天然石と外国の雑貨とレースのカーテンに包まれた美しい店で、初めてその人を見たとき、僕は本当は気づいていたのだと思う。ずっと探していたものを与えてくれる人に今やっと巡り合ったと、心が感じ取る前に、本能が、体が、それを理解していたのだと思う。
僕はその人から眼が離せなかった。それは微笑んでいても常に憂いを帯びているような瞳のせいでもあり、華やかな服の下から香り立つ冷たい孤独の気配のせいでもあった。胸がさざなみ立ち、痛み、押し潰され、あと少しで息ができなくなるような気がした。本物の恋というのはそういうふうに始まるものだということを、誰かを本気で好きになっていくことは痛みが伴うものだということを、僕は随分あとになって知った。そしてそれまでの恋が、青春を彩りたいがための見栄と打算のイミテーションでしかなかったことも。
翡翠さんと初めて会ったとき、僕はそんなイミテーションの恋の真っ最中だった。付き合って二か月の記念にほしいものがあるからと彼女にねだられて、僕はその店へついて行くことになった。
「で……その、気になってる店っていうのはどこなの?」
「すぐ近くだよ」
真っすぐ目的の店に向かうのかと思いきや、明美はまず僕をスターバックスに連れて行き、春限定のフラペチーノを注文した。そして僕が支払いをしているあいだに、さっさと店の奥へ席の確保をしに行ってしまった。
「ええと、僕、今日あんまりゆっくり時間とれないんだけど大丈夫?」
飲み物を持って席についてから僕はそう訊ねた。明美はその質問には答えず、僕が運んできた新作のフラペチーノを携帯で撮影し、
「星雨くん、何で普通のブレンドなの?並べたときに映えないんだけど」
と不満を漏らした。
そうかごめんね、と彼女の機嫌を損ねないように気を遣いながら、僕はもう一度、時間があまりないという先ほどの確認を繰り返した。
「うん、分かったから。ていうかさあ、普通、記念日って云ったら予定あけとくもんだからね?まあでも、そんな時間かかんないよ。私、基本、もの買うときに悩まないタイプじゃん?」
いや知らないけど。
喉まで出かかったその言葉を、地味なカップに注がれたブレンドで流し込む。
明美の云う通り、今日は僕たちが付き合い始めて二か月目の記念日だった。明美は僕が今まで付き合ってきたなかでも一番といっていいほどの美人だった。付き合おうと云ってきたのが彼女の方からだったことも含めて、学校の友人たちからはひどく羨ましがられ、それが僕の虚栄心をくすぐっていた。
ただ、見た目は申し分ないものの、彼女が非常に気分屋で性格に問題のある子だということは、付き合ってすぐに分かった。彼女の気分で予定が変わることはしょっちゅうで、都合の悪いことは憶えていないふりをする上に自分からは絶対に謝らないので、本当は交際開始からひと月も経たないうちに限界がきていた。しかし周囲からの羨望と祝福を短期間で裏切ることもできず、ずるずると二か月目を迎えてしまったというわけだ。
もしかしたら、僕は恋愛に向いていないのかもしれない。最近、本気でそう思いはじめている。
これまで僕は五人の彼女と付き合う機会があったが、どの子とも短期間で別れてしまった。そしてたぶん、眼の前にいる六人目の彼女ともそう遠くない未来、別れてしまうだろう。交際遍歴が華やかであることは高校生の勲章であるとはいえ、その中身が伴わないことに僕は若干虚しさを感じつつあった。
僕は決して世間でいうところのイケメンではないが、友人たちいわく、大きな欠点が見当たらないのと、自己主張も悪ノリもしすぎず、優しい雰囲気を醸し出しているのが女の子が寄って来る要因ではないかということだった。僕はその期待を裏切ってはいないと思う。むしろその上で、率先して彼女たちの希望を叶えようとできることはしてきたと思う。けれどどうしてかいつも、
「何かが違うんだよね」
「私たち、ちょっと合わなかったね」
