったし、僕がそれに慣れるということもないだろうと自分で分かっていた。
 そうと決まればあとは最後の体裁を整えるだけだ。甘い珈琲でも注文してあげて、別の人が好きになるのは仕方ない、僕はあまりいい彼氏じゃなかった、と云ってあげればうまくまとまるだろう。
「キスしたことで本当は誰が好きか分かったんだね」
 僕は少し未練がある風を装って訊ねた。
「いや、違くて」
 違うのかよ、と僕は内心つっこみを入れた。ちょうどそこで目的のカフェに着いた。
 店内は混雑していた。眼で席を探しつつ、知り合いがどこにもいないことを確認していると、偶然、入口脇のカウンター席にいた金髪の客が席を立った。トレイを持ったその客がぱっと顔を上げてこちらを見た瞬間、僕は、
「あれ」
 と、かすかに喉から声を漏らしていた。水谷さんだった。彼はトレイを持った状態でちょっと立ち止まり、僕と眼を合わてから途惑ったように微笑んで僕の脇を通り過ぎていった。そして店を出るとき、もう一度僕の方に視線を送ってきた。
「ちょうど空いたからそこにしよっか」
 明美がそう云ってカウンター席を取ろうとしたとき。モスグリーンの傘がそこに残されているのが僕の眼に入った。さっき、あの人が座っていたところだ。そう気づくや否や、僕は明美に、
「先に注文してて」
 と云い残してその傘を掴み、速足でカフェを出た。
 見つかるだろうかと思いながら人ごみのなかを探していると、遠くに水谷さんらしき人の後ろ姿を見つけた。だが運悪く、ホームに電車が到着した直後だったようで、改札に上がってきた人々の波に僕は行く手を阻まれた。
 あの、とか、すみません、と僕は声をかけたが、その声は聞こえなかったらしい。水谷さんは先へ先へと進んで行ってしまい、とうとう改札を抜けて出て行ってしまった。定期券が入った鞄をカフェに置いて来てしまった僕は改札を抜けられない。彼に追いつけなかった僕は、傘を持ってその場に立ち尽くした。
 数分後、渡し損ねた傘を持ってカフェへ戻ると、待っていた明美に、
「急に置いてかないでよ」
 といつになく落ち着いた声で云われた。
「星雨くんさあ、私のこと呼び止めたり、追いかけたりしてきたことないよね」
「え?」
「ううん、何でもない」

 翌日の放課後、僕はモスグリーンの傘を持って【Porte Bonheur】へ向かった。
 昨日のうちに、落とし物としてカフェに傘を預けても良かったのだが、この日は例のストラップの修理が出来上がる日だったので、それならば直接届けてもいいかと考えたのだ。
 明美とはあのあと正式に別れた。そのため今となってはストラップなどどうでも良かったのだが、修理を依頼した以上、僕には品物を引き取らなければいけない責任がある。
 結局、明美の話はよく分からなかった。もともと彼女はあらゆることにおいて言語化が上手なタイプではないから仕方がないのかもしれない。
『星雨くんは優しいし、それはいいよ?けどさ、そうじゃないときがあったって良かったのにって今は思うんだよ』
『それってどういうこと?』
 それ以上の説明を明美はしなかった。これもよく分からない。どれだけわがままでおしゃべりな女でも、向こうから別れを切り出すときは途端に言葉少なになるのはどうしてだろう。そしてそういうとき、彼女たちの横顔が何となくきれいに見えるのは僕の気のせいだろうか。
 いずれにしても、僕は明美をきちんと自宅まで送って行くという彼氏としての最後の役目を全うし、きれいにふられ役を演じた。

 その日、【Porte Bonheur】に入った瞬間、つんざくような笑い声が聞こえてきて、先客がいるのだと気づいた。見ると髪を派手な色に染めた、化粧の濃い女の子が二人いて、交代で水谷さんと携帯で写真を撮っていた。
「やばい、翡翠くんと並ぶのとかめっちゃ緊張すんだけど」
「ねーこれ、インスタ載せていい?」
「いいよー」
 タイミングが悪かっただろうかと思っていると、水谷さんがすぐこちらに気づいて、
「あ、ごめんね。予約のお客さん来たから」
 とにこやかに女の子たちから離れた。
「マジか、分かったぁ」
「ねえ、今度絶対遊ぼう。約束ー」
「おけー」
 女の子たちは物分かりのいい態度で荷物をまとめ、ありがとう、またね、などと云いながら名残惜しそうに帰って行った。
「こんにちは、すみません、お待たせしましたぁ」
