「あはは、びしょ濡れになったねー」
 「すぐ乾くって言ったのどこの誰だよ」
 「さあ、川の妖精じゃない?」
 「清流に住んでると思えない邪悪さだな」
 湿った服を日に当てるように椅子へ腰かけた。少し背を反らし気味にしつつ、さっぱりした素麺をツルツルと啜る。
 この街の名物が一つ、レモンソーメンはこの時期に嬉しい清涼感を口の中へ届けてくれる。ツユの中に地元のレモンの輪切りを入れたもの。麺の味は普通だが色はほんのりとした薄黄色。八月になったら街中の人はこれを三日に一度は食べる。
 汗も流して体力を使った後には、レモンの酸っぱさがよく沁みる。体が喜んでいる気がした。
 「うんまぁ。さっぱりしてるぅ」
 「美味いか。かっはっはっは、儂の腕ももまだまだ現役じゃのう」
 「おっちゃんの作ったレモンソーメンが一番おいしいなぁ」
 大衆食堂『しくると』の店主は俺達の前で豪快に笑った。開けた口から除く歯が、前よりも少なくなっていてちょっぴり驚いた。
 「ところで実里ちゃんは、もう来週かえ?」
 「うん……荷物も結構まとめてあるんだ」
 「ほうか。ま、出発まではゆっくりしてきなさい」
 サービスの一玉分の麺を卓に置いて、店主はいそいそと厨房へ戻った。田舎の情報網は毎度恐ろしく感じる。俺でさえ今日知ったばかりのことを、もうおっちゃんが知ってるのだから。
 再び掘り起こされた引っ越しの話。引っ越し先についてや部活の事、帰ってこれる頻度など、考えればいくらでも話は浮かんでくる。ただそれについて話された時、平然と言葉を返せる自信が俺にはなかった。
 そんな臆病さから、とっさに思い付いた別の話に逃げる。
 「さっきもこの流れじゃなかったか? 遊んで、飯食ってばっかで」
 「子どもの時からそうでしょ?」
 「あーかもな。この無計画性はまさしくそうだ」
 今日はずっとこればっかりだ。自転車に川遊び。川の前にはカブトムシを獲りに行って、さっきは喫茶『ひるみ』のかき氷も食べた。やっていないことは花火と宿題ぐらいだろう。
 一日に夏を詰め込み過ぎだ。凝縮されたスケジュールに体はバテ始めている。
 「記憶の方はどう?」
 「一応、昔遊んだ記憶とかは思い出してきてるけど、あんま大事そうなことは思い出せてないかな」
 「そっか……じゃあ抜き打ちテストをしよう!」
 お椀の蓋をクイズのピンポンに見立てて実里は司会者の真似をする。
 「カズが昔、嫌いだった動物は?」
 「ニワトリ。追いかけ回されてトラウマ。そのせいでゴム手袋もしばらく苦手だった。トサカに似てて」
 「正解! 次、あたしがワンちゃんを飼い始めた時期は?」
 「飼ってない。おじさんが犬アレルギーだから麦野家で飼えるわけがない」
 「引っかからなかったかー正解。じゃあ芸人のリドリー大塚の一発ギャグは?」
 「こんなところにアルマンド」
 「プフフっ、正解っ。そしたら小学校で起きた事件といえば?」
 「実里の牛柄パンツがランドセルから飛び出したこと」
 「待ってそっち!? あとなんでそれ覚えてるの!!」
 顔を真っ赤にした実里に殴りかかられる。照れ隠しにしては重たい拳が何発かみぞおちに叩きこまれて胃が痺れた。
 してやったりとほくそ笑む俺が気に食わなかったのか、実里は悩みに悩んでから禁断の質問を投げかける。
 「じゃ……カズの初恋の人は?」
 「なっ!?」
 拒否権ナシ、誤魔化すことも禁止と念を押された上で、実里から仕返しの圧が放たれていた。ふざけた勢いならまだ適当に答えられたかもしれないところを、真っすぐな目でこうも見つめられては我に返ってしまう。
 気恥ずかしさに負けて火を噴きそうな顔を下にし、聞こえるか聞こえないかの声量を振り絞る。
 「覚えて、ねぇよ」
 「えーホントかなぁ~?」
 「噓ついてどうすんだよ」
 「あらら顔真っ赤にしちゃってー。お子ちゃまカズには早かったかな?」
 「どう転んでも腹立つな!」
 ニマニマした実里の顔を見ないように、ソーメンのお椀に顔を突っ込んだ。咽ながら麺と皮ごとレモンを口に詰める。

 甘酸っぱい初恋の記憶なんて、きっと俺にはないんだろう。仮にあったとしても俺は、思い出そうだなんて思わない。
 それに初恋の記憶なんて覚えていたところで、こっぱずかしいに違いない。
 「思い出したとしても言わねえよ! 流石にそこはプライバシーだ!」
 初恋は叶わないなんてよく言う。叶わない恋心を思い出すなんて辛いだけだろう。だったら忘れたままで構わない。

 それに――――思い出してしまったらそれは、叶わないものだと告げられるのと同じになってしまうから。