と相手の方から別れを切り出されてしまう。僕としては疑問は残るものの、未練はないので承諾する。こちらから女の子を振るのは可哀相だと思っているから、助かるとさえ思っている。何故なら大抵の場合、その頃には、僕の方も彼女たちといることに疲れてきているからだ。
女の子というものはよく分からない。ちょっとしたことで大袈裟に笑い、ちょっとしたことですぐ傷つく。忙しいときに限って連絡をしてきて返信を急かすし、よく分からない占いを信じて勝手に不安がるし、何が気に入らないのか突然黙り込むし、そのくせ要領を得ないおしゃべりが多いし、あらゆるキャラクターや変なグッズをつかまえてはかわいいかわいいと連呼するし、とにかく男同士とはまったく違う生態で、それにいかにうまく根気よく対応していくかという課題が、僕の恋愛にはいつも付きまとっていた。その上、女の子たちの言葉の棘は鋭く、いつも想定外のところから突き刺さってくる。春休みを目前にしたある日、友人の彼女に、
「五人も付き合って全員二、三か月で終わり?緒乃瀬くんて、人畜無害に見えて、内面結構やばい感じ?」
と、正面からさくっと心臓を刺し貫かれたときの傷は未だに癒えていない。お前云い方ってものがあるだろうと、友人がとりなしてくれたが、やはりそうかと思わざるを得なかった。誰かの言葉が突き刺さるのは往々にして自分でもそう思っているからだ。これまでは付き合いが安定しないのを、相手との相性のせいにしてきたけれど、実は自分自身に問題があるのでは、と。
それからその友人と彼女の充実した交際ぶりを眺め、自分には何が欠けているのだろうと考えずにはいられなかった。そんな矢先、明美に告白されたというわけだ。
その店は休憩したスタバから十分ほど歩いた先にあり、可愛らしい輸入物の雑貨やアンティークに混じって、天然石のコーナーが設けられていた。彼女の話では、最近、友人二人がここのアクセサリーを購入したというので、一度見てみたくなったのだという。
「香苗がね、もともとこういうの好きで一人で買いに来たらしいんだけど、買ってから二、三日後にバスケ部の篠崎くんに告られたっていうの。あと、あゆみが飯田くんとここに来て誕生日プレゼントにリング買ってもらったんだけど、二年近く付き合ってるせいか最近喧嘩が多くなってたのがぴたっとなくなったって」
はいはいそんなの単なる偶然とプラシーボ効果だよと一蹴したかったが、女の子の話を否定して良かった試しはないので、そうなんだぁ、といかにも興味深げに店内を見回してみた。ウィンドウにかかったレースのカーテン、花柄の壁紙、レトロな雑貨と色とりどりの繊細なアクセサリーが置かれた商品棚、狭い通路。どう考えても、ここは男向けの空間ではない。店構えを見たときから、居心地が悪くなる予感はしていた。
「どんな色がいいの?指輪かネックレスかな。あ、ピアスもいいね。このピンクの石がいいの?うん、似合ってるよ」
早く用事を済ませてしまいたい僕はわざと協力的に振る舞った。ところが明美はあれこれ商品を持ってきて鏡で合わせておきながら、何の前触れもなくストラップを二つ手に取った。
「やっぱりさあ、星雨くんとお揃いで何かつけたいんだよね」
差し出されたストラップは二つとも同じデザインだが中央の石だけ違っていて、片方はローズクォーツ、もう一つにはアクアマリンとパッケージに書いてあった。
僕はこういうものをつけたいとは微塵も思わなかったが、いらないなどと云えば、マジ冷めるだの何だの罵られた挙句、無駄なアクセサリー試着タイム第二弾が始まる可能性があったので、
「そっか、それもいいね」
と誠実な彼氏の顔で応じた。
流行りのマスコットのキーホルダーなんかをお揃いだと云って付けさせられるのとどっちがマシだろうかと考えながらパッケージを裏返した瞬間、僕は仰天した。たかだかストラップなのに税抜き三八〇〇円もする。しかも一つの値段だ。
「じゃあ……買って来るね」