 水谷さんの注目が僕に移る。顔を合わせてまず僕が確信したのは、この人の顔の美しさは間違いなく天然ものだということだった。最初の何回かは化粧がうまいのかもしれないと思っていた。今時の若い男子は肌や眉に多少の化粧をするものだから、それ自体は見慣れているし、何とも思わない。休日に遊びに行くときは、私服に合わせて女の子顔負けのきれいな化粧をしてくる友人に感心することもある。だが、何度か見ていて気づいたのは、この人の場合は顔の印象を大きく変えるような濃い化粧はしていないということだった。
「あの、これ……」
「えっ、あ、あれ?」
 僕が傘を差しだすと、水谷さんはそれを見て驚いた顔を見せた。
「昨日、カフェに」
 僕は昨日、すれ違ったあとでカウンター席でこれを見つけたことを告げた。
「すぐに追いかけたんですけど、人も多かったし追いつかなくて」
「それでわざわざ持って来てくれたんですか?」
 傘を渡したとき、柔らかく冷たい指先が僕のそれに触れた。自分の傘であることを確認すると、彼は僕を見て申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとう。置いてきたことに全然気づいてなかった」
「まあ、午後は晴れてましたからね」
「ね」
 そのとき初めて僕は、彼の眼を照れずに正面から真っすぐ見られた。彼の美しさと同じく、服の大胆さにも僕は毎回眼を奪われていたが、そういう個性が強いものを着こなせるのは、やはり顔が整っているからなんだなと思った。
「修理のお品、今出しますね」
 そう云われるまで、僕は自分がここに来た本来の目的を失念していた。控えは財布のなかだったと鞄を探っていると、
「緒乃瀬さんですよね。控えはもしあったらで大丈夫です」
 と云われた。
 品物は少し形を変えてきちんと出来上がっていた。
「メインのローズクォーツのお取替えと、お買い上げ間もなく割れてしまったということで、お詫びに一つ水晶を足しています。水晶はどの石とも相性がいいので。大丈夫ですか?」
「はあ」
 ストラップを透明な袋にいれ、更にそれを紙袋に入れながら彼は、
「よく駅で会いますよね」
 と話しかけてきた。
「そう、ですね」
「ご近所さんなのかな、と思って。僕はこのお店に近いところに住んでるので」
「僕は、学校がこの近くで」
景明(けいめい)学園ですよね。遠くから通って来てるんですか?」
「いや、隣の駅からです」
「あ、近いんですね」
 彼はほんの少し眼を見開いて笑った。その笑顔に僕は見惚れた。
「私立だと校則厳しくないですか?このぐらいのストラップなら大丈夫かな?」
「そうですね、うちはそこまで」
「良かった」
 そのまま品物を受け取って帰るだけだった。もうここに用はない。それなのに僕は差し出された紙袋を受け取っても、その場を去りがたく思っていた。どうにかして、この人ともう少し言葉を交わしたいと話題を探していた。それは彼の外見的な魅力のせいでもあったが、それだけではなかった。先ほど眼が合った瞬間、僕はそこに思ってもみなかったものを見つけていた。大抵の場合、僕はそれを、女の子の眼のなかに見つける。この人が好きだとか付き合いたいとか、そんな感情よりももっとずっと前に宿るものだ。ほんの少し僕に興味を持ったときに灯る仄かな光。だがそれより驚いたのは、自分がその光に応えたいと思っていることだった。
「あの、この前も思ったんですけど、いつも素敵な服着てますね」
「ほんとですか?ありがとう。服が好きだから嬉しい」
「コーディネート考えるの、難しくないですか?」
「うん、悩むけど楽しいですよ。自分でちょっとリメイクしたりもするし」
 僕は顔からつま先までをゆっくりと見つめ、この人の何が自分をこんなにも惹きつけるのだろうと、その答えを探した。そのとき僕は、恐らく初めて他人に対して強い好奇心を抱いていた。そして直感的に、僕とこの人は何かが似ている、と思った。
「そんなにじっと見られると、どうしよーってなっちゃうな」
 彼は照れたように俯き、前髪をいじった。我に返った僕は一体、どんな眼をしていたのだろうと気まずくなる。失礼なことをしてしまったと焦り、僕は急いでストラップの入った紙袋をポケットに突っ込んだ。
「すみません。修理、ありがとうございました」
「あ、待って」
 呼び止める声は相変わらず優しかった。
「もし良かったら、今度何か食べに行かない?傘を届けてくれたお礼に何かご馳走するよ」