値段から受けたショックを笑顔で隠しつつレジへ向かう。とんだ散財だ。けれどここで高いなどと云い出したらたぶん、あゆみの彼氏の飯田くんより器の小さい男だと評価されそうな気がする。みんなどうかしている。ここできれいな石を買ったからといって運が良くなるなんて本気で思っているのだろうか。この世にそんな魔法みたいな便利なものがあるわけがない。
商品の値段をじっと見つめながらレジへ向かう。ロングスカートを履いた金髪の店員が、
「いらっしゃいませえ」
と云って商品棚の陰から出てきた。その声に違和感を覚えた僕は思わず顔を上げた。
店内に入ったときから店員の存在は視界の端でとらえていたが、まさかそれが男だなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます。ギフト用にお包みしますか?」
柔らかく、愛想のいい声でその人は云った。
どこかのブランドのイメージ広告から抜け出してきたような、性別や年齢を超越した、不思議な雰囲気を彼はまとっていた。ごく自然に店の雰囲気に溶け込んでいて、もし彼が喋らなければ、そしてもしフリルのついたシャツの襟もとから喉仏が見えていなければ、この場で男だとは確信できなかっただろう。
僕が返事をしないので、お包みはギフト用で宜しいですか、と今度は僕の眼を覗き込むように彼はもう一度訊いてきた。眼が大きく、肌は白く、唇は程よく肉感的で桃のように色づいていた。男とは思えないその美しさに、僕は落ち着かなくなった。
「ああ、じゃあそれで……お願いします」
彼はにこっと笑うと、それでは店内でお待ち下さい、と云って品物を持ち、レジの脇にあるラッピング用の台へ下がった。透明な袋とギフト用の箱を取り出し、リボンを選ぶ、その一つ一つの動作を僕はぼうっと見つめていた。
しかし、店を出た直後、放課後の一時間で八千円近くの買い物をしてしまったショックが再び僕を襲ってきた。
「ありがとーう。ほんと嬉しい、今見たい今開ける」
明美は目的のものが手に入ったときが一番機嫌がいい。彼女は駅までの道のりのなかでラッピングを外し、自分の鞄の目立つところに買ったばかりのストラップをつけて満足していた。こんなに早く開封するのなら、ラッピングなど必要なかったと思う。石はどこかにぶつかった場合欠ける可能性があるから、鞄の内ポケットのファスナーにつけるのはどうかという僕の提案は即座に却下された。
「外から見えないとお揃いの意味ないじゃん。え、嫌なの?」
雲行きが怪しくなってはいけないと僕は咄嗟に、
「違うって。ただ、せっかくのお揃いが割れたら嫌だからさ」
と云って難を逃れた。それから更に話を逸らすために、
「そういやさっきの店の店員、男だか女だかよく分からなかったね」
などと話を振った。
「そうなの?店員さんなんて見てなかった」
まあそんなものだよなと思った。あの人はきれいだったが、僕はその店の名前も憶えていなかったし、もう行くこともないだろうと思っていた。
だがその二日後のことだった。その日、僕は学校に着くなり明美に割れたストラップを押し付けられた。見ると、真ん中のローズクォーツが真っ二つになっていた。
「最悪なんだけど」
「わ、どうしたの?これ」
「どうしたもこうしたもないよ。何にもしてないのに割れちゃったの」
そんなわけあるかと思った。いつこうなったのかと訊くと、今朝の登校中だということだから、絶対どこかにぶつけたに違いないのだ。しかし、欠けることはあるだろうが、こんなにきれいに割れることがあるものなのかと、ちょっとびっくりした。
「すごいきれいな割れ方だね」
「縁起悪いっつーの。交換してもらえるよね?絶対初めからからひび入ってたって」
「してくれるかなあ」
「だって二日で割れるとかおかしくない?今日行って来てよ、お願い」
「今日?ていうか、僕が?」
「だって買った人が行った方が話早くない?あと、こういうのは女が行っても相手にされないんだよ。分かんないかなあ」
「えー……」
「第一、今日私、あゆみと香苗と約束してるもん。女同士の約束を彼氏でドタキャンしたら、裏で何云われるか分かんないんだから」
そう云いくるめられ、仕方なく僕は放課後、再びあの店へ向かった。スターバックスを目印に辿り着くことはできたものの、店は閉まっていた。
【本日の開店時刻:午後四時より】
という札が扉にかかっている。僕はそこで初めて、扉の硝子に書かれた店の名前を確認した。
【Porte Bonheur】
どういう意味だろうと思っていると、
「すみません、今開けます」
と後ろから声をかけられた。
振り返るとそこには一昨日、レジとラッピングをしてくれた店員がいた。前は襟のあいたフリルシャツとロングスカートという恰好だったが、今日はボタニカルな刺繍の入ったデニムジャケットに抑えめな色合いの花柄のストールを巻いていた。喉元が見えない分、男っぽい要素がより削がれている。僕が二日前に来店した客であることに、彼の方でも気づいたのか、眼が合うと一度目よりもほんの少し親しみを込めた笑顔を向けてきた。そして木製の扉に鍵を差し込み、どうぞ、と僕を招き入れてくれた。前回もそうだったがやはり感じのいい人だな、と思うのと同時に、この人に返品を頼むのはちょっと申し訳ない気がしてきた。とはいえ何もしないで帰れば、明日、明美に何をされるか分かったものではない。
せめて開店の準備が一通り終わるを見計らってから切り出そうと思い、そのあいだ、僕は商品棚を見て回った。二日前の僕たちが買ったのと同じデザインのストラップはどこにもなく、同じものは手に入らない可能性があるなと思った。
「あの……ちょっと訊きたいんですけど、返品とか交換て、やってますか?」
おずおずと僕は訊きに行った。有線の音量を調節していた店員は、えっ、と云ってリモコンから顔を上げた。
「お買い上げ頂いたお品に何か……ありましたか?」
「えーと、これ、二日前に買ったんですけど、いきなり割れちゃって……」
僕はあらかじめポケットに入れておいた明美のストラップと、財布に入れっ放しだった二日前のレシートを取り出した。
「あらー……ちょっと見せて下さいね」
彼はトレイを用意し、その上にストラップを置いて検品しはじめた。面倒臭そうな対応をされるかと思ったが、微塵もそんなことはなかった。
「彼女さん、石の破片で怪我とかされてないですか?」
「あ、はい」
やはりこの人は僕たちのことをちゃんと憶えている。この店員はすごく個性的で思わず圧倒されてしまうような恰好をしているけれど、接客態度は誠実だし、壊れた品物を扱う手つきも丁寧だ。金髪のあいだからターコイズブルーの大胆なピアスが揺れるのが見え、ああいうのは絶対僕には身につけられないな、と思った。彼はタブレットで何かを調べたあとで、修理伝票をレジ下から取り出した。
「ほかの石に疵はないようなので、この割れてしまったローズクォーツの交換になりますね。ただ、この大きさのローズクォーツが現在入荷待ちの状態で。予定では二、三日後に入る予定なんですが、そこから更に修理に二日ほど頂いています」
「分かりました。念のため訊きたいんですけど、同じものってあるんですか?」
「すみません。あそこの台にある商品はすべて一点ものなんです」
修理代金はいらないということだったので、僕は修理伝票の控えと店舗案内の小さなカードをもらって店をあとにした。営業時間がまちまちなので、取りに来る際は店舗案内で営業しているかを確認してほしいとのことだった。カードを見ると、本当に営業時間は曜日ごとにばらばらだった。日曜はやっておらず、開店はほとんど午後からで、どの曜日も平均四時間程度しか営業していない。金持ちが道楽でやっている店に違いないと早々に僕は結論づけた。そしてあの若い店員は、暇な上に好きな恰好で働けるバイトを手にすることができた、運のいい服飾専門学校の学生といったところだろう。
家に帰ってから、もう一度確認した修理伝票の担当者の欄には『水谷』というサインがしてあった。
僕はその人から眼が離せなかった。それは微笑んでいても常に憂いを帯びているような瞳のせいでもあり、華やかな服の下から香り立つ冷たい孤独の気配のせいでもあった。胸がさざなみ立ち、痛み、押し潰され、あと少しで息ができなくなるような気がした。本物の恋というのはそういうふうに始まるものだということを、誰かを本気で好きになっていくことは痛みが伴うものだということを、僕は随分あとになって知った。そしてそれまでの恋が、青春を彩りたいがための見栄と打算のイミテーションでしかなかったことも。
翡翠さんと初めて会ったとき、僕はそんなイミテーションの恋の真っ最中だった。付き合って二か月の記念にほしいものがあるからと彼女にねだられて、僕はその店へついて行くことになった。
「で……その、気になってる店っていうのはどこなの?」
「すぐ近くだよ」
真っすぐ目的の店に向かうのかと思いきや、明美はまず僕をスターバックスに連れて行き、春限定のフラペチーノを注文した。そして僕が支払いをしているあいだに、さっさと店の奥へ席の確保をしに行ってしまった。
「ええと、僕、今日あんまりゆっくり時間とれないんだけど大丈夫?」
飲み物を持って席についてから僕はそう訊ねた。明美はその質問には答えず、僕が運んできた新作のフラペチーノを携帯で撮影し、
「星雨くん、何で普通のブレンドなの?並べたときに映えないんだけど」
と不満を漏らした。
そうかごめんね、と彼女の機嫌を損ねないように気を遣いながら、僕はもう一度、時間があまりないという先ほどの確認を繰り返した。
「うん、分かったから。ていうかさあ、普通、記念日って云ったら予定あけとくもんだからね?まあでも、そんな時間かかんないよ。私、基本、もの買うときに悩まないタイプじゃん?」
いや知らないけど。
喉まで出かかったその言葉を、地味なカップに注がれたブレンドで流し込む。
明美の云う通り、今日は僕たちが付き合い始めて二か月目の記念日だった。明美は僕が今まで付き合ってきたなかでも一番といっていいほどの美人だった。付き合おうと云ってきたのが彼女の方からだったことも含めて、学校の友人たちからはひどく羨ましがられ、それが僕の虚栄心をくすぐっていた。
ただ、見た目は申し分ないものの、彼女が非常に気分屋で性格に問題のある子だということは、付き合ってすぐに分かった。彼女の気分で予定が変わることはしょっちゅうで、都合の悪いことは憶えていないふりをする上に自分からは絶対に謝らないので、本当は交際開始からひと月も経たないうちに限界がきていた。しかし周囲からの羨望と祝福を短期間で裏切ることもできず、ずるずると二か月目を迎えてしまったというわけだ。
もしかしたら、僕は恋愛に向いていないのかもしれない。最近、本気でそう思いはじめている。
これまで僕は五人の彼女と付き合う機会があったが、どの子とも短期間で別れてしまった。そしてたぶん、眼の前にいる六人目の彼女ともそう遠くない未来、別れてしまうだろう。交際遍歴が華やかであることは高校生の勲章であるとはいえ、その中身が伴わないことに僕は若干虚しさを感じつつあった。
僕は決して世間でいうところのイケメンではないが、友人たちいわく、大きな欠点が見当たらないのと、自己主張も悪ノリもしすぎず、優しい雰囲気を醸し出しているのが女の子が寄って来る要因ではないかということだった。僕はその期待を裏切ってはいないと思う。むしろその上で、率先して彼女たちの希望を叶えようとできることはしてきたと思う。けれどどうしてかいつも、
「何かが違うんだよね」
「私たち、ちょっと合わなかったね」
と相手の方から別れを切り出されてしまう。僕としては疑問は残るものの、未練はないので承諾する。こちらから女の子を振るのは可哀相だと思っているから、助かるとさえ思っている。何故なら大抵の場合、その頃には、僕の方も彼女たちといることに疲れてきているからだ。
女の子というものはよく分からない。ちょっとしたことで大袈裟に笑い、ちょっとしたことですぐ傷つく。忙しいときに限って連絡をしてきて返信を急かすし、よく分からない占いを信じて勝手に不安がるし、何が気に入らないのか突然黙り込むし、そのくせ要領を得ないおしゃべりが多いし、あらゆるキャラクターや変なグッズをつかまえてはかわいいかわいいと連呼するし、とにかく男同士とはまったく違う生態で、それにいかにうまく根気よく対応していくかという課題が、僕の恋愛にはいつも付きまとっていた。その上、女の子たちの言葉の棘は鋭く、いつも想定外のところから突き刺さってくる。春休みを目前にしたある日、友人の彼女に、
「五人も付き合って全員二、三か月で終わり?緒乃瀬くんて、人畜無害に見えて、内面結構やばい感じ?」
と、正面からさくっと心臓を刺し貫かれたときの傷は未だに癒えていない。お前云い方ってものがあるだろうと、友人がとりなしてくれたが、やはりそうかと思わざるを得なかった。誰かの言葉が突き刺さるのは往々にして自分でもそう思っているからだ。これまでは付き合いが安定しないのを、相手との相性のせいにしてきたけれど、実は自分自身に問題があるのでは、と。
それからその友人と彼女の充実した交際ぶりを眺め、自分には何が欠けているのだろうと考えずにはいられなかった。そんな矢先、明美に告白されたというわけだ。
その店は休憩したスタバから十分ほど歩いた先にあり、可愛らしい輸入物の雑貨やアンティークに混じって、天然石のコーナーが設けられていた。彼女の話では、最近、友人二人がここのアクセサリーを購入したというので、一度見てみたくなったのだという。
「香苗がね、もともとこういうの好きで一人で買いに来たらしいんだけど、買ってから二、三日後にバスケ部の篠崎くんに告られたっていうの。あと、あゆみが飯田くんとここに来て誕生日プレゼントにリング買ってもらったんだけど、二年近く付き合ってるせいか最近喧嘩が多くなってたのがぴたっとなくなったって」
はいはいそんなの単なる偶然とプラシーボ効果だよと一蹴したかったが、女の子の話を否定して良かった試しはないので、そうなんだぁ、といかにも興味深げに店内を見回してみた。ウィンドウにかかったレースのカーテン、花柄の壁紙、レトロな雑貨と色とりどりの繊細なアクセサリーが置かれた商品棚、狭い通路。どう考えても、ここは男向けの空間ではない。店構えを見たときから、居心地が悪くなる予感はしていた。
「どんな色がいいの?指輪かネックレスかな。あ、ピアスもいいね。このピンクの石がいいの?うん、似合ってるよ」
早く用事を済ませてしまいたい僕はわざと協力的に振る舞った。ところが明美はあれこれ商品を持ってきて鏡で合わせておきながら、何の前触れもなくストラップを二つ手に取った。
「やっぱりさあ、星雨くんとお揃いで何かつけたいんだよね」
差し出されたストラップは二つとも同じデザインだが中央の石だけ違っていて、片方はローズクォーツ、もう一つにはアクアマリンとパッケージに書いてあった。
僕はこういうものをつけたいとは微塵も思わなかったが、いらないなどと云えば、マジ冷めるだの何だの罵られた挙句、無駄なアクセサリー試着タイム第二弾が始まる可能性があったので、
「そっか、それもいいね」
と誠実な彼氏の顔で応じた。
流行りのマスコットのキーホルダーなんかをお揃いだと云って付けさせられるのとどっちがマシだろうかと考えながらパッケージを裏返した瞬間、僕は仰天した。たかだかストラップなのに税抜き三八〇〇円もする。しかも一つの値段だ。
「じゃあ……買って来るね」
値段から受けたショックを笑顔で隠しつつレジへ向かう。とんだ散財だ。けれどここで高いなどと云い出したらたぶん、あゆみの彼氏の飯田くんより器の小さい男だと評価されそうな気がする。みんなどうかしている。ここできれいな石を買ったからといって運が良くなるなんて本気で思っているのだろうか。この世にそんな魔法みたいな便利なものがあるわけがない。
商品の値段をじっと見つめながらレジへ向かう。ロングスカートを履いた金髪の店員が、
「いらっしゃいませえ」
と云って商品棚の陰から出てきた。その声に違和感を覚えた僕は思わず顔を上げた。
店内に入ったときから店員の存在は視界の端でとらえていたが、まさかそれが男だなんて思いもしなかった。
「ありがとうございます。ギフト用にお包みしますか?」
柔らかく、愛想のいい声でその人は云った。
どこかのブランドのイメージ広告から抜け出してきたような、性別や年齢を超越した、不思議な雰囲気を彼はまとっていた。ごく自然に店の雰囲気に溶け込んでいて、もし彼が喋らなければ、そしてもしフリルのついたシャツの襟もとから喉仏が見えていなければ、この場で男だとは確信できなかっただろう。
僕が返事をしないので、お包みはギフト用で宜しいですか、と今度は僕の眼を覗き込むように彼はもう一度訊いてきた。眼が大きく、肌は白く、唇は程よく肉感的で桃のように色づいていた。男とは思えないその美しさに、僕は落ち着かなくなった。
「ああ、じゃあそれで……お願いします」
彼はにこっと笑うと、それでは店内でお待ち下さい、と云って品物を持ち、レジの脇にあるラッピング用の台へ下がった。透明な袋とギフト用の箱を取り出し、リボンを選ぶ、その一つ一つの動作を僕はぼうっと見つめていた。
しかし、店を出た直後、放課後の一時間で八千円近くの買い物をしてしまったショックが再び僕を襲ってきた。
「ありがとーう。ほんと嬉しい、今見たい今開ける」
明美は目的のものが手に入ったときが一番機嫌がいい。彼女は駅までの道のりのなかでラッピングを外し、自分の鞄の目立つところに買ったばかりのストラップをつけて満足していた。こんなに早く開封するのなら、ラッピングなど必要なかったと思う。石はどこかにぶつかった場合欠ける可能性があるから、鞄の内ポケットのファスナーにつけるのはどうかという僕の提案は即座に却下された。
「外から見えないとお揃いの意味ないじゃん。え、嫌なの?」
雲行きが怪しくなってはいけないと僕は咄嗟に、
「違うって。ただ、せっかくのお揃いが割れたら嫌だからさ」
と云って難を逃れた。それから更に話を逸らすために、
「そういやさっきの店の店員、男だか女だかよく分からなかったね」
などと話を振った。
「そうなの?店員さんなんて見てなかった」
まあそんなものだよなと思った。あの人はきれいだったが、僕はその店の名前も憶えていなかったし、もう行くこともないだろうと思っていた。
だがその二日後のことだった。その日、僕は学校に着くなり明美に割れたストラップを押し付けられた。見ると、真ん中のローズクォーツが真っ二つになっていた。
「最悪なんだけど」
「わ、どうしたの?これ」
「どうしたもこうしたもないよ。何にもしてないのに割れちゃったの」
そんなわけあるかと思った。いつこうなったのかと訊くと、今朝の登校中だということだから、絶対どこかにぶつけたに違いないのだ。しかし、欠けることはあるだろうが、こんなにきれいに割れることがあるものなのかと、ちょっとびっくりした。
「すごいきれいな割れ方だね」
「縁起悪いっつーの。交換してもらえるよね?絶対初めからからひび入ってたって」
「してくれるかなあ」
「だって二日で割れるとかおかしくない?今日行って来てよ、お願い」
「今日?ていうか、僕が?」
「だって買った人が行った方が話早くない?あと、こういうのは女が行っても相手にされないんだよ。分かんないかなあ」
「えー……」
「第一、今日私、あゆみと香苗と約束してるもん。女同士の約束を彼氏でドタキャンしたら、裏で何云われるか分かんないんだから」
そう云いくるめられ、仕方なく僕は放課後、再びあの店へ向かった。スターバックスを目印に辿り着くことはできたものの、店は閉まっていた。
【本日の開店時刻:午後四時より】
という札が扉にかかっている。僕はそこで初めて、扉の硝子に書かれた店の名前を確認した。
【Porte Bonheur】
どういう意味だろうと思っていると、
「すみません、今開けます」
と後ろから声をかけられた。
振り返るとそこには一昨日、レジとラッピングをしてくれた店員がいた。前は襟のあいたフリルシャツとロングスカートという恰好だったが、今日はボタニカルな刺繍の入ったデニムジャケットに抑えめな色合いの花柄のストールを巻いていた。喉元が見えない分、男っぽい要素がより削がれている。僕が二日前に来店した客であることに、彼の方でも気づいたのか、眼が合うと一度目よりもほんの少し親しみを込めた笑顔を向けてきた。そして木製の扉に鍵を差し込み、どうぞ、と僕を招き入れてくれた。前回もそうだったがやはり感じのいい人だな、と思うのと同時に、この人に返品を頼むのはちょっと申し訳ない気がしてきた。とはいえ何もしないで帰れば、明日、明美に何をされるか分かったものではない。
せめて開店の準備が一通り終わるを見計らってから切り出そうと思い、そのあいだ、僕は商品棚を見て回った。二日前の僕たちが買ったのと同じデザインのストラップはどこにもなく、同じものは手に入らない可能性があるなと思った。
「あの……ちょっと訊きたいんですけど、返品とか交換て、やってますか?」
おずおずと僕は訊きに行った。有線の音量を調節していた店員は、えっ、と云ってリモコンから顔を上げた。
「お買い上げ頂いたお品に何か……ありましたか?」
「えーと、これ、二日前に買ったんですけど、いきなり割れちゃって……」
僕はあらかじめポケットに入れておいた明美のストラップと、財布に入れっ放しだった二日前のレシートを取り出した。
「あらー……ちょっと見せて下さいね」
彼はトレイを用意し、その上にストラップを置いて検品しはじめた。面倒臭そうな対応をされるかと思ったが、微塵もそんなことはなかった。
「彼女さん、石の破片で怪我とかされてないですか?」
「あ、はい」
やはりこの人は僕たちのことをちゃんと憶えている。この店員はすごく個性的で思わず圧倒されてしまうような恰好をしているけれど、接客態度は誠実だし、壊れた品物を扱う手つきも丁寧だ。金髪のあいだからターコイズブルーの大胆なピアスが揺れるのが見え、ああいうのは絶対僕には身につけられないな、と思った。彼はタブレットで何かを調べたあとで、修理伝票をレジ下から取り出した。
「ほかの石に疵はないようなので、この割れてしまったローズクォーツの交換になりますね。ただ、この大きさのローズクォーツが現在入荷待ちの状態で。予定では二、三日後に入る予定なんですが、そこから更に修理に二日ほど頂いています」
「分かりました。念のため訊きたいんですけど、同じものってあるんですか?」
「すみません。あそこの台にある商品はすべて一点ものなんです」
修理代金はいらないということだったので、僕は修理伝票の控えと店舗案内の小さなカードをもらって店をあとにした。営業時間がまちまちなので、取りに来る際は店舗案内で営業しているかを確認してほしいとのことだった。カードを見ると、本当に営業時間は曜日ごとにばらばらだった。日曜はやっておらず、開店はほとんど午後からで、どの曜日も平均四時間程度しか営業していない。金持ちが道楽でやっている店に違いないと早々に僕は結論づけた。そしてあの若い店員は、暇な上に好きな恰好で働けるバイトを手にすることができた、運のいい服飾専門学校の学生といったところだろう。
家に帰ってから、もう一度確認した修理伝票の担当者の欄には『水谷』というサインがしてあった。

